第65話:常闇
帝都の掃き溜めと揶揄される裏外区の一角。そこには、混沌とした周囲の景観から隔絶された、異様なほどに整然とした区画が存在していた。
石畳は隙間なく敷き詰められ、塵一つ落ちていない。かつての廃屋群は跡形もなく取り壊され、代わりに立ち並ぶのは、帝都の平民区はおろか、高級住宅街さえ凌駕するほどに洗練された街並みだ。その中心に鎮座するのは、貴族の別邸を彷彿とさせる豪奢な巨大建築。白亜の壁に漆黒の屋根瓦、そして窓から漏れるのは、官能を揺さぶるような仄暗い魔導灯の光。
こここそが、俺が心血を注いで築き上げた巨大娼館――遊郭『常闇』だ。
「ゼンちゃん、お帰りなさい。……ねぇ、今日こそアタシが筆下ろし、してあげよっか?」
そう言って背後からまとわりついてきたのは、濡れたような瞳の美女だ。薄い絹布一枚を纏っただけのその姿は、豊満な肢体を隠すどころか、むしろ強調している。首筋からは甘い香油の匂いが漂い、柔らかい感触が俺の腕に押し付けられた。
「……姉様に殺されるから、遠慮しておく」
俺が冷淡に突き放すと、彼女は「つれないわねぇ」と、わざとらしい溜息を吐いて身を引いた。周囲を見渡せば、同様に露出の多い意匠の服を纏った遊女たちが、それぞれの持ち場からこちらに視線を送ってくる。
「若旦那、今日の香は新作ですよ。是非奥で試していってくださいな」
「あら、若。また一段と体が逞しくなりました? 抱き心地が良さそうだわ」
艶やかな誘い文句が飛び交うが、俺はそれらを無視して奥へと進む。
一歩足を踏み入れれば、そこは外観以上に煌びやかな極彩色の世界だ。天井からは何千もの魔晶石をあしらったシャンデリアが吊り下げられ、床には最高級の獣皮が敷き詰められている。壁一面には、帝都でも名の知れた画家たちが手掛けた優美な壁画が踊り、金箔で縁取られた柱が重厚な空間を支えていた。
平民の娯楽場としては贅が過ぎるが、今やここは身分を隠した貴族たちもお忍びで通い詰める、帝都最大の社交場にして、俺の貴重な資金源の一つとなっていた。
「あら? 今日はどうしたの?」
短く切り揃えられた黒髪。すっかり遣手としての風格が板に付いたカナが、穏やかな笑顔で問い掛けてきた。今の彼女はもう奴隷ではない。
この常闇で働く、俺の正当な部下だ。この二年の間に彼女は一人分の奴隷価格を優に超える働きを見せ、その功績を認めて解放したが、なぜか彼女は離れることなくこうして遊郭に留まっている。
「最近、また別の組織がこの辺をウロチョロしてるだろ? 偵察がてら様子を見に来た。それにしても……相変わらず凄い客入りだな」
吹き抜けから階下を見下ろせば、そこには欲望に支配された男たちの姿がひしめき合っている。今や平民よりも貴族の割合の方が多いのではないかと思えるほどだ。もちろん、ここでルールを破れば特権階級だろうと容赦はしない。相応のペナルティを受けてもらい、二度とこの屋敷の敷居は跨がせない。それが『常闇』の鉄則だ。
初めは奴隷として絶望の表情でここに連れてこられたキャストたちも、今は違う。決して不可能ではない金額を収めれば自由を買い戻せるという明確な「希望」。そして、他所でモノとして飼い殺されるより、ビジネスとして金を稼ぐ手段だと割り切れるこの環境。安全性が保障されていることも含め、うちは他の組織の風俗を根こそぎ潰す勢いで繁盛していた。
その躍進に大いに貢献してくれたのが、このカナだ。彼女が奴隷たちの中から資質を見抜き、裏方として選び出した数十人の女たち。彼女たちは皆、かつての悲惨な境遇を感じさせない生き生きとした表情で、忙しそうに業務に励んでいる。
「みんな、ゼン様のおかげで自分の人生を取り戻せると信じていますから。……もちろん、私も含めてね」
カナは誇らしげに胸を張り、テキパキと従業員たちに指示を飛ばしていく。彼女が作り上げたこの「規律ある遊郭」は、もはや単なる快楽の場ではなく、俺にとって最強の資金源であり、帝都の情報を吸い上げる巨大な耳となっていた。
「セリアに、セリアに合わせろぉっ!」
突如として、煌びやかな廊下に不釣り合いな怒号が響きわたった。
見れば、数人の警備担当に組み伏せられ、床に這いつくばっている一人の男がいる。泥のついたボロ布のような服を纏い、頬はこけ、目は血走っている。一目でそれと分かる、余裕のない平民の男だ。
セリア、か。
うちのナンバー3に数えられる人気遊女だ。本来、彼女を指名するにはそれなりの爵位か、あるいは一生遊んで暮らせるほどの金が必要になる。
だが、中にはいるのだ。全財産を投げ打つか、あるいはどこかで無理な借金をしてまで、身の丈に合わない「一夜の夢」を買ってしまう馬鹿が。
「セリア、会いにきたよ! 約束したじゃないか! 一緒に逃げよう、君をこんな場所から救い出してみせる!」
顔を真っ赤にして叫び続ける男の言葉に、周囲の客たちから冷ややかな失笑が漏れる。
痛い。見ていられないほどに痛々しい台詞だった。
遊女が客に向ける甘い言葉も、縋るような視線も、すべては対価に見合った「商品」に過ぎない。そんな基本すら忘れ、一度限りの夜を運命だと勘違いしてしまったのだろう。
弱者男性極まりない。
彼のような、あるいは俺(前世)のような、女に縁のないモテない奴というのは、少し優しくされただけで自分だけが特別だとすぐに勘違いしてしまう。この男が今見ているのはセリアという女ではなく、自分の脳内で肥大化させた都合の良い幻想だ。
無様に床を舐める男の姿に、忌々しい昔の記憶が重なる。
「……チッ」
俺は思わず、自分でも驚くほど苦い舌打ちを鳴らしていた。学生時代(中学)、ハンカチを貸してくれた女子に惚れてしまい、何故か相手も俺の事を好きだと本気で勘違いしてしまった。
結末はお察しの通り。罰ゲームで告白、ではなく優しくするという残酷な遊びをやっていた一軍の女子にクラスラインで晒され、次の日には「(気付いて)くれないの豚」というあだ名が流行り出した。
床で這いつくばる男の無様な姿は、封印したはずの古傷を執拗に抉ってくる。
「すんません、若。お見苦しいところを……」
警備責任者のズマが、そのスキンヘッドを光らせながら慌てて駆け寄ってきた。
こいつも既に奴隷の身分から解放してやった身だ。だが、バドやヴァレアス、そして俺の下で働けば並の商人以上に稼げる上に、平民の身分では逆立ちしても辿り着けないポジションに就ける。解放を告げた際、彼は逆に頭を下げて側においてくれと懇願してきた。無能ではないため断る理由もなく、現在はこうして遊郭の警備責任者として雇っている。
「入り口で止められなかったのか? まあいい、不快な声を聞かせるな。……で、そいつはどうした」
俺はは士官学校から持ち帰った「帝国軍事境界線における兵站管理」の記述課題をこなす手を休めることなく、冷淡に問い掛けた。
「実家の土地と実の両親を売り飛ばしてセリアさんを指名した、救いようのない屑野郎でしてね。ですが、どうやら妙な魔導具を使ったようで……入り口を突破されるまで誰も気付かなかった。面目次第もございやせん」
ズマの言葉に、俺は動きを止めた。
魔導具だと? この屋敷の至る所には、ルーナ姉様の設計による警備魔法陣が幾重にも張り巡らされている。帝国最高の頭脳が編み上げた網を、素人の平民が通り抜けてきたというのか。
俺は席を立ち、今なお「セリア、愛しているんだ!」と醜く暴れ続ける男の元へと歩み寄った
「おい。この魔導具、どこで手に入れた?」
ズマから手渡されたのは、一見すればただの古ぼけたマントだ。だが、その繊維にはルーナ姉様の設計を彷彿とさせる、対象の存在を風景に溶け込ませる高度な認識阻害の術式が組み込まれている。平民が偶然拾っていい代物じゃない。
「なんだガキがっ! ここにいる奴ら全員殺してやる! セリアを閉じ込めるクズどもめ!」
男は目を血走らせ、唾を撒き散らしながら絶叫した。その言葉が終わるより早く、背後に立つズマの額にどす黒い青筋が浮かぶ。
「てめぇ……今、このお方を侮辱したか? ――おい、右腕だ」
ズマが低く地を這うような声で命じる。直後、男を抑えていた筋骨隆々の警備兵が、一切の躊躇なく男の腕を捻り上げた。
生木をへし折るような鈍い音が響き、次いで鼓膜を刺す悲鳴が広間に爆ぜる。
うるさ、こいつ。ていうか、流石にこの広間で拷問を続けるわけにもいかない。華やかな遊郭に豚の断末魔は似合わないし、客の興を削ぐのも馬鹿らしい。
俺はズマに顎で指示を出し、泣き喚く男を引き摺らせて、客の笑い声が届かない地下の奥深くへと移動した。
――そこは、「お仕置き部屋」と呼んでいる無機質な石造りの空間だ。
湿った冷気と共に血と鉄の匂いが淀む中、男は天井から両腕を鎖で繋がれ、まるで解体待ちの豚肉のように無様に吊るされていた。
「もう一度聞くぞ。この魔導具、どこで手に入れた?」
既に数人の部下によってサンドバッグのように殴り続けられた男の顔は、原型を留めないほどに変形している。血塗れの全身を力なくユラユラと揺らし、もはやまともな思考など残っていないだろう。
「た、たしゅけ、……」
血の泡を吹き出しながら、男はぼやけた声で呻く。隣に立つズマの苛立ちが、肌を刺すような熱気となって伝わってきた。だけど落ち着け、このハゲ。これ以上やったら、情報を吐く前にこいつは死ぬだろ。
俺はため息をつき、もはや恒例となったズマのむき出しの頭頂部をぺちっと叩いた。
「す、すんません」
ズマは頭をかきながら、ばつが悪そうに笑う。俺は視線を吊るされた男へと戻し、冷徹な響きを帯びた声を投げかけた。
「死にたいか?」
「ひっ、い、ぃやでずっ、たしゅけて……」
「なら答えてくれ。この魔導具はどこで手に入れた?」
「これは、メルダの酒場で、知らない男にわたしゃれましだ。これを着れば、セリアに会えるって、じゅっ、自由になれるって……」
やはり、か。
ただの平民が自力で手に入れるには、あまりにもレア度が高すぎる代物だ。恐らくこれは、かつてのゲーム『スロン』において、雑魚敵とのエンカウントを回避するために使われていたアイテム、「嫌われ者の肌」の同等品だろう。
「その男の特徴は?」
「せがたかくて……首筋に、カラスのタトゥーが、ありまひた」
言い終えた途端、俺たちの脳裏にある組織の影が浮かび上がった。室内の空気が一段階、重く沈む。
「若、まさか……」
「あぁ。――“烏鴉が運ぶ死”だ」




