第74話:静かな予感
少女の名前はローラ・ヌマーラ。辺境の領地を治めるヌマーラ男爵家の長女だという。
ここから彼女の領地までは、徒歩なら三日。馬車を走らせたとしても十数時間は要する距離だ。少女はここまで一頭の馬を限界まで走らせ、力尽きたところで乗り捨てて、最後は裸足で駆け込んできたらしい。なかなかの根性だが、そのせいで帰りの足がない。
食料に関しては、俺の魔嚢にそれこそ腐るほど詰め込んでいる。そのことを伝えると、新人たちは一様に安堵したが、直後に移動手段という壁にぶち当たって頭を悩ませ始めた。
この人数を乗せられる馬車を雇う金など彼らにはなく、かといって俺が全額出すと言えば、親切を通り越して胡散臭さが勝ってしまうだろう。
「実は……」
俺はオドオドとした様子で手を挙げ、魔嚢の奥から一枚の布を取り出した。
それは、広げれば大人八人が余裕を持って座れる、三メートル四方ほどの大きな古びた絨毯だった。
これは「空乗り絨毯」。
かつてのゲームの世界では、移動速度が遅すぎて誰も使わないただのコレクションアイテムだった。だが、この現実においては、大人数を疲れさせることなく「自動運転」で目的地まで運んでくれる、文字通りのチートアイテムに化ける。
「亡くなった父親が隊商をやっていまして……。これは形見として残してくれたものなんです」
俺は悲しげに目を伏せ、大切そうに絨毯を撫でてみせた。もちろん、現世の親父であるグラドはピンピンしている。だが、前世の父親はとうに死んでいるのだから、あながち嘘というわけでもない。
絨毯の表面は、長年の月日を感じさせる色褪せや綻びが目立ち、一見すればただのボロ布だ。だが、その毛足は驚くほど柔らかく、触れれば心地よい魔力の温もりが指先に伝わってくる。
「空乗り絨毯、ですか。珍しいアイテムですけれど、いささか年季が入っていますね……」
聖典を抱えた僧侶の少女、セシリアが不安そうに絨毯の綻びを見つめて呟いた。
「贅沢は言ってられないだろ? それに、これなら馬車と同じくらいの時間で辿り着けるはずだ。恩にきるよ、ゼン!」
リーダーの剣士、ガイルが俺の肩を叩き、快活に笑う。
この絨毯、魔力を持たない俺にとっては、本来なら動かすことすら叶わないただの布切れに過ぎない。いつか野営用の薪の足しにでもしようかと思っていた代物だったので、丁度いい使い道が見つかったというものだ。
ここでようやく、俺はパーティー四人の名前を整理した。リーダーのガイル、大斧を担ぐ重戦士のラッチェン、弓使いの少年ルカ、そして僧侶のセシリア。
ふわり、と浮く感覚。
俺たち六人を乗せたカーペットは、その重量を微塵も感じさせることなく浮上すると、夜風を切り裂きながら目的地に向けて滑るように進み出した。
地上では数日かかる距離も、空路なら障害物はない。
俺は絨毯の端に座り、眼下に広がる暗い森を見下ろした。隣で泥に汚れた足を抱えるローラ・ヌマーラを守るように、ガイルたちが「大丈夫だ」と熱い言葉を交わしている。
「ゼンは武器からして戦士だよな?」
ガイルが俺が背負っている戦斧に目を向けながら不遜に言い放った。
「戦士……というよりかは、盗賊? の方が正しいかもしれません」
「何だよそれ。自分の職業も分からねぇのかよ」
そう言われても、俺の職業は貴族で固定されている。ステータス的には、この大ぶりな戦斧を振り回す前衛職向きだが、おそらく今回は無数のアイテムを駆使して戦うことになる。そうなれば、盗賊を名乗っておく方がそれっぽいはずだ。
「ええ。まだ天職が見つからなくて。色々と模索中なんです」
「ふん。どっちにしろ、戦闘になれば邪魔にならないところで待機しておけよ? 我々はそこらのカッパーとは比べ物にならないぐらい――強い」
ラッチェンが戦斧の柄を叩きながら、重々しく、しかしどこか酔いしれたような声で告げる。何なんだよこいつ。厨二臭くて見てられねぇよもう。勘弁してくれ。
はは……と、苦笑を返して俺は魔嚢から取り出した新鮮な果物に齧り付く。収納したそのままの状態で保管してくれる機能は、さすがにゲームでは実感できなかったが、あまりの便利さに冷蔵庫すらいらない。
「皆さんもどうぞ。レモン水や葡萄酒もありますよ」
そう言いながら、俺は絨毯の上に果物や飲み物を並べていった。
「おっ、悪くねぇじゃねぇか。気が利くぜ!」
ガイルが豪快に笑い、葡萄酒の袋をひったくるように受け取った。
「我々の喉を潤すには十分だ。感謝するぞ、ゼン」
ラッチェンが腕組みをしたまま、仰々しく頷いて葡萄酒を口にする。
「……僕はこれを、って、凄い瑞々しいね」
ルカが果物を手に取り、その瑞々しさに驚愕の声を上げた。
「……冷たい飲み物、助かります」
セシリアが聖典を置き、少しだけ表情を緩めてレモン水を手にする。
「……あ、ありがとうございます。いただきます」
ローラも、差し出された果物を小さな手で受け取り、ようやく少しだけ表情を和らげた。
それから数時間。絨毯の上で束の間の休息を取っていた一行に、冷たい夜風が湿った焦げ臭さを運び始める。目的地であるヌマーラ領が近づくにつれ、眼下の暗闇には不気味な赤黒い光が点在し始めていた。
「おい、あれを見ろ……」
ルカが指差した先、夜の静寂を切り裂くようにして、絨毯はゆっくりと高度を下げていった。
眼下にはヌマーラ領の外縁に位置する一つ目の村が見えてくる。だが、そこから立ち上っているのは炊事の煙ではなく、家屋が焼け落ちる黒い煙だった。
絨毯が村の広場に降り立つと、先ほどまでの穏やかな雰囲気は一変した。
周囲には争った跡が生々しく残っている。奇妙なのは人間の死体が見当たらないことだ。これが人間の匪賊による襲撃なら死体が転がっているはずだが、魔物の場合は……「食糧」として持ち去られた可能性が高い。
地面には返り討ちに遭った数体のゴブリンが、緑色の体液をぶちまけて転がっている。しかし、村人の生存者は一人も見当たらなかった。
「……手分けして家の中を確認するぞ!」
ガイルの鋭い号令で、四人は足早に家屋の探索へと散った。
「誰もいない……。ちっ、この家はめちゃくちゃだ」
ラッチェンが荒々しく扉を蹴り開けるが、返ってくるのは虚しい木音だけだ。「ここもダメだ。隠し地下室もこじ開けられてる……」と、ルカが絶望的な声を上げ、弓を握る手を震わせる。
そんな中、一軒の民家から戻ってきたセシリアが、突如としてその場に崩れ落ちた。
「うっ……、げぇ……っ!」
彼女は口元を抑え、激しく嘔吐した。聖典が泥の中に落ちる。家の中には持ち去りきれなかったであろう肉片や、壁にぶちまけられた臓物がこびりついていたのだろう。実戦経験の乏しい新人にはあまりにも刺激が強すぎる光景だ。
俺が気の毒そうな目でその惨状を眺めていると、ローラが震える声で状況を説明し始めた。
「ここは、真っ先に襲われました……。命からがら逃げ出した生き残りが領都へ駆け込んで、ようやく事態を把握したんです。すぐに父が騎士団を派遣しましたが、その時にはすでに、この先にある二つ目の村も襲われていて……。騎士たちも多勢に無勢で、撤退を余儀なくされました」
彼女は溢れそうになる涙を必死に堪え、言葉を絞り出す。
「今は……今は、唯一残った領都の壁を背に、防衛陣を敷いているはずです。お願いです、急いでください!」
俺は予想以上の被害に顔を引き攣らせている一行を尻目に、とある焦げた家屋の中へズカズカと上がり込んだ。
煤けた壁面には人間の血で書かれた奇妙な魔法陣が刻まれていた。
おぞましい光景だが、それ以上にその「精度」が異質だ。本能で動く魔物が適当に描きなぐれる代物ではない。円環を構成する幾何学的な放物線、そしてその隙間を埋めるように緻密に書き込まれた魔学の古典語。明らかに高等教育を受けた「何者か」の手が加えられている。
本来、敵対するはずのゴブリンとコボルトが軍隊のように群を形成している時点できな臭かったが、これで確信した。背後に知的生命体の介入がある。この術式が何を呼び寄せ、何を成そうとしているかはまだ分からないが、単なる魔物の暴走でないことだけは確かだ。
俺は家屋を出て、広場で作戦会議をしている五人のもとへ合流した。
「この先の村に、まだ魔物が潜伏している可能性もある。誰かが斥候として、先に状況を把握してくる必要があるな」
ガイルが神妙な顔でそう切り出す。コボルトは人間の建築物を再利用する習性がある。略奪の終わった村とはいえ、待ち伏せや伏兵とエンカウントする可能性は極めて高い。
「斥候、か……。適任はやはり『盗賊』だな」
「ああ。隠密に長け、万が一の際にも独力で逃げ切れる能力を持つ者が、我々の先陣を切るべきだ」
ラッチェンが、いかにももっともらしい理屈を並べて重々しく頷く。
え? ちょっと待て。そこの弓を背負っているルカだって役割的には斥候に近いだろ。なんで全員が「当然お前が行くんだよな」と言わんばかりの目で俺を見てるんだよ。
「ゼン、お前に偵察をお願いできるか? 頼りにしてるぜ」
ガイルが、相変わらずの眩しい笑顔で俺の肩に手を置いた。他の三人も、どこか「戦士ではないお前の安全な役割だ」とでも言いたげな、妙に温かい、それでいて拒絶を許さない視線を送ってくる。
「……分かりました。では、この先の村の様子を先に確認してきますね」
俺は努めて穏やかな笑顔を作り、気前よく引き受けてみせた。すると、それまで俯いていたローラが顔を上げ、決然とした表情で手を挙げる。
「私が案内します。このあたりの地形なら、誰よりも詳しいですから」
だが、その申し出をガイルが遮った。
「いや、ここは彼に任せておこう。俺たちは引き続きこの村に生存者がいないか徹底的に探索する。みんな、いいな?」
彼はそう言ってローラの腕を掴み、優しく、だが断固とした態度で引き止めた。
正直、素人の彼女について来られても足手まといになるだけなので、その判断は都合がいい。俺はそのまま振り返ると、背後から向けられる期待に満ちた視線を背に、嫌な気配が漂う村の境界へと足を向けた。




