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第51話:闇対闇

 振り返れば、そこには雨に濡れた青い長髪を無造作に流した男が立っていた。金色の瞳が、品定めするように俺を見つめている。整いすぎた容姿に、どこか浮世離れした優雅な笑み。


 周囲からは、先ほどまでとは質の違う喧騒が沸き起こった。


 受付嬢までもが、仕事中の厳格さを忘れたように頬を赤らめ、声を弾ませる。


「アレスさん! もう戻られたのですか!?」


 アレス……?

 待て、思い出せない。聞いたことがある名だが、転生してから既に十二年という月日が流れている。それに加え、最近は脳のリソースを他のことに使いすぎているせいで、記憶が忘却の彼方に追いやられているのだ。


 目の前の男は、思考を巡らせる俺の視線を真っ向から受け止め、親しげに一歩歩み寄ってきた。


「そんなに警戒しなくていい。少し、君という人間に興味があってね。……あんな依頼を出すくらいだ、普通の士官候補生じゃないんだろう?」


 Aランク指定の魔物の調達。そのために迷いなく差し出された膨大な前払金。男は俺の首からぶら下がっているカッパーランクのギルドタグを顎でしゃくりながら、笑みを浮かべたまま受付カウンターの横に並んだ。


 そして、先ほど俺が提出した依頼書を無造作に手に取る。


「この件、俺が受注するよ。早ければ上乗せしてくれるんだろ?」


 男はキザにウィンクをしてみせた。その言葉に、それまで見惚れていた受付嬢が弾かれたように我に返り、慌てた様子で制止の声を上げる。


「だ、ダメですよ! アレスさんにはお国から山ほど依頼が入っているんですから!」

「大丈夫だよ。この程度なら二日もかからない。それに、可愛い後輩のためだからね」


 国からの依頼を優先的に受ける立場。それが事実なら、この男はオリハルコン級か、あるいはアダマンタイト級の冒険者ということになる。


 正直、正体の知れない男に恩を売られるのは業腹だが、期限内に「素材」が手に入るなら俺に異論はない。止める理由も見当たらなかった。


 慌てふためく受付嬢を適当になだめ、正式に俺の依頼を請け負ったアレスという男は、背中越しに軽く手をひらひらと振って、夜の闇へと溶け込むようにギルドを去っていった。


 俺は残された受付嬢に視線を戻し、淡い口調で尋ねる。


「……あの方は?」


 受付嬢は、彼が去った扉を夢見心地で見つめたまま、興奮冷めやらぬ様子で答えた。


「あ、アレス・クラウン様ですよ! 若干二十歳にしてオリハルコン級に到達し、帝国の『若き英雄』と称される最高峰の冒険者様です。ゼン様、お知り合いだったのですか!?」


 アレス・クラウン。


 その名を聞いても、やはり霧が晴れるような感覚はない。記憶の片隅に掠りもしない。だが、これほどの逸材なら原作で名前くらい出てきてもおかしくはないはずなのだが。


 特段の感慨も見せず、興味なさげに鼻を鳴らす俺に対し、受付嬢は「信じられない」と言わんばかりの不服そうな顔を向けてくる。俺はそれを無視して、背を向けた。


 ゴールドランクのウィッキーに続き、今度はオリハルコン級の英雄に目をかけられたガキ。


 ギルド内の空気は完全に凍りついていた。もはやこの場に、俺に無作法な言葉を投げかけたり、ましてや力ずくで絡んでこようとする無知な輩は皆無だった。


 俺は『深淵の死に装束アビス・シュラウド』を目深く被り、その上からさらに薄汚いマントで全身を覆って裏外区へと向かった。


 後ろ腰には、バドから譲り受けたお古の戦斧をいている。戦斧というよりは手斧に近いサイズだが、かつて彼がサブウェポンとして実戦で使い倒した逸品だ。


 染み付いた血と油、そして乾いた汗の臭い。レアリティこそアンコモンに過ぎないが、その重みには「初めから強い武器に頼るな。それは己の研鑽を放棄した弱者のすることだ」というバドの不器用な教えが宿っている。


 裏外区の腐敗した路地裏。俺はウルガを寄生させた奴隷共を招集し、報告をさせた。


「……『針鼠』には三人のまとめ役がいます」

「部隊は『一番隊イチバンタイ』が最強。以前、スクワッド級のパーティーが二つも纏めて鏖殺されたとか……」

「ガリアスはプライドが高く、最近の奴隷売買を荒らしている謎の集団に、はらわたが煮えくり返っているようです」


 三十二人いた奴隷は、すでに十四人まで減っている。

 帰還できなかった奴隷たちに寄生させていたウルガは、全て宿主の死亡と共に消滅したことを確認済みだ。


 中々に有益な情報だな。そのまま引き続き情報を集めるよう命じ、解散させようとしたその時――背後から、重苦しい殺気と大人数の足音が静寂を切り裂いた。


「――おいおい。こんなガキが、ボスのことを嗅ぎ回ってんのか?」


 鼓膜を震わせる、濁った掠れ声。

 振り返れば、そこには二十人近い手下を引き連れた、一際異彩を放つ男が立っていた。


 身長は優に百八十センチを超え、贅肉を削ぎ落とした鋼のような肉体が、汚れた革鎧を押し上げている。背中まで伸びた不潔な長髪に、顔の左半分を覆う黒い眼帯。その唯一の剥き出しの右目は、獲物をいたぶることを悦びとする狂人の光を宿していた。


「ひ、ひひひ……! 兄貴、約束通り連れてきましたぜ!」

 一人の奴隷が、俺を裏切り、卑屈な笑みを浮かべてその男に擦り寄った。

「言われた通りこいつを売ったんだ! だから助けてくれ、俺に命の保証と金を――」


「うるせぇ、死ね」

 長髪の男は、興味なさげに一言だけ吐き捨てた。

 彼の手には、くすんだ鈍色の木材に魔石を埋め込んだ粗末な短杖が握られている。男がそれを無造作に一振りした、その瞬間だった。


 ドシュッ、と不快な湿った音が響く。

 擦り寄っていた奴隷の頭部が、内側から膨れ上がったかと思うと、完熟した果実が潰れるように爆散した。


 飛び散った脳漿と頭蓋の破片、そして鮮血が周囲の壁を汚し、首から上を失った死体が痙攣しながら泥の中に崩れ落ちる。


 黒魔法、爆発エクスプロード

 熱量を外部に放つのではなく、対象の体内に魔力を流し込み、内側から強制的に炸裂させる。ゲーム『スロン』ではシステム上不可能だった、生身の人間を殺すためだけの最も効率的で、最も残酷な魔法の使い方。


「……く、くくっ」

 凄惨な光景を前に、俺の口元から思わず笑みがこぼれた。


 これだ。これこそが俺の求めていた現実だ。

 倫理も、慈悲も、ゲームのルールさえも介在しない、純粋な殺意の具現化。


 俺は腰の手斧に手をかけ、闇に溶けた貌のまま、眼前の「処刑人」を凝視した。


「おいガキ。悪いがさらわせてもらうぞ。大人しくついてくれば手荒な真似はしねぇが、その様子だと無理そうだな。……よし、右足だ。右足を潰せ」


 長髪の男は、面倒くさそうにたんを黄色い粘液と共に吐き捨てながら命令を下した。


 背後に控える手下共が「ひひひ、可愛がってやるぜ」「まずは指からだな」と下卑た笑い声を上げ、一斉に間合いを詰めてくる。二十人近い賊を相手に、今の俺の身体で手斧一本を用いての無双など、どう足掻いても不可能だ。だが、己の実力を測るためにも、ここで切り札であるウルガや虫達に頼るのはまだ時期尚早。バドに怒られてしまう。


 俺は、油断し切って先頭を駆けてきた二人のうち、右側の男の懐に滑り込んだ。


 逆手に持った手斧を、最短距離で男の喉元へ叩きつける。

 鈍い音と共に刃が肉を裂き、気管を断ち割って頸動脈を深く抉った。ドクドクと、心臓の鼓動に合わせて噴き出す熱い血飛沫が、俺を隠す薄汚いマントを赤黒く染め、鉄臭い湯気を上げる。男は「が、あ……」と泡立った血を吐き出し、溢れ出す鮮血を両手で抑えながら、白目を剥いて泥の中に沈んだ。


 一瞬の出来事に呆気にとられたもう一人の男。その視界が戻る前に、俺は返り血で濡れた刃を横に薙いだ。


 眼球を潰し、鼻梁を断つ不快な感触が手首に伝わる。両目を深く切り裂かれた男は、闇に包まれた絶望的な苦痛に悶え、顔面を真っ赤に染めて、自身の眼窩がんかに指を突っ込みながら転げ回る。


 裏外区の静寂を切り裂くとんでもない絶叫が響き渡り、ようやく賊たちが俺を「明確な殺害対象」として認識した。

 俺はそのタイミングを見計らい、今しがた解散させたばかりの奴隷達に向けて、喉が焼けるような大声を張り上げた。


「戻ってこい、くず共!! はらわたを食い荒らされるか、こいつらを殺すか選べ!」


 脳内でウルガを強く共鳴させる。

 寄生された奴隷たちの内臓に、無数の針で刺されるような激闘が走り、彼らは逃げ場のない根源的な恐怖に叩き起こされた。


「やめてくれ! 止めてくれぇ! ああぁぁ!!」

「あいつらだ! こいつらを殺せばいいんだな!? 死ね、死ねぇ!」


 十八人の奴隷達が、獣のような咆哮を上げて、汚物にまみれた現場に雪崩れ込んできた。


 現場は一瞬にして混沌の極致、いや地獄へと変貌した。

 生きることに絶望していたはずの住民達が、己の命惜しさに、理性を捨てて賊へとがむしゃらに襲い掛かる。手にしたのは、錆びた包丁、刃の欠けた鉈、あるいは食事用の安っぽいフォークだ。


 ある者は賊の首筋にフォークを何度も執拗に突き立て、肉を抉り飛ばし、ある者は三人掛かりで男を押し倒すと、その腹を鉈で何度も乱打した。裂けた腹からドロリとはみ出した臓物が泥と混じり合い、肉を断つ湿った音と、肺から空気が漏れるような断末魔が小雨の音を完全に掻き消していく。指を引き千切られ、顔を食いちぎられ、泥水に血の池が広がっていく。


 血生臭い地獄絵図のただ中、俺は静かに動く。


 雑魚処理は、同じ雑魚に任せればそれでいい。

 俺は視線を正面に固定し、血の海の中で悠然と短杖を構える長髪の男と向き合った。


 バドの血が染み込んだ手斧を握り直し、俺はその心臓を最短距離で貫くべく、一歩を踏み出した。


 「爆発エクスプロード」という魔導は、本来三つのプロセスを必要とする。対象の指定、術式の詠唱、そして発動に至るまでの魔力充填だ。


 先ほど、男が奴隷の頭を詠唱破棄で吹き飛ばせたのは、相手が至近距離かつ無防備であり、その造形を完璧に視認していたからに過ぎない。魔力を流し込む「座標」を視覚情報として完全に固定できていたのだ。


 だが、今の俺は『深淵の死に装束アビス・シュラウド』でかおを定義不能の闇に沈め、厚手のマントで全身の輪郭をぼかしている。対象を「個」として定義できなければ、体内への魔力干渉は成立しない。


「――チッ。不快な術を使いやがって。おいクソガキ、ガキだからって手加減してもらえるなんて思うなよ。そのマントごと、細切れにしてドブにぶち撒けてやるッ!」


 長髪の男の額に青筋が浮かぶ。彼は即座に切り替えた。内部が無理なら、外部からの物理破壊だ。


「爆ぜろ、『爆発エクスプロード』!」


 短縮された簡略詠唱と共に、短杖の先端に赤黒い魔力が集束する。


 だが、放たれたのはただの指向性を持った爆風に過ぎない。詠唱を削った分、その威力は低く、何より発動の起点となる杖の先端さえ見ていれば弾道の予測は容易だった。


 俺は首を僅かに傾けその軌道から身をかわす。背後の地面が爆ぜ、泥と石礫が舞い上がるが、俺の肌をかすめることさえない。


 ああ、あまりに緩慢だ。バドが放つ、こちらの死角を正確に抉る無慈悲な殺意に比べれば赤子の遊戯と変わらない。


「こいつに虫を使う価値もないな」

 俺は腰から引き抜いたもう一本の手斧を、無造作に、だが洗練された動作で投擲した。


 バドに何千、何万回と叩き込まれた、対魔導士用の殺害術。狙うのは木の板の赤丸ではない。相手の「機能」を奪う一点だ。


 手斧は雨を切り裂く鋭い風切り音を立て、男が杖を握る右腕へと吸い込まれた。


 刃が食い込んだのは、中指と薬指の付け根。


 「ギャアアアアアッ!?」

 凄まじい肉の裂ける音が響く。手斧は指の間から侵入し、手の甲を割り、そのまま前腕の骨を叩き割りながら、肩口までを真っ二つに縦へと裂き開いた。


 断面からは白く剥き出しになった骨と、ズタズタに引き千切られた筋肉が露出し、男の腕は二又に分かれた無惨な肉塊へと成り果てた。


 男は激痛に顔を歪ませ、絶叫しながら両膝を泥に突いた。

 カラン、と力なく地面に落ちた短杖を、俺は軍靴の底で無慈悲に踏み潰す。


「まずは、鼻だ」

 倒れ込む男の顔面を見下ろし、俺は軸足を深く踏み込んだ。


 つま先を突き出すように放つ鋭い前蹴トーキックりが、男の鼻頭を正面から捉える。


 十二歳の平均ステータスを遥かに超越した質量。鼻骨が粉々に砕け、顔面が内側へと陥没する嫌な感触が伝わる。

 男の身体は独楽こまのように二回転しながら、数メートル後方へと無様に吹き飛んだ。


 辺りを見渡せば、地獄のような惨劇の末に、奴隷たちは力尽きて全滅していた。


 賊の手下共はまだ十人近く残っている。だが、絶対的な強者であったリーダーが、得体の知れないガキに一方的に蹂躙される様を目の当たりにし、彼らは動揺のあまり、武器を構えたまま石像のように硬直していた。

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