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第38話:ただ姉の為

 正直に言うと、目立つつもりなんて全くなかった。


 過去に一度、自分の力の加減を誤り、一人の人間の人生を無残に壊してしまって以来、俺の肉体には無意識のリミッターが深く刻み込まれている。この帝国士官学校という、才能がひしめき合う選良の集まりの中でも、俺はただ背景の一部として溶け込んでいたかった。


 バルトロメウス・フォン・ヴォルフラム。あのような天の寵愛を全身に受けて生まれた傑物に勝ちたいなんて野心はないし、ましてや同年代の天才たちを追い落として学園の英雄に成り上がりたいなんて青臭い願望も持ち合わせてはいない。


 俺はただ、路傍に転がる石ころのように、誰の目にも留まらない位置で息を潜めていたかった。他人に誇示するためではなく、ただ一人、内側で積み上がっていくステータスの数値が更新される瞬間を、密かに噛み締めたかっただけなんだ。


 だが、こんな俺にも期待を寄せてくれる二人の姉がいる。

 マリア姉様は、周囲が俺を欠陥品と呼び蔑む中でも、決して変わらぬ慈愛をもって接してくれた。ルーナ姉様は、知識を持たない俺が理解できるまで、優しく、そして丁寧に世界の在り方を説いてくれた。


 こんなにも美しい二人の姉。その弟が、いつまでも「無能」の代名詞として後ろ指を指され続け、彼女たちの誇り高い名に泥を塗り続けるわけにはいかないだろう。彼女たちのために、そろそろ「無能な三男坊」を演じるのは終わりにしよう。


 現実を直視すれば、俺の素のステータスはバルトロメウスには遠く及ばない。鍛え上げられた彼の肉体、そしてそこに神の加護たる「闘神ヘルラクレス」が乗っかれば、俺との差は月とスッポン、あるいはそれ以上の絶望的な溝がある。正面から挑めば、一瞬で踏み潰されるのが道理だ。


 しかし、ここには僥倖があった。

 亡霊の森で得た、Bランクの主の生命力を貯めた個体が、まだ数匹のウルガの中に残っている。こいつらのエネルギーを全て吸収し、たった数秒。この場の誰よりも、そしてあのバルトロメウスよりも一時的にステータスを上昇させる。

 

 レクリエーション。

 いや、ただの見せ掛けでいい。

 この時だけ、目の前のオークを殺すこの瞬間だけ、俺をバルトロメウスを超える「天才」にしてくれ。


 内臓の奥底で蠢くウルガたちが、貯蔵していたBランクの生命エネルギーを一気に解放した。


 それは温かな活力などではなく、制御不能な「暴力」の奔流だった。どろりとした濃密なエネルギーが、細い血管を強引に拡張しながら逆流し、全身の神経を焼き焦がすような熱を持って駆け巡る。身に余るステータスの上昇。限界値を遥かに超えて膨張する細胞のひとつひとつが、内側から俺の肉体を爆破しようと暴れ狂い、皮膚の下で筋肉が不自然に波打つ。


 熱い。肺の奥が焦げ付くような熱に焼かれ、呼吸のたびに喉が焼ける。


 瞬く間に心拍数は跳ね上がり、鼓動は重い鐘を叩くような衝撃となって胸板を内側から突き上げる。脳漿が沸騰し、視界の端から理性が削り取られていく。


 ツ、と鼻から熱い液体が滴り落ちた。鼻血だけではない。眼球の裏側が猛烈な圧力で充血し、視界が真っ赤に染まる。耳の奥では鼓膜が悲鳴を上げ、そこからも熱い筋が伝い落ちるのが分かった。目、鼻、耳。あらゆる感覚器官から血が噴き出す。だが、そんなことはどうでもいい。


 脳裏に浮かぶのは、帝国一の殺し屋、バドの無骨な背中だ。彼に骨を砕かれ、死を隣り合わせにしながら叩き込まれた――『帝国式断罪戦斧術』。


 敵の急所、重心、骨の継ぎ目。そのすべてを瞬時に見抜き、最も効率的に、最も残酷に断罪するための武。この地獄の技術と、命を削ったドーピング。


「――第11組、開始ディシジョン!」

 号令。その一瞬。俺は地を蹴った。


 バキィッ――!!

 右足の脛骨と腓骨が悲鳴を上げ、粉砕される感触が脳に突き刺さった。自分の爆発的な脚力に、俺自身の骨格が耐えきれていない。だが、一歩で距離は消滅した。


 目の前には、体長240cmを超える『豚鬼オーク』の巨躯。


 オークが驚愕に目を剥く。その丸太のように太い腕が、防衛本能のままに巨大な棍棒を振り回そうとしていた。だが、その動きは俺の加速した意識の中では、止まっているに等しい。


 戦斧の柄を握りしめる両手に、全身の遠心力と爆発的な膂力を集約させる。振り抜かれる刃は、もはや鉄の塊ではなく、空間そのものを断ち切る絶対的な断罪の象徴へと変わっていた。


 ガシュウッ――!!

 斧の刃がオークの強靭な皮膚に食い込む。その瞬間の感触を、俺の研ぎ澄まされた神経は克明に捉えていた。まず、不潔な剛毛が剃り落とされ、次にゴムのような弾力を持つ分厚い表皮が引き裂かれる。その下にある、鋼に近い密度を誇る巨大な首の筋肉。戦斧はそれを、熱したナイフで冷えたバターを裂くように断ち切っていく。


 ドロリとした熱い血の粘り。メキメキと音を立てて粉砕される太い頸椎の感触。


 抵抗らしい抵抗も感じさせぬまま、戦斧の刃はオークの喉笛を、食道を、反対側の皮膚までを完璧な一文字に突き抜けた。


 次の瞬間、支えを失ったオークの巨大な頭部が、自重によって胴体から滑り落ちる。


 断面からは、高圧で脈打つ真っ赤な鮮血が噴水のように噴き上がった。それはドロドロとした熱い雨となって、俺の顔に、服に、全身を真っ赤に染め上げていく。撥ね飛ばされた頭部は、空中で驚愕と恐怖を貼り付けたまま回転し、演習場の砂の上に「ドサリ」と重い音を立てて転がった。


 完全なる、両断。

 着地と同時に、視界が白く激しく明滅した。強制的に引き出したBランクの主のエネルギーが尽き、その反動フィードバックが津波のように押し寄せる。

 

「……っ、が……あ……っ」

 

 副作用で全身の骨が軋み、万力で締め上げられているように砕けそうになる。過剰な負荷に耐えかねた毛細血管が次々と弾け、皮膚の端々から血が滲み出す。内側から崩壊を始める肉体。内臓は焼け付くように痛み、肺からは血の混じった喘鳴が漏れる。


 俺は、意識を繋ぎ止めるため、温存しておいたウルガのHPヒットポイントを自身の肉体へ一気に還元させた。枯渇し、ボロボロになった細胞に、漆黒の生命力が染み込んでいく。砕けた足の骨が、不自然な音を立てて無理やり結合し、焼け焦げた神経が急速に再構成される。その再生のプロセスさえもが、焼けた鉄を押し当てられるような激痛を伴ったが、俺は何とか膝を突かずに踏ん張った。


 演習場を支配していたのは、数秒間の真空のような静寂だった。


 返り血で真っ赤に染まり、目や耳、あらゆる穴から血を流しながら、巨大な魔物の首を一撃で撥ね飛ばした少年の姿。それは「英雄」と呼ぶにはあまりに悍ましく、そこが生徒の試験場であることを忘れさせるほどの、純粋な殺気に満ちていた。


 だが、魔法の掲示板に表示されたタイムが、その静寂を爆発させた。

 

 【3.4s】


 会場から割れんばかりの歓声が響き渡る。

 それは、蔑まれていた「無能」が、帝国の太陽と肩を並べた瞬間への熱狂と、そして得体の知れない恐怖が入り混じった狂気じみた咆哮だった。


 俺は返り血に濡れたまま、ただ静かに戦斧を下ろした。酷使されたその武具もまた、限界だった。一撃の代償として受けた過度な負荷に耐え切れず、黒鋼の斧頭にピキピキと徐々にヒビが広がり、最後には乾いた音を立てて砕け散った。手の中に残ったのは、皮が剥がれた無機質な柄だけだ。


 正直、小便も垂れ流しだしう◯こも漏らした。過剰なドーピングと全身を襲う激痛で、括約筋の制御など、とうの昔に彼方へ消し飛んでいたのだ。返り血に紛れてはいるが、股間のあたりは不快な熱と不潔感で最悪の状態だ。


 それでも二人の姉に向けた悪足掻きは、周りの連中の目にはどう映っただろうか。

 

 沸き立つ観覧席。その一角、ヴィクトリアが目を見開いて立ち上がっているのが霞む視界の端に映った。

 

 体は依然としてボロボロで、吐き気がするほど血の匂いと、自分自身の排泄物の臭いが鼻につき、全身の節々が軋む。一歩動くたびに、再構築されたばかりの神経が鋭い電気信号を脳に送り込んでくる。


 それでも、俺は倒れなかった。

 英雄として熱狂される自分を、泥沼の底から見上げるように他人事として感じながら、真っ赤に染まった砂の上に一歩、また一歩と、確かに自分の足跡を刻み、演習場を後にした。


 背後に残されたオークの死体と、立ち尽くす観衆。

 俺が歩く道には点々と赤い雫と、隠しようのない汚れが落ちていく。


 やり遂げた、という冷めた感覚と、一刻も早くシャワーを浴びたいという切実な願いだけを抱えて、俺は静かに闇へと消えた。

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