第56話:束の間の休息
水の都ベストバレー。その美しさに目を奪われるのは一度きりでいい。俺たちがまずすべきは、この街での拠点となる宿を確保することだった。
手元のガイドブックには、この都が誇る三つの迎賓館が紹介されている。
一つ目は、巨大な滝を背に建ち、その轟音すらも魔導具で心地よい調べに変えるという『瀑布の楼閣』。二つ目は、街で最も古い運河の源流に位置し、水の精霊の加護が厚いとされる『水鏡の離宮』。そして最後が、帝国の至宝と謳われる白磁の巨塔『水神の宝冠』だ。
中心部から離れた場所に点在する、旅人が身を寄せるような宿籠では、流石に公爵家が滞在するには分不相応だろう。
資金に問題はない。余計な火種を生まないためにも、そして他の貴族から侮られないためにも、俺たちはこの街で最高級とされる宿へと向かった。
辿り着いたのは、ベストバレーで不動の評価を得ている迎賓館『水神の宝冠』だ。
外観は、都の象徴である白磁を惜しみなく積み上げた優美な円塔で、窓枠一つに至るまで魔導銀の細工が施されている。
一歩足を踏み入れれば、外の湿り気を帯びた空気は一変し、魔導回路によって常に清浄かつ最適な湿度に保たれた静謐な空間が広がっていた。床には、歩くたびに波紋が広がるような錯覚を覚える最高級の青絨毯が敷き詰められ、吹き抜けの天井からは魔導水晶のシャンデリアが、雫のような光を降らせている。
客室には、地下から汲み上げられた霊水が常に溢れる個人用の魔導泉が完備され、調度品はすべて歴史的な価値を持つ名品ばかり。ここは単なる富だけではなく、家格に応じた多額の献納金と、厳格な血統の証明が求められる場所だ。成金や、昨日今日名を上げただけの新興貴族には、門を潜る権利すら与えられない。
「これは、イグナス公爵家が末端なる三男、ゼン様でいらっしゃいますね。……ようこそ、水神の宝冠へ。貴方様のような尊きお方を、こうしてお迎えできる誉れに浴し、身の引き締まる思いでございます」
ロビーに足を踏み入れた途端、支配人と思わしき男が、一切の無駄がない優雅な所作で深く頭を下げた。
「すいません。予約はしていないのですが」
俺が短く告げると、男は恭しさを湛えた笑みを浮かべて応えた。
「滅相もございません。イグナス公爵家の方々に、事前の手続きなどという無作法を強いることはございません。ゼン様をお迎えするための特別室は、常に最上の状態で開けてございます。いつでも、いつまででも、望まれるままにお過ごしくださいませ」
傍らに立つバドは、かつて父の傍にいた騎士団員であったこともあり、こうした絢爛な場にも慣れた様子で平然と構えている。
だが、隣のヴァレアスはそうもいかないようだ。その鋭い眼光は周囲を警戒しているようにも見えるが、あまりに豪奢な内装と、ふかふかとした絨毯の感触に気圧されているのか、どこか落ち着かない様子で視線を泳がせていた。
俺は懐から金貨の束を取り出すと、支配人の手元へと差し出した。
「こ、これほどまでの……! かような厚遇、身に余る光栄にございます。ゼン様のご滞在が完璧なものとなりますよう、全力を尽くすことをお誓い申し上げます」
経験豊富な彼であっても、一介の客から渡される額としては到底考えられないほどの重みだったのだろう。洗練された所作を崩さぬよう努めているようだが、その指先は隠しきれない驚愕で微かに震えていた。
「いえ、どうか受け取ってください。これからしばらくお世話になるのですから。相応の準備と配慮をお願いしますね」
俺が穏やかに、しかし拒絶を許さないトーンで告げると、支配人は深々と頭を下げてその厚意を受領した。
案内されたのは、この円塔の最上階を占める三つの特別客室だ。
当初、館側は一室に纏めることも提案したが、バドが無理を通して、中央に俺の部屋、その左右をバドとヴァレアスが挟み込むという配置で部屋を用意させた。これに関しては、安全性を最優先するヴァレアスも同意見だったらしい。
「とりあえず明日の昼に合流しよう。それまでは自由時間とする。渡した金は好きに使ってくれ」
俺がそう告げると、二人は静かに頷き、それぞれの部屋へと入っていった。
一人になった俺は、習慣的に館内へ『虫』をばら撒こうとしたが、すぐに指を止めた。
この『水神の宝冠』には、国賓級の要人を護るための最高級防衛システム『清冽なる監視者の眼』が組み込まれている。これは高度な魔導感知網により、不自然な生命反応や微小な魔力体の侵入を即座に特定し、自動で排除する仕組みだ。
下手に偵察用の『虫』を放てば、この迎賓館の警備システムを刺激し、余計な騒ぎになりかねない。流石にここは自重すべきだろう。
まぁ、あの二人が両隣に控えているのだ。物理的な脅威に関して言えば、この都でこれ以上安全な場所はない。
一人になった俺は、まずは長旅の塵を落とすべく、この迎賓館が誇る最上階の専用遊泳場へと足を向けた。
そこには、俺の知る「プール」という概念を遥かに超越した、異世界情緒溢れる光景が広がっていた。
『天上の水庭』と名付けられたその空間は、天井も壁も一切存在しない。代わりに、強力な魔導場によって制御された巨大な水塊が、空中に巨大な球体や複雑な弧を描いて静かに浮遊しているのだ。
俺は服を脱ぎ捨て、空中に浮かぶ水の中へと飛び込んだ。
重力から解き放たれ、夜空を泳ぐような感覚。水の中には発光する魔導藻が揺らめき、まるで星々の中を漂っているかのような錯覚に陥る。ふと下を見下ろせば、足元には水の都の夜景が宝石を撒き散らしたように輝き、遠くから滝の音だけが心地よい重低音として響いてくる。
これほどまでの贅を尽くした環境を独占できるのは、イグナスの名と、あの一束の金貨があったからこそだ。
適度に体を動かした後、部屋のテラスで最高級のディナーを堪能することにした。
供されたのは、この都の深部、魔力が最も濃い水域でしか育たないという『蒼銀の鱗魚』のポワレだ。その身は驚くほど白く透き通り、口に含んだ瞬間に上質な脂が魔力の奔流となって喉を駆け抜けていく。
さらに、ベストバレーの冷涼な気候が育んだ幻の白葡萄から作られた魔導ワインが、料理の味を一層引き立てる。グラスの中で微かな光を放つその液体は、一口ごとに思考をクリアにし、旅の疲れを優しく解きほぐしていった。
テラスで美食とワインを楽しんでいる最中、音もなく隣の席にバドが腰を下ろした。
「ゼン様、お寛ぎのところ失礼いたします。少々、耳に入れておくべき情報が入りました。この館に帝国十賢者の一人、ケンドリック・サラヴァール公爵閣下がお見えになっているようです」
バドの放った名に、思わずグラスを運ぶ手が止まる。
ケンドリック・サラヴァール。
帝国を支える十賢者の末席に名を連ね、膨大な魔導知識と老獪な政治手腕で知られる老公爵だ。サラヴァール家は、イグナス家ほどではないにせよ、帝国を代表する名門中の名門である。その当主であるケンドリックは、一見すれば温和な好々爺だが、その裏では数多の政敵を音もなく沈めてきた「静かなる怪物」として畏怖されている。
イグナス家の三男という立場を考えれば、同じ館にいると知って挨拶を欠かすのは、社交上の不手際となりかねないだろう。
だが、今の俺にとってそれは心底面倒な話だった。
あんな狸ジジイとの腹の探り合いに貴重な時間を割くくらいなら、自室に籠ってシコっている方がよほど有意義だというものだ。
「聞かなかったことにしとくわ。もし偶然会ったらその時はちゃんと挨拶するから、今は勘弁してくれ」
この素晴らしい時間が、貴族のどうでもいい形式ばったしきたりによって潰されるのは御免被る。
「承知いたしました」
バドは短くそう答えると、余計な追及はせず、そのまま静かにその場を去っていった。
テラスを後にし、自室に戻ると、そこにはバドが事前に調達しておいた装備が整然と床に並べられていた。
まず目を引くのは、俺のメインウェポンとなるエピック級の戦斧『断罪の頭蓋』だ。
その名の通り、斧頭の中央に磨き上げられた魔物の頭蓋骨が埋め込まれた、不気味さと神々しさが同居する歪な造形をしている。鈍い光を放つ刃の基部には、まるで頭蓋から溢れ出した血が固まったような深紅の魔導石が嵌め込まれ、獲物の命を喰らうたびに明滅するという。
全長は約一メートル。屈強な大人であれば片手で振り回せるサイズだが、十二歳の俺の体躯では、ずっしりとした金属の重厚感が両手にのしかかる。今の俺がこれを扱うには、全身のバネを使って両手で構えるのが精一杯だろう。
次に、マントの下に着込む防具だ。それは一見すると柔らかな漆黒のインナーのようだが、その実、特殊な魔導銀の細糸を密に編み込んだ極細の鎖帷子である。
肌に吸い付くような柔軟性を持ちながらも、物理的な斬撃や刺突、さらには低階級の魔導までも無効化する。実用性を極めた、まさに命を預けるに足る一着だ。
装飾品も抜かりはない。攻撃速度と機動力(AGL)を底上げする、疾風の魔力が込められた魔導指輪。指に嵌めた瞬間に全身が軽くなるような感覚があり、斧の重さを補って余りある俊敏さを与えてくれるはずだ。
これら実戦向けの無骨なラインナップは、華美さを嫌うバドらしい、効率を追求した選定と言える。
脇には、傷を癒やす高純度の治癒薬や、一時的に魔力を高める魔力触媒といった消耗品も完璧に揃っていた。
俺は窓の外を眺める。
漆黒の夜空をゆっくりと横切るのは、ベストバレーの上空を哨戒する巨大な魔導空挺だ。
重厚な船体の随所に、水の都の警備網と連動した魔導灯が備え付けられ、まるで星海を回遊する巨獣のように赤や青の光を規則正しく点滅させている。船底からは街を監視する無数の探照灯が、網の目のように走る運河を白く照らし出していた。
その遥か下――。
白磁の街並みが夜の闇に沈み、清冽な滝の音が響き渡る都の底では、今もなお人々の性欲や食欲、あらゆる底知れぬ欲望が濁流となって渦巻いている。
静謐な水の輝きと、その裏側に隠された人の業。
俺はその対比を冷めた目で見つめながら、静かにカーテンを閉めた。




