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第25話:初めての強敵

 亡霊の森の監視拠点として設けられた仮設幕舎に、戦慄が走った。


「――偵察の二名と通信が途絶。最後に感知した魔力反応は、森の最奥……主の領域です」


 通信兵の報告を受け、ヴィクトリアの隣に立っていた教官、バルトスが重厚な鎧を鳴らして立ち上がった。彼はヴィクトリアと同様、数多の戦場を潜り抜けてきた帝国正規軍の精鋭であり、実戦経験で彼に並ぶ者は学園内にも数少ない。そのバルトスの顔が、今は苦渋に歪んでいた。


「馬鹿な……『冥府の角鹿(ハデス・スタッグ)』はあと数年は眠り続けるはずだった。何が奴を叩き起こしたんだ」

「原因究明は後だ。今は生徒の命が先よ」


 ヴィクトリアは、鋭い眼光を地図へ向けた。

 彼女の指は、第十六班を含む数組が、主の移動経路上にいることを示している。


「全教官に通達! 演習を即座に中止。非常事態宣言を発令せよ。これより全生徒の緊急回収に入る!」


 ヴィクトリアの怒号に近い指示が飛び、魔導通信が森全域に駆け巡る。さらに彼女は、不測の事態に備えて近隣の宿場町に待機させていた複数の冒険者パーティへも、緊急の出動要請を飛ばした。


「ギルドにも連絡を入れろ。金級、あるいは銀級上位のパーティを最低でも三組は確保して、森の北側から包囲させなさい。報酬は学園が全額持つ!」


 手際よく指示を出すヴィクトリアだったが、その背中には冷や汗が流れていた。


 主は脅威度ランクB超えの化け物だ。熟練の教官二人が瞬時に沈んだという事実は、あの鹿が「通常の状態ではない」ことを示唆している。


「……あり得ないわ」

 彼女は独り言のように呟いた。

 主の眠りは、特定の魔導波長で管理されていたはずだ。それがこれほど唐突に、かつてないほどの殺意を持って覚醒するなど、天変地異でも起きない限り起こり得ない。


(何か……。何かが、あの森の最深部を直接刺激したというの?)


 脳裏に、あの底知れない瞳をした少年の顔がよぎる。三日間の懲罰を、ただ淡々と、かつ合理的にこなし続けたゼン。だが、いくらなんでも一人の生徒が森の主を目覚めさせるなど、今の彼女には想像の範疇を超えていた。


「バルトス、貴方は西側から生徒を集めなさい。私は東、第十六班の回収に向かうわ」

「ヴィクトリア、一人で大丈夫か? 相手はあの『主』だぞ」

「…… 生徒の命と私の命、比べるまでもないわ」


 ヴィクトリアは腰の双剣を引き抜き、暗い森へと弾丸のように飛び出した。


 木々をなぎ倒しながら迫る主の気配。森の空気が、凍りつくような冷気に塗り替えられていく。


「全員、収容完了したか!」


 仮設拠点のバルトスが、次々と運び込まれる生徒たちの数を確認しながら叫ぶ。


 要請に応じて駆けつけた複数の冒険者パーティが、森の各所で生徒を保護し、撤退を支援していた。金級を含む実力者たちの到着、そしてヴィクトリアが東へ向かったことで、教官たちの間にはわずかな安堵が広がりつつあった。


 だが、その安堵は一瞬で瓦解した。


「――バ、バルトス教官! 主の魔力反応が急上昇! 速度を上げています!」

「何だと……? 北へ向かっているのか!?」

「いえ、真っ直ぐ東……第十六班の座標に向かって一直線です!」


 冥府の角鹿(ハデス・スタッグ)は、もはや森を徘徊する巨獣ではなかった。それは、自らの聖域を侵す「未知の脅威」を排除せんとする、漆黒の雷光と化していた。巨木を紙細工のようになぎ倒し、立ち塞がるものすべてを粉砕しながら、その鹿は猛進する。


 その速さは、熟練の冒険者ですら追いつけない異常なものだった。




 耳の奥で、不快な耳鳴りが激しさを増していく。俺は焚き火の傍らで目を見開いた。


 胃袋の奥、感知能力に秀でたウルガたちがかつてないほど激しく共鳴していた。それは、俺がこの世界に来てから初めて経験する、全細胞が警鐘を鳴らすような「生物的本能」に基づいた危険信号だった。


 腕に、ざわりと鳥肌が立つ。


「…………」

 寝息を立てるライナスたちの顔を、焚き火の残火が赤く照らしている。


 何かが来ている。それが何であるかは知らない。だが、通常の索敵範囲などとうに超えた速度で、この場所を目指して突進してくる「巨大な脅威」の存在だけは、肌を刺す殺気として理解できた。


 狙いはおそらく俺。


 いや、正確には俺の内側で肥大化した、この禍々しい影の気配を「異物」として排除しに来ている。


 ここで待ち構えれば、間違いなくライナスたちは巻き添えになる。奴らの実力では、その脅威の余波だけで肉が弾け飛ぶだろう。


 俺は音を立てずに立ち上がった。

 背負った大剣の重みを肩で確かめ、湿った土を静かに蹴る。


 ライナスたちから遠ざかるように、かつ、その脅威の接近を最短距離で迎え撃つ方向へ。


 俺は暗闇に塗り潰された森の奥へと、単身で潜り込んだ。

視界の端では、ウルガが共有してくるヴィジョンが、凄まじい速度でこちらへ近づく「圧倒的な質量の光」を捉え続けている。


 ……えぇ、嘘やん。


 その禍々しい魔力の波長、そしてウルガが捉えた巨大な角のシルエット。俺の脳内にある『スロン』のデータベースが、瞬時にその正体を弾き出した。


「『冥府の角鹿(ハデス・スタッグ)』……」


 かつては数十人のプレイヤーが連携して挑む、最序盤のレイドボス。


 ゲーム画面の向こう側にいたはずの「絶望」が、現実の質量と殺意を持って俺の命を刈りに来ている。これは演習の範疇を完全に逸脱した、想定外の事態だ。


 ゴポォっ。


 俺は腹の底に溜まったウルガを全て吐き出した。それだけではない。森の各所に哨戒に出していた個体もすべて呼び戻し、主へと差し向ける。


 直後、森の空気が爆ぜた。


『オオォォォォオオォォーーーン!!』


 鼓膜を震わせる咆哮と共に、主が姿を現した。


 月明かりに照らされたその巨躯は、苔と腐肉を纏いながらも神々しいまでの威圧感を放っている。主は俺を視界に捉えるなり、その四本の角を魔導変異によって瞬時に伸長させた。


 黒い槍と化した角が、逃げ場を塞ぐように四方から突き刺さる。フラッシュバックするのはダンプに轢き殺された記憶。


 俺は全身の筋肉に意識を叩き込み、限界を超えた出力を強制した。


 鍛え上げた脚力が泥を爆発させ、数センチの差で死の刺突を回避する。回避した瞬間に背後の巨木が豆腐のように粉砕される音が響き、背筋に冷たい戦慄が走った。


 何してんだ虫ケラ共っ、さっさと殺せ。


 俺の号令と共に、オーガスティン城跡の戦いで進化を遂げたウルガたちが、主の脚元から這い上がった。


 影の群れは、通常の剣では傷一つつかないであろう主の「硬質化した剛毛(ハード・ファー)」の隙間を縫い、その肉を食い破る。


 主が苦悶に近い咆哮を上げ、激しく暴れ回る。


 ウルガの牙は確かに主の肉に届き、ダメージを与えているはずだ。だが、圧倒的な生命力を持つ主にとって、それは小蝿に噛まれた程度の苛立ちに過ぎない。


 主はさらに魔力を高め、その周囲一帯を死の波動で塗り潰そうとしていた。


 俺は大剣を強く握り直す。逃げ切ることは不可能。ここで倒し切るか、俺が肉塊になるか。二つに一つだ。


 主の巨体は、一歩踏み出すだけで地響きを立てる圧倒的な「質量」そのものだった。進化を遂げたとはいえ、一匹一匹が羽虫やゴキブリに過ぎないウルガの牙では、主の強靭な肉体を表面から断つには至らない。


 だが、ウルガの真価は純粋な物理破壊ではなく、その執拗な「侵入能力」にあった。


 影から解き放たれた無数のウルガたちは、主の剛毛を潜り抜け、耳、鼻、口、そして角の付け根のわずかな隙間から、その巨大な体内へと一斉に潜り込んだ。


 とにかく殺せ。蝕んで、毒で犯して、自分達の命を顧みるな。


 俺の呟きと呼応するように、主の体内に入り込んだ黒い影たちが一斉に毒腺を解放した。血管に逆流した神経毒と腐食毒は、巨大な心臓の鼓動に合わせて瞬く間に全身を駆け巡り、内側から細胞を壊死させていく。


 主の動きが急激に止まった。目、鼻、口、あらゆる孔という孔からどす黒い血が濁流のように噴き出す。凄まじい生命力を誇るBランクの巨獣が、耐え難い内臓の激痛に膝を折り、無様に泥の中に沈み込んだ。


 俺は、仕上げの命令を下す。


「爆発しろ」


 その一言で、主の肺や胃壁に張り付いていた個体たちが、自らの肉体を「爆縮」させた。体内での爆発によって、ウルガが保持していたすべての毒、牙の棘、そして次世代の種子が主の体腔内へと飛散した。


 主の膨大な生命力を栄養源として、五十匹ほどの幼体が爆発的な速度で孵化を開始。一匹一匹が掌ほどの大きさにまで急速成長し、その鋭利な脚と顎で内側から臓腑を喰らい、肉を突き破り、外へと突き出す。


『オオォォォ、アガッ……ガァァァァッ!!』


 主の雄叫びは、もはや威厳など微塵もない、無様な断末魔へと変わっていった。五十ほどの個体が、その強靭な生命力を吸い尽くし、内側から巨体を食い荒らしては突き破る。主の肉体は異形に膨れ上がり、見る間に萎んでいった。


 その一部始終を、少し離れた樹上でヴィクトリアは目撃していた。あまりの光景に、彼女は息をすることさえ忘れて呆然と立ち尽くしている。


(なんなの……あれは……)


 彼女の視界にあるのは、一人の少年ではない。森の主という絶対的な強者を、文字通り「内側から解体」し、蹂躙し尽くそうとする圧倒的な異形の生物群だ。


 主の断末魔が途切れ、巨大な死骸が静寂の中に横たわる。

 俺はその死骸から溢れ出す、成長を終えたウルガたちの冷たい気配を感じ取り、静かに息を吐いた。


 主の巨躯を内側から食い破り、掌ほどの大きさにまで成長したウルガたちが、役目を終えたかのように死骸から這い出してくる。


 俺はそれらを冷徹に見据え、大きく口を開いた。

 今回、体内に戻すのは増えすぎた雑兵ではない。主の膨大な生命力――「経験値」を最も多く貪り、その特質を色濃く受け継いだ個体のみを厳選して回収する。


「……戻れ」


 俺の言葉に従い、選別されたウルガたちが俺の足元から這い上がり、衣服を抜け、肌を滑って喉奥へと次々に潜り込んでいく。粘膜を擦る節足の感触と、胃の腑へと落ちていく重苦しい感触。


 その瞬間、劇的な変化が訪れる。


 胃の腑に定着したウルガを通じて、主が持っていた圧倒的な生命の奔流が、俺の四肢の末端へと一気に逆流してきた。

 演習での蓄積疲労、大剣を振り回したことで生じていた筋肉の微細な断裂、そして森を駆けた際の擦り傷。それらすべてが、細胞が沸騰するかのような熱と共に急速に塞がり、癒えていく。


 視界が冴え渡り、全身に爆発的な力が充満する。これまでにない「全能感」が脳を焼いた。


「が……っ、あ……!」


 だが、その直後。器である俺の肉体に対し、注ぎ込まれた生命力の圧があまりにも過剰だった。


 血管が裂けんばかりに激しく脈打ち、熱を帯びた筋肉がミシミシと悲鳴を上げる。肉体の強制的な進化が精神の許容量を超え、俺は耐えきれずその場に激しく膝をついた。


 呼吸は荒く、吐き出す息は熱い。


 過負荷に耐える俺の耳に、静かな、だが凍てつくような金属音が届いた。


 チャキ……。


 背後。

 そこには、いつの間にか樹上から降り立ち、二振りの双剣を構えたヴィクトリアが立っていた。


 彼女の瞳には、教官としての慈悲も、生徒への心配も微塵もない。ただ、目の前の「正体不明の化け物」を屠るための、研ぎ澄まされた殺意だけが宿っていた。


 月光に照らされた鋭利な双剣の先が、膝をつき動けない俺の首筋を静かに狙う。

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