第32話:甘い?時間
学園長室を後にした俺の腕を、マリア姉様は逃がさないと言わんばかりに強く絡め取っていた。
向かう先は、学園の敷地内に併設された「外賓用特別宿舎」だ。本来、生徒の家族が宿泊するには数週間前からの厳格な手続きが必要なはずだが、マリア姉様がいつの間にか宿泊許可を取り付けていた事実に、俺は改めて彼女の持つ絶大な「力」の正体を知る。公爵家の名、あるいは彼女自身の魔性が、士官学校の規律など容易く捻じ曲げたのだ。
部屋の前に着き、姉様が重厚な鍵を開ける。
一歩中へ足を踏み入れ、背後の扉が閉まる音がした瞬間だった。
「――っ!」
視界が激しく揺れた。抗う間もなく、俺の体はドンと強く突き飛ばされ、部屋の中央にあるキングサイズのベッドへと倒れ込む。スプリングが軋む音とともに、背中に柔らかな感触が伝わった。
「あぁ……ゼン。私の、ゼン……ようやく、ようやく二人きりになれたわ」
見上げれば、そこには先ほどまでの完璧な淑女の仮面をかなぐり捨てた、一頭の美しい獣がいた。
マリア姉様の頬は、まるで熟した果実のように朱に染まり、その真紅の瞳は潤みを帯びて、獲物を捕らえた悦びにギラついている。
「はぁ、はぁ……っ……いい匂い。私の弟の、堪らなく愛おしい匂い……」
姉様は膝をついてベッドに這い上がってくると、その暴力的なまでの肢体を俺の上に覆い被せてきた。
制服越しに伝わる肉体の質量。16歳とは思えないほどに発育し、重みを湛えた胸の山が、俺の胸板にぐにりと形を変えて押し付けられる。制服の薄い布地を隔てて伝わってくる、彼女の異常なほどの熱量。荒い吐息が首筋に吹きかかり、鼻腔をマリア姉様固有の、人を狂わせるような甘く濃密な芳香が満たした。
俺は、これから一晩もの間、この発情した捕食者から自分の貞操を守らなければならないという現実に、背筋が凍るような恐怖を覚えた。だが、その一方で、数年ぶりに再会した姉の温もりに、心のどこかで安堵に近い嬉しさを感じている自分もいた。
何より、今回は俺から彼女を頼り、呼び寄せたのだ。一線を越えない範囲であれば、多少の毒を食らっても身を任せよう……そう思っていた。
だが、それは致命的な誤算だった。
「ねえ、ゼン……手紙、嬉しかったわ。あんなに可愛らしく私を求めてくれるなんて……。ご褒美が必要よね? 姉様が、あなたのその渇きを全部癒してあげる」
マリア姉様の手が、俺の制服の襟元に伸びる。震える指先は、期待と興奮で小刻みに震えていた。
彼女の指が俺の肌に触れるたび、そこから電流のような熱が流れ込んでくる。マリア姉様の瞳は、もはや弟を愛でるそれではない。完膚なきまでに貪り、己の一部として同化させようとする、狂気的な所有欲の深淵だ。
組み敷かれた俺の腰の上に、彼女の豊かな臀部がずっしりと乗せられる。一歩歩くごとに学園の男たちを絶頂させたあの肉感的な丸みが、今は俺の自由を奪うための重石となっていた。
彼女が身を捩るたびに、制服のボタンが悲鳴を上げ、その隙間から覗く肌の白さが、薄暗い部屋の中で毒々しいほどに際立っている。
「拒まないで……。あなたから呼んでくれたのでしょう? だったら、最後まで責任を取ってくれないと……お姉様、壊れてしまうわ」
濡れた唇が俺の耳朶を食み、熱い舌が這う。
それはもはや「姉弟の再会」という言葉で片付けられるような、生易しいものではなかった。
俺は、この「マリア」という名の深淵から、明日無傷で這い上がることができるのだろうか。
姉様の指が俺のベルトに掛かったとき、俺は自分の甘さを呪った。
今夜、この部屋で行われるのは「ビジネス」の報酬などではない。もっと根源的で、原始的で、そして逃げ場のない「侵食」なのだ。
あぁ……いよいよ俺の童貞が、この美しい化け物に食い尽くされる。
マリア姉様の指が、俺のズボンのホックに確かな感力のまま掛けられた、その時だった。
「――コン、コン、コン」
静寂を切り裂く、遠慮がちな、だが執拗なノックの音。
直後、俺の耳元で「……ちっ」という、淑女の口から出てはいけないはずの鋭い舌打ちが響いた。
重圧から解放され、俺は「助かった」と心の底から安堵の一息を漏らす。だが、その直後に背筋に走った悪寒は、先ほどまでの情欲によるものとは比較にならないほど、冷たく、鋭いものだった。
「どなたかしら。今、私は世界で一番大切な時間を過ごしているのだけれど」
マリア姉様の声は、低く、地を這うような殺意に満ちていた。
扉の向こうから聞こえてきたのは、あの親子――バルガスとカイルの声だった。
「マリア様! お休み中、誠に申し訳ございません! しかし、どうしても先ほどのワインの件が諦めきれず……我が家に代々伝わる秘蔵のヴィンテージを、今すぐお届けしたく参上いたしました!」
「マリア様! 僕も……僕も、どうしてもお伝えしたいことがあって!」
諦めきれずに、公爵家の令嬢の宿泊部屋へ無理やり押しかけてくるという暴挙。彼らはマリアという毒に脳を焼かれすぎて、もはや保身のための判断能力すら失っているらしい。
マリア姉様がベッドからゆっくりと立ち上がる。その背中からは、物理的な圧を伴うほどの魔力が立ち昇っていた。
真紅の瞳は文字通り「殺意」で発火し、周囲の空気がパチパチと放電を始める。
(不味い……。このままじゃ、本当に死人が出る)
彼女は、この物語の世界においても、プレイヤーがレベルをカンストさせて挑んでも決して勝てない「負けイベント」のボスそのものだった。怒りに触れれば、内務大臣だろうがその息子だろうが、一瞬で塵も残さず消滅させられる。
バルガス親子の必死な、そして下卑た欲望が透けて見える誘いの言葉が扉越しに続く。マリア姉様の指先には、すでに高密度の魔力が収束し、致死性の術式が組み上がろうとしていた。
俺は咄嗟に動いた。ベッドから身を乗り出し、マリア姉様の腕を掴んで引き寄せる。
「ねえ、姉様。怒らないで……」
そして、彼女の白磁のように滑らかな頬に、チュッと音を立てて口付けをした。
その瞬間、室内の温度が劇的に変化した。
「……あ」
マリア姉様の喉から、可愛らしい、場違いな声が漏れる。練り上げられていた強大な魔力が、一瞬で構築を失い、霧散していく。いや、霧散どころではない。彼女の顔面は、中心から耳の付け根まで沸騰したように一気に真っ赤に染まり、頭頂部からはシュウウゥ……と冗談のような湯気が立ち上った。
「ぜ、ぜ、ぜ……ゼン、が……わ、私に、自発的に……あ……」
あんなに傲岸不遜だった帝国の毒花が、たった一度の頬へのキスで、生まれたての小鹿のように膝をガクガクと震わせている。
そのまま、パタリと糸が切れたようにベッドの上へ倒れ込んだ。
(……嘘だろ。この程度で倒れるのかよ)
さっきまで俺の貞操を奪おうと、暴力的なまでの性欲と執着を見せていたのは一体何だったんだ。
あまりにも極端な耐性のなさに、俺は呆然と立ち尽くした。どうやら彼女にとって、弟からの「自発的な親愛の情」は、禁呪クラスの破壊力を持つ攻撃だったらしい。
扉の向こうでは、まだ親子が「マリア様?」「いかがなされました?」と騒いでいる。
俺は湯気を出して気絶している姉様に毛布を掛け、溜息をつきながら扉へと向かった。ヴィクトリア教官の件はこれで片付いたが、どうやら俺には、この制御不能な姉の「熱暴走」を管理するという、さらに困難な任務が課せられたようだ。
扉の向こうで騒ぐ親子に対し、俺は感情を殺した無機質な声を投げかけた。
「…… バルガス様、カイル様。夜分に失礼とは存じますが、流石に公爵令嬢と、その令息が寛いでいる私室に、夜中に押し掛けるのはいかがなものかと思いますが」
扉を一枚隔てているにもかかわらず、向こう側の空気が一変したのが分かった。
特にカイルだ。さっきまでマリア姉様に鼻の下を伸ばしていた甘ったるい気配が、一瞬で「弟」という絶対的な特権を持つ俺への、どす黒い嫉妬へと変質した。
「ゼン君……、君、まだ部屋にいたのかい? 姉様もお疲れだろうし、もう寝る時間だろう。君は自分の寮に戻ったらどうかな。後のことは父上が……」
カイルの声は、嫉妬の念が隠しきれずバリバリと波立っている。彼にとって、自分がどれほど望んでも入れないこの部屋に、俺が当たり前のように留まっていることが、我慢ならない屈辱なのだろう。
一方で、父のバルガスはもはや俺のことなど眼中にない。
「マリア様! お加減が悪いのですか!? 医師を呼びましょうか! それとも、この私がつきっきりで……!」
扉を叩く音が強くなる。その必死さはもはや滑稽を通り越して狂気だ。このままでは物理的に扉を破りかねない。俺はこれ以上の茶番を終わらせるべく、声音に冷たい「貴族としての圧力」を込めた。
「これ以上騒がれるようでしたら、イグナス家に対する『不当な監禁および名誉棄損』として、父グラドを通じ正式に抗議させていただきます。……内務大臣ともあろうお方が、公爵家を敵に回す覚悟はおありですか?」
語気を強めた俺の言葉に、扉を叩く音がピタリと止まった。
「イグナス公爵」という名――すなわち、鉄血の将軍グラドの影が、彼らの焼き切れた理性を強引に引き戻したらしい。カイルの嫉妬も、バルガスの情欲も、一気に冷え込んだ。
「……し、失礼した。あまりにマリア様の身が案じられたものでな」
「……あ、ああ、そうだ。ゼン君、姉様によろしく伝えておいてくれ。明日、また改めて伺うと」
足音が遠ざかっていく。
未練がましく何度も振り返っている気配がしたが、やがて静寂が廊下を包み込んだ。
ようやく、あの五月蝿い羽虫どもを追い払うことに成功した。
俺は再びベッドの方へと視線を戻す。そこには、俺からの不意打ちのキス一発でノックアウトされ、頭からぽっぽと湯気を出しながら幸せそうに気絶している、帝国の最終兵器が転がっていた。
「……ったく。これじゃどっちが『異常』なんだか分からないな」
先ほどまでの殺気に満ちたボスの風格はどこへやら、今の彼女はただの恋する乙女――いや、重度のブラコンを拗らせた姉でしかない。俺は深いため息を吐きながら、乱れた自分の襟元を整えた。
結局、俺の貞童は首の皮一枚で繋がったわけだが、この姉を味方につけるということが、どれほど劇薬であるかを思い知らされた気分だ。彼女を上手く御せば、この学園どころか帝国全土を揺るがすビジネスの盾になる。だが、一歩間違えれば、今日のように俺自身が飲み込まれ、食い尽くされる。
俺は窓の外、夕闇から深い夜へと沈んでいく学園の敷地を見下ろした。




