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第31話:圧倒的な存在

 四人の「材料」は、石畳の上で赤ん坊のように眠り続けている。彼らの腹の中に侵入させたウルガは、単なる治療の道具ではない。それはそのまま、彼らの命を繋ぎ、同時に縛り上げる「管理」と「爆弾」の役割を果たすことになる。


「……ゼン、こいつらに魔道具の首輪はつけないのか? 逃げ出したり、暴れたりしたらどうする」


 ウィッキーが懸念を口にする。だが俺は、鼻で笑って首を振った。


「『奴隷の首輪』なんて、一つ一つが馬鹿みたいに値が張るでしょう。今の僕にはそんな余計な買い物をする余裕はありません。だから、代わりにウルガを使います」


 白金貨はあの商人のところで使い切った。手元にはもう、まとまった金はない。俺は眠る奴隷たちの腹部に視線を落とした。


「こいつらは中に入れた個体と繋がっている。もし俺に牙を剥こうとすれば、ウルガから微量の毒を放出させて、内臓から焼き切るような苦痛を与えることができる。魔道具より確実で、何よりタダ(無料)だ」


 ウィッキーが、自身の喉を抑えるようにして顔を歪めた。


「俺はこれから学校に戻ります。一週間ほど、こいつらにまともな食事と清潔な環境を与えてください。まずは『商品』としての見た目を整える必要がある。……泥を被ったままじゃ、高く売れませんからね」


 俺は懐から金を取り出す代わりに、空の手をウィッキーに向けた。


「今回の四人の取り分は、六対四でいい。ウィッキーさん、あなたが六だ。その代わり、この一週間の維持費や食費は、そっちで負担しておいてください」

「……六だと? 俺が多めに取っていいのか。だが……」

「先行投資ですよ。ウィッキーさん、その一週間の間に、あなたのツテで口の堅い奴隷商人を探しておいてください。息子の治療費が欲しいんでしょう?」


 ウィッキーは複雑な表情で黙り込んだ。ゴールドランクの蓄えがあるとはいえ、今の彼にとって持ち出しは痛いはずだ。だが、この「商品」が売れた時のリターンを考えれば、断る選択肢はない。


「道徳や同情は、もう捨ててくれ。これから先、子供や女を売ることにもなるでしょう。ですが、俺たちがやらなくても、どうせ誰かがやる。世界とはそういう仕組み(メタ)です」


 俺はウィッキーの横を通り過ぎ、出口へと向かう。


「金が欲しいなら、人の心を捨ててください。息子の目を開けさせたいなら、その代わりに他の誰かの人生を閉ざす覚悟をしろ。……期待していますよ、ウィッキーさん」


 背後でウィッキーが重く生唾を飲み込む音が聞こえたが、俺は一度も振り返ることなく、夕闇に沈む裏通りへと足を踏み出した。


 背に受ける湿った風が、つい先ほどまでその場所にあった「死」の臭いをゆっくりと剥ぎ取っていく。俺が歩を一つ進めるごとに、帝都の喧騒が近づき、非日常が日常へと塗り替えられていくのを感じた。


 寄宿舎の重厚な正門が見えてくる頃には、俺はすっかり「イグナス家の無能な三男」へと立ち戻っていた。


 門限を告げる鐘が遠くで鳴り響く。


 ギリギリの帰還だったが、今後の「投資」を考えれば、これ以上なく充実した休日だったと言える。明日からはまた、あの退屈で窮屈な訓練の日々が再開する。


 そんな平穏への回帰を噛み締めながら、俺はライナスと落ち合い、廊下を歩いていた。だが、その穏やかな時間は、角を曲がった先から漏れ聞こえてきたカイルたちの薄汚い声によって、不快に塗り替えられた。


「――全くだ。正式に糾弾してやったよ。今回の件は、一年生教官であるヴィクトリアの責任だとな」


 カイルの声だ。取り巻きの連中を従え、得意げに声を張り上げている。


「本来なら死罪にしてやるところだが、父上が『学校を辞めさせるだけで済ませてやる』と言っているよ。学校側も、これ以上騒ぎが大きくなる前にヴィクトリアを切ろうとしているらしい。明日には、あの目障りな女も消えているさ」 


 俺の胸の奥で、冷たい不快感が渦巻いた。


 ヴィクトリア。


 彼女はこの学園で唯一、俺の「異常性」に気づいている人間だ。訓練も理にかなった有能な教官であり、何より俺にとっては利用価値がある。それを、親の権力を自分の実力だと勘違いしているこのクソガキが、社会を舐め腐った態度で踏みにじろうとしている。その浅はかな全能感が、どうしようもなく気に食わない。


 カイルが「父」というカードを使うのなら、俺にもやり方がある。


 正面からイグナス公爵家の名を出すまでもない。俺はある人を頼ることに決めた。


 カイルの父親ごとき文官貴族の圧力を、その一言で黙らせることができる力を持った人物。


 俺はライナスに「先に部屋に戻っててくれ」と短く告げると、カイルたちの笑い声を背に、夜の静寂に包まれた校舎の奥へと歩き出した。


 向かったのは、学生寮の隅に設置された外部への連絡窓口だ。


 カイルが「内務大臣の父」というカードを切るなら、俺にもやり方がある。もちろん、俺自身の異常性や企みを明かすような真似はしない。あくまで「姉を頼る、思慮深くも健気な弟」という役割を完璧に演じ、マリア姉様に手紙を書いた。


『敬愛するマリア姉様へ。

 士官学校での生活は、姉様の教え通り自分を律し、精進の日々を送っております。ですが今、僕にとって唯一の正当な導き手であるヴィクトリア教官が、先日の「亡霊の森」での主との遭遇に関する政治的な思惑によって、理不尽な解雇の危機に瀕しています。彼女がいなくなれば、この学園の規律は崩れ、僕の学びの場も失われてしまうでしょう。姉様の深い慈悲と、その叡智をもって、どうか僕に救いの手を差し伸べてはいただけないでしょうか』


 ……筆跡、言葉選び、情緒のさじ加減。すべてが完璧だ。12歳の弟が、プライドを守りつつも姉の庇護を欲している。彼女の独占欲と、弟を導く「女王」としての支配欲を絶妙に刺激する、もっとも合理的な一手を打ち込んだ。


 それから三日が経過した。


 学園内は、ヴィクトリア教官の進退を巡る噂で持ちきりだった。カイルは勝利を確信したように、以前にも増して傲慢な振る舞いを隠さなくなっていたが、その結末が書き換えられる瞬間は、神罰のような圧倒的な輝きと共に訪れた。

 第一帝国陸軍士官学校。鉄の規律が支配するこの戦士の揺り籠に、抗いがたい「絶世の毒」が降臨したのだ。


「……何だ?」

 訓練場から戻る途中、俺は校舎から溢れ出してきた異様な熱気に足を止めた。


 一年生から三年生、そして教官までもが、我先にと中央広場へ押し寄せ、何かに魅入られたように一点を見つめ、陶酔している。


 人混みの中心、陽光を独占するかのように立ち尽くすその「異形」こそが、マリア・イグナスだった。


 16歳。女性として最も残酷なまでに咲き誇るその季節にあって、姉様はイグナス家が誇る血脈の魔性を、もはや隠そうともしていなかった。


 膝元まで届く銀髪は、最高級のシルクを幾千層も重ねたような光沢を放ち、風に吹かれるたびにプラチナの奔流となって周囲を浄化する。月明かりを凝縮したような白磁の肌、意志の強さと冷徹さを湛えた真紅クリムゾンの瞳、そして薄く、だが官能的な弧を描く紅の唇。その美貌は、もはや一つの芸術であり、見る者の魂を根こそぎ奪い去る支配の象徴だった。


 そして何より、見る者の理性を一瞬で焼き切る、暴力的なまでの肢体。


 魔導学園の気品ある制服は、彼女の豊満すぎる肉体を抑え込むにはあまりに無力だった。


 大きく、重く、張りのある胸の曲線は、一歩歩むごとに艶かしく揺れ、今にも溢れ出さんばかりに主張している。その重みが、見る者の喉を強烈に乾かせた。


 一方で、腰回りは極限まで細く絞り込まれ、そこから一転して広がる臀部のラインは、完熟した果実のようなたわわな丸みを湛えていた。歩みを運ぶたびに、その肉感的な臀部が重厚に揺れ、短めのスカートから覗く白磁のような太ももが、眩い光を反射する。少女の瑞々しさと、成熟した女性の芳醇な色香。その二つが爆発的に共存しているその様は、まさに「動く魔導兵器」だった。


 周囲の男子生徒たちは、もはや地獄絵図だった。

 彼女がただそこに立ち、視線を微かに動かしただけで、少年の脳は許容量を突破し、快楽中枢を直接蹂躙されていく。最前列の生徒数名が膝から崩れ落ち、その股間は生理的な悦楽によって無様に濡れた。あまりにも過剰な「美」は、人の脳にとっては猛毒でしかない。


 そんな狂騒の嵐の中にあって、姉様は完璧な淑女の微笑を浮かべていた。


 だが、人混みの端に俺の姿を見つけた瞬間、彼女はただ俺を見据えて優しく微笑んだ。その沈黙の微笑は、どんな言葉よりも心強く、そして不気味なほどに冴え渡っていた。


 ――数刻後、学園長室。

 重厚な円卓を囲み、息の詰まるような「審判」が始まっていた。


 学園長のエドワード、そして十数人の高官たちが、蛇に睨まれた蛙のように硬直して座っている。

 その一角には、カイル・フォン・ベルシュマン。そしてその隣には、彼の父であり内務大臣のバルガス・フォン・ベルシュマンが座していた。


 バルガスは本来、息子を危険に晒した教官を断罪するためにここへ来たはずだった。だが、今の彼は、対面に座るマリア姉様の妖艶な存在感に、完全に骨抜きにされていた。


「……いやはや、マリア様。お噂は、かねがね。まさか、このような学び舎で、貴女様のような『帝国の至宝』にお目にかかれるとは……」


 バルガスの声は、自制心を失って浅ましく上擦っていた。彼は、息子が隣にいることも忘れ、赤らんだ顔でマリア姉様の胸元を、そして机の下で組まれた脚のラインを、卑しい獣のような瞳で追い続けている。


 それは息子のカイルも同様だった。カイルは顔を沸騰したように真っ赤に腫らし、視線を姉様の鎖骨、あるいは制服の合わせ目から覗く肌の白さへと釘付けにしている。彼のズボンは、もはや隠しきれないほどに、はち切れんばかりに膨れ上がっていた。


「バルガス様、そしてカイル様。お二人とも、本当にお優しいのですね」


 マリア姉様が、長い睫毛を伏せ、あどけなさを装ったお世辞を唇から零す。たったそれだけで、親子は揃って「ひっ」と短い、喘ぎのような呼気を漏らし、陶酔に顔を歪めた。


「……して、本日はどのようなご用向きで?」

 学園長が声を絞り出した。マリア姉様は真紅の瞳を、悲しげに揺らした。


「ええ、実は。弟のゼンから少しお聞きしたのですが……。亡霊の森での、あの恐ろしい『森の主』との遭遇において、生徒たちの命を守るために自らの身を挺して動いてくださった、あのヴィクトリア先生がお辞めになるというのは本当でしょうか?」


 マリア姉様の声が、鈴の音のように室内に響いた。その瞬間、学園長とカイル親子の顔が強張った。


「……先生は、あの絶望的な状況下で最後まで教官としての職務を全うしてくださったと伺っております。……ゼンも普段から大変お世話になっていて、先生のことを、心から、深く尊敬しておりますの。そんな素晴らしい逸材が、不運な責任を問われて職を辞されるなんて……。私、悲しくて仕方がありませんわ」


 マリア姉様の真紅の瞳に、宝石のような涙が浮かぶ。圧倒的な美貌と妖艶さに裏打ちされた「悲しみ」は、室内のすべての男たちの心臓を鷲掴みにした。


 バルガスは今や、マリアを悲しませたという自己嫌悪と、「自分が彼女を救う騎士になりたい」という下卑た願望の間で、激しく呼吸を乱していた。


 元を正せば、ヴィクトリア教官を糾弾し、この場を「断罪の儀式」へと仕立て上げたのは他ならぬバルガス自身だ。だが、マリアという劇薬に脳を焼かれた今の彼に、そんな客観的な事実は残っていない。あるのは、眼前に咲き誇る絶世の美貌を悲しませたという耐え難い罪悪感、そして、その涙を拭う権利を得たいという醜い独占欲だけだった。


「――お、お待ちなさい、マリア様! そのような悲しいお顔をなさらないでいただきたい!」


 バルガスは、椅子を蹴立てるようにして立ち上がった。その鼻息は荒く、頬は情欲を隠しきれず醜く紅潮している。


「ヴィクトリア教官が辞める? 滅相もない! 確かに私は事情を聞きに参りましたが、それは彼女の功績を正しく称えるため……! 『亡霊の森の主』から生徒を守り抜いた英雄を失うなど、このベルシュマン、断じて許しませんぞ!」


 自分が送りつけた糾弾状を、自らの言葉で叩き潰す。その滑稽な掌返しに、学園長や教官たちは呆然と口を開けていた。だが、マリア姉様の隣に座るカイルもまた、父の醜態を笑う余裕などなかった。彼は、父よりも先にマリアの歓心を買おうと、必死に身を乗り出す。


「そ、そうです! 僕も、僕もそう思っていたんです! 先生は僕たちを、必死に守ってくれました! だから、ゼン君、泣かないで……。ヴィクトリア先生は、絶対に僕たちが守ってみせるから!」


 カイルは、股間を無様に膨らませたまま、引きつった笑みで俺に擦り寄ってきた。マリア姉様の視界に入るためなら、これまで俺に向けてきたすべての嘲笑を「無かったこと」にする。その浅ましくも徹底した保身と欲望の混濁は、もはや芸術的ですらあった。


「……本当ですの? バルガス様、そしてカイル様。お二人のような正義感に溢れる方が味方になってくださるなら、私、これほど心強いことはありませんわ」


 マリア姉様が、ぱっと花が綻ぶような、眩いばかりの満面の笑みを浮かべた。


 それは、もはや暴力だった。

 室内を支配していた重苦しい空気は一瞬で霧散し、代わりに、脳を麻痺させるほどの幸福感と陶酔が男たちを襲った。バルガスも、カイルも、そして背後で控えていた教官たちさえも、マリアの笑顔という光に直接網膜を焼かれ、魂を奪われたように立ち尽くしている。


 バルガスは限界だった。マリアという毒は、すでに彼の血流を巡り、心臓を支配していた。


 どうすれば、この女神を自分のものにできるか。どうすれば、この芳醇な肉体を手に入れ、その真紅の瞳に自分だけを映せるのか。大臣としての理性は完全に霧散し、彼はこれから、マリアという底なしの深淵にその地位も財産も、すべてを投げ打つ狂信者へと成り果てるだろう。


「あぁ……っ、マリア様。……本日は、この後お時間はございませんか? ぜひ我が邸宅にて、最高級の晩餐を。貴女様に相応しい至高のワインを用意させます!」

「マリア様! 僕も……僕も、学園の中を案内させてください!」


 父子が我先にと、マリア姉様に縋り付くように誘いをかける。醜い争奪戦を演じる親子を見下ろしながら、マリア姉様は優雅に立ち上がった。


 立ち上がる際、彼女の豊かな臀部が円卓の縁をかすめるように揺れ、バルガスの視線がそこに釘付けになる。彼女は、翻ったスカートから白磁の脚を覗かせながら、しなやかな動作で俺の肩に手を置いた。


「お誘い、誠に光栄ですわ。……ですが、今日は愛しいゼンに会うために、無理を言って時間を空けて参りましたの。この後は、二人きりで積もる話をさせていただきたいのです」


 マリア姉様は、やんわりと、だが拒絶を許さない気品をもってその誘いを断った。


 バルガスとカイルは、絶望と、それでも「弟想いの慈悲深い女神」という新たな幻想に打ち震え、ただ深く頭を垂れるしかなかった。


「ゼン、行きましょうか?」

 マリア姉様の白く細い指が、俺の首筋を愛おしむように撫でる。


 冷たい。

 その指先の冷たさが、この狂騒がすべて彼女の掌の上で転がされていたに過ぎないことを物語っていた。

 俺は、腑抜けになった親子と、信じられないものを見たという顔の学園長たちを残し、姉様にエスコートされるようにして、熱気の残る学園長室を後にした。

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