第75話:形成逆転の逆転
一つ目の村から二つ目の村までは、街道沿いにおよそ一里といったところだった。普通に歩けば一時間はかかる距離だが、今の俺なら十分もあれば辿り着ける。
周囲の闇に溶け込むようにして駆け出した。
上体を深く前傾させ、膝をあまり上げずに地面を滑るように進む歩法を実践する。足裏全体で着地し、音を最小限に抑えつつ効率的に推進力を得る。かつてバドから叩き込まれた、隠密を維持しながら長距離を走破するための実戦的な技術だった。
心拍数を一定に保ち、静かな呼吸を繰り返しながら森の中を抜けると、ほどなくして二つ目の村の里閭が見えてきた。
村の入り口にある門柱には、村人だったと思われる死体が足から吊るされていた。見せしめというより、単に弄ばれた結果のようだった。
そこに居座っていたのは、狼を擬人化したような醜悪な魔物――コボルトだった。
体長は一・五メートルほど。全身を汚い体毛に覆われ、発達した犬歯を剥き出しにしている。連中は人間の大腿骨らしきものを夢中でしゃぶりながら、鼻をひくつかせて周囲の警戒に当たっていた。ゴブリンよりも鼻が利き、群れで動く習性がある。
だが、何よりも異常なのは村の中から漂ってくる気配だった。
魔力をもたない俺の肌を刺すほどに、ピリつくような禍々しい魔力が辺りに充満している。胃袋の中に潜むあらゆる災虫たちが、かつてないほど激しく蠢き、警戒を放っていた。
ただの魔物の集まりではない。この奥に、先ほどの血の魔法陣を描いた何かがいる。俺は腰の魔嚢から漆黒のクロスボウを取り出した。
「毒蝕竜」の幼体の頭蓋骨をそのまま加工したこのクロスボウは、エピック級に分類される呪具だ。
弓身を構成するのは、黒ずんだ竜の顎の骨。弦が引かれるたびに、眼窩の部分に埋め込まれた不気味な宝玉が、獲物を睨みつけるように赤く明滅する。幼くして命を奪われ、その怨念を宿したまま固定された頭蓋は、まるで今も生きて咆哮しているかのような、禍々しくも完成された美しさを備えていた。
本来、この武器は代償として装着者の魔力を際限なく吸収し続ける呪いを持つ。だが、魔力をもたない俺にとっては、そのデメリットは存在しないに等しい。ただで使い放題の、最高性能の暗殺兵器だ。
ただの安物のボルトを装填しても、射出の瞬間に「毒蝕竜」の怨念が矢尻を汚染する。傷口から血管を伝って広がる毒は、生きたまま肉を腐らせる壊死性の猛毒だ。
カチャリ、と無機質な音を立ててボルトを装填し、俺はその銃口を門柱のコボルトへと向けた。
指が引き金を引き、射出。
空気と音を切り裂いたボルトは、吸い込まれるようにして一体目の首に突き刺さった。肉を断つ鈍い音が響く間もなく、コボルトの喉は壊死によって瞬時にどす黒く変色し、声すら上げられずに崩れ落ちる。
続けて、異変を察知して遠吠えを上げようとした二匹目、三匹目の眉間を正確に射抜いた。ボルトが頭蓋を貫通し、毒が脳をドロドロに溶かす。
あっけなく、村の入り口を固めていた見張りは全滅した。雑魚にはこれで十分だな。俺は一度も足を止めることなく、死臭の漂い始めた門をくぐり、村の深部へと足を進めた。
村の中心部。本来ならば時を告げるはずの時計台には、いくつもの死体が吊り下げられていた。
風に揺れるそれは、既に生気を失い、肉は腐敗し始めている。コボルトたちの保存食なのだろう。魔物も生きるための習性とはいえ、やはり同じ人間が家畜のように扱われる様は胸糞が悪かった。
この暗闇は、夜目の利くコボルトたちにあまりにも有利だ。
俺は魔嚢から、目と鼻だけを覆う漆黒の仮面を取り出し、顔に装着した。それは薄い金属製の膜でできており、内側に仕込まれた特殊な魔導レンズが、視界を熱感知(サーマルカメラ/サイト)へと切り替える。闇の中に点在していたコボルトたちの体温が、赤い点となってはっきりと浮かび上がった。
おぉ、ウジャウジャと犬っころが楽しそうにはしゃいじゃって。
プシュッ、ザシュッ。暗闇に響いていく射出音と、短い断末魔が連続する。外にいるコボルトをある程度片付けた俺は、クロスボウを肩から吊り下げている武器用ベルトに固定し、腰の戦斧を引き抜いて家屋の探索へと移った。
一軒目。荒れ果てた木造家屋。略奪され尽くした空間には、生活の痕跡すら残っていなかった。
二軒目。赤子を寝かすためのベビーベッドが置かれた家。見るも無残に引き裂かれたシーツが無残な最期を物語っていた。
そして、三軒目。
そこに立ち入った瞬間、壁一面に書かれた先程より完成された魔法陣を見て、思わず瞠目した。一体何人分の血液と、どれほどの髪の毛を使えば、こんな趣味の悪い、気色悪い魔法陣を作れるのか。その異常な規模と精密さに、思わず寒気が走る。
近くでもっと観察しようと一歩踏み入れた、その瞬間だった。
背後から突き刺さった剣が、俺の腹部を貫き、内臓を破砕しながらそのまま体前面を突き破って現れた。
「ごふっ」
せり上がってくる血をそのまま吐血し、前のめりに受け身も取らずバタン、と倒れ込む。いやいや、全く気配に気付かなかった。
「……まだ若いな。ただ、魔力を感じない。ただのゴミか」
背後から聞こえたのは、若い女の声だった。
彼女は俺の横を通り過ぎ、魔法陣に近寄る。全身を深いフード付きのコートで覆い隠しているため、姿は判別できない。声と、コートのわずかな隙間から見える体の曲線でしか、女だと判断できなかったが。彼女は愛おしそうに壁の魔法陣をなぞった。
「死忌蜈蚣」が俺の体内を這い回り、損壊した内臓と血管を無理やり繋ぎ合わせる。その完治を待つわずかな時間の間に、俺は傷口から溢れ出る血を媒介にして「ウルガ」たちを家屋中にばら撒いた。
カサカサと耳障りな音を立て、無数のゴキブリたちが瞬く間に家の中を埋め尽くし、女の逃げ道を完全に封鎖する。
完治。
ゆらりと起き上がる俺の姿に、フードの奥の気配が凍り付くのが分かった。女は慌てて距離を取るように背後へと飛び跳ねる。俺はぺっと口の中に溜まった血を吐き捨て、冷徹な問いを投げかけた。
「何者だ?」
「こっちの台詞だよ、少年。確実に仕留めたはずだが……」
女の声には、明らかな動揺が混じっていた。
「うるせぇブス。死にたくなかったら大人しく答えろ」
吐き捨てながら、俺は彼女の足元を指差す。
「なっ!? ……いつの間にっ」
女は足元を埋め尽くす、蠢く闇――ウルガの群れを見て後ずさった。顔は見えないが、その肩が激しく震え、呼吸が乱れている。
「ウルガ・ゴキブリと呼ばれる災虫だ。そいつらに生きたまま食われるか、全ての情報を吐いてこの斧で殺されるか。選ばせてやる」
気怠げに戦斧を肩に担ぎ、俺は一歩踏み出した。だがその瞬間、背後から近づいてくる不穏な魔力の高まりに、一瞬だけ意識を削がれてしまった。
「ふっ。支配できるのは君だけじゃないんだよ、少年――『獄炎』」
女が放ったのは、無詠唱の黒い炎だった。
爆発的な熱量が家屋ごとウルガたちを焼き払い、古い木材が悲鳴を上げて崩落する。チッ。対処法を心得てやがる。
俺は炎の渦から逃れるべく、扉を突き破って転がるように外へと退避した。
だが、煤にまみれて着地した俺を待ち受けていたのは、暗闇の中に無数に並ぶ、血走った赤い眼光だった。村中のコボルトたちが、獲物を囲い込むようにして俺を取り囲んでいた。
「虫ケラを操る君より、獣を操る私の方が上手だったようだね」
コボルトたちが畏怖を込めて道を作ると、その間から女が悠然と歩み寄ってきた。いやいや、それ以前に魔法とかいうチートの恩恵を受けているだけだろう馬鹿が。何を勝ち誇ってやがる、死ね。
「形勢逆転だ。さぁ、答えろ。君は何者だ?」
カチャリ、と短剣型の魔導触媒を突きつけられる。俺は持っていた戦斧をあえて地面に捨て、降伏を示すように両腕を上げた。
だが、その裏で。
褻衣の中では、背中の皮膚を内側から突き破って、死忌蜈蚣が這い出そうとしていた。肉を裂き、脊髄をなぞるような激痛に顔が歪み、冷や汗が滝のように吹き出る。だが、蜈蚣が完全に体外へ出た瞬間、傷口は無理やり塞がり、全身に巻き付く悍ましい節足の感触だけが残った。
「……すいません。全部話しますから、命だけは助けてください」
「ふふ、潔いね。そのギルドタグ……冒険者だろう? だが、とてもカッパー(銅級)には見えないな」
女が観察するように俺を見定める間も、ズボンの裾から滑り出た蜈蚣は、その体躯を「禍々しき巨躯」へと変貌させていく。
それは影のように地面を這い、周囲のコボルトたちへ音もなく襲いかかった。暗闇の中、鉄をも紙のように切り裂く鋼鉄の牙が、コボルトの頭蓋を文字通り粉砕し、強靭な顎がその胴体を真っ二つに断っていく。悲鳴を上げる暇すら与えない、無慈悲な処刑。
女が周囲の静寂に異変を感じ取った時には、もう遅かった。
圧倒的に数を減らしたコボルトたちは、支配魔法の上書きすら不可能な、Aランクに分類される「死そのもの」への本能的な恐怖に塗り潰されていた。
「おいおい、それは反則だろ」
ギチギチ、と外殻を軋ませる不快な音を響かせ、三十五メートルにまで増長した死忌蜈蚣が、燃える家屋の炎を背に闇の中からその全貌を現した。
「殺すな」
俺が短く呟くと、死忌蜈蚣は爆発的な加速度で地を蹴った。
時速百二十キロメートル――猛禽類が獲物を捉える際にも匹敵するその突進速度は、わずか数メートルの距離をコンマ数秒でゼロにする。
「ごくえ――」
女が魔導触媒に意識を乗せ、喉を震わせて空気を振動させようとした。通常、音が伝達される仕組みは、発声源からの振動が空気分子の衝突を介して疎密波を形成し、秒速約三百四十メートルで伝わるものだ。だが、その波が彼女の唇から離れ、術式として結実するよりも早く、巨大な節足の質量が物理法則を塗り替えた。
鼓膜に音が届く前に、女の視界は三十五メートルの巨躯によって埋め尽くされていた。
逃げ場を失った彼女の全身を、無数の節足が蛇のように、かつ鋼鉄の鎖のように拘束する。ムカデの脚の一本一本は、それ自体が焼入れされた特殊な甲殻を持つ鋭利な刃物だ。
「……っ!」
声にならない悲鳴が漏れる。喉元に突きつけられた最後の一節が、カミソリのように皮膚を裂き、一本の紅い傷を作った。そこから溢れた鮮血が、重力に従って一滴、雫となって地面に垂れ落ちる。
俺は地面に捨てていた戦斧を拾い上げ、肩に担ぎ直すと、身動き一つ取れなくなったフードの女へと歩み寄った。
「形勢逆転の逆転だな」




