第46話:新しい仲間
椅子に括り付けられたタロは、もはや人間の尊厳をすべて放り出していた。
口の端には汚い唾の泡が溜まり、目からは涙が、股間からは小便が漏れ出している。絶え間なく吐き出される命乞いと言い訳。だが、その声は恐怖で上ずり、意味をなしていない。こいつは知っているのだ。逃げ出そうとした奴隷が、体内のウルガに中から臓物を食い破られる際の、あの世の終わりかのような絶叫を。
「もう一度聞くが、なぜ裏切った?」
俺は掌に乗せたウルガの幼体を、愛玩動物でも愛でるように指先で優しく撫でた。
ふと背後を見ると、バドがいつの間にか購入していた飯を食っていた。地元の露店で買ったらしい『バジリスクの尻尾肉の香草焼き』――通称『バジ焼き』だ。香ばしい肉の脂とスパイスの香りが、この腐敗臭漂う小屋の中で異様に際立っている。
マジかよ、こんな場所でよく食えるな。
「ち、違うんです旦那! 俺はただ、ギルドの奴らに脅されて……いや、あれはウィッキーさんが勝手に! 俺は、俺は……!」
この期に及んでまだ濁すか。
自分だけは見逃してもらうために情報を売り、主のいないアジトで奴隷を私物化し、さらにギャンブルの借金まで清算しようとした。その醜悪な動機のすべてが透けて見える。
「……もういい、黙れ」
俺が掌のウルガを近付けると、タロは椅子ごと激しくのたうち回り、必死に唇を固く結んだ。「んー! んーーッ!」と鼻を鳴らし、絶対に口を開けないという強固な意思を示してくる。
馬鹿だな。素直に飲み込めば、まだ痛みが少なくなったものを。
顔面に張り付いたウルガの幼体が、その節足に力を込める。鎌のような脚がタロの頬に食い込み、固定する。
直後、ウルガの口端から粘り気のある、酸性の強い涎が溢れ出した。ジュウ、と肉が焼ける嫌な音と共に、タロの唇の皮膚が焼け爛れ、ボロボロと崩れていく。さらに幼体は節足の先端から麻痺性の神経毒を注入。タロの顔面は痙攣し、拒絶する意志とは裏腹に、口筋がだらしなく緩み始めた。
「あ、が……あぁぁぁあぁああッ!!」
焼け爛れた隙間から、ウルガが無理やりその身をねじ込む。喉の粘膜を鉤爪で掻き毟りながら、食道へと這い進む感触。タロの目は白目を剥き、首筋に太い血管が浮かび上がった。
部屋の隅で、奴隷たちはガタガタと歯を鳴らして震え、先程加わったばかりの五人に至っては、絶望のあまり頬を涙で濡らし、その光景から目を背けていた。
やがて、ウルガが胃袋にたどり着く。俺は、口元がズタズタになり、力なく垂れ下がったタロの顎を掴み、至近距離で宣告した。
「今以上の地獄を、内側から味わいたいか? 嫌ならすべて話せ。一文字でも嘘を吐けば、今度はこのまま内臓を食い破らせてやる」
その脅しに、タロの精神は完全に崩壊した。
保身、横領、私物化、さらに借金……。堰を切ったように、汚物のような真実が吐き出されていく。
分かっていたことだ。今更こいつに白状させたところで、大した価値はない。これはただの腹いせだ。こんな虫ケラに、自分の盤面を汚されたという苛立ちをぶつけただけの、意味のない拷問。
ウィッキーには、後でこんなゴミを雇った目利きのなさをたっぷりと責めてやるとして、俺は最後に、絶望しきった裏切り者の耳元で囁いた。
「奴隷決定な、お前」
こんなクソ野郎でも、五体満足で臓器さえ無事なら高く売れる。成人男性の労働力、あるいは実験体としての価値は、タロが作った借金などより遥かに大きい。
商品としての価値は認めてやる。だからこそ、死ぬより辛い思いをしながら、一生をかけて俺に損害を与えた分の負債をその肉体で返してもらう。
小屋を管理していたタロが奴隷に堕ちた今、このアジトの防犯性は皆無に等しい。
だが、九人の先客と、加わったばかりの五人が逃げ出す気配はなかった。俺が床にわざとらしく引いた「白線」が、連中の理性を縛り付けているからだ。
「その線を越えたら、五分間地獄の苦しみを味わってから死ぬ。……わざわざ試すなよ」
もちろん、線そのものに意味はない。ただのブラフだ。だが、胃袋に寄生させたウルガは宿主の脈動を常に監視している。逃走を企て、一線を越えようと決断した瞬間に跳ね上がる心拍。その「意志」の昂ぶりこそが、体内の虫を暴れさせる真のトリガーだ。
奴隷たちが「死」による解放を選ぶというのなら……まぁ、望み通り、胃の内側からドロドロに溶かされ、食い破られる地獄の痛みを味わいながら果てればいい。
俺の言葉に、隣を歩くバドが小さく肩を揺らし、「……御父上より恐ろしい御方だ」と、吐息のような声を漏らした。
背後で重い扉が閉まると同時に、裏外区特有の腐敗臭が肺に流れ込む。急な石段を登り、街の「層」を一つ上がるごとに、空気の濁りは薄れ、代わりに鼻を突くのは、安酒場の活気と使い古された魔導灯が放つ焦げたような匂い――帝都平民区の、無機質で騒がしい熱気だった。
俺は、バドを連れて雑踏へと足を踏み入れた。『深淵の死に装束』の効果で、通行人たちの意識から俺という存在が面白いように滑り落ちていく。
「バド。もう一人、駒に加えたい男がいる。ヴァレアス・ロドリゲスだ」
その名を聞いた瞬間、バドの軍靴が石畳を叩く音がわずかに乱れた。
「……懐かしい名前ですね。同期の千人長の中でも、あいつの斧だけは最後まで見切れなかった。私のような盾よりも、今の貴方にはあいつの圧倒的な破壊力(矛)こそが必要かもしれませんな」
最強の矛と、最強の盾。かつて軍の双璧を成した二人が、今は揃って帝国の影に潜んでいる。だが、ヴァレアスはバドのように「金」や「合理性」だけで動く男ではない。彼にとって『人間売買』という俺の生業は、最も唾棄すべき不潔な商売のはずだ。
俺が足を向けたのは、平民区の片隅に佇む、看板すら出していない「魔導義肢工房」だった。
重い扉を押し開けると、油と魔力が焼ける不快な臭いが充満していた。作業台で精密な義指をいじっていた老技師の眼前に、無造作に金貨の詰まった袋を放り出す。
「例の『特別な義手』の男だ。定期メンテナンスの記録を見せろ」
新聞では一揆軍の首領として戦死したと報じられている男だ。表立って名前を出すわけにはいかない。だが、この工房で供給された特注品の行方なら、金次第で道は開ける。
老技師は、フードの闇に潜む俺の視線と、背後のバドの威圧感に呼吸を止めたが、金貨の重みを確認すると卑屈な笑みを浮かべ帳面を開いた。
「……ああ、あの大男ですな。調整のたびに、帝国の悪態を吐いていく客なんてのは、そう何人もいやしませんよ。今は『バルカス』なんて偽名を名乗って、しがない運び屋の真似事をしているようですがね」
技師の指が、ある一行で止まった。俺は偽名と共に記された住所を瞳に焼き付けると、一度も振り返ることなく工房を後にした。
教えられた住所は、やはり空振りに終わった。
平民区のどこにでもある、煤けたレンガ造りの集合借家。その一室は、埃の匂いだけが漂う空虚な空間だった。公式には戦死したはずのヴァレアスだが、彼に煮え湯を飲まされた一部の貴族たちは、私的な裏懸賞金を今も闇で回している。だからこそ、奴は『バルカス』という偽名で、この街の循環系である運び屋に成り済ましているのだ。
俺たちは平民区の冒険者ギルドへと向かった。
そこには、大小様々な羊皮紙が重なり合うように貼り付けられた巨大な依頼掲示板がある。俺はその掲示板の前で、依頼を選別するふりをしながら、周囲の冒険者たちへ目立たぬよう銀貨を握らせ、『バルカス』の名を投げかけた。
有力な足取りを追っていると、掲示板から一枚の依頼書を剥ぎ取った若手の四人組が、俺の方を振り返った。
「バルカスさんですか? 今から南門の裏で合流する予定ですけど……何か伝言でも?」
――なんというご都合主義展開だ。流石は俺、というべきか。
掲示板の前で網を張った直後に、ターゲットの知人と遭遇する。そういえば、この世界へ来る際の初期設定で、俺はLUC(運)に極振りしていた。その隠しステータスが、転生者である俺に過保護なまでに味方しているらしい。
俺は認識阻害のフードを深く被り直し、彼らに幾ばくかの賄賂を差し出した。
「バルカスに急ぎの用がある。邪魔はしない、ついていかせろ」
「……え、金貨? マジかよ」
リーダー格のカイルが、掌の金貨の重みに喉を鳴らした。日に焼けた顔にいくつもの切り傷があり、使い古された革鎧の隙間には投げナイフを仕込んでいる。ブロンズ級らしい慎重さと、金への執着が混ざり合った瞳だ。
「おいおいカイル、いいじゃねえか。バルカスさんは運び屋の鑑だ。変な奴ならあの大男が自慢の右腕で追い払うって」
不格好な鉄板の大盾を背負った巨漢、ガンドが呑気に笑う。カッパー級特有の、質より量で補った重装備だ。
「……バルカスさん、今日は南門の集積所にいるはずだ。案内するよ」
斥候のピートが、泥汚れのケープを翻し歩き出す。背には弦の緩んだ狩猟弓。
「ちょっと、ニヤニヤしないでよガンド。……でも、これだけあれば一ヶ月は宿のランクを上げられるわね」
最後の一人、紅一点のルルが、金貨を光にかざして傷を確認していた。そばかすだらけの顔に生きることに必死な悦びを浮かべ、継ぎ接ぎだらけのローブの袖口からは魔導触媒の小瓶が覗いていた。
彼らに導かれ、俺とバドは南門裏へと足を進める。道中、バドは隣で、前方を行く四人の背中を値踏みするように眺めながら、低く呟いた。
「……あの堅物のヴァレアスが、まさかこんな若い連中とつるんで日銭を稼いでいるとは。正体を隠すためとはいえ、あいつも落ちたものですな」
「生き残るための選択だ。誰だってそうする」
やがて、潮気と埃が混じった風が吹く荷積場が見えてきた。
巨大な木箱の山の中心。一人で数人分の巨荷を積み上げる、岩のように頑強な背中があった。
「バルカスさーん! お疲れ様です、約束の荷運び、手伝いに来ましたよ!」
カイルの声に応え、大男がゆっくりと振り返る。
作業着に身を包み、左腕を失いながらも、その佇まいに宿る威圧感は隠しようがない。ヴァレアス・ロドリゲス。
だが、彼の視線が、カイルたちの背後に立つ二人の影を捉えた瞬間、その瞳に宿る色が驚愕と殺意へと塗り替えられた。
「……貴様、なぜ、ここが」
ヴァレアスの声が、低く地を這うように響く。
彼は反射的に、腰に下げた作業用の斧を握りしめた。義手が不吉な軋みを上げ、周囲の空気が一気に爆発寸前の緊張感に支配される。




