第19話:報告と転換
グラドは手元の書類から視線を外さぬまま、淡々とペンを走らせている。室内に響くのは、カリカリという硬い音と、ジルドが淡々と述べるオーガスティンでの戦報だけだ。
ジルドの報告が進むにつれ、隣に立つザングースの顔色は目に見えて悪くなっていった。一揆軍の伏兵に遭い、俺の助けがなければ窮地に陥っていた事実は、彼にとって致命的な失態に他ならない。
「……以上です。全軍、無事帰還いたしました」
ジルドが報告を終えると、部屋に重苦しい沈黙が降りた。ペンが止まる。グラドがゆっくりと顔を上げ、その氷のような視線がザングースを射抜いた。
「ザングース」
その一言で、ザングースの背筋が跳ねるように伸びた。
「お前は魔法に頼りすぎている。己の力を過信し、敵を侮った。その慢心が今回の醜態を招いたのだと自覚せよ」
「……は、はい。申し訳ございません」
「今回の失態を糧にせよ。これまでは『天才』という言葉に甘んじていたようだが、戦場ではその程度の才など、一つの判断ミスで無に帰す。今後、これまで以上の――一族の名に相応しい軍功を上げろ。これ以上、私を失望させるな」
グラドの言葉は峻烈だったが、そこにはまだ、息子としての「価値」を認めている響きがあった。
「はっ……! 肝に銘じます」
ザングースが深々と頭を下げた。その表情には、叱責された恐怖よりも、見捨てられなかったことへの安堵が色濃く浮かんでいた。
無理もない。親父がここまで言葉を尽くして叱るのは、奴にそれだけの期待を寄せている証拠だ。魔力の適性が低く、最初から戦力外とされている俺には、あんなふうに「失望させるな」と叱られる権利さえない。
ザングースはやはり、この家の誇るべき天才なのだ。今回は猪突猛進が過ぎて無様な姿を晒したが、元々の魔法の才能は間違いなく一級品だ。親父も、それを分かっているからこそ、再起の機会を与えたのだろう。
「……次は、ジルド」
親父の視線が、長兄であるジルドへと移る。その瞳に宿ったのは、失望よりも深い、冷徹な倦怠感だった。
「農民ごときに情けをかける。その甘さがどこから来るのか私には理解できん。お前はザングース以上の才能と強さを持ちながら、あのような一揆軍に遅れをとるとは……」
親父は、わずかに、だが重々しくため息をついた。そのたった一つの動作が、ジルドの誇りを粉々に打ち砕いていく。ジルドは何も言わず、ただ悔しげに唇を強く噛み締めていた。
「いいか。ザングースが捕虜に取られたとき、お前は奴を見捨てるべきだった」
凍りつくような言葉だった。実の息子を、弟を、切り捨てろと平然と言ってのける。
「そこに家族という概念は不要だ。指揮官の僅かな甘さが、部下を、ひいては国を滅ぼすこともある。そして――」
親父の視線が、一瞬だけ俺をかすめた。
「――自身の失敗を、あろうことか弟に拭かせるとは言語道断だ。一族の序列も、これまで築いてきた軍の威信も、お前のその決断一つで泥に塗れた」
「……っ、申し訳ございません、父上」
「今後はより多くの戦場へ向かい、経験を積め。その甘さが命取りになると何度も忠告してきたが、今回が最後だ。次はないと思え」
ジルドは深く、深く頭を下げた。拳を握りしめるその指先が白く震えている。
親父の言葉は残酷だが、それはジルドが「次」を期待されるほど強大な力を持っているからこそ、完璧であれと強いているようにも聞こえた。
部屋を支配する重圧が、今度は完全に俺の方へと向かってくる。
ジルドとザングース。
家を背負うべき二人の「天才」への裁定が下り、ついにその矛先が、一族の恥とされてきた俺に、正面から向けられた。
親父はペンを置き、ゆっくりと椅子から身を乗り出した。
真正面から俺の顔を、その双眸で見据える。これまでは路傍の石ころでも見るような、ひどく無機質で焦点すら合っていないような視線だった。だが、今の親父の瞳には、飢えた獣が獲物を見つけた時のような、背筋が凍るほど鮮烈な光が宿っている。
俺の喉が、緊張で小さく鳴った。
「ゼン」
その重厚な声が、俺の鼓膜を震わせる。
「第一帝国陸軍士官学校へ入校しろ」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。そこは、俺のような存在が最も遠ざけられてきた場所だ。帝国のエリート、未来の将星たちが集う最高学府。
「二年後に備えろ。……以上だ」
二年後。その言葉の真意を問う隙も、反論する余地も与えられない。
親父の視線は、既に俺を通り越して、遥か先の未来、あるいは戦場を見据えているようだった。
「な……っ!?」
隣でザングースが、絶句したように息を呑むのがわかった。驚愕と、隠しきれない焦燥。彼は何度も何かを言いかけようと口を動かしたが、親父の放つ圧倒的な威圧感を前に、結局一言も発することができずに立ち尽くしている。
一方、ジルドは俯いたまま、微動だにしない。ただ、彼が握りしめている拳が、白くなるほど強く震えているのがその心中を物語っていた。
「下がれ」
短く、拒絶の意思が込められた一言。
それがこの謁見の終わりを告げる合図だった。
俺は呆然としたまま、吸い込まれるように執務室を後にした。
廊下に出た瞬間、冷えた空気が肺に流れ込み、自分が呼吸を忘れていたことに気づく。二人の兄と共に歩く廊下。先ほどまでの「家族の安らぎ」はもう微塵も残っていなかった。
執務室を出て、人気のない回廊に差し掛かったところで、先頭を歩いていたジルド兄上が不意に足を止めた。
「……ゼン。済まなかった」
振り返った彼の瞳には、これまでの冷ややかさは微塵もなかった。ただ純粋に、弟を窮地に追い込み、自分の失敗を肩代わりさせてしまったことへの、一人の男としての深い悔恨と謝罪が込められていた。
「じ、ジルド兄上! なぜそんな奴にっ」
横から噛みついたのはザングースだ。彼は煮えくり返るような視線で俺を睨みつけ、一歩詰め寄ってくる。
「お前、本当はどうやったんだ? あの一揆軍の……あのヴァレアスを、どうやって殺した。魔法も碌に使えないお前が、まともにやり合って勝てる相手じゃない。どんな汚い手を使ったんだ! あぁっ?」
焦燥が、彼を攻撃的にさせている。自分のプライドをズタズタにした俺が、親父に認められようとしていることが耐えられないのだろう。
「やめろ、ザングース。……勝敗を決めたのはゼンの力だ。それは俺がこの目で見た」
ジルド兄上の静かな、だが拒絶を許さない声。ザングースは顔を真っ赤にしながらも、兄上の威圧感に毒気を抜かれたように、舌打ちをして渋々引き下がった。
ジルド兄上は再び俺に向き直ると、静かな口調で語り始めた。
「第一帝国陸軍士官学校。……父上がそこを選んだ意味を、お前はまだ分かっていないだろう。そこは、第二、第三といった他の士官学校とは根本から造りが違う。建国以来、帝国の牙として軍を支え続けてきた『原初』の学校だ」
ジルド兄上の話によれば、その歴史は帝国の興亡と共にあるという。数多の英雄を輩出し、今の将帥たちの八割がそこの卒業生で占められている、約束されたエリートの揺り籠。しかし、その門を潜ることは、地獄への片道切符を手にすることと同義だ。
「本校への入学は16歳からだ。だが、そこには『幼年部』という特別な課程と、予科、つまり準備・予備教育を行う教育課程がある。……お前が入れられるのはそこだろう。戦術論の徹底的な叩き込み、高度な兵法、そして一切の妥協を排した実技と基礎訓練。3年間のカリキュラムだが、幼年部で頭角を現した者は、本校へ上がる頃には既に一人前の指揮官としての完成度を求められる」
ジルド兄上は、少しだけ沈痛な面持ちで言葉を継いだ。
「あそこは、ただの学校じゃない。帝国の『意思』を体現する兵士を作り出す鋳型だ。父上がお前をそこへ送るということは……お前を、ただの身内としてではなく、帝国の最前線で戦う一人の駒として完成させようとしているんだ」
ザングースは、士官学校の過酷さを思い出したのか、黙り込んだまま複雑な表情で床を見つめていた。俺は、ジルド兄上の言葉一つひとつを噛み締めながら、自分の置かれた状況を冷徹に理解し始めていた。
「覚悟しておけ。そこに入れば、今の生活は二度と戻ってこない」




