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第18話:ご褒美、ですか?

 イグナス公爵邸。その壮麗な正門前には、一揆鎮圧から帰還したジルドとゼンの一団を迎え入れるため、多くの使用人や残留していた騎士たちが列をなしていた。


 馬車から降り立ったゼンに対し、人々は表面上、惜しみない称賛の声を送る。十歳の少年がたった一人で数百の一揆軍を制圧し、首領の腕を奪ったという功績は、あまりにも現実離れしており、多くの者は未だに半信半疑のままだった。それでも、公爵家の「出来損ない」が示した戦果を否定するほど愚かな者はいない。


 そんな喧騒の中で、ゼンの教育係であるリィネだけは、平然とした表情でその光景を眺めていた。彼女は、ゼンが日々の修練の中で見せる異常なまでの執着心と、底の知れない魔力の気配を誰よりも近くで見てきた。この結果は驚きに値するものではなく、ただ彼がその本領を少しだけ公の場に露呈させたに過ぎないという確信があった。


 一方で、共に帰還したザングースの様子は異様だった。普段ならゼンの功績に異を唱え、喚き散らすはずの彼が、一言も発することなく、幽鬼のような足取りで自室へと引きこもっていった。


 オーガスティン城跡で見た、人智を超えた惨劇の残像。そして、厳格な父グラドが間もなく帝都へ帰還するという知らせが、彼の心を完全にへし折っていた。今のザングースには、もはやゼンに絡む気力すら残されていない。


 それは長男であるジルドにとっても同様だった。弟を守るために同行したはずの彼は、今回の遠征で突きつけられた現実に打ちのめされていた。


 もしゼンがいなければ、一揆の鎮圧は失敗し、ザングースの命も失われていただろう。事態は確実に悪化し、長期化し、公爵家の権威を失墜させる悪循環に陥っていたはずだ。自分が守るべきだと思っていた幼い弟に、逆に救われてしまったという事実が、ジルドの心に重くのしかかっている。


 称賛の嵐に包まれながら、ゼンはただ静かに、完成された少年の笑みを浮かべて屋敷の中へと歩みを進めた。帰り道は何事もなく、平穏そのものだった。だが、その背後では公爵家の序列と運命が、音を立てて崩れ、再構築されようとしていた。


 戦地から馬車が戻り、静まり返っていた領地の屋敷がにわかに活気づく。


 使用人たちの慌ただしい足音と、重厚な扉が開く音。そこから現れたのは、見慣れた、けれどどこか遠い世界の香りを纏った家族の姿だった。


「……あぁ、ゼン。無事だったのね」


 扉を抜けて中へ入るなり、マリアが俺を見つけて安堵の吐息を漏らした。彼女は着慣れた夜会のドレスを翻し、迷うことなく俺の元へ歩み寄る。


「ゼン、私の愛しいゼン……」


 そのまま、壊れ物を扱うような手つきで俺をぎゅっと抱きしめる。


 普段の俺なら、彼女のこの過剰なまでの執着と、自分を閉じ込めている「檻」の主である彼女に対して、言葉にできない恐怖を少しばかり感じていたはずだ。


 けれど、今日だけは違った。


 彼女の腕の中から伝わってくる微かな震えが、俺を拒絶しているわけではなく、俺を失うことを心から恐れているのだと、初めて素直に受け止められた。オーガスティン城跡の死闘、そしてジルド陣営での張り詰めた空気。死線を潜り抜けてようやく帰ってきたこの屋敷の温もりに、俺は毒気が抜かれたような心地で、静かに身を委ねていた。


 すると、マリアは俺の耳元で愛おしそうに囁いた。


「さ、お風呂にいきましょう。ルーナも待ってるわ」

「え?」


 呆然とする俺の返事も待たず、マリアは慣れた手つきで俺の身体を軽々と抱きかかえた。いくら俺が細身だとはいえ、ドレス姿の女性に持ち上げられる違和感に戸惑う間もなく、彼女は迷いのない足取りで廊下を進んでいく。


 向かった先は、領地の屋敷でも最も贅沢に造られた広大な浴場だった。


 重厚な扉が開くと、そこには白煙のような湯気が立ち込め、アロマの甘い香りが鼻をくすぐる。大理石の床は磨き抜かれ、中央には小さなプールほどもある豪奢な浴槽が鎮座していた。壁面には緻密な彫刻が施され、ライオンの口を模した蛇口からは絶え間なく清らかな湯が注がれている。


 そして、その湯船の縁には、既に準備を終えたルーナが静かに座っていた。


「……遅かったわね。待ちくたびれたわ」


 待ちくたびれたわ、じゃねぇよ。


「さあ、こっちへ。……酷い汚れ方ね、ゼン。あんな戦場にいたのだから当然でしょうけど」


 マリアに促されるまま、俺は当たり前のような自然さで、姉二人と共に湯船に浸かることになった。帝都では一族の誉れとして振る舞い、社交界を支配する彼女たちが、今はこの閉ざされた屋敷の奥で、ただの「姉」に戻り、俺という「恥」を慈しんでいる。


「ゼン、じっとしていて。……全部、私が流してあげる」

「……自分で洗えるんだけど」

「だめよ。今日は、私たちがあなたの隅々まで綺麗にするの」


 肌に触れる柔らかなスポンジの感触。姉たちの温かな手。

オーガスティン城跡での緊張と、ジルド陣営で張り詰めていた神経が、湯気の熱にあてられて急速に解けていくのが分かった。マリアの指先が頭皮を優しく揉みほぐし、ルーナが俺の腕を丁寧に撫で洗う心地よさに、抗う術はなかった。


「……もう、寝ちゃったの? ゼン……」

「ふふ、お疲れなのね。いいわ、このまま寝かせてあげましょう」


 遠のいていく意識の中で、そんな囁きを聞いた気がする。

いつの間にか寝落ちしていた俺は、翌日。差し込む柔らかな朝陽の眩しさに、ゆっくりと瞼を持ち上げた。


 そこは見慣れた、領地の屋敷にある俺の寝室だった。けれど、いつもと決定的に違うのは、シーツの中から伝わってくる圧倒的な熱量と重みだ。

「ん……ゼン、起きたの?」

 右隣で、マリアが眠たげな声を漏らして俺の胸元に顔を寄せてくる。


 左隣を見れば、ルーナが俺の左腕を抱きかかえるようにして、まだ規則正しい寝息を立てていた。


 両隣には二人の姉。


 帝都では完璧な淑女として、あるいは冷徹なまでの才女として恐れられる二人が、今は無防備に俺を挟んで、まるで大切な宝物を守るように眠っている。


 だが、そんな幸せなひと時をぶち壊すように、廊下から無遠慮で重々しい足音が近づいてきた。


 金属が擦れ合う微かな音と、軍人のような正確な歩調。

ドアの向こうで足音が止まると、感情を排した低い声が響いた。


「ゼン様。お目覚めでしょうか」


 ラガン・スティーバル。


 父、グラド公爵の忠実な番犬であり、お付きを務める中年の騎士だ。その声を聞いた瞬間、隣で眠っていたマリアとルーナの身体が、同時にぴくりと強張った。


「グラド閣下がお呼びです。ジルド様、ザングース様、そしてゼン様……三名揃って、至急、執務室へ出頭せよとのことです」


 その言葉に、部屋の空気が一気に凍りつく。

 マリアが寝起きの甘い表情を瞬時に消し、鋭い瞳でドアを睨みつけた。


「……朝からうるさいわね、ラガン。ゼンは昨夜帰ってきたばかりよ。まだ休ませる必要があるわ」


 ルーナも俺の腕をさらに強く抱き込み、低い声で拒絶を示す。


「父様には伝えて。ゼンは今、手が離せないって。……ジルドとザングースだけで十分でしょう?」


 だが、ドアの向こうのラガンは動じない。

「閣下のご命令です。『今回はゼンもだ』と。……ゼン様、準備を。外でお待ちしております」


 遠ざかっていく足音を聞きながら、俺は大きく息を吐き出した。ジルドとザングース。一族の期待を背負うあの二人と並んで、俺が呼び出されるなんて。


「……ゼン。行かなくていいのよ。あんな冷たい人たちのところなんて」


 マリアが俺の頬を包み込み、引き止めるように縋ってくる。けれど俺は、彼女たちの柔らかな拘束をそっと解いて、ゆっくりと身体を起こした。


 背後から二人に見つめられている気配を感じながら、俺は無言で着替えを済ませた。鏡に映る自分の顔は、昨夜の安らぎが嘘のように強張っている。最後に一度だけ振り返り、「いってきます」と短く呟いて部屋を出た。


 重厚な扉の先には、微動だにせず立ち尽くすラガンの姿があった。


「……お待たせしました、ラガンさん」

「いえ。参りましょう、ゼン様」


 廊下を歩き出すと、ラガンは前を向いたまま、抑揚のない声で語りかけてきた。


「オーガスティンでの一揆軍討伐……お見事でした。報告によれば、貴方様の機転がなければジルド様やザングース様とて危うかったとか。正直、驚きました。あの『ゼン様』が、これほどの戦果を上げられるとは」


 それは賞賛の言葉だったが、ラガンの声には一辺の感情も籠もっていなかった。事務的に事実を羅列するような、無機質な評価。だが、一族の誰もが俺を揶揄してきた中で、父の腹心である彼がこうして口を開くこと自体が、異常な事態であることを物語っていた。


 やがて、執務室の巨大な扉の前に辿り着く。ラガンが音もなく扉を開くと、そこには既にジルドとザングースが直立不動で並んでいた。


 部屋の奥、巨大な机の向こう側に座る男――父、グラド公爵。


 彼が視線を上げた瞬間、肺から空気が押し出されるような、凄まじい圧迫感に襲われた。


 それは単なる肉体的な強さからくるものではない。長年、北方の過酷な領地を統治し、数多の血を流してきた者だけが纏う、暴力的なまでの威厳。部屋全体が彼の魔力に浸されているかのように重く、肌がピリピリと焼けるように痛む。


 父の瞳は、まるで凍てつく冬の湖のようだった。そこには情愛など微塵もなく、ただ「使える道具か否か」を見極めるような冷徹な光が宿っている。


「……遅いぞ、ゼン」


 低く地響きのような声が室内に響く。

 隣に立つ二人の兄が、その声だけでわずかに肩を震わせるのがわかった。俺は必死に膝の震えを抑え、冷酷な支配者の前に歩み出た。

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