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第68話:ギーレンス城

 ガタガタと揺れる軍用馬車の窓から、俺は目的地のギーレンス城へと続く街道を眺めていた。だが、そこに広がっていたのは、貿易の要所としての活気など微塵もない、ただの屠殺場だった。


 鼻を突くのは、風に乗って流れてくる焦げた肉の臭いと、腐敗し始めた血の生臭さだ。街道の脇には、もはや埋葬する手間さえ惜しまれた死体が、物言わぬ肉塊となって積み上げられている。その多くは、急造の槍を握らされただけの農民や、金で雇われた小汚い傭兵たちであり、この国における使い捨ての資源である平民階級の成れの果てだ。


 前線へ近づくにつれ、光景はさらに凄惨さを増していった。泥にまみれた塹壕の中には、四肢のどこかを欠損した男たちが、治療も受けられずに虚ろな目でうずくまっている。包帯代わりの布は血と膿で真っ黒に汚れ、傷口には無数の蝿が集っていた。彼らの顔にあるのは愛国心でも忠誠心でもない。ただ、いつ自分たちの順番が来るのかという絶望と、死への生理的な恐怖だけだ。


 一方で、後方の安全な陣地を見れば、そこには汚れ一つない軍装に身を包んだ騎士団や軍の幹部たちが、優雅に地図を広げて指揮を執っている。彼らが前線に出て剣を振るうことなど、まずあり得ない。彼らにとっての戦争とは、盤上の駒をどう動かすかという効率の問題であり、泥を啜って死んでいく兵士たちの悲鳴など、単なる雑音に過ぎないのだ。


 馬車が城門を潜り、停車する。扉が開くと、先についていた予科や本科の士官候補生たちが、新参者の俺を値踏みするような不快な視線を隠そうともせずに立っていた。


「おい、イグナス。いつまで馬車の中で震えている。さっさと降りてこい」


 声をかけてきたのは、予科の生徒だ。俺よりわずかに年上なだけの少年が、実戦という環境に呑まれながらも、俺を足手まといの幼年部と決めつけることで己の恐怖を誤魔化している。周囲の正規騎士たちも、汚れ一つない俺の軍服を見て、鼻で笑うような仕草を見せた。


 俺は何も答えず、ただ無機質な視線を彼らに向けた。この城の内部も、外の地獄に劣らず腐りきっている。指揮官たちは安全な奥の広間で、高級なワインを傾けながら、平民をあと何人投入すれば王国軍を足止めできるかという不毛な算盤を弾いている。


「ゼン・イグナス。ただいま着陣いたしました」


 俺は踵を打ち鳴らし、事務的な敬礼を送った。ギーレンス城の最深部、堅牢な石壁に囲まれた作戦司令本部。そこには、前線の血生臭さとは無縁の、高級な香料と煙草の香りが立ち込めていた。


「おお! これはこれは、イグナス公爵閣下の……そう、三男坊殿ではないか。はるばるよく来られた」


 恰幅のいい将軍が立ち上がり、芝居がかった歓迎の声と共に俺の肩を抱いた。促されるままに用意された豪奢な椅子へと腰を下ろす。すぐに目の前には銀のトレイに載せられたコーヒーと、帝都でも滅多に拝めないような高価な茶菓子が並べられた。


 俺は口をつけず、ワインやコーヒーを嗜みながら「軍議ごっこ」に興じている奴らの顔を観察する。


 まずは守備隊総司令、ガザル少将。彼は決して無能ではない。むしろ帝国軍人としては模範的ですらある。伝統的な陣形を維持し、補給線を確保し、着実に「負けない戦い」を展開しようとしている。だが、決定的な欠落がある。彼は相手が既存の戦術を根底から覆す「怪物」であることを理解できていない。リーバイス・ヘンダーソンはよくある最強ランキングで間違いなく名前が挙がるチートキャラなんだよ。


 その隣に座る、金縁の眼鏡をかけた参謀の男は、手元の帳簿を弾くのに夢中だ。彼にとって前線の兵士はただの数字であり、一人が死ねば帳簿の隅に一線を引くだけの作業だ。


 さらに周囲を固める騎士団の幹部たちは、磨き抜かれた甲冑を誇示するように踏ん反り返っている。彼らは一様に家柄と過去の栄光を盾にして、城壁の外で泥を啜る平民兵を、自分たちの命を繋ぐための「防壁」程度にしか考えていない。


「イグナス家の若君。現在、我が軍は盤石の三段構えで王国軍を迎え撃っている。まず、この図面を見てくれたまえ」


 ガザルは自信に満ちた顔で、机に広げられた戦略図を指先でなぞった。


「まずは城壁の数キロ手前、幾重にも掘られた『第一線:外郭塹壕帯』。王国軍の猛攻を正面から受け止める肉の壁だ。泥濘と死体にまみれたこの地溝は、敵の進撃速度を物理的に削ぎ落とす。ここで敵を疲弊させ、足止めするのが第一段階だ」


 ガザルはさも名案であるかのように語るが、その「肉の壁」を構成しているのは、先程俺が馬車から見た、絶望に瞳を濁らせた平民兵たちだ。


「次に『第二線:ギーレンス城壁』。帝国の魔導技術の粋を集めた、高さ三十メートルを超える石造りの絶壁だ。ここには選りすぐりの騎士と魔導士が配置され、最新の魔導砲が並んでいる。塹壕で足を止めた敵を、この高所から一方的に殲滅する。これが我々の誇る絶対防衛の要だ」


 騎士たちが誇らしげに顎を引く。だが奴らは、この強固な壁の内側に籠もっている限り自分たちは安全だと、本気で思い込んでいる。


「そしてその奥、最深部に位置するのが『第三線:物資集積所』。帝都へと続く街道の合流地点であり、北方の物流と軍事の両面を支える帝国の心臓部だ。ここを落とされれば帝都の食糧も、軍の補給もすべてが止まる。ゆえに、この城を死守することこそが帝国の至上命題なのだよ」


 ガザルが鼻を鳴らし、参謀や騎士たちが満足げに頷く。彼らの目には、城壁の綻びも、前線で爆発寸前まで溜まった平民兵たちの憎悪も、一点に集中しつつある王国軍の真の圧迫も見えていない。


「……す、素晴らしい作戦です。感服いたしました。それで、私はこの地で何をすればよろしいのでしょうか。何か具体的な任務をいただけますか?」


 俺は表情を消し、あえて殊勝な態度で問いかけた。すると、ガザルはワイングラスを回しながら、心底可笑しそうに口角を上げた。


「ん? いや、イグナス殿、君は何もしなくていい。ただ、ここに座って美味しいお茶でも飲んでいてくれたまえ。この戦争に『イグナス家が参戦していた』という事実、それ自体が重要なのだよ」


 ガザルは平然と言い放った。彼の言葉に、周囲の幹部たちも同意するように卑屈な笑みを浮かべる。


「いいかね。イグナス家は帝国『十賢者』の一翼だ。その直系の者が前線に名を連ねているだけで、帝都の貴族連中やギルドへの面目が立つ。軍部としても『公爵家を味方につけて戦っている』という既成事実があれば、今後の予算交渉や責任追及の際、強力な盾になるのだ。……泥にまみれるような頭の悪い戦闘など、外にいる馬鹿共(平民)に任せておけば良い」


 つまり、俺は戦力として期待されているのではない。

 この無能共が、自分たちの保身と権益を守るための「最高級の飾り物」として、俺をここに招き入れたに過ぎないのだ。


 彼らにとって、この戦争の勝敗よりも「誰の顔を立て、誰に責任を押し付けるか」という政治工作の方が、遥かに価値があるらしい。


「そう、ですか。しかし、私は父からも兄上たちからも、前線に立ってこそイグナス家であると教えられました。少しでもお役に立てるなら、外にいる彼らと共に戦ってきてもよろしいでしょうか?」


 慣れない愛想笑いを浮かべ、それでも意思をはっきりと伝える。別に、使い捨てにされていく平民の命を憂いているわけじゃない。ただ、俺はこの戦いに負けたくないだけだ。こんなボケクソ共の無能な采配のせいで、俺の事業や我が家が滅びるなんてことは、逆立ちしたって許せねぇ。


「な、何を言う! そんなこと、もし君に万が一のことがあれば、誰が責任を取るというのだね! 公爵閣下に申し訳が立たん!」


 案の定、ガザルが顔を真っ赤にして制止してきた。周囲の幹部たちも、自分たちの保身の種が戦場に消えるのを防ごうと口々に反対を叫び始める。


「大丈夫です。父上には既に書状を出してあります。万が一の際も、ギーレンス城の皆様に責任を問うことはしないと、私の意志で前線へ向かったのだと明記しました。それに……もしここで私が何もしなければ、それこそ父上は『イグナスの名に泥を塗った』と、皆様を責めるかもしれませんよ?」


 あのサイコパス野郎の冷酷さを交渉材料に出すと、幹部たちの顔が引き攣った。まぁ、書状なんて出す訳ないんだが。結局、彼らを納得させるのに一時間を費やした。この無意味なやり取りをしている間に、外では何人、いや、何十人の命が消えていったのだろう。


 ようやく退室の許可を得て司令部を出ると、そこには戦場とは思えない光景が広がっていた。配膳のメイドを執拗に口説いている騎士や、汚い動作で食べ散らかしながら、気取った素振りで武勇伝を語り合う騎士たち。


 俺は彼らを一瞥し、吐き気を飲み込んで歩みを早めた。

 背後で聞こえる下卑た笑い声が遠ざかる。俺は高く聳える城壁を越え、腐敗した静寂に包まれた城内から、血と泥の地獄――「第一線」へと向かう。






 俺は、魔法や矢が絶え間なく飛来する第一線の地で、ひときわ鋭い殺気を放つ人物を見つけた。


「失礼。あなたがここの指揮官とお見受けする」


 右目に革の眼帯をつけ、左袖が虚しく風に揺れている片腕の女性に声を掛ける。彼女は、降り注ぐ土砂を払うことすら忘れて、こちらを睨み据えた。


「あ? その制服と紋章は……失礼、士官学校の学生か。私はフレン・シュトーレン百人長です。見ての通り、ここは公爵家の方が茶飲みに来る場所ではありません。命が惜しければ早くお下がりください」


 フレン・シュトーレン。泥にまみれても隠しきれない凛とした美貌の持ち主だが、その瞳には俺を明確な「敵」として拒絶する色が宿っていた。


 無理もない。城内の安全な広間で軍議ごっこに興じている連中と同類が、遊び半分で茶化しに来たと思えば、俺だって同じような反応をする。


「第一帝国陸軍士官学校より派遣されました、ゼン・イグナスです。微力ながら、この戦列に加わらせていただきたい」


 そう告げると、彼女は瞠目し、残った右腕で俺を制するように突き出した。


「……いや、ダメです。不敬にあたるかもしれませんが、ここは最前線です。それも、決して負けることが許されない死地だ。武功を立てたい、目立ちたいというのであれば、邪魔になるだけです。帰りなさい」


 当たり前の反応だ。だからこそ、俺は誤魔化さずに本質を告げる。


「このままでは負ける。貴女が一番、それを分かっているのではないですか?」

「っ。それは……!」


 フレンの言葉が詰まる。その一瞬の隙を逃さず、俺は言葉を重ねた。


「話している暇はありません。イグナス家からの支給品を持ってきました」


 俺が合図を送ると、後方に待機させていた馬車から、山積みにされた魔導具が次々と運び出されていく。もちろん、イグナス家など関係ない。すべて俺が自前の資金で買い揃えたものだ。


 そこには、敵の術式を霧散させる古い魔導阻害石アンチ・マナ・ストーンや、死の淵から引き戻す最高級のポーション。さらには、熟練の技術を必要としない最新式の連発クロスボウや、自動で盾となる自律型ゴーレムまで並んでいる。


 それらの逸品を目の当たりにし、フレンは言葉を失って口をあんぐりと開けた。


「これらはすべて、あなたの判断で好きに使って構いません。その代わり、俺をここで戦わせてください」


 この人が一番分かっているはずだ。このままでは待っているのは「無駄死に」という未来だけだということを。


 だからこそ、俺が差し出したこれらのリソースは、絶望の淵に垂らされた神からの助けに等しいはずだ。


「……先程までの無礼を、どうかお許しください。ゼン殿、あなたほどの御方が、本当に私たちと共に戦ってくれるというのですか?」


 フレンの声には、込み上げる希望と、戦友として認めようとする強い覚悟が混じっていた。


「えぇ。共に、王国のブタ共を追い返してやりましょう」

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