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第5話:動き出す闇

 自室の床に転がった俺の意識は、冷たい石畳の感触すら捉えられないほどに混濁していた。


 ザングースの放った紫電は、明らかに「教育」の域を越えていた。腹部の肉は炭化し、肺の奥が焼け落ち、息を吸うたびに喉の奥で湿った音が鳴る。視界の端で、教育係のバドが駆け寄ってくるのが見えたが、それを追う余力は残っていない。


「……あ」


 間の抜けた音だった。


 ザングースは、指先に燻る魔力の残滓を見つめたまま動かない。床に横たわる俺の身体と、その下に広がり始めた血溜まりを、理解できないものを見るような目で見下ろしている。


「……違う。少し、熱を入れただけだ」


 声は震えていた。

 俺に向けた言葉ではない。自分自身に言い聞かせるためのものだ。


 返事はない。胸は上下せず、呼吸音も聞こえない。八歳の子供の身体が、ぴくりとも動かないという事実が、遅れて現実として彼の中に沈み込んでいく。


 ザングースの喉がひくりと鳴った。


 視線が彷徨い、壁を、天井を、扉を――そして一瞬だけ、屋敷の奥、父グラドの執務室がある方角を見た。


 その瞬間、顔色が一気に抜け落ちる。


「……俺は……」


 続く言葉は、形にならなかった。


 ザングースは俺から目を逸らし、半歩、また半歩と後退る。踵が絨毯に引っかかり、体勢を崩しかけるほどだった。


 次の瞬間、彼は踵を返した。


 逃げるように、転がるように部屋を飛び出す。廊下に響く足音は不規則で、余裕も威厳も微塵もない。ただ恐怖に追い立てられた獣のそれだった。


 残された部屋には、焦げた肉の臭いと、重苦しい静寂だけが沈殿していた。


「ゼン様」


 低く、乾いた声。


 バドが俺の傍らに膝をつく。焼け焦げた胸に手を当て、脈を確かめる。その動作は迅速で、迷いがない。


「……脈がない」


 事実確認。それだけだ。


 彼は一度だけ目を閉じ、短く息を吐いた。感情ではなく、責任を処理するための呼吸だった。


 ――その直後。


 止まったはずの胸の奥で、何かが軋む音を立てた。


 心臓が再び打ち始めたのではない。

 血管を流れ始めたのは、血液ではない「別の何か」だった。


「……ッ」


 バドの指先に、明確な違和感が伝わる。


 炭化した腹部の裂け目から、ぬるりとした感触が溢れ出す。鮮血に塗れた闇が蠢き、その中から一匹の異形が這い出てきた。


 濡れた鴉色の外殻。油膜のように鈍い虹色を帯びた金属光沢。成虫には程遠いサイズでありながら、直感的に「最悪」と理解できる造形。


 頭部から前方へ突き出した二本の角が、微細に震えている。廊下に残された紫電の魔力残滓に反応しているのだ。


 バドは無言でそれを指先で摘み上げた。


 捕らえられた異形は激しく暴れ、顎を鳴らして指を食いちぎろうとする。だが、バドは眉一つ動かさない。ただ、戦場で培った眼で、それを凝視していた。


「……心当たりはある」


 独り言のように呟くと、彼は俺を抱え上げた。

 人目に付かぬよう、足早に自室へと運ぶ。


 意識が完全に落ちる直前、革張りの書架を開く音が聞こえた。


 次に目を覚ましたとき、俺はバドのベッドの上に寝かされていた。


 枕元の机には、一冊の薄い冊子が開かれている。帝国軍でも一部の者しか閲覧を許されない極秘資料――【災虫図鑑】。


 写実画の中で、見覚えのある異形がこちらを見返していた。


【災虫図鑑】ウルガ・ゴキブリ(増補版・改訂)

名称: ウルガ・ゴキブリ

分類: 節足魔獣門 害虫綱

身体スペック:

体長: 12cm 〜 15cm

一般的な個体より一、二回り大きいという絶妙なサイズ。僅かな隙間からの侵入を可能にしつつ、羽ばたきの風圧は人の頬を切り裂くほどに鋭い。

 重量: 180g 〜 250g

外殻が高密度の生体キチン質で構成されているため、見た目以上に「重い」。飛来時の衝撃は、全力で投じられた硬球に匹敵する。

概要と生態:廃城や迷宮の深層に潜む最悪の魔生物。剃刀のごときはねで高速飛行し、脚には触れるだけで絶命を招く致死性の神経毒を宿す。その体液は鉄を瞬時に溶かす強酸であり、物理攻撃による撃破は装備の喪失に直結する。

被害状況:下水道を通じた市街地への侵入が急増。就寝中に喉を裂かれる惨事や、強酸によって家屋の地下支柱が溶解し、建物が倒壊する事例が相次いでいる。一度繁殖を許せば、一帯の金属インフラは数日で壊滅する。

対策装備:腐食耐性を持つセラミック製の武器や魔導樹脂の防護服が必須。火炎魔法による遠距離からの完全焼却が、唯一安全な駆除法とされる。


名前を認識した瞬間、腹の奥が不気味に蠢いた。


「……ウルガ」


 掠れた声に反応し、バドが視線を向ける。


「理解しているようですね。

 そして――生きている」


 俺はゆっくりと自分の腹に手を当てた。ザングースに焼かれたはずの皮膚は、薄いピンク色の新生した肌に覆われている。


「……もう、塞がってるのか」


 バドはしばらく俺を観察し、それから短く告げた。


「触ります」


 圧をかける。

 痛みはあるが、致命的ではない。


 次に、小さな刃で浅く切る。

 血が出る。だが、すぐに止まる。


 最後に、ほんの一瞬だけ力を込める。


 それでも、死なない。


 バドは納得したように頷き、刃を収めた。


「……確認は終わりです」


 そこからの数日間、俺を襲ったのは泥のような倦怠感と、胃袋を内側から鷲掴みにされるような猛烈な空腹だった。


 バドの訓練は、もはや「型」の確認ですらなくなった。彼が俺の肉体がどこまで耐えられるかという限界値を測るように、容赦なくその刃を叩きつけてくる。


 切られ、叩かれ、その度に内側で何かが熱を帯びて肉を編み直す。その代償として、俺の身体は恐ろしい速度でエネルギーを消費していった。


「まだ食べるのですか、ゼン様……」


 朝食の席で、給仕に立つメイドが引き攣った笑顔を浮かべていた。


 俺の目の前には、五人前の肉料理と、山盛りのパン、特大のスープ皿が並んでいる。それを、俺は飢えた獣のように片っ端から胃袋に流し込んでいた。


 最近はやけに腹が空くのだ。どれだけ食べても満たされない。まるで腹の中に、別の巨大な「穴」が開いていて、そこからすべてのカロリーを奪われているような感覚だった。

 

 メイドの視線には、かつての蔑み以上に、理解不能な「異物」を見るような、明らかなドン引きの色が混じっていた。


 八歳の子供が、筋骨逞しい大人の騎士よりも食っている。その異常さに、彼女は運ぶ皿が空になるたび、小刻みに手を震わせていた。


 一撃受けるたびに、骨が軋む音が脳内に響く。だが、その度にバドの言う「筋繊維の新生」が繰り返されているのが分かった。常人の数年分に相当する負荷が、数日のうちに細胞へ刻み込まれていく。

 

 屋敷の廊下を歩けば、使用人たちは傷だらけで泥まみれ、かつ尋常ならざる気配を纏い始めた三男を避けるように歩くようになった。だが、そんなことはどうでもいい。

 

 俺の脳内はあの頭のおかしい親父と、加減を知らない兄に対する純粋な憎悪。今日のバドが一体どんな新しい「虐め(メニュー)」を繰り出してくるのか。そして何より、今日の晩飯に何が出るかということだけですでに飽和状態だった。


 そんなある日の夜のことだ。


 バドとの地獄のような訓練を終え、自室に戻った俺は、胃の腑の底から込み上げる激しい不快感に耐えきれず、洗面台に縋り付いた。


 逆流してくる感覚と共に、ドロリとした粘液に塗れた鴉色の外殻が石造りの洗面台に転がり落ちる。


「ひっ……!?」


 背後で短い悲鳴が上がった。


 振り返ると、夜食を運んできた若いメイドが、開いたままの扉の隙間からこちらを覗き込んでいた。彼女の瞳には、洗面台で蠢く「あり得ない異形」と、口端を汚した俺の姿が映っている。

 

 彼女がさらに大きな悲鳴を上げようと大きく口を開けた、その瞬間だった。


 俺の身体は、蓄積された生存本能に従い、思考よりも早く動いた。

 

 瞬時に距離を詰め、彼女の口を塞ごうと手を伸ばす。だが、日々の修練で研ぎ澄まされ、ウルガの力で底上げされた俺の筋力は、俺自身の制御を遥かに超えていた。


 ベキリ、という生々しい骨の軋む音が、静まり返った廊下に響いた。


「……っ!?」


 俺の掌の下で、メイドの右腕が不自然な方向に折れ曲がっている。彼女は痛みと恐怖で目を剥き、声も出せずにその場に崩れ落ちた。

 

 俺は自分の掌を見つめ、戦慄した。力が、強くなりすぎている。意識して抑えなければ、無実の人間を容易に壊してしまうのだ。


 震える彼女の肩を掴み、俺は必死に言葉を絞り出した。


「……頼む。今見たことは、誰にも、誰にも言わないでくれ。黙っておいてくれ。頼むから」


 それは、帝国の公爵令息としての命令ではなく、一人の子供としての、切実で無様な懇願だった。彼女は涙を流しながら、折れた腕を抱えて何度も頷き、逃げるようにその場を去っていった。


 だが、その願いが聞き届けられることはなかった。


 翌朝、彼女の姿は屋敷のどこにもなかった。代わりに俺が目にしたのは、屋敷の裏口で、猿ぐつわを噛まされ、絶望に顔を歪ませながら荷馬車へと押し込まれる彼女の姿だった。

 

 傍らには、バドが静かに立っていた。


 俺と目が合っても、彼は表情一つ変えない。バドにとって、俺の秘密を共有してしまった使用人の口を封じる手段は、不確かな「約束」などではなく、二度と戻ってこれない場所へ売り飛ばすという確実な処理でしかなかったのだ。


 ガタガタと音を立てて走り出す荷馬車。遠ざかっていく彼女の、呪いと絶望の混じった視線が、網膜に焼き付いて離れない。


「ゼン様、何をされているのですか。訓練の時間です」


 背後から、バドのいつもの冷徹な声が響いた。

 

 俺の失態が、一人の人間の人生を容易に、そして無残に終わらせた。この世界の「論理」の前では、羽虫を潰すのと大差ない些事として処理されるのだ。


 この世界の不条理さは、俺の想像を遥かに超えていた。


「……あ。すぐに行く」

 俺は一度も振り返らず、訓練場へと歩き出した。

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