↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

24/87

第23話:亡霊の森

 三日目の夜。日付が変わる頃、俺とライナスはようやく課せられた補強筋トレの全メニューを完遂した。


 深夜の訓練場を支配するのは、凍てつくような静寂と、俺たちの荒い呼吸音だけだ。ライナスはもはや言葉を発する気力もなく、泥にまみれた石畳の上に突っ伏して、肺の奥から絞り出すような呼吸を繰り返している。


 俺もまた、全身の筋肉が熱鉄を流し込まれたように軋み、血管の一本一本が破裂せんばかりの脈動を刻んでいた。だが、意識の奥底では、言葉にできない快哉を叫んでいる。


 この三日間、罰という名の下で、誰に邪魔されることもなく自らの肉体を限界のその先へと追い込み続けた。その結果、俺の身体は確実に一段上の階梯へと押し上げられた。そんな確信が、熱を帯びた筋肉を通じて脳に伝わっていたからだ。


 泥と汗、そして嫌がらせでかけられた汚れにまみれた体を、深夜の冷水で手短に流す。濡れた髪のままベッドへ倒れ込むが、心地よい眠りが訪れるのを脳が許さない。神経は研ぎ澄まされ、肉体は次の「負荷」を求めて飢えていた。


 だが、意識が闇に沈んだのも束の間、無慈悲な起床ラッパが兵舎に鳴り響いた。


 仮眠時間は一時間にも満たない。

 極限状態の俺たちの前に現れたのは、白髪の女教官、ヴィクトリアだった。彼女は青白い顔で整列する少年たちを、冷徹な右眼で一瞥した。憐れみも、あるいは賞賛もない。ただ、選別を待つ資材を見るような視線だ。


「本日をもって、貴様らの慣らし運転は終了だ。これより『洗礼』を行う」


 ヴィクトリアの声は低く、そして鋭かった。俺たちは重い体を引きずるようにして、士官学校の裏手に広がる「亡霊の森」へと向かった。


 そこは帝都の近郊でありながら、魔導障壁の揺らぎによって低級の魔物が絶えず這い出す、天然の修練場だ。鬱蒼と茂る樹々が日光を遮り、腐敗した土の匂いが立ち込めるその森は、足を踏み入れる者すべてを拒絶するような威圧感を放っていた。


「二十四時間の単独、あるいは班単位でのサバイバルだ。支給されるのはナイフ一本と最低限の火打石のみ。この森で明日まで生き延び、指定ポイントへ辿り着け。……心が折れた者は、救助の信号弾を上げろ。その瞬間に貴様らは『荷物』として回収され、二度とこの門を潜ることはない」


 恒例行事となっているこの演習は、士官候補生としての資質を問う最終試験に近い。低級とはいえ、空腹と疲労が極限に達した子供にとって、森を徘徊する魔物は死の象徴そのものだ。事実、ここで毎年、一定数の生徒が絶望し、自ら再起不能の烙印を押して立ち去っていくという。


 隣でライナスが、震える足に力を込め、自分を鼓舞するように顔を上げた。


 その瞳には、恐怖を塗りつぶさんとする必死の意志が宿っている。一方で、カイルたちは怯えを隠すように、これ見よがしに家柄を誇るような大言壮語を吐き、互いを牽制し合っていた。その虚勢が、森の入り口に漂う重圧の前ではいかに無力か、彼ら自身も気づいていない。


 俺は、重く湿った森の入り口を無表情に見つめていた。三日間の極限の追い込みでボロボロになった身体。空腹で回らない頭。そして実戦形式のサバイバル。不条理を煮詰めたようなこの状況。だが、俺にとってはこれ以上ない「実力確認」の舞台が整ったに過ぎない。


「行くぞ、ライナス。……死ぬなよ」

 俺は腰に差した粗末なナイフの感触を確かめ、薄暗い森の奥へと足を踏み出した。


 「亡霊の森」に一歩足を踏み入れた瞬間、肌にまとわりつく空気の密度が一段階、重くなった。


 頭上を覆い尽くす巨大なシダ植物と、黒くねじれ曲がった巨木。それらが日光を徹底的に遮断し、森の底には永遠のような薄暗がりが支配している。


 足元には湿った腐葉土が、まるで誰かの臓物のように分厚く積もり、一歩歩くたびに「クチャリ」と沼のような嫌な音が反響した。どこか遠くで、獣の悲鳴とも、あるいは鳥が人間を嘲笑っているかのような異様な鳴き声が木霊している。


 おぇっ


 俺は背後の視線が切れたのを見計らい、数匹のウルガを喉から滑り出させた。


 奴等を通じて、俺は森の「裏側」を把握していく。木の陰、あるいは岩の隙間。気配を完璧に殺したつもりだろうが、数人の教導官が配置についているのがわかった。救助、あるいは監視。彼らは生徒たちの生死を分ける境界線として静かにこの地獄を俯瞰している。


「ひっ」


 亡霊の森。誰かの小さい悲鳴が響く。そこに潜む魔物達は覚えている限りだと、


 腐った泥を全身に纏い、死臭を撒き散らしながら音もなく徘徊する「腐肉狼(スカベンジャー・ウルフ)」。

 枯れ枝に擬態し、獲物が通りかかるのを粘液を垂らしながら待つ「捕縛蔦(スネア・ヴァイン)」。

 そして、その奥の沼地。のっそりと、しかし確実な威圧感を持って横切る、巨大な外殻を持った「重装鎧蟹(アーマード・クラブ)」。


 それらはかつて、俺が画面の向こう側で幾度となく狩り尽くした――あるいは服従させた魔物達。


 「亡霊の森」の深部へ向かうにつれ、第十六班の足取りには明らかな差が出始めた。構成だけを見れば、前衛と後衛、バランスは整っている。だが、その内情は脆弱なガラス細工のようだった。


「おい、ゼン! さっさと歩け。家柄だけの奴が足を引っ張るんじゃねえぞ。少しは走ったらどうなんだ、この出来損ないが!」


 苛立ちを隠そうともせずに声を荒らげるのは、ガストンだ。筋骨隆々とした体躯に似合わず、その瞳には森の暗がりに怯える色が混じっている。彼は典型的な無鉄砲タイプで、ことあるごとに俺を見下すことで、自らの内に膨れ上がる恐怖心を必死に誤魔化していた。


 その後ろでは、二人の女子が身を寄せ合っている。一人はミナ。小動物のように震え、今にも泣き出しそうなほど気弱な少女だ。杖を握る指先は白く強張り、足元の小さな音にさえ過剰に肩を跳ねさせている。そして、その手を力強く引いているのが、幼馴染のカレンだった。


 カレンは凛とした顔立ちに強気の光を宿している。彼女は俺の素性について「有名な公爵家の三男」程度の認識しか持っていないようだが、俺の常に無機質な様子が、彼女の神経を逆撫でしているらしい。


 時折、探るような、あるいは拒絶するような鋭い視線を俺に向けてくる。だが、そんな彼女自身も、指先が微かに震えているのを俺は見逃さない。隣で震えるミナを支えるために、彼女はあえて強気な仮面を被り、自分自身さえも欺こうとしていた。


「ゼン、あまり前に行きすぎるなよ……。この辺りは本当に、空気が不気味だ」


 ライナスが剣の柄を握りしめながら、低い声で警告する。三日間の追い込みで、彼の疲労は本来ピークのはずだ。だが、彼は班のムードメーカーとして、そして班長としての責任感から、必死に周囲を鼓舞し、瓦解しかけている班の結束を繋ぎ止めようとしていた。


「……静かにしろ」

 俺は短く断じ、足を止めた。偵察に出したウルガが、すぐ先の茂みに潜む「獲物」を捉えた。その感覚が、俺の脳内に冷たい警告灯を灯す。


「な、なんだよ急に! 命令すんなって言ってんだろ!」

 ガストンが食ってかかるが、俺はそれを一瞥だにせず、視線を一点に固定した。茂みの奥、腐葉土の隙間に、骨のように白い不自然な光沢を持った外殻がうごめいている。低級魔物「死斑蜘蛛(ボーン・スパイダー)」。


 CGではなく、剥き出しの実物として目の前にあるその光景。強靭な筋肉が躍動し、鋭い牙が光り、周囲の空間には溢れ出す魔力の残滓が滞留している。三日間の懲罰で鉛のように重かったはずの体が、その光景を目にした途端、不思議と軽くなるのを感じた。


 相変わらずきめぇな。


 思わず口元に、歪んだ笑みが浮かぶ。ライナスたちが死の恐怖に顔を青ざめさせ、教官たちが冷徹な眼差しで脱落者を待つこの場所は、俺にとっては懐かしささえ覚える「狩場」に過ぎない。ここにあるのは、効率と、結果と、そして確かな「成長」の機会だ。


「……おい、ゼン! そのなまくら担いでボサッとしてんじゃねえ! 役に立たないなら盾にでもなれよ!」


 ガストンが腰の剣を抜き、震える声で吠えた。俺がこのサバイバルのために、あえて筋力トレーニングも兼ねて選んだ、身の丈ほどもある「大剣」。魔力適性のない俺が扱うその鉄の塊は、彼らにはただの邪魔な重荷にしか見えていない。


「ガストン、今は言い合ってる場合じゃない! くるぞ、構えろ!」


 ライナスが班長として声を張り上げ、盾を構えた。やつれた顔に鋭い眼光を宿し、彼は迫り来る脅威を真っ向から見据える。「カレン、ミナ! 下がってろ! 詠唱の距離を保て!」


 ライナスの指示を受け、短杖を握るカレンが震えるミナを庇いながら、慎重に距離を取る。長杖を抱えたミナは、もはや呪文の初文を唱える余裕もなく、ただ涙目で蜘蛛の巨体を見上げ、絶望に身体を硬直させていた。


「……チッ、左からくるぞ! ガストン、右を抑えろ! ゼンは……そこで耐えてろ!」


 ライナスが叫ぶ。その瞬間だった。死斑蜘蛛が、八本の脚をバネにして爆発的な跳躍を見せた。


 ガストンが悲鳴に近い叫び声を上げながら、がむしゃらに剣を振り回す。だが、魔力の乗っていない、恐怖に支配された筋力だけのスイングは虚しく空を切り、蜘蛛の鋭利な鎌状の脚が彼の無防備な肩を狙って振り下ろされた。


「あ――」


 ガストンが、訪れるはずの死の衝撃を察し、絶望に目を見開いたその刹那。


 ドォォォォンッ


 泥を爆発させるような重低音が、森の静寂を粉砕した。俺は背負っていた巨大な鉄の塊――大剣を、一切の予備動作なく、最短の軌道で振り抜いていた。


 その動きの根底にあるのは、幼少期、父グラドが呼び寄せたバドという達人から叩き込まれた、文字通り「死の淵」を歩かされるような苛烈な剣術だ。一日の終わりの食事が、その日の鍛錬で一度でもバドに触れられたか否かで決まるような、生存本能を削り出す日々。


 あの不条理なほど過酷な鍛錬が、俺の肉体に「重い負荷を、最小限の力で、最も効率的に動かす」ための、極限まで洗練された操法を刻み込んでいる。数日に及ぶ極限の追い込みを経て、俺の筋肉と神経は、その幼少期の記憶を完全に呼び覚ましていた。


 重力。遠心力。そして、この瞬間のために練り上げたステータスの全てを注ぎ込んだ一撃が、空中で獲物を狙う蜘蛛の胴体を、逃げ場のない正面から迎え撃った。


 ――グチャリ、という生理的な嫌悪感を煽る湿った破壊音が響く。


 白く硬い外殻を誇り、並の剣では火花を散らして弾かれるはずの死斑蜘蛛が、まるで大型の重機に正面衝突したかのように吹き飛んだ。蜘蛛は悲鳴を上げる間もなく、数十メートル先の巨木に激突。その衝撃で外殻が粉々に粉砕され、毒々しい緑色の体液を周囲に撒き散らしながら、一瞬で絶命した。


「…………え?」

 ガストンが尻もちをついたまま、呆然と俺を見上げた。カレンとミナも、杖を握りしめたまま、彫像のようにその場に硬直している。大剣の重みで肩の筋肉が微かに軋むが、その痛みはどこまでも心地よい。


 俺は返り血を拭いもせず、大剣を再び背負い直した。ライナスが喉を鳴らし、まるで未知の魔物でも見るような目で、俺という存在を凝視している。


「ゼン、お前……」

 周囲の茂みがガサガサと不気味に波打った。ウルガの視覚が、さらに三匹の死斑蜘蛛が包囲しているのを捉えている。

「ひ、ひっ……まだ来るのかよ! もう無理だ、勝てるわけねえ!」


 ガストンが情けない声を上げて立ち上がる。ライナスが気力を振り絞って吠えるが、俺は彼らの陣形が整うのを待たなかった。三日間に及ぶ徹底的な肉体の追い込みで、俺の身体は飢えていた。もっと重い負荷を。もっと確実な、命の終わりを告げる手応えを。


 俺は再び、背中から大剣を引き抜く。身の丈ほどもある鉄の塊が、空気を切り裂く重厚な風切音を立て、俺の手の中で馴染んでいく。


「ゼン、待て! 一人で行くな、囲まれるぞ!」

 ライナスの制止を背中で聞きながら、俺は最短距離で大剣を叩きつけた。


 一撃。無駄な振りかぶりも、装飾的な予備動作も一切ない。ただ、バドから教わった通りに「位置エネルギーを、一点に落とす」だけで、蜘蛛の硬質な頭部が爆ぜた。


 二撃。一撃目の反動を逃がさず、そのまま旋回して横に薙ぐ。逃げようとした三匹目の脚をすべて刈り取り、もがく胴体へと剣の重みを乗せて、容赦なく踏み潰す。


 三撃。背後から迫った四匹目に対し、振り向きざまの垂直斬りを放つ。左右に綺麗に両断された肉塊が、噴き出す体液と共に泥の上に転がった。


 それは、もはや戦闘というよりは、冷徹なまでの「作業」だった。魔力強化に頼らず、純粋な物理法則と、バドに刻み込まれた技術の暴力。


「…………嘘でしょ」


 カレンの呟きが、静まり返った森に、震える響きとなって染み込んでいく。息を切らすこともなく、ただ淡々と、機械的に魔物の命を「処理」していく少年。三日前の食堂で、無様に耐えていた「出来損ないの三男」の面影は、そこには微塵も存在しなかった。


 深夜、ライナスが泥のように眠る傍らで、俺は自らの肉体に限界を超えた負荷をかけ続けていた。本来、十二歳の未発達な骨格が耐えられる負荷ではない。だが、俺の内側には「虫達」がいる。


 宿主の生命力と引き換えに、ウルガを介して強制的に促される超常的な修復力。筋トレによってズタズタに断裂した筋繊維の隙間を、無数の蟲たちが補完するように蠢き、即座に、そして以前よりも太く強固に繋ぎ合わせていく。破壊と再生のサイクルを、通常の生物が要する時間の数十倍の速度で繰り返す、禁断の超速成栽培。


 その副産物として、俺の身体は三日前とは比較にならないほど密度を増していた。制服の下に隠された筋肉は、鋼のような反発力を備え、骨格はその異常な出力に耐えうるよう、内側から補強されている。大剣を「作業」のように扱えたのは、幼少期からの蓄積と、この数日間で急激に馴染ませた肉体の圧倒的な地力ゆえだ。


「ゼン、待ってよ……!」


 カレンが焦ったように声を上げ、俺の後に続く。ガストンは、先ほどまで見下していた相手の背中に漂う威圧感に圧倒され、何も言えずにただ剣を握り直すのが精一杯だった。俺は歩きながら、自らの掌を握り、開いた。神経の末端の末端まで、支配権が浸透していく感覚。まだ、馴染みきっていない。もっと負荷を。


 今の戦闘でわかった。大剣の重みに対して、まだ左足の踏み込みがコンマ数ミリ甘い。蟲による強制的な修復で筋密度は上がっているが、それを十全に使いこなすための神経系の伝達が、まだ最適化の途上にある。


 これでは、効率が悪い。


「……ゼン、おい。本当に、そっちで合ってるのか?」


 後ろからガストンが、もはや隠しきれない震えを声に滲ませて問いかけてくる。


「……多分な」


 俺は淡々と告げ、湿った土を蹴った。

 周囲の樹々がさらに密度を増し、光を完全に遮断していく。俺は闇に完全に慣れたその眼で、次の獲物――さらに強固な装甲を持つ魔物の影を、確実に捉えていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。