第24話:二つの暴力
「亡霊の森」の深部。そこには、第十六班の整然とした行軍とは対照的に、死の絶望に完全に支配された一団があった。
第七班。男子四名、女子一名で構成されたその班は、すでに満身創痍という言葉すら生温い状況にあった。エリート候補生としての自負や、名門校の制服に袖を通した時の高揚感などは、この凄惨な演習の初日ですべて泥の中に溶けて消えていた。
「……クソッ、なんでこんな時に、俺たちが……。エリートの学び舎じゃなかったのかよ、ここは……!」
男子生徒の一人、ホルムが泥にまみれた右脚を抑えて呻く。先ほど遭遇したゴブリンの群れは何とか退けたが、不意打ちを受けた彼の脚は深く切り裂かれ、ドクドクと鮮血が腐葉土を汚していた。
三日間、満足な睡眠も与えられぬまま叩き込まれた基礎教練、そしてこの実戦演習。極限の疲労は判断力を奪い、恐怖を増幅させる。彼らにはもう、方角を確認する冷静さも、互いを労わる余裕も残されていなかった。
彼らの脳裏をよぎるのは、士官学校の講義で叩き込まれた、ある公的機関が定めた絶対的な指標だった。
一五〇年の歴史を誇る大陸機関、通称「ギルド」。
かつての大戦終結後、人寰の治安維持を目的に全土の統率者たちが創設したこの組織は、今や世界に欠かせないインフラとなっている。魔物の残党や匪賊へと堕ちた傭兵の討伐など、多岐にわたる依頼を「冒険者」と呼ばれる猛者たちへ仲介し、管理するシステムだ。
そのギルドが膨大な観測データに基づき策定した「脅威度ランク」において、目の前に現れた三頭の「腐肉狼」はDランクに分類される。
それは、訓練を受けた新米兵士が数人がかりでようやく仕留められる「兵士級」の魔物。平時であれば教官の監督下で対処すべき対象だが、今のボロボロな第七班にとっては、抗いようのない死神の軍勢と何ら変わりはなかった。
腐肉狼は、その名の通り死臭に敏感だ。ホルムの傷口から流れる鮮血の香りが、彼らの食欲を最悪の形で刺激していた。
三頭の狼が、腐敗臭を撒き散らしながらじりじりと包囲を狭める。負傷したホルムの顔から完全に血の気が引く。その絶望的な静寂を、無遠慮な足音が踏み荒らした。
「――お。ちょうどいいのがいたな」
現れたのは、返り血で汚れた大剣を肩に担いだゼンだった。
ゼンは冷静に戦況を分析していた。流石に三頭の狼を今の状態で相手にするのは、少々骨が折れる。三日間の懲罰による筋肉の悲鳴、そして蓄積した乳酸が、鉄の枷のように四肢を重くさせていた。だが、ゼンはその「重み」さえも、自身の出力限界を測るためのデータとして受け入れている。
彼は周囲に視線を走らせ、第七班の面々が恐怖で視界を失っていること、そして教官の監視が届かない死角であることを瞬時に確認した。
次の瞬間、ゼンの口がわずかに開く。
そこから、弾丸というよりは「発砲」という表現が相応しい速度で、漆黒の塊――ウルガが射出された。
影の奔流は一直線に奥の一頭へ突き刺さる。ウルガは狼の背中を食い破り、内部からその肉体を侵食した。魔力強化された皮など紙同然に切り裂かれ、狼の巨体は内側から弾け飛ぶようにして、原型を留めない肉塊へと変貌した。
凄まじい「死」の気配。
ウルガの純粋な個体としての強さは、おそらく脅威度ランクで言うところのBランク(都市破壊級)に匹敵する。一地方の騎士団が総出で挑むような天災級の殺気を間近で感じ、残りの二頭は本能的な恐怖に叩き落とされた。
一頭は悲鳴のような遠吠えを上げ、即座に森の奥へと逃亡した。そして残されたもう一頭が、恐怖で一瞬、その場に硬直する。
ゼンはその隙を見逃さなかった。
肩に担いでいた大剣を滑らせるように下ろし、その圧倒的な質量を、恐怖に硬直する狼へと叩きつける。
ゼンが大剣という、本来なら連撃に向かない武器を隕石のように振り回せるのには明確な理由がある。
幼少期、バドという達人から叩き込まれた殺人術の極意。「重い負荷を、最小限の予備動作で最高効率の破壊へと繋げる」操法。疲労で鈍った反射神経を、染み付いた「型」が補完する。重力と遠心力、そして肉体のバネを最短経路で繋ぎ合わせるその動きが、鈍重な鉄塊を死の旋風へと変えていた。
一撃目は、逃げ遅れた狼の背を断ち割り、泥の中に叩き伏せる。
二撃目は、もがくその胴体を上から垂直に、杭を打つような軌道で踏み潰すように振り下ろす。
ドッ、ボキリ、と。
骨が粉砕され、内臓が爆ぜる不快な音が静かな森に響き渡った。ゼンは一撃ごとに生じる反動を殺さず、むしろ次の旋回への予備動作へと変換させている。その動きはもはや演舞に近いほど無駄がなく、流れるような動作でDランクの魔物をただの肉塊へと変容させていった。
最後に、トドメとして振り下ろされた剣先が、狼の頭蓋を地面ごと抉る。
「…………な、なんだ……今、何が……」
第七班の少年たちは、目の前で繰り広げられたあまりに一方的な蹂躙に、最早言葉を発することすらできなかった。一方のゼンは、彼らには一瞥もくれない。ただ無造作に、ぐちゃぐちゃになった肉塊の隙間に潜んでいた「影」――ウルガを、己の影へと静かに還らせた。
「お、おい……待ってくれ! 助けて……!」
ホルムが掠れた声で呼びかけるが、ゼンは一度も振り返らない。
彼にとって第七班は、疲労困憊の肉体がいかに効率的に「作業」をこなせるかを確認するための「物差し」に過ぎなかった。返り血を浴びた背中が、薄暗い森の奥へと消えていく。その去り際は、英雄の救済などではなく、嵐が過ぎ去った後のような、ただ圧倒的で無機質な死の余韻だけを残していた。
ゼンが音もなく茂みから姿を現すと、第十六班の面々は一様に安堵と、それ以上の緊張をその表情に浮かべた。
「ゼン! お前、勝手に持ち場を離れるなと言っただろう!」
ライナスが駆け寄り、声を荒らげる。班長としての責任感ゆえの怒りだが、その瞳の奥には親友を案じる本心が滲んでいた。ゼンは無機質な表情のまま、「ごめん、索敵範囲を広げ過ぎた」とだけ答え、淡々と頭を下げた。
「ちっ、勝手なことしやがって。迷子になって俺たちの手を煩わせるなよ」
ガストンが鼻を鳴らし、嫌味を吐き捨てる。だが、その言葉とは裏腹に、彼の視線は泳いでいた。ゼンの大剣に付着した、先ほどよりも濃い魔物の返り血。それを見たガストンは、腹の底で言いようのない焦りと、圧倒的な実力差への驚愕を感じていた。
一方で、女子二人の反応は対照的だった。
カレンは、戻ってきたゼンの姿を無言で見つめていた。彼女はすでに直感している。この班の矛はゼンであり、それを束ねる盾がライナスであるという構図を。気弱なミナも、ゼンの姿を見て小さく息を吐いた。
夜が訪れた。
巨木の根元に陣取った第十六班は、束の間の休息に入った。
ゼンは大剣の先端で手際よく地面を掘り下げ、即席の炉を作る。湿った落ち葉を避け、乾燥した小枝を積み上げて、火を熾した。パチパチと爆ぜる火の粉が、五人の疲れ切った顔を赤く照らし出す。
ライナスが運んできたのは、道中で仕留めた「角兎」だった。ゼンはそれを受け取ると、腰のナイフを抜き、慣れた手つきで解体していく。
「……お前、公爵家の坊ちゃんじゃなかったのかよ。なんで
そんなに手慣れてるんだ」
「生きるために必要なことを学んだだけだ」
ゼンは淡々と答え、切り分けた肉を焚き火にかざした。じりじりと脂が燃える香ばしい匂いが、飢えた五人の胃袋を刺激する。
「……美味しい」
焼けた肉を口にしたミナが、この演習で初めて小さな微笑を浮かべた。カレンもまた、熱い肉を頬張りながら、少しだけ肩の力を抜く。過酷な訓練、侮蔑、そして命のやり取り。張り詰めていた糸が、温かい食事によってわずかに緩む。
「ライナス、明日は東の沼地を迂回するルートで行く。あそこには重装鎧蟹の群れがいる」
ゼンが肉を噛み切りながら告げる。ライナスは驚きつつも、「……わかった。お前が言うなら、そうしよう」と深く頷いた。
焚き火の爆ぜる音が、静まり返った夜の森に響く。
ライナスたちが深い眠りに落ちた頃、ゼンは一人、火の粉を見つめていた。
その時、ゼンの影が不気味に蠢いた。
宿主の生命力と引き換えに、ウルガを介して強制的に促される超常的な修復力。筋断裂を影が這い回るようにして即座に繋ぎ合わせていく「超速成栽培」。その肉体の急速な発達に呼応するように、身の内に潜むウルガの魔力が活性化している。
それは通常のウルガが持つ低級な気配とは一線を画す、根源的な恐怖を煽る禍々しい波動だった。
その異質な波紋は、森の静寂を浸透し、最も深い「最奥」へと届く。
――そこにいたのは、亡霊の森の主。
脅威度ランクにおいてBランク上位、あるいはそれ以上に分類される巨獣、「冥府の角鹿」だった。
苔むした巨体。四本の禍々しい角はねじれ曲がり、その瞳は燐光を放っている。本来、この森の絶対的な捕食者として数十年単位の眠りについているはずの主が、ゼンの放った「同格以上の捕食者」の気配に、本能的な殺意を滾らせて目を覚ました。
「……おい、今の反応を見たか」
森の各所に配置されていた二人の教官が、その異変にいち早く気づいた。
彼らは生徒たちの安全を確保し、脱落者を回収するための
「番人」であり、実力はCランク以上の熟練騎士だ。
「主が目覚めた。あり得ん……何かが呼び寄せたのか?」
「確認に向かう。救助信号を出す準備をしろ」
二人は音もなく木々を駆け、主の気配が漂う最奥へと偵察に向かった。だが、彼らが対峙したのは、想像を絶する暴力だった。
「――ガッ……!?」
先頭を走っていた教官が、声を上げる暇もなく宙に浮いた。暗闇から突き出された巨大な角が、彼の重装鎧ごと腹部を貫通し、巨木に縫い付けたのだ。
「貴様ッ……!」
もう一人の教官が剣を抜き放とうとした瞬間、冥府の角鹿が放った漆黒の魔力が森を薙いだ。物理的な質量を持ったその咆哮は、熟練の騎士である彼の肉体を、木の葉のように容易く圧し折る。
絶望的なまでの力。
救助信号を上げる暇も、撤退の合図を出す暇も、その「主」の前では与えられなかった。帝国の騎士として幾多の戦場を潜り抜けてきたはずの彼らは、自身の死の理由すら理解できぬまま、物言わぬ肉塊へと成り果てた。
森の最奥に、新たな死の臭いが立ち込める。
冥府の角鹿は、貫いた教官の骸を無造作に振り落とすと、その燐光を放つ瞳を一点へと向けた。
霧の向こう側――自分を目覚めさせた「異質な影」を持つ少年のいる方向へと。




