第22話:テンプレ貴族
兵舎に戻るなり、ライナスをはじめとする班員たちは、まるで魂が抜けたようにベッドへ崩れ落ちた。死線を越えたわけでもない。ただの移動と備品の受領。それだけでこの有様だ。だが、俺はすぐに明日の準備に取り掛かっていた。
支給された備品の配置を最適化し、一秒でも早く出撃できる動線を確保する。どの位置にナイフがあれば最短で抜けるか。どの角度で予備の魔導具を置けば、暗闇でも迷わず手に取れるか。……いやいや、怖いわ。無意識に幼少期に叩き込まれたルーチンを繰り返す自分に思わず戦慄する。
「ゼン、お前……よくそんなに動けるな。俺はもう、指一本動かしたくない……」
「そうか。なら寝てろ。ただし、明日の朝に靴が見当たらなくても泣き言は聞かないぞ」
ライナスのぼやきを受け流し、俺は淡々と管理作業を完遂した。
翌朝から始まった「実技教練」は、世間一般の基準からすれば凄惨と呼ぶにふさわしいものだった。
帝国士官学校が十二歳の子供に強いるのは、単なる走り込みといった生易しいトレーニングではない。泥水を啜りながらの匍匐前進、重量のある魔導具をあえて「不便な形」で背負っての絶壁登り、および実戦を想定した容赦のない対人戦闘。
訓練場には常に、あまりの負荷に胃の内容物をぶちまけた連中の吐瀉物の臭いが漂い始めている。地獄絵図だ。だが、俺もまた、胃の底からせり上がる酸っぱいものを何度も飲み込みながら、ただ無機質にそれらをこなしていた。
過去の、あのバドに死ぬ直前まで追い詰められた地獄のような鍛錬に比べれば、この程度の負荷は教練と呼ぶのもおこがましい。教官の怒号さえ、かつての師の無言の殺圧に比べれば子守歌のようなものだった。
周囲の連中が泥に塗れて這いつくばり、「もう無理だ」「殺してくれ」と情けない声を漏らす中、俺は呼吸一つ乱さず、ただ機械的にメニューを消化していく。肩に食い込む魔導具の重みさえ、今の俺にとっては日常の範疇ですらなかった。むしろ、この程度の重みで肉体が悲鳴を上げないことに、微かな物足りなささえ感じていた。
教練は、その者の資質によって明確に色分けされる。
女子と男子では兵舎もカリキュラムも完全に分けられており、さらにそこから「魔導遠距離戦」を主とする適性者と、「近接白兵戦闘」を叩き込まれる者へと選別される。
エレノアのような魔導貴族たちが後方の温室で、お茶でも飲みそうな優雅さで魔力を練っている間に、俺たち近接組は、泥と血にまみれる訓練場へと放り出された。
俺はもちろん魔力適性ゼロの近接戦闘班だ。
「おい、どうしたイグナスの。もう終わりか? 名門の看板が泣いてるぞ」
嘲笑と共に、硬い軍靴が俺の腹を蹴り上げる。視界に火花が散り、肺の空気が強制的に押し出されたが、俺の意識はどこまでも冷静だった。
相手はカイルの取り巻きの一人であるガタイのいい少年。十二歳とは思えぬ魔力強化を受けた彼の肉体に対し、俺の身体は幼少期の鍛錬を経て、あまりにも頑強に仕上がりすぎていた。不用意に手を出せば、目の前の脆弱なボンボンを殺しかねない。最悪貴族同士の抗争に発展するかも。
この「加減」という作業が、何よりも神経を削る。実戦教練という名の教官公認による合法的な私刑。ヴィクトリアたちは死なない限りは手を出さない。
俺は泥の中に顔を突っ伏しながら、内側に響く衝撃を逃がしていた。痛みは情報の塊だ。魔力の伝達速度、衝撃の浸透率、それら全てを肉体が学習していく。同年代のエリートと呼ばれる者たち、彼らがどの程度の出力を秘め、どのような練度にあるのか。その実力を測るには、これ以上ない機会だった。
「……何だ、その面は。もっと痛がれよ、不気味なんだよ!」
俺を打ち据えていた取り巻きの一人が、不気味なものを見るように声を震わせた。ボロボロになりながら、立ち上がるたびに無機質な視線を向けてくる俺の姿は、彼らの目には底の知れない異常者に映ったのだろう。
「やめろ……来るな! この欠陥品がッ!」
恐怖に駆られた少年が、半ばパニック状態で訓練用の木剣に過剰な魔力を込めた。教育用とはいえ、魔力を乗せた一撃はもはや鋭利な鈍器だ。
俺はあえて防御を解き、その一撃を正面から受けにいった。魔力攻撃というものがどれほどの真実味を持って肉体を破壊するのか、その数値をこの身で測り終えるために。
だが、その瞬間。
(……マジかよ)
想定を遥かに超えた衝撃が脳を揺さぶった。計測ミスだ。子供の魔力だと高を括りすぎていた。視界が白濁し、思考が強制終了を告げる。測りきったという満足感と、予想外の威力に対する苦々しい捨て台詞が意識の端を掠め――そのまま俺は、奈落へ落ちるように気絶した。
目が覚めたのは、真っ白な天井が広がる医務室だった。
薬品の匂いが鼻を突く。俺の頭には、重苦しい包帯が幾重にも巻かれていた。
「気がついたか、認識番号三〇二番」
傍らには、あの白髪の女教官、ヴィクトリアが立っていた。彼女の冷徹な右眼が、俺の包帯で巻かれた頭部を射抜いている。
「額の傷は深い。木剣による挫創だが、骨まで達していた。今ならまだ、高位の治癒魔法を使える者に繋いでやれる。跡形もなく消せるが、どうする」
彼女の問いに、俺は傍らに置かれた鏡を手に取った。
包帯の隙間から覗く傷跡。それは俺の額を左右に両断するかのように、鋭い稲妻の形で刻まれていた。
キャラクリに数時間を費やすようなこだわりの強いプレイヤーにとって、顔の傷は必須のオプションだ。特に整った顔立ちにあえて「欠損」を加えることで完成する美学というものがある。
それがまさか、実戦という名のアトラクションで、これほど理想的な角度と形状で手に入るとは。高位魔法をタダで受けられるチャンスを棒に振ってでも、この奇跡的なデフォルト設定を維持したかった。見惚れてしまうほど、今の俺は「主人公」のツラをしている。
「……いいえ、このままで。気に入りました」
俺の答えを聞き、ヴィクトリアの眉がわずかに動いた。蔑みでも憐れみでもない。初めて、一人の「兵士」を見るような、鋭く、乾いた視線が俺を捉える。
「狂っているな。……だが、その傷は戦う者のツラだ。よく似合っているぞ、ゼン・イグナス」
彼女はそれだけ言い残し、軍靴を鳴らして去っていった。
この造形美が理解できるとは、意外と話のわかる教官じゃん。……いや、今の言い方だと何かストイックな決意でも秘めていると勘違いされているような気もするけど、まぁいいや。せっかく手に入れたレアな外見パッチを消されてはたまらない。
午後休憩。医務室を出た俺は、額に真新しい包帯を巻いたまま食堂へと向かった。
最新鋭の設備を誇る食堂は、提供される献立も豪華だ。だが、その空間に流れる空気は相変わらず冷え切っていた。俺が姿を現した瞬間、食器の触れ合う音が止まり、数百の視線が突き刺さる。
「ゼン、大丈夫なのか!? その傷……なんて酷いことを」
真っ先に駆け寄ってきたのはライナスだった。彼は俺の包帯を見て、今にも泣き出しそうな、あるいはカイルたちを今すぐ殴り飛ばしそうな顔で憤っている。俺は「問題ない。むしろいい感じだ」と短く答え、トレイを持って空いている席に座ろうとした。
だが、それを阻むように一つの影が差し込む。
青髪を完璧に整えたカイル・フォン・ベルシュマンが、俺の額を執拗に打ち据えた取り巻きを連れて立っていた。
「おやおや、見苦しい。魔法で消せばいいものを、わざわざそんな醜い負け犬の印を晒して歩くとは。イグナス公爵家の威光も台無しだね」
カイルは扇情的な笑みを浮かべ、俺の額の傷を覗き込むようにして嘲笑った。周囲の生徒たちからもクスクスと忍び笑いが漏れる。バルトロメウスのような実力者たちは無関心を装っているが、それ以外の者たちは「期待外れの三男」を密かに見下すことで、自らのエリート意識を補強していた。
「見てくれよ、この無様な負け犬の印を。公爵家が聞いて呆れる。やはり、無能は無能らしく、泥を這いずっているのがお似合いだ」
彼の言葉に合わせ、周囲の笑い声が大きくなる。
「……貴様ッ、いい加減にしろよ!」
ライナスが激昂し、カイルの胸倉を掴もうとする。だが、俺は片手でそれを制した。
「座れ、ライナス。……飯が冷める」
俺は感情を殺したまま椅子に座り、トレイに乗った具沢山のスープを口に運ぼうとした。腹が減っては育成に差し支える。
その時だ。
「おっと、失礼。味付けが足りないと思ってね」
カイルの隣に立っていた取り巻きの一人が、俺のスープに向かって、わざとらしく卑しい音を立てて唾を吐きかけた。
波紋が広がるスープ。静まり返る食堂。
カイルたちは勝ち誇ったように笑い、ライナスの顔面は怒りで真っ赤に染まった。
俺は汚されたスープを無表情に見つめた。……せっかくの、これはコンポタか? 何にせよ、背中と腹がくっつきそうなぐらい腹が減ってるのに一瞬で食う気が失せた。この喪失感は実技教練の痛みよりも遥かに重い。
「――ぶっ殺してやるッ!!」
ライナスの限界が弾けた。
制止する間もなく、彼は咆哮と共にカイルの取り巻きに殴り掛かった。食堂は一気に怒号と悲鳴が入り混じる騒乱の渦へと突き落とされる。
「そこまでだ!」
食堂の空気を一瞬で凍りつかせる、裂帛の怒号。乱闘が始まって数秒、そこには冷徹な右眼を光らせたヴィクトリアが立っていた。
ライナスはカイルの取り巻きを組み伏せたまま、肩を大きく上下させている。カイルはこれ見よがしに怯えた表情を作り、ヴィクトリアに向けてわざとらしく声を上げた。
「教官! 酷いですよ、ご覧ください。私たちはただ、ゼンを励まそうとしただけなのに……このヘッセンの野蛮人が突然殴りかかってきたんです」
卑怯なまでに洗練された責任転嫁。その言葉に、ライナスはさらに激昂しようとしたが、ヴィクトリアの冷たい視線がそれを許さなかった。
「……黙れ。理由など聞いていない。兵舎内での私闘、その事実だけで十分だ」
ヴィクトリアは俺の目の前にある、唾の浮いたスープを一瞥した。だが、彼女はその不衛生な嫌がらせを咎めることはせず、無慈悲な通告を口にした。
「ライナス・フォン・ヘッセン。および同班のゼン・イグナス。連帯責任だ。三日間、全兵舎のトイレ掃除を命ずる。もちろん、通常の教練を終えた後にな」
周囲から失笑が漏れる。過酷なカリキュラムを終えた後の重労働は、もはや拷問に近い。だが、ヴィクトリアの罰はそれだけでは終わらなかった。
「それから、私闘を止められなかった罰だ。掃除の後、教練場の隅でさらに一時間の補強筋トレを課す。これら全てを終えるまで入浴も睡眠も許可しない。……異論はあるか?」
ライナスは絶望に顔を歪めたが、俺はただ静かに立ち上がり、ヴィクトリアの眼を真っ向から見つめ返した。
「……ありません」
カイルたちが影で醜い笑みを浮かべ、勝利を確信しているのがわかる。だが、俺の内心は真逆だった。
三日間の追加筋トレ。睡眠時間を削ってまで自分を追い込める、公認の超過活動時間。これ以上の育成環境はない。しかもトイレ掃除という「隔離された作業時間」まで付いてくる。
俺は怒りに震えるライナスの肩を叩き静かに歩き出した。
あいつが美少女だったら喜んで飲み干してやった――というより、ご褒美だったのに。ここに来てからというもの、周りは俺のドM精神を悉く鍛えてくれるが、流石にそこまでご都合主義ではなかったらしい。ざんねん。




