第35話:知識と執着
学園長室。
部屋に入った瞬間、俺は思わず視線を逸らしたくなった。一ヶ月前のマリア姉様の来訪時と同じ、いや、それ以上に重苦しく、そしてどこか浮ついた空気が室内に満ちていたからだ。
上座に座る学園長は、まるで十歳は老け込んだかのような顔で頭を抱えている。武力を重んじるこの帝国において、ルーナ姉様という存在はもはや単なる「有能な魔学者」ではない。彼女の頭脳一つで戦局が、ひいては国力が左右される文字通りの「国宝」だ。
そんな存在が無許可で、しかも士官学校の校門を力技で突破して現れたという事実に、学園長は「またイグナス家か……」と言わんばかりに、増えたであろう白髪を指でなぞっていた。
「……学園長、本当に申し訳ありません。まさか、これほど早く、しかもこのような形で来るとは思っていませんでした」
俺が深々と頭を下げると、学園長は力なく首を振った。
「いや……いい。君を責めても始まらんことは分かっている。だが、次はせめて事前に……いや、無理だな。分かっている」
彼が諦め混じりにそう言うのも無理はない。俺の隣には、まるで隙間など存在しないと言わんばかりの距離で、ルーナ姉様が密着して座っているからだ。
銀髪が俺の肩にかかり、法衣越しに伝わってくる彼女の体温と、かすかな薬草の匂いが鼻腔をくすぐる。姉様は学園長の苦悩など一瞥もせず、ただ真紅の瞳でじっと俺の横顔を観察し続けていた。
結局、緊急の措置として、帝国からの高官や貴賓を招く際に使用される『外賓用特別宿舎』の一室が姉様に提供されることになった。
学園長室を出て、衛兵たちが遠巻きに注目する中を通り抜け、宿舎の重厚な扉が閉まったその瞬間だった。
「――っ」
不意に視界が反転し、強烈な柔らかさと熱量に包み込まれた。
ルーナ姉様が、まるで獲物を逃さない肉食獣のような素早さで俺を抱き締めたのだ。
顔面が、以前の記憶よりも遥かに成長した、そのデカ過ぎる胸の間に深く埋まる。
法衣の柔らかな生地越しに、弾力に満ちた肉の感触が顔全体を圧迫する。甘い香りと、姉様の心音だけが鼓膜に響く。
「……っ、ね、姉様……ち、窒息する……!」
もがく俺の抵抗など気にも留めず、姉様は腕の力をさらに強めた。
鼻を押し付けられ、酸素が遮断される。本気で意識が遠のきかけた頃、ようやく僅かに隙間が作られた。
「……ゼン。会いたかった」
至近距離で見つめてくる真紅の瞳は、やはり冷たく凪いでいる。だが、その瞳の奥には隠しきれない独占欲の熱が揺らめいていた。
その後、ひと通り髪を撫で回され、首筋の匂いを嗅がれ、思う存分好き勝手にされた後、俺は乱れた服を整えながら本題を切り出した。
「……姉様、手紙にも書いた通り、例の試験の勉強を教えてほしいんです。魔導回路の理論展開がどうしても及第点ギリギリで」
俺がそう伝えると、今まで温度を欠いていた彼女の表情が、劇的な変化を見せた。
それは、外の世界の誰にも、そしてあのマリア姉様にさえ見せたことのない、俺だけに向けられる慈愛に満ちた微笑みだった。
「いいわ。ゼンが私の知恵を必要とするなら、すべてを授けてあげる。……最初から最後まで、丁寧に」
優しく頷く彼女の指が、俺のノートに触れる。
こうして、帝国の頭脳を独占するという、あまりにも贅沢で、そして逃げ場のないマンツーマンの特別講義が始まった。
「場所を移しましょう。ここでは集中できないわ」
ルーナ姉様の淡々とした、けれど拒絶を許さない一言で、俺たちは宿舎を出て、学園の最深部にある『禁忌書庫』へと移動することになった。一般生徒は立ち入り禁止だが、国家の至宝たる彼女の権限の前では、重厚な魔導錠も無力だった。
書庫へと向かう回廊、あまりの畏れ多さに教師すら遠巻きに頭を下げる中、二人の少女が意を決してこちらへ歩み寄ってきた。カレンとミナだ。
二人の瞳には、同じ魔導を志す者としての純粋な憧れと、伝説的な秀才に対する深い尊敬の念が宿っていた。
「あの……失礼します! イグナス様、私たちはゼンの班の者です。もしよろしければ、私たちも末席で……」
「お、お話だけでも、伺えたら……光栄です……っ」
カレンが凛とした声で、ミナが震える声でそう告げる。
だが、その瞬間だった。
回廊の温度が、物理的に数度下がったのではないかと思えるほどの冷気が吹き抜けた。
隣を歩くルーナ姉様から溢れ出した魔力が、形を持った殺意となって二人を圧している。姉様の真紅の瞳は、もはや人間を見るものではなく、害虫を鑑定するかのような無機質な光を湛えていた。
「…………私のゼンに近付く、雌の個体。排除、あるいは……」
姉様の唇が微かに動き、ブツブツと不穏極まりない独り言が漏れ出す。
隣にいる俺の背筋が凍りつく。このままではカレンたちが再起不能のトラウマを植え付けられるか、最悪の場合、物理的に消されかねない。
「あ、ごめん! 二人とも、今日は……その、姉様と二人きりで集中してやりたいんだ。せっかく来てくれたのに悪いけど」
俺が慌ててそう断ると、カレンとミナは目に見えて落胆した表情を浮かべた。
「そ、そうよね……。ごめんなさい、邪魔しちゃって」
「ゼンくん、頑張ってね……」
残念そうに去っていく二人の背中を、ルーナ姉様は最後まで射抜くような視線で追い、その警戒と殺意を解こうとしなかった。その様子は、大切な獲物を守る捕食者そのものだ。
人気のない書庫の最奥。俺が「……姉様、お願いします。勉強を教えてください。時間がありません」と催促すると、姉様はようやく冷気を収めた。
だが、その代わりと言わんばかりに、彼女は俺の腕に自身のそれを絡め、これ以上ないほど密着して座り直した。
「わかったわ。……でも、ゼン。余計な雑音は、もう入れないで。私の教えを、その脳の髄まで刻み込みなさい」
古びた羊皮紙の匂いに包まれた閉鎖空間で、耳元にかかる彼女の吐息と、肌を通じて伝わる圧倒的な肉感。
帝国最高の頭脳による、あまりに過保護で独占欲に満ちた勉強会が、ようやく本格的に幕を開けた。
「効率を上げましょう。言葉での説明は、今のあなたには情報の解像度が低すぎるわ」
書庫の最奥、周囲を高く積み上げられた魔導書に囲まれた閉鎖空間で、ルーナ姉様はそう断じた。
彼女は俺の腕に絡めていた手を解くと、今度は俺の背後に回り込むようにして密着してきた。背中に、マリア姉様のそれとはまた違う、柔らかくもどこか理知的な熱量を持った双丘の重みが押し付けられる。
「……姉様?」
「動かないで。……魔導回路の同期を開始する。私の魔力をあなたの体内に流し、術式の『正解』を直接神経に焼き付けるわ」
姉様の白く細い指先が、俺の首筋から胸元にかけて、這わせるように滑り落ちてきた。
法衣の擦れる音と、彼女の甘く冷たい吐息が耳たぶをかすめる。次の瞬間、指先から刺すような、それでいて甘美な痺れを伴う魔力が流れ込んできた。
「あ……っ」
「声を漏らさないで。集中して、ゼン。……今、あなたの右肺の裏を通っているのが、基礎術式の第一階梯。……熱いでしょう? そこが回路の分岐点よ」
姉様の体温が、魔力を通じて内側から俺を侵食していく。
彼女は俺の手を取り、ペンを持った指の上から自分の指を重ねた。導かれるままに、ノートの上に見たこともない複雑な数式が描かれていく。
「術式は思考で組み立てるものじゃない。……こうして、指先の震えと、血管を走る魔力の拍動で『感じる』もの。……ゼン、あなたの鼓動、さっきから少し速いけれど?」
背後から抱き込まれるような姿勢のまま、姉様の指が俺の掌を執拗になぞる。魔力が同期するたびに、俺の感覚は鋭敏に研ぎ澄まされ、今まで理解不能だった難解な多層回路が、まるで立体図面のように脳裏に浮かび上がった。
だが、その代償はあまりに艶めかしい。
俺の神経を侵食する彼女の魔力は、学習のためという名目を越え、愛撫のような粘着質さを持って全身を巡る。耳元で囁かれる「そう……上手よ、ゼン」という声は、もはや教官のそれではなく、愛しい弟を快楽と共に飼い慣らそうとする支配者の響きを含んでいた。
「……ね、姉様。もう、十分です。回路の感覚は掴めました……」
「いいえ、まだよ。……深層意識の同期が不完全。もっと深く、私の魔力を受け入れて。……そうすれば、試験の答えなんて、私の声として脳内に響くようになるわ」
俺の制服の襟元に顔を埋め、深く呼吸を繰り返しながら、姉様はさらなる魔力を流し込んでくる。
及第点を取るための勉強会のはずが、気づけば俺は、帝国最高の知性と美貌に心身ともに「同期」され、逃げ場のない愉悦の檻に閉じ込められていた。
翌日もまた、禁忌書庫の最奥で濃密な「同期」が行われるはずだった。
だが、その扉を乱暴に開き、帝国の重鎮たちが雪崩れ込んできたことで学習は中断される。軍の将官や魔導院の幹部たちが、顔を青くしてルーナ姉様に帰還を乞う中、その集団の最後尾から一人の男が歩み出た。
レオニダス・ヴァルム。
大陸に数人しか存在しないアダマンタイト級冒険者であり、その武勲と黄金をちりばめたような美貌から、帝国のみならず諸国の女性を虜にしてきた「生ける伝説」だ。
流れるような金髪を革紐で緩く結び、鍛え上げられたしなやかな肉体には一級品の魔導具を惜しげもなく纏っている。彼は一瞥した俺のことを、価値のない石ころを見るような無機質な目で睨みつけると、即座にその視線をルーナ姉様へと向けた。
「……ルーナ、こんな泥臭い場所で何を油を売っているんだ。君がいなければ、私の新しい魔剣の調整が進まない。ほら、帰るよ」
レオニダスは、自分こそが彼女を最も理解し、隣に立つべき男だと言わんばかりの気取った振る舞いで、姉様の白い手を握ろうとした。だが、姉様はその指先が触れる直前に、氷のような冷徹さでその手を叩き落とした。
「触れないで、不潔。……今の私に触れていいのは、ゼンだけよ」
一瞬、レオニダスの完璧な美形が凍りついた。
ルーナ姉様は彼など存在しないかのように無視し、名残惜しそうに俺を抱き締めた。昨夜の同期の名残か、彼女の体温は高く、吐息はひどく甘い。
「……残念だけど、今日はここまで。でもゼン、忘れないで。あなたの体中には、まだ私の魔力が巡っている。……解法に迷ったら、自分の中の『私』を呼び起こしなさい。同期した感覚が、あなたを導いてくれるわ」
姉様は俺の耳元でそう囁くと、唇が触れるか触れないかの距離で別れを惜しみ、ようやく体を離した。
重鎮たちとレオニダスに囲まれ、連行されるように歩き出すルーナ姉様。その背中を見送る俺の背後で、一人の男が足を止めた。
レオニダス・ヴァルム。大陸中の女を虜にするというその端正な顔立ちは、今や冷酷な仮面のように無機質だった。彼は先ほどまでの気取った貴公子然とした態度を捨て去り、一介の士官候補生である俺を、明確な「排除対象」としてその視界に捉えていた。
彼は荒げることのない、静かで重みのある声で告げた。
「……身の程を弁えろ。彼女のような高嶺の花は、君のような子供が縋り付いていい存在ではないんだ。帝国の損失になる前に、自分の立ち位置を正しく理解しておくことだ」
それは感情的な罵倒ではなく、圧倒的な格上が下界の羽虫に言い聞かせるような、傲慢なまでの理性に基づいた忠告だった。伝説の冒険者としてのプライド、そしてルーナ姉様に対する歪んだ独占欲が、その短い言葉の裏側に冷たい棘となって仕込まれている。
レオニダスはそれ以上言葉を交わす価値もないと言わんばかりに背を向け、姉様の後を追って去っていった。
静まり返った書庫に残されたのは、全身に染み付いたルーナ姉様の香りと、伝説級の冒険者から刻まれた、理不尽で粘着質な敵意だけだった。




