第2話:歓喜からの絶望
※このエピソードには暴力・残酷描写、倫理的に不快と感じられる表現が含まれます。苦手な方はご注意ください。
耳障りな泣き声が響く。それが自分の喉から出ているのだと気づくまで、数秒の時間を要した。
肺に流れ込む空気の冷たさ、ぼやけた視界、そして自由の利かない小さな手足。生物学的に最も無力な「赤子」という状態にありながら、俺の脳内には前世の記憶が鮮明に焼き付いている。あまりにも日本とはかけ離れた景色。そして、聞き覚えがありすぎる不穏な単語の数々。
しかし、生後数ヶ月も経つ頃には、俺を取り巻く環境が「勝ち組」そのものであることを理解した。
豪奢な天蓋付きのベッドに、最高級シルクの産着。そして、絶えず俺の顔を覗き込んでは慈しむように微笑む、絵画から抜け出してきたような美貌の母親。
(……職業貴族って、そのまんまかよ)
心の中で快哉を叫んだ。前世の俺は、体重二百キロのデブで無職、引きこもりの童貞。画面の向こう側にいる貴族のNPCにすら嫉妬するような最底辺の人生を送っていたが、それが今や、その血筋の嫡男として、盤石の資産と英才教育、さらには「転生前の知識」というチートまで約束された状態で人生のスタート地点に立っている。
笑いが止まらなかった。いや、実際には笑おうとするたびに「あー、うー」という間の抜けた声が漏れ、そのたびに母親が愛おしそうに俺を抱き上げるだけなのだが。
そして生後半年が過ぎた頃、確信は「絶対」へと変わった。姉が俺をあやすために持ってきた、一つの玩具。それは、黄金の透かし彫りが施された、掌サイズの奇妙な球体だった。
「ほら、ゼン。よーちよーち、綺麗だねえ」
姉が魔力を通すと、球体は複雑な歯車を回転させ、部屋の天井に幻想的な星図を映し出した。
俺は目を見開いた。見覚えがある。それはプレイヤーがメニュー画面を開く際に取り出すアイテム――『星読みの天球儀』だ。
「魔力を流すことで、所有者の内側を映し出す」というあの設定が、今、俺の目の前で物理的な質量を持って存在している。
(マジかよ、ちょっと見せてくれって)
重たい赤子の身体を揺らし、俺は必死にその天球儀に手を伸ばした。0歳児。まだ歩くことすらできない。
「ほちいねぇ、たのちいねー」
おいおい、クソガキ。お前の方が年下なんだからあんまり調子に乗んなよ。手をバタバタとさせると余計に姉を喜ばせる。そんな平穏な日々が過ぎていった。
二足歩行が安定し、語彙が少しずつ増え始めた一歳から二歳の時期。俺は将来への不安など微塵もない、典型的な貴族のボンボン生活を謳歌していた。だが、ある単語を耳にした瞬間、俺は思わずおしめに小便と大便を同時にぶちまけてしまった。
屋敷の至る所に掲げられた、血のように赤い旗。そこに刺繍されているのは、双頭の龍が剣を噛み砕く紋章――『バースバル帝国、グラド・イグナス公爵家』。
その事実を理解した瞬間、俺は前世の記憶にあるゲーム『スロン』の全情報を総動員し、背筋を走る凍てつくような戦慄を必死に抑え込んだ。
俺が転生したこの場所、バースバル帝国。ここはかつてプレイヤーの間で「畜生による、畜生のための、畜生すぎるクソ国家」と罵られ、ネットミームにまでなったほど徹底した悪役国家であった。
この国は極端な全体主義を貫き、国民のすべてを「国家という巨大な魔導兵器の部品」としか見なしていない。幼少期からの無慈悲な選別、適性に応じた強制的な教育、そして弱者への容赦ない切り捨て。軍事力において大陸随一を誇る理由は、その狂気じみた効率性にこそあった。
そして、その帝国の軍事と謀略を一手に担い、最も「畜生」を体現しているのが、俺が生まれた家――グラド・イグナス公爵家である。
「ゼン、よく聞け。お前はイグナスの血を引く者。他者はすべて、我らが高みに至るための踏み台に過ぎない」
二歳の誕生日、父であるグラド公爵は、冷徹な真紅の瞳で俺を見下ろしながらそう告げた。その瞳は、俺を抱きしめてくれた銀髪の姉と同じ色だ。しかし、父の眼差しにあるのは慈愛ではなく、獲物を値踏みする捕食者のそれだった。
この家門、グラド・イグナスは、『スロン』のメインストーリーにおいて最悪のヴィラン(悪役)として君臨する。
物語の終盤、公爵は世界大戦を引き起こし、大陸中の英雄や冒険者から命を狙われる「ラスボス」へと変貌を遂げる。そして、その結末には一切の救いがない。プレイヤーの手によって公爵が討たれた後、残された一族には凄惨な運命が待っているのだ。
長男と次男は中ボスとして呆気なく殺された後、プレイヤーたちから「帝国のマッチ棒」と「静電気ネズミ」と揶揄されていた。その後、アンデッドとして蘇らされ、体が炭化してもなお死ぬことすら許されず、永遠に彷徨い続けることになる。
そして二人の姉や関係者たちは、怒り狂った民衆や敵国に捕らえられ、考えうる限りで最も凄惨な、尊厳を徹底的に破壊される最期を迎える――。
それが、この世界の公式な「設定」だった筈。
(……いや、詰みやん)
豪華な晩餐会も、傅く使用人も、全部関係ない。今のままシナリオ通りに進めば、あと二十年も経たずに俺たちは皆殺しにされる。家族はバラバラに壊され、俺だってどんな惨い殺され方をするか分かったもんじゃない。
ふざけんな。何が女神だ、あの糞売女め。期待させるだけさせておいて、用意されていたのはバッドエンド確定のキャラクターか。
いや、もういい。ゲームという甘い認識はここで捨てよう。俺は○○ ○○じゃない。ゼン・イグナスだ。
平和ボケした日本の感覚を引きずったままじゃ、チン毛が生える前に死ぬ。あるいは、惨めに殺されるか。
(……それにしても、グラド・イグナスの三男なんて、いたか?)
ストーリーをクリアしたのはリリース直後。RTA動画を上げるために必死だった当時は、ムービーも全スキップ。
散りばめられたテキストは考察系YouTuberの動画で網羅しただけだが、それでも千時間を超えるプレイ時間の中で「ゼン・イグナス」という名には聞き覚えがなかった。
物語の表舞台に名前すら残らないモブ。あの親父のことだ、他にも認知していない子供が大勢いるんじゃねぇか?
無能を産めば殺される。女を産む機械としか思っていないモラハラ糞野郎。そんな、性欲と暴力に支配されたラスボスの期待を一心に受ける二人の兄が、俺の部屋の扉を乱暴に開け放った。
「父上がお呼びだぞ」
不機嫌そうに告げ、扉を蹴り開けるようにして入ってきたのは次男のザングース・イグナスだ。御年八歳。その幼い顔立ちには、すでに帝国貴族特有の選民思想と、弱者への隠しきれない蔑みが張り付いていた。
「また書物を勝手に持ち出しているな。母親と同じで盗人猛々しい……」
俺の手元にある本を一瞥し、ザングースは吐き捨てる。三歳の子供が本を読んでいる驚きよりも先に、出自への罵倒が出るあたり、この家の教育の「正解」が見て取れた。
月光を浴びた刃のような銀髪を肩まで伸ばし、その奥にある真紅の瞳には、年齢に似合わぬ傲慢さと他者への蔑みが同居している。八歳にしてすでに帝国のエリート教育を叩き込まれている彼は、自分より魔力の薄い存在を「塵」としか見なさない、この家の歪んだ思想を最も色濃く受け継いでいた。その整った容姿は、まるで冷たい硝子細工のようだ。
「よせ、ザングース。ゼンはまだ三歳だ。興味あるものはそのまま与えてやれ」
不遜な弟を窘めるようにして姿を現したのは、長男のジルド・イグナス、十一歳だ。
彼を見た瞬間、俺の脳裏には「理想的な騎士」という言葉が浮かんだ。短く整えられた銀髪に、誠実さを象徴するような涼やかな真紅の瞳。前世のトップアイドルすら凌駕する、いわゆる「美形」の極みだが、その身体は十一歳にしてすでに鋼のように引き締まっていた。
彼は実直だった。狂気と暴力が支配するこの家において、唯一まともな感性を持ち、人間らしく苦悩するキャラクター……だったはず。正直、ただの中ボスの設定をそこまで詳しく覚えていない。
「兄上は甘い。帝国に必要なのは知識ではなく、敵を粉砕する力だ」
ザングースは吐き捨てると、俺の目の前でわざとらしく指を鳴らした。小さな火花が散り、熱風が俺の頬を掠める。三歳の子供を威圧するには十分すぎる、精緻な魔力操作。
「……あ、あー」
俺はわざとらしく怯えたふりをして、ジルドの足元へ逃げ込んだ。心の中では『しょぼい花火をあげてイキってんなよクソ餓鬼』と唾を吐きながら。
その日の午後、イグナス家の地下祭壇で「鑑定」が行われた。
巨大な魔導水晶の前に、俺の一族の長——父グラドと、その側近たちが冷徹な眼差しを向けて並んでいる。
俺は小さな手を水晶に触れた。脳内に響くのは、神の宣告ではなく、冷徹なシステムメッセージのような感覚。
ゼン・イグナス:人間
• 職業: 貴族
• 魔力: 1【MAX 252】
• スキル: 超肥満
• 異常耐性: 猛毒・致死
• 強靭: 9
• ATK: 11 / DFK: 12 / SPD: 9 / INT: 1 / MGR: 8 / AGL: 8 / VIT: 5 / DEX: 15 / LUC: 39
水晶が放ったのは、眩いばかりの光ではなく、ロウソクの火のような頼りない淡い輝きだった。
「……魔力1だと? 使い魔の一匹も契約できんゴミではないか」
側近の一人が吐き捨てるように言い、グラドに無能の烙印を促す。
俺は俯き、落胆したふりをして身を震わせた。だが、その視線の先では、自身の持つスキルの説明を必死に網膜へ焼き付けていた。
超肥満
対象を嚥下し、自らの「胃袋」を巣床として生物を強制従属させる変異能力。捕食された生物は、胃壁から分泌される特殊な体液によって精神を汚染され、主の消化器官の一部として生涯を飼い殺される。
本能力は対象の生死を問わず取り込みが可能であり、死体であってもその肉組織を自身の細胞と癒着させることで、腐敗を防ぎ、鮮度を保ったまま体内で保持し続けることができる。その際、たとえ死骸であっても損壊箇所を爆発的な速度で再生させ、強制的に蘇生・使役することが可能となる。
【特徴】 必要に応じて食道を逆流させ、口から「吐き出す」ことで戦力とする。また、単なる収納に留まらず、腹の中で複数の個体を物理的に縫い合わせる「肉の合成」や、自身の皮膚を突き破って標本の四肢を突出させる「部分的発露」も可能。
【代償】 激痛こそないが、体内の生物に常に生命力を吸われるため、常人離れした摂取カロリーを必要とする。物理的に腹部が膨張・破裂するリスクを常に孕んでいる。
なんだ、このキモ過ぎる能力は。
飲み込んだ生物を口から吐き出し、戦わせる? 召喚ビルドの一種か?
鑑定の石板に刻まれた【超肥満】という悍ましい文字を眺め、俺がその正体について深く考え込んでいた、その時だった。
父グラドが、隣に控えていた部下に冷ややかな手つきで耳打ちをした。
「……連れて行け。地下だ。誰にも見られるなよ」
抵抗手段を持たない俺に、拒否権などあるはずもなかった。それは、記憶の片隅にある母親の時と同じ状況だったのかもしれない。大人たちの無機質な手によって軽々と吊り上げられ、陽の光も届かない地下の実験場へと運ばれた。
グラドが用意したのは、卓上で蠢くムカデ、羽音を立てる甲虫、そして下水から掻き集められた無数の這い虫たちだった。不潔な塊の中には、ひときわ大きく禍々しい光沢を放つゴキブリも混じっていたが、今の俺にそれを識別する余裕などない。
「飲み込め。一つ残らずだ」
無造作に顎をこじ開けられ、生きた虫たちが次々と喉奥へ流し込まれる。
おいおい、二度目の人生でもまたゴキブリかよ。ムカデにカナブン、セミよりグロいフルコースだ。せめて火を通せよ、寄生虫が怖すぎるだろ。
食道を這い回る節足の感触に、粘膜を噛みちぎる顎の痛み。内臓を内側から蹂躙される凄まじい苦痛に、俺の小さな体はガタガタと震え、脂汗が噴き出した。
だが、期待された「能力の覚醒」は起きない。腹の中で虫たちが暴れ回る不快感と、焼けるような激痛が脳を焼き、俺の意識はそこで暗転した。
「……ふん。やはり無能は無能か。腹を壊しただけで気絶するとは」
冷徹なグラドの声が遠くで聞こえた。彼は吐き捨てるようにそう告げると、興味を失って部屋を去っていった。残された側近が、手早く俺を医務室のベッドへと運び込み、意識は途切れた。
――その、深夜。
誰もいない医務室で、俺は込み上げる猛烈な吐き気に跳ね起きた。
月光すら届かない暗闇の中、喉を焼くような感覚と共に、腹の中に溜まっていた「何か」が逆流してくる。
「……がはっ、おぇ……っ!」
シーツの上に吐き出されたのは、ドロリとした黒い粘液にまみれた虫たちだった。
(……待て、おかしい。俺、なんで生きてるんだ?)
三歳児の細い喉に、毒虫を無理やり流し込まれたんだ。本来なら内臓を食い破られ、激痛でショック死していてもおかしくない。
もし、ゲーム設定上の「ゼン・イグナス」がこの実験で命を落としていたのだとしたら。だからこそ、設定資料の隅にさえ名前が残っていない「存在しない三男」だったのだとしたら。
三歳児の体に、三十年の人生を経験した成人男性の精神。その歪なつぎはぎが、本来終わるはずだった「ゼン」の命を繋ぎ止め、発揮されることなく埋もれるはずだったスキルを無理やり覚醒させたのではないか。
その証拠に、シーツの上に吐き出された虫たちは、一匹として死んでいなかった。
通常であれば胃酸で溶けているはずの個体だ。だが、それらは一切の損傷もなく、むしろ俺の血液やカロリーを吸い上げたかのように、以前よりも不気味な光を放って蠢いている。
「なるほど……。気付かれなくて正解だったな、クソ親父」
魔力は底辺。ステータスはゴミ。だが、この『超肥満』というスキルだけはバランス崩壊の香りがする。
廃人としての勘がそう告げていた。




