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第70話:新たな怪物

 爆破玉の衝撃によって作られたクレーターよりも、さらに深く、暗い穴。リーバイスの重力魔法が物理法則をねじ曲げて穿った、絶望の深淵だ。


 まさかこんな子供一人を相手に、魔導士団を接続してまでの全力を行使するとは思ってもいなかった。だが、これだけの圧力を受ければ、骨はおろか細胞の一つも残らず圧搾され、跡形もなく消滅しただろう。そう確信し、背後の魔導士たちは安堵のため息を漏らし、練り上げた魔力を解こうとしていた。


 しかし、その静寂は唐突に、そして悍ましく破られた。

 穴の底から、視認不可能なほどの速度で「ナニカ」が伸びてくる。


「避けろぉっ!!」


 リーバイスの絶叫が戦場に響く。だが、その警告よりも、暴力的な捕食者の動きの方がわずかに早かった。リーバイスの腹心として、十数年の戦地を共に駆け抜けてきた熟練の魔導士、ピーキン。彼の視界が、突如現れた巨大なあぎとによって遮られる。


 グシャリ、と嫌な音がした。


 巨大なムカデの鋭い顎が、ピーキンの頭部を左右から挟み込み、完熟したスイカを叩き潰すような勢いで粉砕した。弾け飛んだ頭蓋の破片が周囲の魔導士たちの顔に突き刺さり、行き場を失った脳漿がピンク色の霧となって泥濘を汚す。首から上を失ったピーキンの肉体は、切断された噴水のように鮮血を数メートルも吹き上げ、一歩も動けぬまま絶命した。


「くそッ、ピーキン! ……おいおい、とんでもねぇ化け物じゃねぇか」


 リーバイスの額を冷や汗が伝う。彼の視界の先、クレーターの底に立つ少年の姿は、もはや人の形を借りた悪夢そのものだった。


 ゼンの口が、人間には不可能な角度まで裂け、そこから紫黒色の光沢を放つ巨大なムカデが這い出てくる。悍ましい多脚がゼンの喉を内側から掻きむしり、ズルリ、ズルリと、粘り気のある体液と共にその全長を吐き出させていく。


 ようやく尻尾までを吐き出した少年――ゼンは、両腕をだらりと力なく垂らし、焦点の合わない瞳で虚空を見つめていた。裂けた口角からは、濁った涎が止まることなく溢れ、泥に滴り落ちる。その姿には、生命としての尊厳も、人としての意思も感じられない。ただ、底知れぬ不気味さだけが立ち込めていた。


「リーバイス様!」


 恐怖を振り払うように、生き残った魔導士たちが必死に魔力を練り上げる。だが、その魔力反応にいち早く呼応した紫色のムカデが、戦場を弾丸のような速さで滑走した。


 無数の鎌のような節足が、銀色の刃となって魔導士たちを襲う。一人は腹部を横一文字に切り裂かれ、自身の内臓を踏みつけて転倒し、一人は喉笛を節足で抉り取られた。逃げ惑う者たちの背中を、ムカデの巨体が蹂躙し、一瞬にして魔導士団は物言わぬ肉片の山へと変えられていく。


「『重圧グラビティ』!!」

 リーバイスが、絞り出すような咆哮と共に全力を込めた魔法を放つ。対象を地面に埋没させるほどの超重力がムカデを襲った。


 だが、ムカデは止まらない。


 重力がかかった箇所の肉体を、自ら迷いなく切り離したのだ。切断面からは紫色の体液が飛散するが、その刹那、失われた部位は不気味な脈動と共に超速再生を始める。


 それどころか、切り離され、重力によって地面に押し潰されていたはずの肉片が、独立した意志を持つかのようにのたうち始めた。肉片からは新たな節足が生え、節が分かれ、数秒と経たぬうちに、親個体と同じ殺意を宿した新たなムカデが数匹、産声を上げるように顎を打ち鳴らした。


「あ? やべ、意識飛んでた。ごめーん! もうお前ら死ぬしかねぇわ!」


 少年の、戦場にはあまりに不釣り合いな軽い声が響いた。

 死ぬしかないだと? ふざけやがって。リーバイスは歯を食いしばる。飼い主である少年を殺せば、この悍ましいムカデどもを止められるかもしれない。だが、一匹でさえ手に余る化け物が、今や分裂を繰り返し、三体にまで増殖して四方を囲んでいる。


 リーバイスは大剣を構え直し、無駄な魔力消費を抑えるべく、剣筋にのみ重力魔法を集中させた。


 直後、三体のムカデが同時に襲いかかる。


 一体は地を滑るように死角から鎌脚を突き出し、一体は巨大な顎を打ち鳴らしながら頭上から降り注ぐ。最後の一体は鞭のようにしなる巨体でリーバイスの四肢を絡め取ろうと肉薄した。


 ドォォォンッ!!


 大剣に刻まれた重力の魔法陣が光り、叩きつけられた一撃が、一体の頭部を地面ごと粉砕する。だが、その衝撃で飛び散った肉片は、泥を啜って即座に節足を生やし、新たな個体へと変貌していった。


 攻撃すればするほど、敵は数を増し、絶望が戦場を塗りつぶしていく。


「……ここまでか」


 魔力は底を突き、肺を焼くような息切れが襲う。全身にはムカデの鎌脚に切り裂かれた無数の傷跡。血を流しすぎた視界が霞む中、リーバイスは悟り、乾いた笑みを浮かべた。

 だが、その時。背後から幾百、幾千という軍靴の音が地鳴りのように響いてきた。


「リーバイス様の援護だ! 矢を絶やすな!」

「我らが盾とならん! 王国の獅子を死なせるな!」

「突撃ィッ! 化け物に人間の意地を見せてやれ!」


 捨て身の覚悟を決めた王国兵たちが、濁流のように押し寄せてくる。


 駄目だ、やめろ。こんな化け物相手に命を晒すなど、資源の無駄遣い――いや、犬死にだ。リーバイスは叫ぼうとしたが、喉に回った血がそれを阻む。


「リーバイス様。あなただけでもお逃げください。あなたを含む『四天王』さえ健在であれば、王国が負けることはありません」


 側近の一人が、盾を構えてリーバイスの前に立った。その瞳を見れば分かった。こいつらはすべてを理解した上で、自分たちを肉の壁にして、総大将を逃がそうとしているのだ。


「馬鹿言うな。部下を置いて逃げる指揮官なんていねぇよ。一緒に戦うぞ」


 そんな無様な真似、この誇りが許さない。残った力を振り絞り、大剣を握り直すが、突如として強烈な眠気が脳を支配した。


 まさか。


「駄目です。あなたは生きてください。先に天国で待っていますよ。……次に会うときは、共に勝利の美酒を」


 魔導士たちが、泣きながらリーバイスに放ったのは「強制睡眠」の魔法だった。


「や、め、ろ……」


 必死に手を伸ばして止めようとするが、限界を超えたリーバイスに抗う体力など残っていなかった。伸ばした指先が虚空を掻き、意識が急速に沈んでいく。


 最後に見たのは、自分のために化け物の群れへと飛び込んでいく、勇敢な部下たちの背中だった。


「駄目だぁっ!!」

 次に目覚めた時、そこは清潔な、だが死の臭いが漂う医務室だった。


 視界に入るのは、白く冷たい天井。全身を包帯で固められ、指一本動かすたびに、焼きごてを当てられたような激痛が全身を駆け巡る。


 リーバイスは、自分が生き残ってしまった屈辱と、失ったものへの絶望に、包帯の下で表情を歪ませた。


「お目覚めですか」


 消え入りそうな細い声で話しかけてきたのは、傍らに立つ白衣の男だった。リーバイスはその男の胸倉を掴み、無理やり引き寄せる。


「戦況は、どうなった……!? 答えろ!」


 激痛に顔を歪めるリーバイスの全身を支えながら、医師は彼をゆっくりとベッドに戻した。そして、逃げることなく真っ直ぐにその瞳を見つめ、残酷な事実を告げた。


「王国軍は、敗北しました。突如として現れた正体不明の魔物により、リーバイス隊を含む二六九名が戦死。その混乱と勢いに乗じた帝国軍が、これまで見たこともない最新鋭の武器を投入して我々を圧倒しました。もはや維持は不可能と判断され、軍は引き上げざるを得ない状況に陥ったのです」


 最後の方は、もう耳に届かなかった。誰もが勝てると確信し、帝都への道が開けたと信じた状況からの、壊滅的な撤退劇。


 なぜ途中から帝国軍の装備が劇的に変わったのか。そして、なぜいきなりあの少年――いや、あの「化け物」が現れたのか。


 敗因など、どれほど軍事の天才が考えたところで分かるはずがなかった。リーバイスは将として与えられた役割以上の働きをし、歴史に名を刻むはずの勝利を掴みかけていたのだ。


 それを、本来この世界に存在するはずのないイレギュラーが、その圧倒的な暴力と物量で強引に捻じ曲げた。ただそれだけの、あまりに理不尽な結末。


 リーバイスは、脳裏に焼き付いたあの銀髪と、すべてを冷徹に見下ろす真紅の瞳を反芻する。


 自身の部隊を蹂躙し、部下たちの忠義と命を嘲笑うかのように踏みにじった、あの名もなき怪物。


「絶対殺してやる……」


 呪詛のように繰り返し、リーバイスは誓った。


 全身を走る激痛さえも復讐の火種に変え、いつか必ずあの化け物の首を、この大剣で叩き落とすと。

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