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第30話:動き出すビジネス

 二階へと続く階段を上がりながら、俺は口元が緩むのを抑えられなかった。


 まさかこんなに早くウィッキーに会えるとはな。まさに僥倖だ。


 あの一件以来、彼が帝都のギルドに戻っていることは知っていたが、こうして「再会」のタイミングが向こうから転がり込んでくるとは。あの時、わざわざ生かして逃がしておいて正解だったよ。投資したリソースは、適切な時期に回収してこそ価値がある。


 二階の薄暗い酒場、その隅にあるカウンター席。

 一人で安酒の瓶を並べている男の隣に、俺は音もなく腰を下ろした。


「……ッ!?」

 ウィッキーの肩が、見事なまでにビクッと震えた。

 横目でちらりと彼を見る。かつてのシルバーランクから、今やゴールドランクへと昇り詰めたはずの男の顔は、酷くやつれ、土気色に変色していた。俺という「エラー」を網膜に焼き付けてしまった後遺症は、まだ癒えていないらしい。


「何の用だ……ゼン」


 ウィッキーは酒瓶を握る手に力を込め、正面を向いたまま地を這うような声を出した。その声は、恐怖を殺意で塗りつぶそうとして、結局失敗している。


「別に大した用はありませんよ。知り合いを見かけたので、挨拶に来ただけです」


 俺は子供らしい無垢な、そして最高に不気味な微笑みを彼に向けた。


 数秒の、重苦しい沈黙が流れる。

 周囲の冒険者たちは、ゴールドランクのウィッキーが子供と話しているのを不審げに見ているが、俺たちの間に漂う密度の高い「不条理」にまでは気づいていない。


「……今は、第一(士官学校)に通っています。今日は少しお金が欲しくて、ギルドに登録しに来たんですよ」

「は……? 公爵家の坊ちゃんが金欠かよ。冗談だろ」


 ウィッキーがようやく俺を直視した。その瞳には、相変わらず泥のような濁りと、隠しきれない皮肉が混じっている。イグナスの家紋を背負った人間が、ドブさらいや薬草採取の報酬を求めてギルドに現れるなど、彼からすれば笑えない喜劇だろう。


「実家を少し、整理されましてね。まあ、持続可能な運用のための資金繰りですよ。そこでウィッキーさん、あなたにちょっと手伝ってほしいことがあるんです」

「……断ると言ったら?」

「契約を、お忘れですか?」


 俺が浮かべたであろう、禍々しくも歪な笑みを見た瞬間、ウィッキーの額からどっと脂汗が吹き出した。彼は酒の代わりに、自分の絶望を飲み込むかのように喉を鳴らした。


「……具体的に、俺に何をさせる気だ」

 掠れた声で問うウィッキーに、俺はカウンターの端を指先でなぞりながら本題を切り出した。


「空き家を探しています。廃墟でもいいし、人目のつかない地下室がある場所なら最高だ。そこをいくつか紹介してほしいなと思って。……まあ、適当な場所がなければウィッキーさんの自宅でも構いませんが?」

「ふざけるな、ガキがッ!」


 ウィッキーが激昂し、飲みかけのグラスが卓上で激しく揺れた。その殺気は本物だったが、俺は瞬き一つせずにその怒りを受け流す。


 彼は荒い息を吐きながら、俺を睨みつけた。


「……何をする気だ。そんな場所を用意させて、一体何を企んでやがる」

「それを聞いたら、もう後には戻れないですよ。ウィッキーさん」


 俺は視線を逸らさず、声を一段階落とした。

「ですが、金を稼ぎたいなら真剣に話を聞いてほしい。……家族のために、まとまった額が必要なんでしょう?」


 ウィッキーの動きが止まった。


 彼がギルドで無茶な依頼をこなし続けている理由は知っている。故郷に残してきた、目に難病を抱えた息子。その治療には、帝都の高度な魔法治療や、高価な魔薬が欠かせない。シルバーからゴールドに上がった程度の報酬では、その進行を遅らせるのが精一杯のはずだ。


 目の前の少年が化け物だと知っていても、公爵家という巨大な権力への繋がりと、何より圧倒的な「結果」を出す実力は、彼にとって毒を含んだ劇薬であり、抗いがたい救済でもあった。


「……どれくらい稼げる」


 苦渋に満ちた、だが確実な食いつき。俺は満足げに目を細めた。


「そうですね。冒険者の本業が馬鹿らしくなって、副業程度に思えるくらいには。……まだ運用前ですが、成功すれば完璧なサイクルが出来上がります。そのための『実験場』が必要なんです」


 俺は脳内で、買い取った四人の「在庫」に個体を寄生させ、ボロボロの肉体を「再構築」する光景を描く。それは死を克服した労働力か、あるいは安価で強力な私兵か。


 ウィッキーは思わず生唾を飲み込んだ。

 あの日、オーガスティン城で見た光景。無数の羽音と共に、歴戦の猛者たちがただの「資源」として処理されていった、あの効率的すぎる地獄。


 目の前の少年が、伝説の英雄のように一振りで軍隊を薙ぎ払う強さを持っているわけではないことは、戦いを知るウィッキーにもわかる。だが、既存の魔術体系にも武技の理にも当てはまらない、生理的な嫌悪感を伴う「異質な異能」。そして、人の命を数字としてしか扱わないその精神構造。それが、ウィッキーにとってゼンをこの世で最も得体の知れない存在にさせていた。


「……ついてこい。北門近くの裏通りに、いわく付きで誰も寄り付かないボロ家がいくつかある」


 ウィッキーは空になった酒瓶を乱暴に置くと、重い腰を上げた。


 息子の光を取り戻すための金。それを手に入れるためなら、彼は再び、この怪物の手を取るしかない。たとえその先に、さらなる絶望が待っていると分かっていても。


 俺はウィッキーの後に続き、階段を下りた。

 一階のカウンターでは、先ほどの受付嬢サラが、まだ魂の抜けたような顔で立ち尽くしていたが、今は構っていられない。


「ウィッキーさん、まずは奴隷商会へ寄ります。そこで預けてある『材料』を回収しなければなりませんから」


 俺の言葉に、ウィッキーの背中が再び小さく震えた。


「……材料、だと? ゼン、お前まさか……」

「ただの投資ですよ。死に損ないを安く買い、付加価値をつけて再利用する。……ビジネスの基本でしょう?」


 俺たちはギルドを後にし、夕闇が迫り始めた帝都の街へと足を踏み出した。


 俺とウィッキーは、再びあの脂ぎった奴隷商人の元へと戻った。


「おお! 候補生様、お待ちしておりましたぞ! いかがなさいました、その、お連れの方は……」


 商人が、隣に立つ死人のような顔のウィッキーを値踏みするように見る。ゴールドランクの威圧感に気圧されたのか、商人の額にまたじっとりと汗が浮かぶ。


「ついでだ、この『荷物』たちを今から言う場所まで運んでくれ。運搬用の荷車はあるんだろう?」

「ええ、ええ! もちろんございますとも! すぐに手配いたしましょう。……して、場所はどちらで?」


 ウィッキーが吐き捨てるように指定した北門裏通りの廃屋を聞くと、商人は一瞬だけ怪訝そうな顔をしたが、すぐに卑屈な笑みを貼り付け直した。


「承知いたしました! 候補生様の頼みとあれば、我が商会が責任を持って『お届け』いたします! 他に何か、私めにできることはございますか?」


 もみ手をして、さらなる商機を伺う商人の顔を、俺は真正面から見つめ返した。


「……このことは黙っておいてくれ。誰にも、だ」


 俺は最高の笑顔を作って言った。


「もしこの話が外に広まれば、喋ったのはお前しかいない。そうなった時、自分の家族や商会がどうなるか……お前なら分かるな?」


 商人の顔から一気に血の気が引いた。俺の言葉は、脅しというよりは、決定済みの「予定」を告げるような冷たさを含んでいたはずだ。彼はカチカチと歯を鳴らしながら、深々と頭を下げた。


「も、もも、もちろんでございます! 墓場まで持っていきますとも!」


 震える商人から離れ、俺たちは荷車に揺られる「在庫」と共に目的地へ向かった。


 到着した場所は、帝都の華やかさとは無縁の、湿り気とカビの臭いが立ち込める廃屋だった。荷車から降ろされた四人は、冷たい石畳の上に無造作に転がされた。


 涎を垂らし続ける老人。骨と皮ばかりになった二人の男。そして、虚ろな目で宙を見つめる、性別不明の子供。

「……ひでえな。これじゃあ、ただの死体置き場だ」

 ウィッキーが顔を顰めて吐き捨てた。彼がこれまで見てきたどんな戦場よりも、この「静かな死の待機所」は彼の神経を逆なでしているようだった。


「ゼン……本気か。こいつらをどうにかするなんて、神様でもなきゃ無理だぜ」

「神の奇跡なんて不確かなものは使いませんよ。もっと確実で、効率的な方法を使います」


 俺は膝をつき、涎を垂らして横たわる老人の顔を覗き込んだ。


 俺の胸元、肋骨の奥あたりが、内側から蠢くような不気味な脈動を刻む。次の瞬間、俺は喉の奥からせり上がる異物感に身を任せ、自らの臓器の一部として飼い慣らしている「個体」を吐き出した。


 生々しい粘液と共に、俺の口から這い出してきたのは、五本の角を持つ漆黒のウルガだ。


「な、お前……そんな場所で、そいつを飼ってやがったのか……っ!」


 ウィッキーが顔を引きつらせた。俺がこの災虫を何らかの方法で操っていることは知っていたはずだが、まさか肉体そのものを巣床にしていたとは思いもしなかったのだろう。

 俺はウルガを老人の胸元に置いた。ウルガは顎をカチカチと鳴らし、老人のだらしなく開いた口の中へと、抵抗もなく滑り込んでいく。


「何を……っ! 飲み込ませたのか!?」

 ウィッキーが叫んだが、俺は無視した。

 老人の腹の中に侵入したウルガが、その体内に溜め込んでいた「冥府の角鹿」の生命力を直接分け与え始める。


 ――瞬間。


 老人の枯れ木のような喉元が、ドクンと大きく脈打った。

 灰色だった肌に、見る間に生気が宿り、内側から熱を帯びた赤みが急速に差していく。


 数分後。さっきまで死を待つだけだった老人の顔から、苦悶の色が完全に消えた。彼は涎を流していたことすら忘れたかのように、穏やかな寝息を立ててスヤスヤと眠り始めた。


「……嘘だろ。顔色が、戻った……? 魔法も使わずに、あんな瀕死の人間を……」


 ウィッキーが膝から崩れ落ち、信じられないものを見る目で老人を凝視した。


 俺はさらに喉を鳴らし、自分の肉体から残りの三匹のウルガを順に吐き出した。


 俺はそれぞれのウルガを、残った三人の口元へ這わせる。

 痩せこけた二人の男。そして、石畳の上でピクリとも動かない子供。


 ウルガたちがそれぞれの腹の中へ侵入し、生命力を解放していく。すると、みるみるうちに彼らの顔色がよくなり、浅かった呼吸は深く、力強いものへと変わっていった。


 つい先刻まで、この廃屋に漂っていたのは腐敗と死の予感だけだった。だが今は、四人の人間がまるで春の陽だまりの中で昼寝でもしているかのような、穏やかな寝息だけが規則正しく響き渡っている。


「これで、初期段階の調整は終わりです」


 俺は立ち上がり、汚れた手を無造作に拭った。

「言ったでしょう、ウィッキーさん。本業が馬鹿らしくなるくらいには稼げる、と」


 ウィッキーは腰を抜かしたまま、眠る四人と俺を交互に見た。その瞳には、かつての雪原で俺に向けた憎悪を上回る、根源的な恐怖が刻まれていた。

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