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第33話:はじめての取引

 一週間後。


 ヴィクトリア教官の更迭騒動は、マリア姉様という「天災」の通過によって、もはや誰も口に出せない禁忌となって収束した。俺は相変わらず、対外的には「イグナス家の無能な三男」という看板を掲げながら、日々を淡々と過ごしていた。


 夜、自室の机に向かっていた俺の懐で、微かな振動と鈍い光が走った。


 取り出したのは、士官学校の全生徒に配布されている『魔導通信盤リンク・スレート』だ。


 掌に収まるほどの石板に、複雑な魔導回路が刻印されたこの道具は、本来、教官からの緊急連絡や学園内の情報共有に使用される軍専用の通信端末である。だが、俺が今手にしているのは、以前ウィッキーから「これを使いな」と手渡された、外見を完璧に模造した偽造品だった。


 ウィッキーが馴染みの闇ギルドに作らせたというこのスレートは、学園側の監視網を一切通さず、俺と彼を繋ぐ独自の秘匿回線が開かれている。軍の規律に守られた閉鎖空間の中で、俺だけが外の泥濘ぬかるみと繋がっている証左でもあった。


 浮き上がった文字を追う俺の瞳が、冷たく細まった。

『奴隷商人のアジトを特定。今夜、廃倉庫で取引を行う。だが、不測の事態だ。例の老人が逃走を試みた。見せしめにウルガの毒を使用。結果は――無惨だ』


 俺は溜息をつき、スレートの光を消した。

 あの老いぼれ……大人しくしていれば再生の実験体としてまだ使い道があったものを。使えない駒をいつまでも抱えておく維持費も馬鹿にならない。俺は即座に、今夜のうちに現場を確認することを決めた。


 士官学校の警備は、帝国のエリートを育てる場だけあって病的なまでに厳重だ。魔導障壁が学園を包み込み、哨戒兵の巡回に加えて自律型の監視兵器が24時間、音もなく回廊を滑っている。普通なら夜間に寮を抜け出すなど、自殺行為に近い。


 だが、俺はこの一ヶ月の間、影に潜ませたウルガたちを執拗に放ち、この「鉄壁」を観察させ続けてきた。奴らが見つけ出したのは、古びた礼拝堂の地下、廃棄された排水路の奥にある、わずか数センチの魔導障壁の揺らぎ――設置から数十年が経過し、回路が僅かに摩耗した「盲点」だった。


 俺はウルガの案内を受け、湿った土とカビの臭いが立ち込める狭隘な隙間を影のように進む。監視の目が切り替わる極々わずかな空白の数秒を突き、俺は学園という巨大な檻から、音もなく這い出した。前世の修学旅行で教師の目を盗んで部屋を抜け出した時のような、どこか懐かしくも冷ややかな高揚感が胸をかすめる。


 指定された場所は、帝都の端にある、腐ったドブ川の悪臭が漂うスラムの廃倉庫だ。ここは奴隷商人から「商品」を密かに引き渡されるための待ち合わせ場所。重い錆びた扉を音もなく開けると、そこには案の定、額に脂汗を浮かべたウィッキーが、落ち着かない様子で立っていた。


「……遅かったじゃないか、坊ちゃん。お前の使いウルガに見張られてなきゃ、怖くて逃げ出してるところだ」

「余計な軽口はいい。例の老人は?」


 俺の冷徹な問いに、ウィッキーは顔を青ざめさせ、倉庫の奥にある木箱の影を指差した。


 そこには、もはや人間だった頃の形を留めていない「肉塊」が転がっていた。


 老人の体表は、ウルガの猛毒によって内側から溶解し、どす黒い紫色の膿が至る所から噴き出している。俺が以前、奴隷たちの食事に混ぜてその胃袋の中に潜伏させておいたウルガが、老人の逃走を検知した瞬間に、内側から毒素を直接分泌したのだ。


 毒は神経系をじわじわと焼き、筋肉を強制的に収縮させた。老人の四肢はあり得ない方向に折れ曲がり、苦悶に満ちた表情のまま、土気色の皮膚の下で何かが蠢いている。


「逃げようとした瞬間、胃袋の中の『それ』が暴れ出したんだ。……死ぬまで三時間、ずっとこの状態さ。悲鳴を上げる喉も溶けて、ただ痙攣しながら腐っていった。お前、こんな化け物をあいつら全員の腹に入れてるのかよ……」


 ウィッキーの声は恐怖で震えている。

 老人の眼球は白濁して飛び出し、口からは溶けた内臓の一部が混じったどす黒い血が溢れ、床を汚していた。腐った果実のような、甘ったるい死の臭いが倉庫に充満している。


 俺は無表情にその死骸を見下ろした。維持費ばかり食う使えない奴隷を抱えておく趣味はない。実験前に死なれたのは損失だが、見せしめとしての効果はあったようだ。


 老いぼれの経験値やHPヒットポイントなど糞の足しにもならないが、次の奴隷のために少しでもエネルギーは補給しておきたい。俺が影の中で指を鳴らすと、待機していた数体のウルガたちが、待ってましたと言わんばかりにジジイの死体に群がった。


 ピチャピチャと肉を裂き、骨を砕き、脳を啜り上げる生々しい咀嚼音が暗い倉庫に響き渡る。ウルガの牙が腐敗した内臓を掻き回すたびに、鼻を突く死臭がさらに濃くなった。毒に侵され、どろどろに溶けかかった腐肉を、まるでご馳走のように貪り食うその異様な光景に、横にいたウィッキーが耐えきれず「……う、げぇっ!」と胃液をぶちまけて激しく嘔吐した。


「……汚いな。少しは慣れろと言ったはずだぞ」

「無茶言わんでくれ……。お前、本当に人間かよ。これを見て平気な奴なんて、この世にいねえよ……」


 俺はウィッキーの泣き言を無視し、取引の前に正体を隠すための準備を始めた。陸軍士官学校の制服を隠すように深いフードのローブを羽織り、顔には表情を完全に消す魔導の仮面を装着する。背格好までは隠しきれないが、これで少なくとも「イグナス家のゼン」であることは悟られないはずだ。


 準備が整った頃、倉庫の奥、光の届かない闇の中から重厚な足音が近づいてきた。


 現れたのは、意外にも若い女だった。

 整った顔立ちをした美人だが、その右袖は空っぽで、肩の付け根から先がない。片腕の女奴隷商人。その背後には、いかにも裏社会の荒事師といった風貌の、岩のようにゴツい男たちが数人、獲物を品定めするような下卑た視線を送りながら控えている。


「……待たせたね。奥の三匹かい?」

 女が、ハスキーな声で短く問う。俺はフードの奥から「あぁ」とだけ、短く返答した。


 檻の中にいる奴隷たちは、ウィッキーがこの一週間、食事に特殊な栄養素と魔力を混ぜて「管理」していたおかげで、買い取った当初とは比べ物にならないほど肌艶が良く、内側から溢れる生命力のようなものを宿している。


 女商人は慣れた手つきで檻の中の三人を調べ始めた。男二人の筋肉の付き具合を確かめ、震える子供の口を割って健康状態を執拗にチェックする。ひと通りの検品を終えると、彼女は立ち上がり、冷ややかな笑みを浮かべて言い放った。


「悪くない個体だ。だが、いかんせん痩せてるね。骨格に対して肉が足りない。……精々、三十万Gってところだね」


 三十万。


 あまりに露骨な買い叩きに、俺は思わず小さく舌打ちした。隣のウィッキーはといえば、三体で三十万という数字に、当初の期待を上回ったのか「お、おお……!」と驚愕で目を丸くしている。こいつは商売の感覚が麻痺しているのか。


(……ふざけるなよ。適正価格は九十万。こいつ、俺がガキだと思って完全にみくびっているな)


 俺は一歩前に出ると、仮面の奥で瞳を鋭く細めた。

「話にならないな。適正価格は九十万だ。もし相手が子供だと思って舐めた提示をしているのなら、今すぐ取引はやめにさせてもらう」


 俺は短く告げると、踵を返して出口へと向かおうとした。

 その瞬間、女の取り巻きの男たちが素早く動き、俺とウィッキーの周囲を包囲した。


「おいおい、帰すなんて言ってないよ。坊ちゃん、ここはスラムのど真ん中なんだ。商売を断るなら、それ相応の授業料を払ってもらわないとねぇ?」


 男たちが下卑た笑いを浮かべ、獲物を追い詰めた猟犬のように距離を詰める。二人組の子供と男一人。彼らは俺たちをそう見て舐めきっているが、大きな間違いだ。


 俺の隣にいるウィッキーは、これでも「ゴールドランク」の冒険者。これくらいのゴロツキなら、一人で相手をしてもお釣りがくる。


「……ウィッキー。分かっているな?」

「へっ、分かってるとも。最近なまってたから丁度いい。――行くぜッ!」


 ウィッキーが叫ぶと同時に、その周囲に灰色の魔力が渦巻いた。彼の得意とする灰魔法だ。

「【鉄球噴射アイアン・ショット】!」


 空中に生成された握り拳ほどの鉄球が、凄まじい速度で弾け飛んだ。狙いは急所ではない。膝、肩、肘。


 バキッ、メキッという鈍い音と共に、包囲していた男たちの体が次々とくの字に折れ、床に転がっていく。たった数秒。五人の屈強な男たちが、殺されない程度に、だが二度と立ち上がれないほどの激痛にのたうち回ることになった。


「……殺すか? ぼっちゃん」

 ウィッキーが凶悪な笑みを浮かべ、指先を女商人に向けたまま俺に問う。


 俺は慌ててそれを制した。

「殺すのは駄目です! 貴重な取引相手になるかもしれないんだから」


 俺の声を聞いて、片腕の女は怯えるどころか、ニヤリと肉食獣のような笑みを深くした。彼女はゆっくりと残った左手を上げ、降参のポーズを取ってみせる。


「まいった、まいった。いやぁ、驚いたね。ただの世間知らずの坊ちゃんかと思ったら、とんだ化け物を連れてるじゃないか。……すまなかったね、舐めてたことを謝罪するよ」


 彼女は床で転がる手下たちを一瞥もせず、真っ直ぐに俺を見つめた。


「いいだろう。落とし前だ。三匹まとめて……百万Gで買い取ろう」

「――ひゃ、ひゃくまん!? 百万ゴールドだと!?」


 ウィッキーがアホのような叫び声を上げた。先ほどの三十万から、一気に三倍以上の跳ね上がり。九十万の適正価格すら超える異例の提示だ。


 俺は逆に、その怪しすぎる提案に眉を潜め、怪訝な視線を女に向けた。


「……何が狙いだ。九十万でも十分すぎるはずだが」

「狙い? 簡単なことさ。……アンタ、こいつらに何を食わせた? こんなに健康的で、中身の詰まった奴隷は中々お目にかかれないよ。それこそ捕獲直後の新鮮な個体でも、ここまでの生命力は宿しちゃいない。アンタは『良い素材』を作る術を知っている。……今後も付き合っていきたいからね。これはそのための、初回サービスだよ」


 女はそう告げると、百万Gの入った重い革袋を、中身をジャラつかせながら机の上に置いた。


 俺は黙ってそれを見つめる。どうやら、俺の「管理」による奴隷の質の向上を見抜かれたらしい。不気味な女だが、ビジネスの相手としては悪くない観察眼を持っているようだ。


「……分かった。その話、乗ろう」


 俺は革袋を手に取り、闇の中へと消えていく女商人の背中を見送った。


 百万ゴールド。予想外の収益だが、これで仕入れの効率を上げ、奴隷を管理する「小屋」をさらに拡張できる。だが、その前に済ませておくべきことがある。俺は革袋から六十万G分に相当する白金貨を取り出し、無造作にウィッキーへ突き出した。


「……っ! う、嘘だろ? おい、坊ちゃん、正気かよ。こんなに多くは受け取れない。俺がやったことなんて、あんたの指示通りに動いただけだ」


 ウィッキーが、まるで熱い鉄塊でも突きつけられたかのように後退りし、その手を激しく振って躊躇ためらう。

 だが、俺は差し出した手を引っ込めなかった。これは、不治に近い目の病に侵された彼の息子に対する同情などではない。


「勘違いするな。初めに約束した取り分だ。お前は俺の足として、最もリスクの高い現場に立ち、俺の望む『最高の商品』を用意した。これは妥当な報酬として渡すだけだ。……いらないなら返せ。そして、今すぐ俺たちの関係も終わりにしよう」


 俺の冷徹な宣告に、ウィッキーは息を呑んだ。

 俺と手を切れば、高額な薬代と、いつか息子を救うかもしれない俺の「再生」の手掛かり、その両方を失うことを彼は理解している。彼は震える手で、重厚な白金貨を一つ、また一つと受け取った。手のひらに乗るその輝きが、今売った奴隷たちの命の代価であるかのように感じているのか、彼は消え入りそうな声で「……ああ、……ありがとうよ」とだけ絞り出した。


 恐らく、彼は今売った奴隷たちに――胃袋に怪物を飼わされ、実験体として売られていった者たちに、消えない罪悪感を抱いているのだろう。だが、それは無駄なことだ。


 この世界において、善意や良心などというものは、腹を満たすパンの欠片にも、愛する者の瞳を治す薬にもなりはしない。


 俺はローブのフードを深く被り直し、再び闇に溶け込む。

 百万ゴールドという莫大な資金。鋭い眼識を持つ女商人。そして、個人的な弱みゆえに、もはや俺に背くことのできない協力者。


 盤面は整った。

 明日、第一帝国陸軍士官学校の朝日に照らされる俺は、再び「設定」通りの姿で振る舞うだろう。だが、その足元に広がる影には、誰にも知られることのない強固な王国が着実に、そして冷酷に築かれつつあった。

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