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第67話:学園での一時

 夜明け前の静寂を切り裂くように、俺は自身の肉体を極限まで追い込んでいた。


 指先だけで全体重を支える懸垂から始まり、魔導具で数倍の負荷をかけた鉄塊を、筋肉が悲鳴を上げるまで何度も押し上げる。一動作ごとに血管が浮き出し、皮膚の下で鋼のような筋繊維が爆ぜるように躍動する。限界を超えてなお反復を止めない肉体は、もはや一つの精緻な殺戮機械のように思えた。


 朝の鍛錬を終え、更衣室へ向かう廊下。すれ違う同級生たちは俺の姿を見ると、一様に視線を落として足早に去っていく。もはや、この温い箱庭に安住する同年代には興味すら湧かなくなっていた。


「よお、ゼン! 今朝も相変わらず凄まじいな。廊下までお前の熱気が伝わってきたぞ」


 そんな中、屈託のない笑顔で声を掛けてきたのは、十六班の仲間であるライナスだ。彼は昔と変わらず、腫れ物に触れるような周囲とは対照的に、一人の友人として接してくる。


「……あぁ。少し、な」

「あんまり根を詰めすぎるなよ? まあ、お前に言っても無駄かもしれないけどな」


 そう言って笑いながら俺の肩を叩くライナスに、俺は短く頷き返した。彼らだけが、今の俺と普通に言葉を交わしてくれる貴重な存在だった。


 ライナスと別れ、湯気が立ち込めるシャワー室へと入る。冷水で汗を流し、鏡に映る自分を見つめた。十四歳とは思えないほどに鋭利な肉体。前髪をかき上げると、あの日刻まれた稲妻の傷痕が不気味に浮かび上がっている。


 そのシャワー室の奥、立ち上る熱気の中でも隠しきれない圧倒的な質量を放つ男がいた。


 バルトロメウスだ。


 元帥の血を引き、「闘神の加護」を宿すその肉体は、ゼンと同い年の十四歳にして既に完成された重戦車のような威容を誇っている。彫刻のように深く刻まれた広背筋と、黄金の輝きを内包しているかのような厚い胸板。彼が動くたびに、周囲の空気が重く圧せられるのを感じる。そして、相変わらずズル剥けの巨根。嘘だろこいつ、生活に支障はないのか?


 バルトロメウスは濡れた髪を無造作にかき上げ、その鋭い眼光を俺に向けた。


「ゼン、もう招集令状は届いたのかい?」


 静かな問いに、俺は無造作に答えた。


「あぁ。北側で、王国軍との最前線に配備される」

「……そうか。それにしても、学生の君を北側前線に向かわせるとは。いよいよ王国の勢いが増してきたね」


 俺は蛇口を捻ってお湯を止めると、バルトロメウスを置いて浴場から出ていく。背後から「死ぬなよ」と聞こえた気がしたが、気付かないフリをした。


 濡れたままの身体を拭い、更衣室へと入ると、そこには既に戦闘服を準備したバドが控えていた。彼はいつもの事務的な礼儀正しさで、だがどこか納得のいかない様子で口を開く。


「ゼン様、今回の招集など無視すれば良かったのに。公爵家の権限を使えば、学生の兵役免除など造作もないことでしょう」


 バドの言う通りだ。イグナス家の三男である俺がその気になれば、安全な後方勤務に切り替えることも、あるいは病欠を装って学園に留まることも容易かった。だが、俺は軍服の袖を通しながら、短く返した。


「無視して後手に回る方がリスクが高い。ギーレンス城が落ちれば、俺の事業拠点である帝都の流通が死ぬ。……まあ、分かっていると思うが、俺が死ぬ可能性はほとんどゼロに近い」


 それは以前手に入れた『女神の抱擁』を装備しているからではない。あの宝具は既に俺の手を離れ、別の重要な人間に渡してある。


 俺が死を恐れない根拠は、この二年間で俺の胃袋に寄生させ、数を増やし続けてきた災虫たちにある。中でも、一億ゴールドという天文学的な対価を支払って手に入れたAランク災虫、死忌蜈蚣しきごこうとの契約は、俺の人生を百八十度変えた。


 その姿は、おぞましくも神々しい。禍々しいまでの紫色と、高貴さを漂わせる金色が混ざり合った外殻は、あらゆる魔導具の輝きを凌駕する。体長は自在に調整可能だが、解き放たれれば最大六十二メートルにまで膨れ上がり、大地を這う巨大な槍と化す。その無数に生え揃った牙を高速振動させれば、鍛え上げられた鉄甲でさえも紙のように切り裂く破壊力を持つ。毒は持っていない。


 だが、そんな小細工など不要なほどの純粋な暴力がそこにはあった。


 そして、こいつの真の価値はその不死性にこそある。

 燃やし尽くそうが、細切れにしようが、わずか一ミリでも細胞が残っていればそこから時間をかけて再生を果たす。そしてその特性は、宿主である俺の肉体にも適用されていた。


 ウルガを遥かに凌駕する超再生能力。今の俺にとって、怪我や死という概念は、もはや実感を伴わない過去の遺物になりかけていた。


「あの糞カラス共がまたちょっかいをかけてきてやがる。バド、もうそろそろ教官は辞めて、俺の代わりに組織を仕切ってくれ」


 ここまで大きくなった組織だ。学生との二足の草鞋を履き続けるには、物理的な限界が近づいている。人材も資金も、二年前とは比較にならないほどに膨れ上がった。バドであれば、俺以上に冷酷に、そして淡々とこの事業を拡大してくれるはずだ。


「お望みとあらば引き受けますが、下の者たちが納得するでしょうか? 現場にはゼン様に心酔する者も多い」

「隠居するわけじゃない。当面の間、お前に実務の全権を預けるだけだ。現場の統率なら、ヴァレアスとフーザン、それにゲンガがいれば俺がいなくても充分すぎるほど回るだろ」


 このまま幼年部を卒業し、予科に進学すれば、公爵家としての公務も本格的に増えてくるだろう。一度「金を稼ぐフェーズ」からは距離を置き、俺や姉様たちの首筋にぶら下がっているバッドエンドの断頭台を、粉砕するための準備を整えなくてはならない。


「……御意に。ゼン様の『資産』、このバドが責任を持ってお預かりいたしましょう」


 バドは深々と頭を下げた。


「あぁ、そうだ。今まで明確に組織の名を名乗ったことはなかったが、これからはお前が矢面に立つことになる。今、決めた」


 俺は鏡に映る自分の瞳を見つめ、静かに、だが確かな重みを持ってその名を口にした。


「今日から俺たちは、『災害ジキル』と名乗る」


 災害ジキル


 既存の秩序を蹂躙し、関わる者すべてに抗えぬ理不尽を強いる。周囲からすれば、俺たちの歩みはまさに名の通りの存在だろう。


 俺は鏡越しに、獰猛な笑みを浮かべた。背後ではバドが、主の決断を愉しむかのように不敵な笑みを深く刻んでいた。


 バドと別れ、俺は静まり返った学内を一人進んでいく。

 更衣室を出て校舎の廊下を歩いていると、中庭の演習場で訓練に励む一年生たちの姿が目に入った。


 懐かしい。この学校の教育は、まず徹底的に身体と精神を追い込み、生徒たちの心を折ることから始まる。いわば「軍人」としての適性があるかどうかのふるいだ。泥にまみれ、酸欠に喘ぎながら長杖や剣を振るう一年生たちの顔には、かつてのライナスやカレンたちと同じような、悲壮な色が浮かんでいた。


「あ、イグナス殿だ」


 不意に、一人の生徒が俺の存在に気づいた。それが波紋のように広がり、訓練の手を止めた下級生たちが一斉にこちらを指差す。


「イグナス先輩! 出征、どうぞご武運を!」

「帝国の誇りを見せてきてください!」

「僕たちも、先輩のような強い軍人になれるよう精進いたします!」

「ご無事でのご帰還を、心よりお祈り申し上げます!」


 一斉に向けられる、迷いのない敬礼。その曇りのないキラキラとした視線に当てられ、俺は思わず逃げるようにその場を立ち去った。あんな期待に満ちた目はいまだに慣れない。


「あ?」

「ひっ、あ、ああ……!」


 廊下の角でぶつかりそうになった男が、喉を鳴らして引き攣った声を上げた。見覚えのある顔――ガストンだ。結局退校処分になることもなく、三年生まで進学したらしい男は、俺と目が合った瞬間に顔を青ざめさせ、蛇に睨まれた蛙のように硬直した。


「よう、イグナスの。今から出征か? しかも王国の『獅子王』を相手にする前線だっていうじゃないか。流石に今回ばかりは、その不遜な顔も恐怖で震えてるんじゃないのか?」


 ガストンの隣で、奴と同じ班だった少年が相変わらずの調子で煽り気味に声をかけてきた。


「あぁ、そうだな。怖すぎてちびりそうだよ」

 俺が投げやりに応じると、少年は鼻で笑い、どこか複雑な表情を浮かべて視線を逸らした。


「……ふん。今回負ければ、帝国は本気で危機に瀕する。無様に負けて帰ってくるなよ」


 こいつなりに自国を心配し、愛国心があるのだろう。俺を煽る言葉の裏側に、最前線に駆り出される俺への嫉妬と、何もできない自分自身の不甲斐なさを憂う色が透けて見えた。


 だからこそ、それ以上は言葉を返さない。


 負けることが許されないのは、誰よりもこの俺自身が一番よく理解しているからだ。

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