第61話:開戦
深夜の帝都港湾区。ベストバレーの海風は、鉄錆と潮の香りを孕みながら、静寂の底に沈んでいた。月光が海面に砕け、銀色の鱗のように煌めくエモーショナルな光景とは裏腹に、そこは「針鼠」の血生臭い拠点へと変貌を遂げている。
ガリアス・ヴァン・ドレンが今回のオークションの「供物」を厳重に保管させているのは、港の入り隅に位置する、巨大な石造りの倉庫群だった。
先日、針鼠の第三部隊が何者かによって壊滅(殲滅)させられ、隊長ユーエンが全身の皮膚を剥脱され、見せしめとして裏外区の広場に懸吊されたという情報は、既に裏社会の周知の事実となっていた。
しかし、組織内において第三部隊は所詮「最弱」の末端に過ぎない。ガリアスの直命に接することすら稀で、ただ雑用をこなすだけの数的な構成員として、消耗品のように駆使されていた。彼らの壊滅は、仲間を失った悲しみよりも、組織の矜持に泥を塗られたという、矜持の毀損としての怒りを招いただけだった。
だが、第二、そして第一部隊は一線を画す。
護衛、運営、そして暗殺――ガリアス麾下の精鋭として、長年裏の世界に君臨してきた彼らには、針鼠の一員としての苛烈な矜持と、他者を寄せ付けぬ驕りがあった。
倉庫の護衛と管理を任された第一部隊の隊員たちは、出品予定だった女奴隷たちを弄ぼうとし、「商品の鮮度を損なうな」とガリアスから峻烈な叱責を受けたことで、その鬱屈した欲望と不満が澱のように溜まっていた。
「チッ……一人や二人ぐらい、使い潰しても問題ねぇだろ。あの野郎、堅苦しくなりやがって」
「おい。滅多なことを言うな。聞かれたら首が飛ぶぞ」
二人の若者が闇の中で言葉を交わす。
一人は煙草をふかしながら貧乏ゆすりを止めず、もう一人は腕を組んで倉庫の重厚な扉の前に立っていた。彼らは、中に捕らわれている佳人の中でも随一の美貌を持つ、あのエルフの女を犯そうとした矢先、ガリアスに冷酷な言葉で制止されたことに、激しい苛立ちを募らせていた。
「あぁ? 知るかよ。隊長連中ばかり良い思いをしやがって。俺たちがどれだけ身体張ってると思ってやがる」
途中で煙草を海へと投げ捨てる。彼らは同年代の中では突出した魔導適性と戦闘技術を有しており、既に道徳をかなぐり捨て、非人道的な行為を躊躇なく遂行できる残酷性を備えた手練れだった。
しかし、そんな彼らの前に、二つの影が音もなく現れた。
「チッ……酔っ払いか?」
一人が懐から魔導杖を取り出し、威圧するように構える。
「何者だ――」
そう言いかけた十九歳の若者、ハーバン。彼の言葉は、最期まで紡がれることはなかった。
闇を切り裂いて放たれた一筋の矢――全身に蛇の刺青を纏った若者、スイレンが放ったクロスボウが、正確にハーバンの喉を貫いた。
「ごっ、がはっ……!」
気管を粉砕され、溢れ出した鮮血が気管支に逆流する。生々しい血反吐をぶちまけ、ハーバンはその場に膝をついた。
「ハーバン! 敵、か……っ!?」
相方の死を認識した直後、もう一人の若者の視界は、あり得ない角度へと激変した。
――ボキリ。
背後に音もなく肉薄していたズマの剛腕が、若者の頸椎を真逆に捻じ曲げた。
首を百八十度回転させられたまま、若者は生を失った人形のように数歩、ヨタヨタと足を踏み出した。そして、重力に抗うすべもなく、そのまま真っ黒な海へと吸い込まれるように落ちていった。水柱ひとつ立てず、深夜の海は彼を飲み込んだ。
「ヴァレアスさん、こんなもんか? 精鋭ってのは名ばかりのようだぜ」
ズマが拍子抜けしたように吐き捨て、その巨大な拳に嵌めたグローブ型の魔導具――『粉砕の戦槌』を軽く打ち合わせた。衝撃を指向性の振動へと変換し、触れた対象を内部から破砕するその無骨な鋼が、返り血を弾く。
「油断するな。こいつらはただの末端だ。中に大勢いるぞ」
オーガのお面をつけたヴァレアスが、鈍色の輝きを放つ左腕をカチリと鳴らして制した。ゼンから与えられた魔導義肢『震天の鋼』。魔導合金で編み上げられたその人工の腕が、主の戦意に呼応するように駆動音を上げ始める。
「スイレンは天井から援護。ズマは俺と正面から突っ込む」
「そうこなくっちゃあ面白れぇ!」
ヴァレアスが魔力を込めると、指先から余剰魔力が青白い火花として放出され、排熱孔からは蒸気機関のような重低音が響き渡る。直後、爆発的な衝撃が倉庫の扉を襲った。
轟音。
内蔵された重力加速機構が発動し、放たれた一撃は数トンの鉄扉を紙切れのように吹き飛ばした。その先に立ちふさがっていた針鼠の隊員が運悪く下敷きとなり、全身の骨を粉々にする不快な破砕音が響き渡る。
「な、なんだ!?」
一斉に二人の方へ振り返る隊員たち。しかし、奥の木箱に奴隷を組み伏せ、その首を愉悦とともに絞り上げていた針鼠第二部隊隊長、ヘルガー・ムムソンガは、眉一つ動かさなかった。入り口で同胞の肉が爆ぜようとも、彼にとっては目前の快楽を中断させるほどの価値すら見出せないらしい。細身の身体を揺らし、蕩けた瞳で少女の苦悶を貪り続けている。
「外道共に名乗る名は持ち合わせていない。我が主人の名において、これより貴様らを鏖殺する」
ヴァレアスがオーガの面の下から、氷のような宣告を放つ。
「変なお面被りやがって、ただの気狂いかよ! やっちまえ!」
隊員の号令と共に、四人の手練れが瞬時に得物を抜き放ち、四方から適切な距離を詰めてくる。
「ただの雑魚じゃないぞ」
「えぇ、分かってますとも。ヴァレアスさんは先に行ってくだせぇ。こいつらは俺とスイレンでやります」
ズマの言葉と同時に、頭上の暗闇から音もなくボルトが降り注いだ。不意を突かれた一人が、眉間を射抜かれ絶命する。スイレンの場所を特定した団員たちが、怒号を上げながら天井へと走り去っていく。
ヴァレアスの前には、槍を携えた三人の中堅隊員が立ち塞がった。連携の取れた突きが同時に放たれるが、ヴァレアスは一歩も引かない。元千人長としての卓抜した空間把握能力が、死角からの攻撃を無効化する。彼は『震天の鋼』の掌を広げ、迫り来る槍の穂先を真正面から掴み取った。
「がっ……嘘だろ、素手でッ!?」
驚愕に目を見開く隊員を嘲笑うかのように、重力加速機構がうなりを上げる。ヴァレアスが義手を一振りしただけで、槍の柄は飴細工のように捻じ切れ、連動した引力が隊員の身体を無理やり引き寄せた。そこへ叩き込まれたのは、鋼の裏拳だ。
「ごぶっ……が、はっ!」
防具ごと胸元を陥没させられた男が、後方の積荷まで弾き飛ばされ、激突の衝撃で内臓をぶちまけた。返り血がヴァレアスのオーガの面を赤く染める。
残る二人が怯んだ隙を、ヴァレアスは見逃さない。
地面を蹴る足に魔導噴射の推進力が加わり、瞬時に間合いを詰める。手斧を振るうまでもない。義手の親指を敵の眼窩へと深々と突き立て、そのまま頭蓋を内側から握り潰した。
「『放熱』」
義手の排熱孔が全開になり、体内の魔導炉から溢れ出した超高温の高圧蒸気が周囲へと一気に放たれた。
「ぎゃあああああッ!?」
「熱い、熱い、目がぁぁぁ!」
視界を埋め尽くす白い煙の中で、七人の男たちが皮膚を爛れさせ、悲鳴を上げながらのたうち回る。ヴァレアスはその熱波の中を、無慈悲な死神として悠然と歩いた。
苦痛に悶え、防衛の姿勢すら取れない男たちの喉元を、手斧が優雅な軌跡を描いて次々と断ち切っていく。立ち込める蒸気は血の色を透かし、倉庫の一角を瞬く間に処刑場へと変えていった。
「……貴様、何人殺した?」
ヴァレアスが剥き出しの不快感を隠そうともせず、目の前の細身の男へ問う。ヘルガーの足元には三体の骸が転がっていた。いずれも首を異様な角度に曲げられたり、全身を無惨に損壊させられた奴隷たちだ。
「うるせぇなおっさん。イキそうなんだから話しかけんな。萎えるだろ馬鹿が」
ヘルガーは悪びれる様子もなく吐き捨てると、ようやく起き上がり、気怠げに股袴を履き直した。
「俺の楽しみを邪魔しやがって。楽に死ねると思うなよ」
言い終わるのと同時、ヘルガーの指に嵌められた複数の指輪型触媒が、毒々しい魔力を放った。
直後、周囲の空間から数十の「氷槍」が生成され、全方位から乱れ打たれる。一つ一つが岩をも貫く速度と質量を伴い、殺意の雨となってヴァレアスを襲った。
だが、ヴァレアスは微動だにしない。手にした戦斧を旋回させ、飛来する極寒の刃をすべて火花とともに叩き落とすと、一歩踏み込んで義手に魔力を流し込んだ。
「衝撃波」
鋼の拳から放たれた指向性の不可視の圧力が、大気を激しく震わせる。ヘルガーは反射的に「氷壁」を展開して相殺を試みたが、直後に違和感に気づき、動きを止めた。
腕の感覚がない。いや、遅れて凄まじい熱痛が脳を焼いた。
「ぎゃあぁっっ!!!」
ぼとり、と湿った音を立ててヘルガーの両腕が床に落ちた。衝撃波と同時、目にも留まらぬ速さで振り抜かれた戦斧が、彼の肩口から先を完璧に断ち切っていたのだ。
彼らはまだ理解していなかった。最強と謳われる帝国軍において、叩き上げで「千人長」まで上り詰めることがどれほど稀有な事象であるか。どれほど裏社会で恐れられようとも、所詮は狭い井戸の中で牙を研いだゴロツキに過ぎない。
「貴様程度の実力なら、戦場で腐るほど見てきた。何を根拠に自惚れていたかは知らんが、井の中の蛙が龍の背に乗ったつもりでいたのか?」
ボタボタと赤黒い血が床を汚していく。ヘルガーは顔面を蒼白にし、涙と小便を撒き散らしながら、背を向けて無様に逃走を始めた。だが、自らが弄び殺した奴隷の死体に躓き、前方へ転倒する。
「このっ、虫ケラがぁっ!」
逆恨みの叫びを上げ、邪魔な死体を何度も蹴りつけるヘルガー。そのまま立ち上がろうとするが、両腕を失った彼には、のめった身体を支えるためのパーツがどこにもない。芋虫のように地面を這い、恐怖に染まった瞳でヴァレアスを見上げた。
「ひっ、た、たすけっ……」
「『放熱』」
慈悲のない一言。
至近距離で解き放たれた義手の排熱孔から、超高温の高圧蒸気がヘルガーの全身を包み込んだ。
「あが、あ、あああああああッ!!」
皮膚は瞬時に熱を帯びて膨れ上がり、粘膜を焼き、眼球を沸騰させる。死を懇願する絶叫すらも蒸気の轟音に掻き消された。ヴァレアスは絶命することすら許さぬよう、心臓を避けてその熱を浴びせ続けた。
結局、ヘルガー・ムムソンガが全身の苦悶に苛まれながら息を引き取ったのは、それから五十四分後のことだった。




