第26話:一応の生還
「動くな。……いや、動ける状態ではないか」
氷の刃を突き刺すような、ヴィクトリアの声が夜の静寂を切り裂いた。
首筋に冷たい金属の感触が走る。彼女が構える双剣の一振りが、俺の頸動脈をいつでも断ち切れる位置で静止していた。
主の生命力を強引に呑み込んだ副作用で、俺の視界は未だに赤く染まり、四肢は自分のものとは思えないほど熱い。肺を焼くような呼吸を繰り返しながら、俺は意識の混濁を必死に押し留めた。
「先ほどの……あれは、何だ」
ヴィクトリアの問いに答えはない。彼女の視線は、俺の足元に転がっている「森の主」の成れ果て――内側から食い荒らされ、無残に萎んだ肉の塊に向けられている。
「魔物を飼い慣らしているのか? それとも、お前自身が……その肉体すら魔物に明け渡しているのか」
ヴィクトリアの言葉には、確かな困惑と、それを塗り潰すほどの強烈な拒絶が混じっていた。
「答えろ。お前の中にいる『それ』は、何者だ」
双剣の先が、わずかに俺の肌を裂いた。一筋の血が鎖骨へと伝い落ちる。
膝をついている今の俺では、反射的にウルガを射出したとしても、彼女の剣が俺の首を落とす方が早い。
俺は、熱を持った喉を震わせ、ゆっくりと顔を上げた。
額から流れる汗が目に入り、視界が滲む。それでも、俺は無機質な眼差しを崩さず、彼女の双眸を真っ向から見据えた。
「……何者、か」
掠れた声で、俺は言葉を絞り出す。
腹の底では、主の力を吸収し終えたウルガが、新たな「獲物」の気配に反応して静かに脈動を始めていた。
「イグナス……貴様、聞こえているのか」
ヴィクトリアの剣先が震えている。それは恐怖ではなく、得体の知れない「悪」を前にした騎士としての高ぶりだ。
「……教官。今すぐ、俺を殺しますか?」
首筋に刃が食い込むのも構わず、俺は歪な笑みを浮かべて問いかけた。
「ですが、俺の心臓が止まれば『災虫』の制御が解けます。こいつらは森の魔物を食い尽くし、そのまま帝都になだれ込みますよ」
ヴィクトリアの眉がピクリと跳ねる。彼女の脳裏に、森の主を内側から蹂躙するあの災虫の凄惨な記録がよぎった。
「あなたがその剣を一引きするだけで、全てが終わる。……それでも、いいんですね?」
脅迫に満ちた問いが、静寂の中に響く。
主から奪った強大な生命力が俺の瞳に宿り、禍々しい燐光を放つ。死の淵から立ち上がった俺の言葉には、抗いがたい重圧が宿っていた。
ヴィクトリアは、震える双剣を握りしめたまま、俺の目を凝視し続けた。騎士としての正義感と、最悪のパンデミックを引き起こすリスク。その天秤が、彼女の内で激しく揺れ動いていた。
やがて、彼女は忌々しげに奥歯を噛み締め、ゆっくりと剣先を下げた。
「……貴様、自分が何を口にしているのか分かっているのか。それは人類すべてを敵に回す宣言だぞ、イグナス」
「敵に回すつもりなんてありませんよ。俺を泳がせておけば、少なくとも『今すぐ』地獄が始まることはない。……それだけで、剣を引く理由には十分でしょう?」
俺は荒い呼吸を整えながら、依然として鋭い殺気を放ち続ける彼女を真っ向から見据え返した。
「俺が生きているうちは、この『災虫』たちが勝手に暴れることはありませんし、俺にもその意思はありません」
俺は首筋の刃をそっと指先で押し戻し、平然とした口調で続けた。
「それに、主が目覚めた原因が俺の虫だとしても、帝都のすぐ近くの森であんな化け物が眠っていたんです。遅かれ早かれ被害は出ていたでしょう。それを俺が討伐したんですから……今回は大目に見てくれませんか?」
交渉を持ちかける俺の言葉に、ヴィクトリアはぴくりとも表情を動かさなかった。
主の死骸が放つ腐肉の臭いと、俺の体から立ち上る異常な魔力の蒸気が混じり合う中、彼女はただ静かに、その冷徹な眼光を俺に突き刺し続けている。
やがて、彼女は一切の迷いを見せずに双剣を鞘へと納めた。
「……演習が終わり、学園に戻ったらすぐに私の部屋へ来い」
拒絶も同意も含まない、事実上の命令だった。
彼女はそれ以上一言も発さず、背を向けると、夜の闇に溶けるような速さでその場を去っていった。残されたのは、無惨に食い荒らされた主の巨体と、過剰な生命力に脈打つ俺の肉体だけだ。
嵐が過ぎ去ったような静寂が戻る。俺は深く、長く、熱い溜息を吐き出した。
「……さて。どう言い訳したものかな」
ライナスたちの元へ戻るため、俺は急速に沈静化を始めた筋肉を叱咤し、歩き出した。
翌朝、亡霊の森はかつてない喧騒に包まれていた。
森の最奥に鎮座していたはずの「主」が、中身を空洞にされた無惨な死骸となって発見されたからだ。
「……何が起きたんだ、これは」
バルトス教官を始めとする回収班が、変わり果てた主の姿を前に絶句していた。周囲には巨大な魔法の痕跡もなく、ただただ「内側から食い荒らされた」という異常な殺害状況。駆けつけた金級の冒険者たちも、その禍々しい死に様に気味悪そうに距離を置いていた。
そんな騒動の渦中、第十六班は森の境界線付近で回収を待っていた。
「おい、ゼン! 昨晩はどこへ行ってたんだ! 主が目覚めたって放送があって、生きた心地がしなかったぞ!」
ライナスが駆け寄り、ゼンの肩を掴んで激しく揺さぶる。
ゼンは眠そうな目をこすりながら、「……悪い。少し離れたところで用を足してたら、戻れなくなってな。結局、夜明けまで木の上で隠れてた」と、淡々と嘘を吐いた。
ガストンは「ちっ、臆病者が。運だけはいいな」と吐き捨てたが、その顔にはどこか、ゼンの無事を確認して安堵したような色が混じっていた。
カレンとミナは、ゼンの姿を一目見るなり、それまで強張っていた表情を劇的に和らげる。二人はもはや、言葉を交わさずともゼンがこの班の「核」であることを確信していた。
「……第十六班、全員の無事を確認。これより回収する。帰還後、解散。ただし――」
上空から降り立ったヴィクトリアが、事務的な口調で告げた。彼女の視線が、一瞬だけゼンを捉える。
そこには昨晩の剥き出しの殺意はなく、鉄の仮面が張り付いていた。
「ゼン・イグナス。貴様は報告事項がある。学園に戻り次第、私の教官室へ来い」
「……了解しました、教官」
ゼンは殊勝な態度で頭を下げた。
ライナスが「また怒られるのか? 災難だな」と苦笑いしながらゼンの背中を叩く。ゼンはそれに薄く微笑み返し、大剣を担ぎ直した。
教官室の重厚な扉の前に立ち、ゼンは二度、硬い音を響かせた。
「失礼します。ゼン・イグナスです」
「入れ」
短く、拒絶に近い返信があった。
扉を開けると、室内にはヴィクトリアが一人、机に腰掛けて待っていた。数人に囲まれ拘束される事態も想定していたゼンは、周囲の死角を視線で払い、誰もいないことを確認してからも、指先に込めた緊張を解くことはなかった。
ヴィクトリアは書類から目を離さず、氷のような声で切り出した。
「単刀直入に聞く。ゼン・イグナス、貴様は今、その『ウルガ』とやらに精神を乗っ取られているのか? それとも、貴様の皮を被った別の化け物なのか」
「……いいえ」
ゼンは一切の揺らぎなく即答した。
「私は私です。あれらはあくまで、私の腹の中に飼い慣らしている『道具』に過ぎません」
ヴィクトリアがようやく顔を上げ、射貫くような眼差しをゼンにぶつけた。
「飼い慣らしている? あの、理性を欠いた捕食の化け物をか。……口先だけなら誰でも言える。今ここで、それを証明してみせろ」
ゼンは無言で一歩前に出た。
ゆっくりと口を開き、喉の奥から這い出す「何か」を誘導する。
ゴボリ、と湿った音が室内に響いた。
ゼンの口内から、主の生命力を吸って掌サイズにまで肥大化した一匹のウルガが、蠢きながら這い出してきた。漆黒の甲殻、無数に生えた鋭利な節足、そして不気味に揺れる触角。
「……っ」
教官として数多の魔物を見てきたヴィクトリアが、思わず椅子を鳴らして身を引いた。その顔には隠しきれない驚愕と、生理的な嫌悪が混じり合っている。教官室という密室で、教え子の口から現れた異形――その光景の異常さに、彼女の冷静な仮面がわずかに剥がれた。
「待て」
ゼンが短く命じると、机の上を走ろうとしていたウルガはピタリと動きを止めた。
「回れ」
ウルガは機械的な正確さでその場をくるりと旋回する。
「ヴィクトリア教官の足元へ行け。……ただし、牙は剥くな。一ミリも触れるな」
ウルガは音もなく床へ降り、彼女のブーツの爪先数ミリの位置で彫像のように静止した。ヴィクトリアが剣の柄に手をかけるのを、ゼンは静かに制した。
「最後です。……爆発しろ」
刹那、ウルガは自らの生命を顧みず、その場で内側から弾けた。
だが、それは主に対して放った殺意ある爆発ではない。自らの肉体を一瞬で粉砕し、毒も体液も撒き散らさぬよう「消滅」に近い形でその存在を終わらせたのだ。
後に残ったのは、数片の甲殻の破片と、静まり返った教官室の空気だけだった。
「……信じていただけましたか? 教官」
ゼンは何事もなかったかのように口元を拭い、無機質な瞳で彼女を見据えた。
教官室を、耳鳴りがするほどの沈黙が支配した。
ヴィクトリアは、先ほどまで異形が蠢いていた床の一点を見つめたまま、微動だにしない。やがて、彼女は搾り出すような声で問いかけた。
「……ゼン。貴様、その腹の中に、今の『それ』をあと何匹飼っている」
「さて。……正確な数は、私にも把握しきれていません」
ゼンは表情を変えず、淡々とはぐらかした。実際にはウルガたちの繋がりを通じて把握はしているが、手の内をすべて晒すほどお人好しではない。
ヴィクトリアの瞳には、依然としてゼンを「人類の脅威」と見なす鋭い光が宿っていた。だが、同時に彼女は思い出していた。この演習中、どれほど過酷な状況でも、黙々と泥を這い、一言の不平も漏らさずに自己を研鑽し続けていたこの少年の姿を。
「……いいだろう。貴様がその制御を失わない限りにおいて、今回の件は私の胸三寸に収めておく。これ以上、騒ぎを大きくしても帝都の混乱を招くだけだ」
それは、教官としての独断による黙認だった。
「下がれ。……その化け物に、貴様の人間性まで食い尽くされるなよ」
「肝に銘じておきます」
ゼンは一礼し、教官室を後にした。
扉が閉まり、廊下の冷たい空気に触れた瞬間、ゼンは肺にある熱をすべて吐き出すように大きく息をついた。
(……そりゃあ、あんな派手に暴れれば、誰かに見られるに決まってる。脇が甘すぎたな)
ゼンは心中で猛省していた。ヴィクトリアを敵に回すつもりなど毛頭ない。彼が望むのは、ただ平穏にこの学園を卒業し、この世界での足場を固めることだけだ。
「……ウルガに頼るのは、本当に極限の時だけだ」
腹の底で蠢く禍々しい生命力を抑え込むように、ゼンは自らの拳を固く握りしめた。
借り物の異能ではなく、自分自身の肉体と技術を鍛え上げることに注力する。二度とあのような「綱渡りの交渉」を強いられないためにも、圧倒的な個としての力を手に入れなければならない。
ゼンは決意を新たに、夕闇の迫る校舎の廊下を、力強い足取りで歩き出した。




