第4話:理不尽な人生②
ひび割れた拳をじっと見つめる。八歳。本来なら甘え盛りの子供だろうが、俺の日常にあるのは、狂気そのものの「教育」だけだ。
「……まだだ。呼吸を止めるな。あと五百回、型をなぞれ」
声を絞り出したのは、教育係の元千人長、バド。退役したとはいえ、かつて戦場を血で染めてきた男だ。そんな男が、公爵家の息子である俺に対して、一切の手加減を捨てて向き合っている。
それはグラドの「ゼンには魔力適性が皆無だ。死なない程度に、徹底的に身体を叩き直せ」という冷徹な命令があったからだ。この数ヶ月、俺の生活から「休息」という二文字は抹消された。
早朝、まだ陽も昇らぬうちから訓練は始まる。
まずは「重力との戦い」だ。両手足に、ずっしりと重い魔導鉛の重りを固定される。それだけで膝が笑い、呼吸が詰まるほどの負荷だ。その状態で、外周三キロの起伏に富んだ森を十周。心臓が口から飛び出しそうになり、肺が燃えるような熱を発しても、背後からバドの鋭い怒号が飛んでくる。
続いて、武器の習熟。
単なる素振りではない。実戦で生き残るための「型」を、脳ではなく細胞に刻み込む作業だ。
片手直剣。基本となる八方斬りから、流れるように死角へ踏み込み、喉元を貫く刺突への連係。
重厚な戦斧。遠心力に振り回されぬよう、全身のバネを利用して叩きつける破壊的な振り下ろしと、その反動を殺し次撃へと繋げる精密な足運び。
さらには、リーチの長い長槍。穂先での牽制だけでなく、石突きによる不意の打撃、そこから点を通すような最速の三連突き。
そして、八歳の子供が扱うにはあまりに無体な、身の丈をゆうに超える大剣。
それは剣というより、単なる鋭利な鉄塊だった。一度振り上げれば、その自重によって体幹が引きちぎられそうになる。それを強引に制御し、横薙ぎから縦への切り替えを、骨が軋む音を聞きながら叩き込まれた。
それらを各種類、毎日数千回ずつ。掌の皮はとうに剥がれ、再生し、今や革のように硬く変質している。
「ゼン様、顔色が良くありません。……今日はもう、これくらいにしましょうか」
ふとした合間に見せる、バドの哀れむような視線。公爵家の嫡男が、泥にまみれ、顔を歪めて剣を振る姿は、騎士の目から見ても異常に映るのだろう。
(……憐れむんじゃねえよ、クソッタレ)
俺は心の中で、毒を吐き捨てる。
二度目の人生? 勝ち組貴族? 笑わせるな、冗談じゃない。
前世の俺は、不潔な自室で椅子に深く沈み込み、ジャンクフードを齧りながら指先を動かしているだけでよかった。外の世界で浴びる冷ややかな視線なんて、この肉が裂けるような筋肉痛に比べれば、ただの心地よいBGMだ。なんで生まれ変わってまで、こんなガチの軍事訓練を受けなきゃならないんだ。
「あ? どうせなら殺す気でこいよ。俺が死んだところで、親父や兄上たちが喜ぶだけだ」
投げやりに吐き捨てた言葉は、自分でも驚くほど乾いていた。やけくそだった。というより、もういっそ殺して欲しかった。
多分、俺の人生というやつは、虐めとか、リンチとか、そういう血なまぐさい因縁に取り憑かれていて、一生そこから抜け出せないようになっているのだろう。
場所が変わっても、身体が変わっても、俺を待っているのは暴力と絶望だけ。
俺がこれほどまでにボロボロになりながら剣を振り続けるのは、グラドへの忠誠心でも、騎士としての名誉でもない。
ただ、逃げ場がないからだ。
この数ヶ月の間に、俺は二度、この地獄から逃げ出そうと試みた。だが、その度に「お仕置き」と称して連れ戻しに現れたのは、あの歪んだ笑みを浮かべた次男のザングースだった。
あいつが指先から放つ無慈悲な雷魔法が、俺の肉体を、精神を、容赦なく焼き焦がした。
いまや俺の全身には、その時に刻まれた醜い火傷の痕と、治りきらない傷跡が無数に残っている。服の隙間から覗く肌は、まるで出来の悪い継ぎ接ぎのようだ。逃げれば、さらに苛烈な「お仕置き」が待っている。
立ち止まることも、逃げることも許されない。俺にあるのは、死なないために、目の前のバドが振るう剣を、その「暴力」を、ただ受け入れ続けるという選択肢だけだった。
「魔力がない」という絶望的な欠陥。
それを、吐き気を催すほどの圧倒的な肉体の酷使によって、無理やり埋めさせられている。
その日の夜、屋敷の食堂にはバースバル公爵家の「才能」が集結していた。豪華な銀食器が並ぶテーブルの主賓席で、父グラドが満足げに目を細めている。
「ジルド、初陣での戦果、実に見事であった。敵軍の補給路を単騎で断つとは、我が一族の誇りだ」
「勿体なきお言葉です、父上。すべては父上の教えがあったればこそ」
長男ジルドが騎士らしい凛とした声で応える。続いて、ザングースが勝ち誇ったような笑みを浮かべて身を乗り出した。
「父上、俺も単独で豚鬼を討伐してきました。一対一なら、もはや遅れを取ることはありません」
「ふむ、単独討伐か。着実に力をつけているようだな」
グラドの称賛に、ザングースは悦に浸った顔で頷く。次女のルーナは、その喧騒に加わることなく無言で食事を続けていたが、グラドは彼女にも視線を向けた。
「ルーナ。新たな魔法陣を解読したそうだな。古の叡智に触れるその才、恐るべきものだ」
ルーナは表情を変えず、ただ短く、小さく頷いただけだった。饒舌に語ることはないが、その瞳には底知れない知性が宿っている。
「マリアに至っては、最年少での学院合格か。……良きかな。バースバル家は安泰だ」
長女のマリアは淑女らしく微笑み、グラドの言葉を優雅に受け止めていた。
飛び交うのは、聞いているだけで耳が痛くなるような輝かしい功績の数々だ。そんな中、俺は冷めきったスープを無言ですすり、存在を消すことに全神経を注いでいた。ひび割れた拳をテーブルの下に隠し、泥に汚れた衣服が目立たないよう、可能な限り背を丸める。だが、その静寂をザングースのねっとりとした声が切り裂いた。
「……ところで父上。そこの出来損ないは、今日も一日中、庭で鉄の棒を振り回していたようですよ。魔力の一欠片も引き出せずに、泥遊びに興じる様は実に滑稽でした」
クスクスという嫌味な笑い声。すかさずジルドが、鋭い視線をザングースに向けた。
「よせ、ザングース。食事の席だぞ」
「兄上は甘いんですよ。こいつが我が家の名を汚しているのは事実でしょう?」
ルーナとマリアも、ザングースの無作法に対して静かな怒りを瞳に宿している。だが、この場において、父グラドの存在は絶対だった。
グラドの視線が、ゆっくりと俺に移動する。氷のように冷たいその目が、俺の全身に刻まれた無数の傷跡や火傷の痕、そして隠しきれない泥汚れを冷徹にスキャンしていく。
「……ゼン」
低く、地を這うような重い声。父は、まるで汚物を見るかのように深く、重いため息をついた。
「他の兄弟たちは帝国の歴史に名を刻む成果を上げているというのに、貴様ときたら……。魔力も持たず、ただ泥を啜りながら地を這い回るだけか。もはや、同じ血が流れていることさえ疑わしい」
「……申し訳、ございません」
消え入りそうな声で絞り出すのが精一杯だった。投げつけられた言葉は、傷だらけの全身に染み渡り、火傷の痕よりも酷く俺の内側を焼き切っていく。
(……お望み通り、このまま消えてやりたいよ、クソ親父)
俺は視線を落としたまま、奥歯が砕けるほど強く噛み締めた。
食事を終え、逃げるように自室へと続く薄暗い廊下を歩く。背後で聞こえる兄弟たちの談笑が遠ざかるにつれ、胸のざわつきは恐怖へと変わっていった。曲がり角。月明かりさえ届かない影の中に、見覚えのある不気味な火花が散った。
「あんなに言われて、まだ反省の色が見えないなぁ、ゼン」
冷たい声と共に現れたのは、ザングースだった。その指先には、小さな紫電が執拗に蠢いている。
「父上のお言葉を忘れたか? 同じ血が流れていることさえ疑わしい、だ。なら、その汚い血を少しは浄化してやらないとな」
逃げ道はない。俺が身構えるよりも早く、放たれた衝撃が腹部に直撃した。
「あ、がっ……!」
肺から空気が強制的に引き出され、俺は壁に激突し、そのまま冷たい石畳の床に崩れ落ちた。
「ほら、立てよ。それとも、そのまま床を舐めていたいのか?」
磨き上げられた廊下の床に、俺の荒い吐息が白く曇りを作る。鈍く痺れる腹部を押さえ、脂汗を流しながら見上げると、そこには慈しむような、それでいて吐き気を催すほど歪んだ笑みを浮かべる兄の姿があった。
「そこまでにしていただけませんか、ザングース様」
暗がりから響いたのは、鋼のように硬く、低い声だった。廊下の影からゆっくりと姿を現したのは、バドだ。退役したとはいえ、かつて戦場を幾度も生き抜いてきた元千人長の威圧感は、十代のザングースが容易に抗えるものではない。
「……チッ、興が削がれたよ。おい、バド。教育係なら、もう少しマシな『人間』に鍛え上げろよな」
ザングースは忌々しげに舌打ちをし、火花を消すとそのまま足早に立ち去った。
静まり返った廊下に、俺の荒い呼吸の音だけが響く。バドは無言のまま歩み寄り、膝をついて俺の肩に手を置いた。
「ゼン様……。酷い有様だ。すぐに医務室へ」
その声には、隠しきれない動揺と、主君であるグラドへの暗い嫌悪が混じっていた。自らの息子を、ただの道具かそれ以下の何かとして扱う。その異常性に、戦場を知る武人でさえ吐き気を催しているのが伝わってくる。
「……触んな」
俺はバドの差し伸べた手を、力なく、だが明確に振り払った。
「同情なんていらねぇよ。明日も早いんだろ? 手加減なんてすんな。……あんたまで俺を『可哀想な子供』として見始めたら、俺の居場所は、この屋敷に一ミリも無くなるんだよ」
よろけながらも壁を背にして立ち上がり、俺はバドの顔を見ることなく自室へと足を進めた。
背後で、バドが何かを言いかけて飲み込む気配がした。
引きずりながら歩く俺の足音だけが、豪華な屋敷の静寂の中に虚しく反響している。
バドは、ただ悲しげに、今にも崩れ落ちそうな小さな背中をいつまでも無言で見送っていた。




