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第29話:ある受付嬢の憂鬱

 冒険者ギルド「帝都北門支部」の昼下がり。

 私の仕事は、誇り高い英雄の卵を導くことではない。血の気の多い荒くれ者たちの怒号を適当に聞き流し、汚れきった魔物の素材を換金し、そして毎日必ず起こる小競り合いを「業務」として処理することだ。


 だが、今この瞬間の空気は、いつもの酒場の喧嘩とは明らかに異質な、嫌な予感に満ちていた。


「……登録をお願いしたい」


 カウンターの向こう側。落ち着き払った声の主は、まだ十二、三歳といったところの少年だった。


 だが、その身に纏っているのは、この帝国の最高エリートのみが袖を通すことを許される、士官学校の制服。そして、その胸元に刻まれた、紅蓮の炎を模した紋章――。


(……嘘でしょ。なんでよりによって『イグナス家』の家紋をつけた子がこんな掃き溜めに?)


 私は、手にしていたペンが震えるのを必死に抑えた。

 ハーフエルフとして数十年、この街で受付嬢をやっていれば、主要な貴族の家紋くらいは嫌でも覚える。


 イグナス。代々軍の中枢を担い、不敬を働いた者はその日のうちに「消える」とまで噂される、国家そのものを背負う特権階級だ。


「おいおい、聞いたかよ。学生の坊ちゃんが、わざわざ冒険者ごっこをしたいんだとよ」


 案の定、空気を読めない「ゴミ」たちが動き出した。

 声を上げたのは、ブロンズ級の中堅パーティー『鉄の牙』のリーダー、ジャックだ。酒の匂いを撒き散らしながら、三人の仲間を連れて少年の背後に立ち塞がる。


「ここは学校じゃねえんだ。軍人の卵様が、俺たち冒険者を見下しに来たか? それとも、パパに自慢するための勲章でも買いに来たのかよ、あぁん?」


 ジャックの野太い笑い声に、酒場から下卑た嘲笑が重なる。


 いつもなら、私はここで「ギルド内での喧嘩は禁止です」と事務的に告げる。だが、今は喉が引き攣って声が出ない。

 ジャックたちは、自分たちが今、どれほど巨大な地雷の真上に立っているのか分かっていない。


 目の前の少年が「不快だ」と一言漏らせば、憲兵団が即座に踏み込み、この支部ごとジャックたちの首を跳ね飛ばしてもおかしくないのだ。


(お願いだから、私を巻き込まないで……)


 私の背中を、冷や汗が滝のように流れる。

 絡んでいる冒険者が処罰されるのはどうでもいいが、自分に火の粉が降りかからないか、それだけが心配だった。この不条理な階級社会において、ハーフエルフの受付嬢なんて、貴族の機嫌一つで容易く踏み潰される虫ケラと同じなのだから。


 だが、当の少年――ゼンは、ジャックたちの挑発を完全に「無視」していた。


 背後でどれほど汚い罵声が浴びせられようと、ピクリとも動かない。ただ、冷徹な漆黒の瞳で私だけを見つめている。その瞳には、背後の男たちへの怒りどころか、道端の石ころを眺めるような無関心しかなかった。


(……何、この落ち着き……本当に子供なの?)


 私に見えるのは、周囲の喧騒を「存在しないもの」として切り捨てる、完成された強者の横顔だけだった。


「無視すんじゃねえぞ、ガキがッ!」

 自分たちが石ころ同然に扱われていることに気づき、ジャックが顔を真っ赤にして激昂する。彼は太い腕を伸ばし、ゼンの肩を乱暴に掴もうとした。


「ひぃっ……!」

 私は思わず、カウンターの下に身を隠した。

 血が流れる。最悪の光景が、今まさに始まろうとしていた。


 だが、聞こえてきたのは肉が裂ける音ではなく、骨が軋む不快な音と、ジャックの短い悲鳴だった。


「が、あぁっ……!? な、なんだ……っ!」

 恐る恐る目を開けると、そこには一人の男が立っていた。

 落ち窪んだ眼窩に、死人のように土気色の肌。右腕には深い傷跡が刻まれている。ギルド内でも屈指の実力者、ゴールドランク冒険者のウィッキーさんだ。


 少し前、とある戦場から帰還して以降、彼はまるで別人のようになってしまった。かつての豪快さは消え失せ、何かに怯えるように酒を煽るか、虚空を見つめるだけの「生ける屍」のようだと噂されていた強者。


 そのウィッキーさんが、ジャックの太い腕を、万力のような力で掴み上げていた。


「お、おいウィッキーさん! なんだよ、あんたに関係ねえだろ! このガキが……」

「黙れ、ジャック……! 死にたくなければ、その手を引け」


 ウィッキーさんの声は、地を這うような重苦しい振動となって響いた。ジャックはあまりの腕の痛みに顔を歪め、膝をつく。


 ……おかしい。

 状況だけ見れば、ウィッキーさんは貴族の少年を助けたように見える。けれど、私にはわかった。ウィッキーさんの背中が、見たこともないほど小刻みに震えているのが。

 彼は少年を守っているのではない。その逆だ。まるで猛獣の前に突き出された生贄を、寸前で引き剥がそうとしているかのような……。


 少年に背を向け、ジャックの腕を掴んでいるウィッキーさんの瞳には、強者の余裕など欠片もなかった。そこにあるのは、底知れない「恐怖」だ。まるで、この少年の指先がわずかでも動けば、この場にいる全員の命が塵のように消えてしまうと確信しているかのような、絶望的な眼差しだった。


「……っ」


 ウィッキーさんはジャックを乱暴に放り出すと、一度だけ、背後の少年を射貫くような、あるいは呪うような鋭い視線で睨みつけた。だが、唇を血が滲むほど噛み締め、何も言わずにその場から立ち去った。


 ゴールドランクがそこまでして止めた「何か」の正体は、私には分からない。ただ、その異様な気配に当てられたのか、あれほど騒がしかったギルド内は静まり返り、ゼン様に絡もうとする者は誰一人としていなくなった。


「……ふぅ」

 私はようやく、止まっていた呼吸を吐き出した。

 とりあえず、私の目の前で凄惨な処刑が始まることだけは回避されたらしい。


 私は震える手で羊皮紙を整え、努めて冷静な声を絞り出した。


「……お待たせいたしました、ゼン様。お手続きを始めさせていただきます」


 私は震える指先で、カッパー級の登録用紙と、冒険者の心得が記された分厚い冊子を差し出した。先ほどウィッキーさんが見せた異常な反応のせいで、ギルド内には「この少年には関わるな」という重苦しい沈黙が広がっている。


「まず、冒険者としての基本事項ですが……ゼン様は現在、最下位の『カッパー級』となります。ランクを上げるためには、ギルドが指定する依頼を一定数こなしていただくか、あるいはギルドマスター推薦による『実地試験』をパスする必要があります」


 私は、彼が「最速で」と言ったことを考慮しつつ、ページをめくった。


「昇級の際の注意事項として、原則的に『自分のランクより二段階上の依頼』を単独で受注することは禁じられています。今のゼン様が受けられるのはランクE、特例でDまでとなります。ですので……まずは、街の中での『人探し』や、上位者の『荷物持ち(ポーター)』などの、安全かつ着実に実績を積める依頼から始められるのがよろしいかと。特にポーターは、新人が現場の空気を知るには最適で……」

「……説明、ありがとうございます。カードは後で取りに来ます」


 最後まで言い終わらぬうちに、ゼン様は短く礼を告げた。その瞳は、私が勧めた安全な依頼リストなど微塵も映していない。


 彼は事務的にそう言い残すと、驚くべき速さで背を向けた。その視線の先にあるのは、先ほど無言で二階の酒場へと消えていったウィッキーさんの背中だ。


「あ、ゼン様!? まだ注意事項が……!」


 私の呼びかけも虚しく、彼は流れるような足取りで人混みをかき分け、迷いのない足取りで階段を上がっていく。


 カッパー級の登録を済ませたばかりの少年が、この支部の顔役であり、現在は「生ける屍」と恐れられているゴールドランクの元へ、まるで獲物を追い詰めるような気迫で向かっていく。


(……人探しや荷物持ちなんて、最初からやる気がないのね)


 私は、カウンターに残された空のギルド証の発行台帳を見つめ、再び嫌な汗が止まらなくなった。あの少年は、このギルドという組織さえも、自分の目的のための最短ルート……あるいは、単なる「手続きの場所」としてしか見ていない。


 二階の薄暗いフロアで、かつての恩人と「怪物」が何を話すのか。それを想像するだけで、胃のあたりが冷たくなるのを感じた。

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