第64話:成長
第一帝国陸軍士官学校の入校式。
会場となる大講堂は、厳格な規律を象徴するかのように張り詰めた静寂に包まれていた。真新しい制服に身を包んだ入校生たちは、これから始まる過酷な日々に期待と不安を抱き、一様に緊張した面持ちで直立不動の姿勢を保っている。壇上に並ぶ教官たちは、歴戦の猛者であることを窺わせる鋭い眼光を放ち、その威圧感に気圧された少年たちの喉が、鳴りもしない音を立てて動いた。
形式的な祝辞と宣誓を終え、入校式は幕を閉じる。彼らは各班の宿舎へと案内され、軍隊式の苛烈な規則を叩き込まれた後、記念すべき一回目の授業を終えた。放課後、ようやく訪れた自由時間に、新入生たちは学園内の広場へと集まっていた。
帝国東部の名家に連なる少年、イベルカ・ステインフィールド男爵令息もその一人だった。十二歳の彼が、羨望を隠しきれない瞳で見つめているのは、二年生の首席として名を馳せるヴィン・バッテンヘルガーとその班員たちだ。
長剣を腰に下げたヴィンを中心に、魔導師然とした理知的な少年、軽装鎧に身を包んだ俊敏そうな男女、そして一際大きな盾を背負った巨漢。去年、一年生としてあらゆる演習を圧倒的な成績で制した彼らは、新入生にとって目指すべき「理想」そのものだった。
しかし、そんな彼らがある一点を見つめた瞬間に顔を青褪めさせた。
模範たるべき二年生たちが示し合わせたかのように直立し、狂いなく鋭い敬礼を捧げる。
その視線の先にいたのは、三年生のゼン・イグナスだった。
帝国「十賢者」の一翼を担うイグナス家の三男。
かつて一年次には首席を勝ち取り、二年次では三席へと順位を落としはしたが、それでも学内での評価が揺らぐことはなかった。むしろ、順位という表面的な数値では測りきれない、圧倒的な実戦能力こそが帝国の求める武の体現であると囁かれている。演習における彼の冷徹な判断と、異形の武を目の当たりにした者たちは、誰も彼を「三番目」などとは呼ばない。
十四歳になったゼンの肉体は、同年代のそれとは明らかに異質だった。
制服の上からでも判別できるほどに隆起した筋肉は、無駄な脂肪を削ぎ落とした鋼のようなしなりを感じさせる。額に刻まれた稲妻のような深い傷痕が、彼の歩んできた修羅場を無言で物語っていた。
そして何より、見る者を戦慄させるのはその瞳だ。
一切の感情が伺えない漆黒の眼差し。それは光を反射することのない、瞑氛さえ感じさせる禍々しいまでの闇。わずかに猫背気味のどこか獣を思わせるその佇まいからは、ただそこに立っているだけで周囲の空気を歪ませるほどの圧倒的なオーラが放たれていた。
士官学校において、三年生への進級は一つの転換点となる。共同体としての「班」という枠組みは事実上撤廃され、教育課程は個人の技量を極限まで研ぎ澄ます実力主義へと移行するのだ。
中でも異彩を放つのが、ゼン・イグナスの動向だった。彼は卒業を待たずして早々に最前線へと配属されることが決定事項として噂されており、それは学年首席のバルトロメウス・フォン・ヴォルフラムを含む上位勢たちを差し置いての、異例中の異例と言える抜擢であった。
帝国軍元帥の嫡子として黄金の加護を纏い、武の象徴として君臨するバルトロメウス。その彼が、唯一自分と並び立つ「本物」として再戦を渇望し、執着する相手。そんな畏怖の対象となったゼンは、二年生の後半から周囲との接点を断ち切り、今や学内では誰一人として寄り付くことのできない、完全な孤立を深めていた。
「……お、おい。お前、イグナス殿に話しかけてみろよ」
新入生の一人が、震える声で隣の友人の背中を押した。
「ば、馬鹿か! 殺されるわ! あの目を見ろよ、人間を獲物としか思ってねぇぞ。……というか、あんな奴が本当に同じ人間なのかよ」
イベルカの同級生たちは、初めて生で目にする「本物の怪物」を前に、肌を刺すような戦慄と興奮を隠せない様子だった。
それもそのはずだ。ゼンの二人の兄、ジルドとザングースは、苛烈な蛮族や他国との戦争において一度も敗北を許さぬ帝国の双壁。そこに三男であるゼンが加われば、もはやイグナス公爵家の軍事力は皇族の近衛軍さえ超えるのではないか。そんな禁忌に近い噂さえ、彼の禍々しい気配を前にすれば誰もが真実味を感じずにはいられなかった。
十四歳を迎え、その肉体は少年特有のしなやかさを残しながらも、一歩踏み出すごとに凶悪な筋密度を感じさせるまでに完成されつつある。前髪の隙間から覗く稲妻の如き傷痕が、その無機質な顔立ちに凄惨な凄みを添えていた。
ゼンは新入生たちの騒めきなど最初から意識の端にも入れず、ただ一定の歩調で目的地へと進んでいく。その先には、鋭い眼光を湛え、周囲を威圧するバド・レックス教官が待っていた。
教官と生徒という立場を忘れさせるほど、二人の間に流れる空気は重く、鋭い。そのまま言葉少なに並んで歩き出す彼らの姿は、これからの激動を予感させる静寂を伴い、もはやこの学校における日常の風景となっていた。
「おい、あんまりあいつをジロジロと見るな」
背後から響いた冷徹な女性の声に、イベルカたちは弾かれたように振り返った。
そこに立っていたのは、ヴィクトリア教官だった。厳しい規律の体現者として知られる彼女だが、その声に含まれていたのは、学生の不敬を咎めるような類のものではなかった。もっと別の、根源的な恐怖に近い何か――触れてはいけない禁忌に、これ以上近づくなという警告の響きが含まれていた。
「も、申し訳ありませんッ!」
イベルカは反射的に姿勢を正し、上擦った声で謝罪した。ヴィクトリアは、遠ざかっていくゼンの背中に一度だけ鋭い視線を向けた後、新入生たちを追い立てるように言い放った。
「さっさと戻れ。いいか、三年生――特にあいつには近づくな。噂もするな。分かったなら戻れ!」
その言葉には、普段の彼女からは想像もできないような、どこか焦燥に似た雰囲気が混じっていた。帝国きっての女傑と謳われるヴィクトリアをここまで苛立たせるのは、流石に肝が冷える。イベルカたちは一斉に敬礼を残すと、逃げ出すようにその場を走り去っていった。
後に残されたヴィクトリアは、静まり返った広場で一人、大きく息を吐き出した。
「ふぅ……。全く、日に日に悍ましさが増していく」
消え入るような声で呟かれたその言葉は、誰に届くこともなく、春の風に溶けて消えた。彼女の視線の先では、猫背の影が、バドと共に校舎の闇へと飲み込まれていった。
第一帝国陸軍士官学校幼年部のカリキュラムは、一年次、二年次では学科と基礎訓練を主として進められるが、三年次ではそのすべてを戦場で使いこなすための実地訓練、すなわち実戦教導へと移行する。
そして今日、演習場において繰り広げられるのは、魔物討伐を想定した三年生による実技試験であった。新学年度の初日を飾るこの試験は、下級生たちの見学も許可されており、学校の序列を決定付ける伝統的な武闘会として、多くの観客や野次馬たちが詰めかけていた。
今年度の三年生には、例年以上に多くの注目株が揃っている。いわゆる「五強」と称される学年主要候補生たちの存在だ。
黄金の加護を纏い、オークの群れを数秒で屠る不動の筆頭候補、バルトロメウス・フォン・ヴォルフラム。
周囲の魔素を掌握し、絶対零度の氷結魔法を操る魔導貴族の才女、エレノア・メルキオール。
南方の血を引き、巨大な戦斧を暴力的な膂力で振るう重戦士、ガレス。
没落貴族の執念を双剣に宿し、最速の技巧を誇る、シルヴィア。
そして、軍情報部の影を背負い、無音で対象の急所を貫く暗殺術の専門家、ニルス。
彼ら五強に対抗すべく、資産家男爵家の三男であるフェリックス・フォン・ブラウンシュヴァイクが、高価なミスリル杖から放たれる華やかで強力な攻撃魔法で場内を沸かせている。
だが、観覧席に集まった新入生や他学年の生徒たちが、その喉を鳴らし、最も深い戦慄と共に待ち構えているのは、やはり――ゼン・イグナスであった。
演習場の中央では、エレノア・メルキオールによる、洗練された魔導の極致が披露されていた。
対峙するのは、高位の死霊魔導師である魔物――リッチ。
リッチがその枯れ木のような杖を掲げ、不浄な魔力による闇の奔流を解き放つ。死の瘴気が会場を覆い尽くそうとしたその瞬間、エレノアが優雅に指先を振った。
瞬時に大気が凍結し、漆黒の魔力ごとリッチの全身が巨大な氷塊の中に封じ込められる。天賦の才がもたらす圧倒的な魔素掌握。エレノアは氷の中で砕け散るリッチを一瞥もせず、淑女の礼法に則った完璧な一礼を見せ、演習場を後にしようとした。
だが、彼女が退出の歩みを進めるよりも早く、静寂を切り裂く不快な金属音が響き渡った。
石床をガリガリと無造作に削り、重厚な戦斧を引き摺りながら入場してきたのは、ゼン・イグナスだった。
すれ違いざま、あの傲岸なまでに冷静なエレノアが、頬を伝う冷や汗に気付き息を呑む。会場全体が、彼が持ち込んだ濃密な死の気配に塗り潰され、熱狂は一瞬にして凍り付いた。
地響きと共に、地下から巨大な檻がせり上がってくる。その中にいたのは、Bランク指定魔物――魔族騎士。
本来、学生の試験に供される器ではない。魔族の怨念を触媒に、ただの殺戮兵器として蘇ったその怪物は、たとえ装備が学生用に変更されていようとも、対峙する者に逃れようのない「死」を予感させる。
しかし、ゼンは一切の怯懦を見せない。
雄叫びを上げ、凄まじい勢いで肉薄してきたヘルナイト。大気を断ち切るほどの重圧を伴って振り下ろされた巨大な黒剣を、ゼンは回避することなく、片手で構えた戦斧で真正面から――受け止めた。
金属同士が激突する凄まじい衝撃波が、砂塵を巻き上げる。
誰もがゼンの腕が砕けると思ったその瞬間、場内を支配したのは悲鳴にも似た歓声だった。ヘルナイトの全力の一撃を、ゼンは微動だにせず、ただ片腕の剛力のみで軽々と制止させていたのだ。
「……遅い」
殺意に支配されているはずのヘルナイトが、ゼンの瞳に宿る底知れない闇に触れ、本能的な恐怖からか後ずさる。
ゼンは僅かに溜息を吐くと、右腕の筋肉を爆ぜんばかりに隆起させた。一歩、足を踏み出す。その踏み込みだけで石床に亀裂が走り、次の瞬間にはゼンの姿が消えた。
爆発的な速度で間合いを詰めたゼンは、逃げ場を失ったヘルナイトの眼前へ。
戦斧が重厚な風切り音を置き去りにし、横一文字に閃く。
鎧を、肉を、骨を、一息に。左肩から斜め右脇腹までを、紙細工のように両断した。
「チッ。さっさと死ねや」
吐き捨てるような低い声。地面に転がり、なおも怨嗟の声を上げようとしたヘルナイトの頭部を、ゼンは躊躇いなく踏み潰した。
砕ける黒兜と肉片を顧みることもなく、彼は再び戦斧を引き摺りながら、不気味な金属音を響かせて演習場の外へと退場していった。
ゼン・イグナスが去った後の演習場には、硝煙と鉄錆の匂い、そして刺すような沈黙だけが取り残されていた。
観覧席の新入生たちは、誰もが言葉を失い、石像のように硬直していた。数秒前まで繰り広げられていたのは、彼らの常識を遥かに超越した「殺戮」だったからだ。魔法の華やかさも、騎士道の美徳もない。ただ、絶対的な強者が弱者を効率的に処理したという、残酷なまでの事実。
「……あんなの、試験じゃない。ただの屠殺だ」
誰かが掠れた声で零したその一言が、静寂を切り裂く引き金となった。
一拍置いて、堰を切ったように沸き起こる喧騒。しかしそれは、エレノアの時に送られた称賛の喝采ではなく、理解不能な化物を前にした時特有の、生理的な嫌悪と強烈な畏怖が混じり合った悲鳴に近いものだった。
イベルカ・ステインフィールドは、膝の震えを止めることができずにいた。
先ほどヴィクトリア教官が口にした「悍ましさ」という言葉の意味を、今、これ以上ないほどに理解させられていた。魔族の騎士を片手でねじ伏せ、その頭部を虫でも潰すかのように踏み砕いたあの男の瞳に、勝利の悦悦も、敵への敬意も存在しなかった。
あるのは、深い闇。触れれば最後、魂ごと飲み込まれるような瞑氛の黒。
下級生たちは、自らの不運を悟った。これから始まる自分たちの学校生活には、あの怪物が常に「最強」として君臨し続けるのだ。彼らは、立ち去るゼンの背中に向かって、一筋の戦慄を禁じ得ないまま、いつまでもその禍々しいオーラの残滓を見つめ続けていた。




