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第37話:ダークホース

 北の演習場に表示された「3.4秒」という鮮烈な数字は、教官たちの控室を兼ねた観覧室に、怒号にも似た歓喜と絶望をもたらした。


「よしッ! 歴代記録更新だ! 払え、ほら払え! ヴォルフラム一点突破、これだけで半年分の酒代が浮いたぞ!」

「くそっ、あと0.2秒遅ければ中穴だったものを……バルトロメウスめ、加護が強すぎるんだよ。あれでは賭けが成立せん」


 帝国士官学校という場所は、若き才能を磨き上げる神聖な場であると同時に、娯楽を極限まで制限された閉鎖的な監獄でもある。規律、教練、そして軍人としての矜持。それらに四六時中縛り付けられた教官たちが、日々の鬱屈を晴らす唯一の手段が、この実技試験を対象とした「賭け」だった。


 彼らは教官という立場を利用し、生徒たちのこれまでの成績、加護の性質、当日の健康状態、さらには実家の資産状況までをも精査する。そして、一ヶ月分の俸給――帝国の税から支払われる決して安くない月給を、たった数秒の決着に平然と注ぎ込むのだ。ここでは教育者としての顔は剥げ落ち、ただの強欲な勝負師たちが、生徒という名の駒を品定めしていた。


 そんな喧騒の中心で、セリエス・フーリンは手元のメモを眺め、隠しきれない笑みを漏らしていた。彼は他の教官のように絶叫したりはしない。ただ、手の中に収まる金貨の重みを想像し、優雅に椅子に深く腰掛けている。


「いやあ、素晴らしい。バルトロメウス君には感謝しかないな。記録更新を含めた討伐への一点賭け。倍率は決して高くはなかったが、この的中感は何度味わっても良いものだ」


 頬を緩ませ、懐を重くする配当の感触に酔いしれる。セリエスにとって、この賭け事は単なる小遣い稼ぎではない。優秀すぎるがゆえに予測がつきやすい優等生を愛で、その期待通りの、あるいは期待以上の結果に金を張る。それは彼なりの「教育への投資」という名の、歪んだ娯楽だった。


「おいおいセリエス、お前また大勝ちかよ。少しは俺たちに譲れよな。お前のその薄笑いを見ていると、教官としての良心が痛まないのかと疑いたくなるぜ」


 隣で苦虫を噛み潰したような顔をしている同期の教官が、恨みがましく声をかけてくる。彼はさっきのオーク戦で大穴を狙い、大敗したばかりだった。


 セリエスは肩をすくめ、軽やかに、そして冷淡に応えた。


「勝負師は常に冷静でなきゃ。生徒に情を移しては、この博打には勝てないよ。まあ、正直なところ……これで今日の楽しみは終わりだよ。一番の注目株だったバルトロメウスの出番が終わってしまっては、もう盛り上がりどころがない。あとは残飯を片付けるようなものだ」


 二人が視線を落とした手元の名簿には、第11組の組み合わせが記されていた。


「次は……フェリックス・フォン・ブラウンシュヴァイクと、ゼン・イグナスか。こりゃあ、また……」


 同期の教官が、名簿の名前を指でなぞりながら鼻で笑う。


「ブラウンシュヴァイク家といえば、帝都の端っこで無理をして体面を保っている程度の男爵家だ。金はあっても魔法の素養はからきし、息子をここに送り出しただけで精一杯だろう。典型的な、家柄だけの魔法使いだ」

「もう一人は……ああ、例のイグナス家の三男坊か。公爵家の名に泥を塗り続けている、魔力無しの『欠陥品』。家名に負けている、という言葉すら生ぬるいな」

「全くだ。オークを前にして、どちらが先に泣き出すかでも賭けるか? いや、賭けにすらならないな。オークの咆哮一発で戦意喪失、失格。これが関の山だ」


 セリエスも同意した。しかし、懐が温まったゆえの余裕か、あるいは勝負師としての気まぐれか。彼はふと思いついたように、まだ締め切られていない賭け場の受付台へと歩み寄った。


「余興だ。ゼン・イグナスの枠に、今勝った配当の一部……いや、これだけ全額を注ぎ込もう」

「正気か? あいつの倍率は、記録更新を含めた勝利なら天井知らずだぞ。そもそも『勝利』という項目に金が積まれていない。当たるわけがないだろ」

「分かっているさ。当たりっこないから面白いんだ。大勝した後の、仲間を盛り上げるための祝儀だよ。全生徒の最下位候補に、最高額の夢を託す。これこそ教育者の『遊び』だろう?」


 セリエスは、最も実現不可能と思われる「ゼン・イグナスの記録更新、または同タイムでの勝利」という項目にチップを積み上げた。周囲の教官たちは「酔狂なやつだ」「金を捨てる趣味があったとは」と大笑いし、場は再び下卑た活気を取り戻す。


 そして、南の演習場で第11組の試験が始まった。

 上部の観覧席からは、ドーム状の演習場を見下ろす形で数百人の生徒たちが並んでいる。彼らの視線もまた、バルトロメウスの熱狂の残滓に浸っており、眼下で今から戦おうとする二人にはほとんど関心を向けていなかった。


 しかし、その中で唯一。特等席に座るヴィクトリアだけは、身じろぎもせず眼下の一点を見つめていた。その瞳は、周囲の生徒が漏らす「どうせ無能の無様な姿だ」という嘲笑など一切聞き入れていない。


(――ゼン。お前、スキルを使わずどうクリアするつもりだ?)


 彼女の鋭い視線が、無言のうちにそう問うているように感じられた。


 試験開始を告げる重低音が鳴り響く。

 地下からせり上がってきた昇降式の檻――『魔封鋼式・昇降檻グラビティ・ケージ』が重厚な音を立てて地上へと固定された。鉄格子が左右に激しくスライドし、内側に抑圧されていた「暴力」が解き放たれる。


 そこにいたのは、脅威度ランクCに属する豚鬼オーク。体長240cmを超えるその巨躯は、肥大化した筋肉と不潔な体毛に包まれ、檻が開くと同時に周囲の空気を震わせる咆哮を上げた。


 結果から言えば、フェリックスの方は「予想通り」ですらなく、さらに救いようのないものだった。


 至近距離で浴びせられたランクCの殺圧。それを受けた瞬間、ミスリルの杖を構えていたフェリックスの膝は、文字通りガクガクと音を立てて砕けた。


「あ……あ、ひぃ……」

 魔法を紡ぐための魔力は霧散し、杖を放り出してその場に尻餅をつく。オークが地面を叩く音だけで、彼は失禁せんばかりの顔で後ずさり、審判の目を見ることもできずに「棄権」を喚きながら逃げ出した。


「一番しょうもないな。まあ、温室育ちなんてあんなものか」


 観覧席のセリエスは、肩肘をつきながら深く欠伸をした。もはや期待すらしていなかった。あとは、残されたイグナスの三男坊が棍棒に怯え、地面を這いずり回る無様な光景を確認して、今日の賭場を後にするだけだと考えていた。

 セリエスの瞼が、ゆっくりと、欠伸の動作と共に閉じかけようとした――。


 ――その、刹那だった。


「…………なっ!?」

 セリエスの視界の端で、世界が爆発した。

 開始の鐘が鳴り止むよりも早く、ゼン・イグナスの体が、物理法則を置き去りにしたような加速でオークの懐へと吸い込まれた。


 彼が蹴り出した地面は、まるで大口径の魔導砲を撃ち込まれたかのように激しく爆砕。土塊と砂塵が円形の壁面に叩きつけられ、轟音が鳴り響く。それは加護も魔力もない12歳の餓鬼の脚力とは、到底思えない、神速の一歩だった。


「ガ……ッ!?!?!?」

 オークが、自らに迫る圧倒的な「死」の気配にようやく気づく。


 本能が警鐘を鳴らし、巨木のような腕で棍棒を振り回そうとしたが――遅すぎた。


 ゼンが手にした黒鋼の戦斧。バド直伝の、ただ対象を破壊し、消滅させることのみを追求した「戦斧術」の極致。

 遠心力と爆発的な踏み込みが、一撃に集約される。

 

 横一閃の軌道。

 大気を引き裂く鋭い真空の断層さえ、事象の後に遅れて届くほどの速度。

 

 重厚な戦斧の刃は、オークが防御のために掲げた丸太のような剛腕を、まるで熱したナイフで薄い紙を断つように易々と通過。そのまま勢いを落とすことなく、240cmの巨躯の「首」を真っ向から撥ね飛ばした。


 ドシュッ、と。

 肉が千切れ、骨が断たれ、太い頸動脈から大量の液体が空中に吹き出す異様な音。


 次の瞬間、南の演習場には氷点下の静寂が訪れた。

 そこにあるのは、首を失い、断崖から崩れる巨岩のようにゆっくりと、かつ重々しく倒れ伏すオークの巨体。


 そして、その傍らに、空から降り注ぐ真っ赤な返り血を全身に浴びながら、微動だにせず佇む一人の少年の姿だった。

 返り血を拭うことさえせず、無機質な瞳で地面に転がる首を見つめるその姿。


 ゼンから発せられる殺気は、ここが生徒の試験場であることを忘れさせ、古の戦場から迷い込んだ「死神」のそれであった。

「…………タイム、は」


 観覧席のセリエスは、肘をついた姿勢のまま固まっていた。口を開けたまま、瞬きを忘れた瞳で、中央モニターに表示されたタイム掲示板を見上げる。


 【3.4s】


「……同タイム。バルトロメウスと、全く同じだと……?」


 セリエスの声は掠れていた。

 更新ではない。バルトロメウスが闘神の加護を使い、血反吐を吐くような修練の末に叩き出した「人類の限界点」たる歴代最速記録と、寸分違わぬ同一秒数。


 それは果たして偶然か。

 あるいは、その数字すらも、この「無能」と呼ばれた少年によって精密にコントロールされたものなのか。


 欠伸の間の、わずか数秒。

 その結末を見逃した周囲の生徒や教官たちは、ただ何が起きたのかも分からぬまま、演習場の中央で真っ赤に染まるゼン・イグナスを、言葉を失って瞠目する他なかった。


 セリエスは、自分のメモに目を落とした。


「ゼン・イグナス:同タイムでの勝利」。

 賭けは、成立した。彼はこれから、人生で一度も見たことがないような莫大な配当金を手にすることになる。


 だが、今の彼に喜びはない。

 目の前の少年の背中に見た「底知れない闇」。

 冷たい汗が背中を伝い、心臓の鼓動が不自然に速まる。


「おい……セリエス。今、何が起きた……? あのゼンが……あいつ、何をしたんだ……?」


 同期の教官の震える問いに、セリエスは答えられなかった。


 ただ、一つだけ確信した。


 この学園の「底」だと思っていた少年は、実は誰よりも深い、奈落の淵に立っていたのだということを。

 返り血に濡れた少年の姿は、英雄の誕生を祝う熱狂さえも、瞬時に凍りつかせるほどの「悍ましさ」を湛えていた。

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