第27話:帝都での買い物
「亡霊の森」での地獄のようなサバイバル演習から二日。
死線を越えた一年生たちに与えられたのは、泥を落とし、軋む筋肉を休めるための短い休暇だった。
だが、士官学校の中庭に漂う空気は、およそ「休暇」と呼べるような平穏なものではなかった。
「――いい加減にしろ! うちの息子をあんな化け物の巣窟に放り込むとは、どういうつもりだ!」
「帝都を守る盾を育てる場だと聞いて入学させたが、これではただの虐待ではないか!」
中庭に響き渡る怒号。着飾った貴族の衣装や、成金であることを誇示するような派手な外套を纏った大人たちが、数人の教官を囲んで気炎を上げている。
いわゆる、保護者たちの抗議というやつだ。
あの日、森で救助の信号弾を上げた「荷物」たちの親が、家柄と威厳を盾に士官学校の校門をこじ開けたらしい。
「そうだ! 僕はもうこんな野蛮な学校はやめる! お父様、早く退学の手続きを!」
「私だって! あんな蜘蛛に追いかけられるなんて聞いてないわ!」
親の背中に隠れて喚き散らすのは、かつてのクラスメイトたち。つい数日前までエリート面をして俺を「出来損ない」と嘲笑っていた連中が、今は鼻水を垂らしてこの学び舎を去ろうとしている。
俺は学生寮のバルコニーから、その光景をぼんやりと眺めていた。
(モンスターペアレントって、どこの世界にもいるんだなぁ……)
他人事のようにそんな感想が漏れる。
理不尽なまでの訓練、命を懸けたサバイバル。確かに子供にやらせるには苛烈すぎるが、ここは平和な学び舎ではなく、戦士を、あるいは「駒」を選別するための冷徹な苗床だ。その覚悟もなく、家柄という虚飾だけで生き延びられるほど、この先の世界は甘くない。
退学者は既に二桁に届こうとしている。彼らはここで、自ら再起不能の烙印を押し、安全な箱庭へと帰っていく。それはそれで一つの幸福なのかもしれないが、俺には関係のない話だ。
「おい、ゼン。あんな連中の顔、見てるだけで胃がムカつかねえか?」
背後から、少し疲れたような、だが以前よりも芯の通った声がした。
ライナスだ。彼は手にしたリンゴを齧りながら、俺の隣に並んだ。サバイバルでの激闘を経て、彼の顔つきからは少年特有の甘さが消え、どこか戦士としての野性が芽生えつつある。
「……別に。去る者は追わずだろ。元からここにいるべきじゃない連中だった、それだけだ」
「お前は本当にドライだよな。俺なんて、カイルが親に泣きついてるのを見て、思わず笑っちまいそうになったぜ」
ライナスはそう言って、中庭で一際派手な宝石をジャラつかせている男――カイルの父親であろう人物を顎で示した。権力を誇示するように肩をそびやかしているが、その息子は震えながら父親の影に隠れている。
他の生徒たちも、この二日間の休暇を思い思いに過ごしているようだった。
カレンとミナは、トラウマを払拭するかのように帝都の市場へ甘いものを食べに出かけていったし、ガストンは……あいつも死地を越えた反動か、自分が「重装鎧蟹」の討伐に居合わせたという事実を(俺の手柄は巧みに伏せつつも)周囲に吹聴して回っているらしい。
誰もが、あの森で削られた心を埋めるために必死だった。
「それで、ゼン。お前はこの休み、何するんだ? またあの地下室で、一人で変な踊りみたいな筋トレか?」
ライナスの問いに、俺は軽く肩をすくめる。
「いや、今日は少し外に出る。……外出許可も出たし、帝都を彷徨くよ」
歩き出した俺の脚部は、一歩ごとに地面を吸い付くように捉える。あの演習の最後、森の「主」であった角鹿を仕留めた際に奪い取った莫大な経験値が、今ようやく俺の血肉へと溶け込み始めていた。
心臓が脈動するたび、奪った純度の高いエネルギーが全身を駆け巡り、細胞の限界値を底上げしていく。あの巨躯を支えていた生命力が、俺の骨格を内側から強固に作り替え、大剣を背負っていても羽のように体が軽い。
俺は校門を抜け、帝都の平民区へと足を踏み入れた。
石畳を叩く馬車の音、道端で客を呼び込む威勢のいい声。亡霊の森の粘りつくような空気とは対照的な、生命力に溢れた熱気が肌を撫でる。
ふと懐の財布を確かめる。中身は、屋敷を出る時に「餞別」として渡された10,000Gのみ。日本円にして約一万円だ。公爵家の息子としては笑えるほど惨めな額だが、今の俺にはこの貨幣価値の把握こそが重要だった。
この帝国の通貨体系は、かつて俺が画面越しに見ていたあの世界の設定そのままだ。
最も低い価値の銅貨(10G/10円)。
その上に位置する、日常的な支払いの主役である銀貨(100G/100円)。
そして、ちょっとした贅沢やまとまった買い物に使われる金貨(1,000G/1,000円)。
そのさらに上には、富裕層や大口取引でしか拝めない白金貨(10,000G/10,000円)が存在する。
つまり俺の手元にあるのは、この白金貨たった一枚分というわけだ。
俺は一人、喧騒の渦巻く平民区を歩き出す。士官学校の制服は、それだけでこの国の階級制度を象徴する衣装だ。歩くたびに人波が割れ、好奇と不安の入り混じった視線が俺に注がれる。だが、ふとした拍子に住民たちと目が合うと、彼らは弾かれたように慌てて頭を下げ足早に去っていった。
彼らにとって、俺が「どこの誰か」などは重要ではない。ただその制服を着ているというだけで触れてはならない、あるいは不敬を働けば命すら危うい「特権階級」の象徴に見えているのだ。
実際、この帝国では身分差は絶対的な法に近い。
「目が合っただけで不敬とみなされた」
「歩く邪魔をしただけで斬首された」
そんな話は、この社会の暗部では枚挙にいとまがない。貴族の御曹司に因縁をつけられ、その日のうちに一家が路頭に迷う……そんな不条理が日常的に転がっている世界。住民たちの怯えは、彼らがこの過酷な身分社会を生き抜くための本能的な防衛反応なのだろう。
(……面倒だな。ジロジロ見られるのも、過剰に怯えられるのも)
俺には彼らを罰する趣味などないが、この「特権」が生む静寂だけは今の散策には都合がよかった。
次なる目的地は、この街の情報の集積地であり、力こそが法となる場所――冒険者ギルドだ。
年齢、種族、過去。その一切を問われない唯一の場所。貴族だろうが学生だろうが、自己責任で依頼を受注し金を稼ぐ。貴族に転生したのに金欠という意味の分からない現状を打破する為と、便利すぎる身分証を手に入れる為だ。
ギルドが近づくにつれ、街の空気はより雑多で刺々しいものへと変わっていく。
路地裏では、装備の取り分を巡ってか、筋骨隆々の戦士と目つきの鋭い盗賊が掴み合いの痴話喧嘩を演じている。
「あぁん? あのゴブリンの魔石は俺が先に剣を突き立てたんだよ!」
「うるせえ! 最後に首を跳ねたのは俺の短剣だろうが!」
そんな罵声さえ、活気の一部として聞き流す。
ふと視界の端を、ふさふさとした耳を揺らす獣人の少女が通り過ぎた。
(……あ、やば。普通に見惚れてたわ。あぶねー)
ケモナーだった前世の魂が思わず疼いてしまう。あの毛並み、あの尻尾の質感……落ち着け、今の俺は公爵家の三男だ。ここで勃起なんてすれば、公爵家の権威が物理的に死ぬ。股間の平穏を保つため、俺は無理やり意識を切り替えた。
だが、その煩悩を冷ますには、あまりに毒々しい光景が角の先に待ち構えていた。
広場の中央に設けられた、黒ずんだ木製の高壇。
そこには「商品」が並べられていた。――奴隷市場だ。
「さあさあ、次は南方の部族から仕入れたばかりの極上品だ! 傷一つない、労働にも夜の伽にも耐える一級品だぞ!」
濁った声で叫ぶ商人の足元には、鉄の鎖で繋がれた人間たちが並んでいた。
その描写は、吐き気がするほど生々しい。
長い間風呂にも入れられていないのか、肌は泥と垢で薄汚れているが、その下には恐怖に強張った筋肉が浮き出ている。手首と足首を縛る鉄枷は、動くたびに肉を削り、赤黒い擦過傷からは膿が混じった血がじわりと滲んでいた。
「ひぃ、ぁ……あぁ……」
一人の少年が、買い手の品定めをするような下卑た視線に晒され、小さく呻き声を上げた。すると、商人は躊躇なくその背中を鞭で打つ。
――パァン!
乾いた音と共に、少年の背中の皮が弾け、鮮血が飛沫を上げた。肉が裂ける音が、すぐ近くまで聞こえてくる。
買い手たちは、まるで見切り品の家畜を見るような目で彼らの口を割らせ、歯並びを確認し、あるいは女性の胸や腰を露骨に触り、弾力を確かめている。
そこには尊厳など欠片もない。
あるのは排泄物の匂いと、絶望が煮詰まったような重い沈黙。そして、抵抗する気力さえ奪われた者たちの虚無を見つめる濁った瞳だけだ。
高壇の下では、売れ残った「不良品」が、蛆の湧き始めた腐った残飯を犬のように啜っている。その周囲には、主人の命令一つでいつでも「解体」されるのを待つだけの、ただの肉塊としての現実が転がっていた。
特権階級の制服を着た俺がその場に立つだけで、商人は揉み手をして卑屈な笑みを浮かべ、奴隷たちはさらに身を縮め、あるいは助けを求めることすら諦めた絶望の眼差しを向けてくる。
俺は無言でその光景を網膜に焼き付けた。
この世界の頂に君臨する特権階級の制服を纏い、ぬるま湯のような万能感に浸っていた自分の足元には、こうした無数の犠牲と非道が泥のように積み重なっている。
俺は無造作に壇上へと歩み寄り、揉み手をして擦り寄ってくる肥満体の商人に声をかけた。
「すまない。これで奴隷は何人買える?」
白金貨一枚を指先で弄びながら問いかける。
同情なんて皆無だ。俺にとって奴隷はただの数字であり、NPCであり、効率的に運用するための肉壁という認識でしかない。この目の前の惨状が現実であろうとなかろうと、俺一人の感情で変えられるほどこの世界の理は甘くない。
士官学校の制服を着た子供が、いきなり現れてそんな問いを投げかけたことに、商人は驚愕でその細い目をさらに見開いた。本来、公爵家のような貴族が奴隷を買うのは、冷暖房の効いた格式高いオークション会場だ。こんな悪臭の漂う広場の競りに現れるなど通常では有り得ない。
「は、ははぁ……士官候補生様、直々のお越しとは! ですが、その……白金貨一枚、ですか?」
商人は無理に作った引きつった笑顔で、脂ぎった手をこねくり回しながら答える。
「それじゃあ、あそこの『廃棄寸前のゴミ』しか無理ですねぇ。労働力にも夜の伽にもなりません。せいぜい、飢えた家畜の餌にするか、魔術の実験台に使い潰すくらいしか道のない連中ですな」
商人が顎で示したのは、壇上の隅。
もはや立ち上がる気力すらなく、泥の上にうずくまって喘いでいる「商品」たちだ。骨が浮き出るほど痩せこけ、瞳からは生気という生気が枯れ果てている。
「白金貨一枚なら、そこのゴミ共をまとめて三、四人はお譲りできますが……いやはや、候補生様ほどの御方が、そんな汚らわしいものに金を払うなんて勿体ない!」
商人はゲラゲラと下卑た笑い声を上げたが、俺の視線は笑っていなかった。
(……廃棄寸前、か)
通常の飼い主からすれば、一万円で死体を買い取るようなものだろう。だが、主の力を持って蓄えた個体をこいつらに寄生させれば、治癒力の大幅な上昇が見込めるかもしれない。
今後、死にかけの個体を安く買い取り、治癒できればその個体をまた売りに出す。
(……嘘だろ、完璧すぎる『転売』じゃねぇか。俺、奴隷商人に向いてるかもしれねぇな)
「すべての命に尊厳を!」とか「弱者を救え!」と叫ぶ現代の道徳観や、それこそSDGs(持続可能な開発目標)の「誰一人取り残さない」なんて綺麗事をこの場に持ち込んだら、あまりのギャップに連中は発狂どころかショック死するだろう。
今の俺からすれば、SDGsなんてのは「S(死にかけを)D
(デッドコピーして)G(現場に)s(据える)」くらいの、自分に都合のいい「持続可能な奴隷運用サイクル」にしか聞こえない。
側から見れば人道に対する罪そのものだろうが、今の俺にはこいつらが「金のなる木」にしか見えねぇ。壊れた在庫を修理して市場に戻す。その算段は、あまりに合理的で、あまりに非道だった。
「……そこの四人だ。売買契約を済ませろ」
俺は白金貨を高く放り投げ、商人の脂ぎった手のひらに落とした。
「へ、へいっ! 毎度あり! すぐに、すぐに奴隷紋の譲渡手続きを! おい、お前ら! さっさと立て、この幸運なゴミ共が!」
商人が泡を食って書類を準備し始める中、俺は泥を啜る奴隷たちを無感情に見下ろした。
一人は老いさらばえた老人、二人は病で顔色の悪い男。そして最後の一人は、泥にまみれて性別すら定かではない小柄な子供だ。
(……どいつもこいつも、死んだ魚のような目で)
俺の指先で、まだ誰にも見せていない微かな蠢きが熱を帯びる。
この「廃棄物」達が寄生させた個体を受け入れて化物へと至るのか、それとも価値ある「商品」として蘇るのか。
商人が卑屈な笑みを浮かべて奴隷契約の魔導書を差し出してくる。その契約が完了した瞬間、この四人の命は、文字通り俺の私物となる。
ここから俺だけのグリッチ――裏技が始まる。




