第54話:バド・レックス
穏やかな笑み。だが、この状況では恐ろしさが勝る。俺は無意識のうちに、宿舎の外壁に配置していたウルガたちを窓枠の周囲へと集結させていた。
「そんなに警戒しないでよ。傷つくなぁ」
アレスは事も無げに窓を開け、自室へと滑り込んできた。その予備動作のない、あまりに速すぎる動作に俺の反応は間に合わない。
「まさかホウセンバチを食べちゃうなんて。……いや、飲み込んだ、の方が正しいのかな?」
見られていた。それも、最も秘匿すべき再構築のプロセスを。
ここで殺すか? いや、無理だ。この距離まで踏み込まれ、先手を取られた状態では、俺の体術も虫たちの迎撃速度も、オリハルコン級の反応速度には及ばない。
「……俺を始末するか?」
「なんで? 心外だなぁ。僕は君という存在を、とても高く評価しているんだよ」
飄々とした口調。だが、その金色の瞳の奥には、薄氷のような冷たい殺意が見え隠れしている。拭いきれない冷や汗が頬を伝った。
「それに、君が死ぬと体内の可愛い坊やたちが暴れるんでしょ? 帝都の真ん中でそんな真似をされちゃ、騎士団も冒険者ギルドも堪ったもんじゃないからね」
こいつは剣士か、それとも魔導士か。一切の情報がないまま、俺は獲物を前にした小動物のように硬直するしかなかった。
その時だ。扉の外から、間抜けだが今の俺にとって救いとなる声が響いた。
「ねみぃ……。ヴィクトリア教官の説教、マジで長すぎなんだよなぁ」
ライナスだ。
「あら? お友達がきちゃったね。流石にバレるとまずいから、今日はもう帰るよ。――君が『悪い子』じゃないって、僕は信じてるからね」
含みのある警告を残し、アレスは夜風と共にその姿を消した。直後、扉が勢いよく開く。
「お? ゼン! 帰ってきてたのか……って、なんじゃこの食べカス! 汚ねぇ!」
これほどライナスの能天気さに感謝したことはない。俺は強張った頬を緩め、僅かに笑みを浮かべた。
「すまない、ライナス。腹ペコだったんだ」
――その裏で。
士官学校から離れた、人気の絶えた空き地。
音もなく着地したアレスは、不意に足を止め、背後を振り返らずに問いかけた。
「……いつまでついてくるつもりだい?」
アレスが懐から取り出したのは、両刃の直剣と魔導杖が一体化した宝具――聖天崩牙。白銀の刀身には緻密な魔導回路が刻まれ、柄の部分には巨大な魔石が埋め込まれている。光を吸い込み、神々しいまでの圧を放つ、攻防一体の傑作だ。
「我が主への接近を許したのは、私の不手際。……ですが、このまま苔にされてお帰しするわけにはいきませんな」
闇の中から現れたのは、殺意を隠そうともしないバドだった。その手には、ゼンとの訓練では決して見せない、かつての愛機――戦斧『バサミキザミ』が握られている。
使い込まれた黒鉄の刃は、幾千の肉を断ち、血を吸ってきたことで禍々しい赤黒い輝きを帯びている。柄の部分には犠牲者の呪いを封じ込めたかのような荒々しい装飾が施され、ただそこに在るだけで周囲の気温を奪うほどの凶気を放っていた。
「……元千人長かぁ。勘弁してよ、本当に」
アレスの額に、初めて冷や汗が浮かぶ。
直後、バドが爆発的な踏み込みで肉薄した。ゼンに見せていたものとは次元の違う、大地を砕くような剛速。
ガギィィンッ! と、鼓膜を劈く金属音が夜の空き地に響き渡る。
「危害を加えるつもりはないって言ってるだろ!」
「殺意を滲ませて警告したのは事実でしょう。……主への無礼、万死に値する」
バサミキザミの重厚な一撃を、アレスはハレルヤの刀身で辛うじて受け止める。だが、バドの連撃は止まらない。戦斧の重みを活かした円運動から、最短距離での刺突、そして石突による打撃。
アレスには、魔力を練る余裕も、詠唱を行う隙すら与えられない。バドが放つ圧倒的な鬼魄と、死線を潜り抜けた者特有の無慈悲な攻勢。
聖天崩牙と戦斧が火花を散らすたび、アレスの衣服に、そして肌に、かすり傷が一つ、また一つと増えていった。
「衝撃波」
アレスが短縮詠唱すら介さず、不可視の魔力の塊を至近距離で爆発させた。
空気が悲鳴を上げて圧縮され、地面の石くれが弾丸となって全方位へ飛散する。凄まじい風圧が周囲の木々をなぎ倒すが、バドの巨躯はその体幹を微塵も揺らさない。だが、巻き上がった分厚い砂埃が、一瞬だけバドの視界を遮った。
その隙をアレスは見逃さない。
「武技、蓮撃」
聖天崩牙が蓮の花が開くかのような軌跡を描き、怒涛の連続突きがバドの急所を猛然と襲う。しかし、バドはそれらすべてを戦斧の腹と柄で完璧に受け流し、一歩も退かずに反撃の構えを取った。バサミキザミが赤黒い光を帯び、その固有スキルを発動させようとした、その直前――。
闇の中から、音もなく数人の影が躍り出た。
「武人、それ以上は明確な敵対行動と断定せざるを得ない」
一際体躯の大きい人物が、低く響く声でバドを制した。マントで姿を隠しているが、滲み出る圧は間違いなく修羅のそれだ。周囲を囲む他の影たちも、ただ者ではない気配を纏っている。アレスのパーティー、その主力たちが集結したのだ。
流石のバドも、オリハルコン級とその精鋭たちを同時に相手にするのは骨が折れると判断したか、戦斧を低く構え直した。だが、その瞳に宿る殺意は毛ほども衰えていない。
「……次はその首をもらう。我が主人はあの歳にして既に怜悧を極め、円熟すら感じさせる傑物。だが、それゆえに若さゆえの不用心な側面がある。私は、主の平穏を脅かすあらゆる脅威を滅ぼすための矛だ。そのためなら、この命を懸けることに何ら躊躇いはない」
一切の揺らぎがない、純粋な殺意を込めた警告。その凄まじい気迫に、アレスの背後に控えていた影たちが思わず一歩後ずさる。バドがゼンに向けるのは金で繋がった協力関係の顔だが、その根底には、狂信に近いほどの明確な忠誠心が根を張っていた。
「分かったよ、ごめんね。もう悪戯はしないから許してよ。僕だって、君たちと本気で敵対したいわけじゃないんだからさ」
アレスは両手を上げ、底の見えない飄々とした笑みを浮かべた。戦意がないことを示しているが、その構えには一分の隙もない。
直後、左側にいた魔導士らしき影が、短い呪文と共に煙幕の魔法を放った。
視界を真っ白に染め上げる濃霧が広がる。バドが一閃のもとにそれを振り払った時には、アレスたちの気配は既に夜の闇へと完全に溶け、消え失せていた。
静寂が戻った空き地に、湿った土の匂いと、戦斧が撒き散らした殺意の残滓だけが漂う。バドがゆっくりと武器を収めたその時、大樹の影から一人の男が姿を現した。
「……あの化け物に、なぜそこまで忠義を尽くす。バド」
低く、地鳴りのような声。左の袖を捲り上げ、鈍色の魔導合金で編み上げられた魔導義肢『震天の鋼』を夜露に濡らしたのは、ヴァレアス・ロドリゲスだった。
その指先からは、内蔵された重力加速機構の余剰魔力が、青白い火花となってパチパチと漏れ出している。先ほどまでの人外の激闘を、彼はその「人殺しの道具」を握りしめながら見守っていたのだ。
バドは振り返ることもなく、すっかり殺意を解いた背中で答えた。
「お前からすれば、すべてを奪い、その腕を斬り落とした仇かもしれないがな。私にとっては、幼き頃からその才を知る大事な主君だ。それに……あの傑物がこの世界をどう塗り替え、どのように生きていくのか。それを最前線で見届けたい。何より、奴隷業は金もたんまり稼げるのでね」
ヴァレアスは苦いものを噛み潰したような表情を浮かべ、義手の指を硬く噛み合わせた。金属同士が擦れる不快な重低音が響く。
彼にとってゼン・イグナスは、一揆軍数百人の命を一瞬にして奪い去り、自分を「生かす価値のある商品」として定義した理不尽な怪物だ。
だが、バドの言葉には否定しきれない真実があった。帝国から離れた辺境では、領主たちの苛烈な重税が横行し、民は抗う間もなく餓死か奴隷へと堕ちていく。弱者が生き延びる道は、もはや武力による理想論ではなく、現実的な「金」の力でしか拓けない。
「……俺にはやはり、弱者を売る人身売買を直接手伝うことはできない。だが、他に役割があるなら、この『震天の鋼』を使ってくれ。俺に残されたのは、もうこれしかないんだ」
絞り出すようなその言葉に、ヴァレアスの抱える矛盾が透けて見えた。
ゼンから与えられた義手という「暴力」を使い、直接手を下さずともゼンの片棒を担ぐ。己の手を汚さないと保険をかけながら、その利益で大勢を救おうとする。あまりに身勝手で、我儘な身の振り方。
それを自覚した上で、彼はあえて汚泥に足を突っ込み、多くの命を繋ぐための「濁流」に身を委ねる道を選んだ。
「遅いですよ。人手なんてのは、常に足りないんですから」
バドは皮肉めいた笑みを浮かべ、ようやくヴァレアスへと向き直った。
かつて帝国軍を最強たらしめた、無慈悲な破壊の「矛」と、城壁すら粉砕する義手を備えた「盾」。
同じ戦場で勲章を授かった二人の千人長が、今、一人の少年の謀略という盤面の上で再び相まみえた。一方は狂信的な刃として。一方は贖罪の重圧を義手に宿した影として。
彼ら二人が揃ったこの瞬間、ゼンの戦力はもはや一介の士官候補生の域を完全に逸脱し、帝都の闇を塗り潰す巨大な暴力の渦へと変貌を遂げた。




