第17話:ヤンでる姉妹の憂鬱
大国北部、イグナス公爵邸。ゼンが遠征へと発ってから、屋敷の空気はマリアにとって耐え難いほどに希薄なものとなっていた。
既にゼンがいない世界など、滅びても構わないとさえ思うほど、マリアの心は弟に心酔し、のめり込んでいる。その愛は、血を分けた姉としての情愛を遥かに超え、狂信に近い熱を帯びていた。
妹のルーナもまた、同じようにゼンを愛している。しかし、その愛の重さと歪みゆえに、将来的に二人が致命的な衝突を果たすであろうことは容易に想像がついた。同じ執着の果てに、互いの愛を喰らい合う日はそう遠くない。
マリアは知っている。ゼンが普通の子供ではないことを。彼は完璧に幼い凡夫を演じてはいるが、ふとした瞬間に覗く、あの濁り切った瞳の奥には、マリアでさえ思わずゾッとするような底知れぬ闇が広がっている。だが、その闇こそが、マリアにはたまらなく愛おしかった。いつかはその全てをさらけ出し、秘密を共有してほしいと切に願っている。
マリアもまた、周囲の期待に応える完璧なイグナス家の長女を演じ続けている。その仮面の下で、彼女は今の日常を守るためなら、いかなる犠牲も厭わなかった。
つい先日、裏で限度を超えたゼンの悪評を垂れ流していたメイドには、この世界から消えてもらった。公爵家の「無能な三男」を侮辱する不快な声は、マリアの耳を汚すだけでしかない。
窓の外、ゼンが帰還するであろう北の空を眺めながら、マリアは静かに微笑んだ。その指先が、彼が戻ってきた時に贈るための新しい衣装を、愛おしそうに撫でる。
マリアは無人となったゼンの部屋へ入り、主の帰りを待つ天蓋付きのベッドに身を投げ出した。シーツに顔を埋め、そこに僅かに残るゼンの匂いを肺いっぱいに吸い込む。鼻腔を抜けるその独特な香りを詰め込む瞬間こそが、今の彼女にとって何よりも代えがたい幸福だった。
伝令によれば、ゼンはオーガスティン城跡で見事な手柄を立てたらしい。あの愛らしい弟が、一揆の首領を自らの手で討ち取ったという報せ。周囲は奇跡だの偶然だのと騒いでいるが、マリアだけは、彼がその本性を少しだけ解放した結果であることを確信していた。
出来損ないという評価を覆し、輝かしい戦果を携えて帰還する愛しい弟。彼が屋敷の門を潜ったときには、とびっきりのお祝いをしてあげる必要がある。
マリアの頭の中では、彼を拘束するほどの抱擁か、あるいは彼が嫌がって顔を顰めるほど過剰な甘やかしを注ぐ計画が、熱を帯びて膨らんでいく。
その妄想を遮るように、マリア専属の極めて有能なメイドが、静かに一通の報告を差し出した。添えられた盆の上には、国内外の王族や有力貴族から届いた、数え切れないほどの求愛の書状が積まれている。それらすべてに目を通してはいるものの、マリアの心に興味の欠片が湧くことはなかった。
父であるグラドからは、常々公爵家を繁栄させるための戦略的婚姻の駒であると言い含められている。だが、そんな決定を甘んじて受け入れるつもりは毛頭なかった。家格も、伝統も、父の命令も、マリアにとってはゼンの髪一筋ほどの価値もない。
血の繋がりなどという些末な理も、彼女の執着を止める理由にはならなかった。たとえ道徳に背こうとも、異母弟であるゼンと結ばれるためなら、この世界そのものを滅ぼすことすら厭わない。
マリアは書状の一束を暖炉の火へと投げ入れた。燃え盛る炎に照らされた彼女の瞳は、ゼンを想う熱情と、彼以外のすべてを排除しようとする氷のような冷徹さが混ざり合い、美しくも禍々しい光を放っている。
その歪んだ熱は、厚い石壁を隔てた隣の部屋で、同じ闇を共有する妹のルーナにも伝播していた。
ゼンが戦場へ向かうと知らされた瞬間は、激情よりも先に、底冷えするような殺意が沸き上がった。その矛先は、農民に無様に捕まり、あろうことかゼンを戦火に引きずり込む原因を作ったザングースに向けられている。同時に、弟を危険に晒す判断を止められなかったジルドの甘さ、その無能さにも辟易とするばかりだった。
この無色で退屈な世界において、同じ熱量で共鳴できる姉のマリアと、愛してやまないゼン以外に価値を見出せるものなど何一つ存在しない。マリアのような社交的な立ち回りすら億劫なルーナは、屋敷の静寂の中で、一人ゼンの部屋に忍び込んでいた。
クローゼットの奥からこっそりと持ち出していたゼンの衣服。それを胸に抱き締め、鼻腔をくすぐる彼の微かな残り香に縋るようにして、独り言をこぼした。
「寂しい……」
ぽつりと呟いた声は、広い部屋の壁に当たって虚しく消える。ルーナの指先は、まるでゼンの肌に触れるかのように、衣服の布地を強く、白くなるほど握り締めていた。
もしゼンに何かあれば、この屋敷も、この国も、全てを呪い殺して自分も後を追う。そんな狂気に近い決意を当然の義務のように抱えながら、彼女は深い闇を湛えた瞳で、愛しい弟の帰還をただひたすらに待ち続けている。
ルーナの指先は、布地を強く握り締め、その感触の中にだけ自身の存在意義を見出そうとしていた。
公爵家において、彼女の存在は姉のマリアとは別の意味で異質だった。ルーナは、将来的に帝国を代表する魔導兵器を完成させ、既存の魔導体系を塗り替える新たな魔法をいくつも生み出すことになる稀代の天才だ。その幼い頭脳には、物理法則を魔力によって再定義する、悍ましくも合理的な論理回路が張り巡らされている。
マリアが持つ圧倒的な魔法適性と破壊の衝動、そしてルーナが有する神域の頭脳。この姉妹がひとたび牙を剥けば、それはもはや一国を滅ぼすほどの脅威を宿す災厄となる。
だが、その強大すぎる力も、彼女たちにとってはゼンという中心軸を繋ぎ止めるための道具に過ぎない。ゼンという光が消えれば、彼女たちはその瞬間に、世界を焼き尽くすための起動スイッチを押すだろう。
本来、この姉妹は互いの愛の重さに耐えきれず破滅するか、あるいは帝国の政争に巻き込まれて悲劇的な最期を遂げるはずだった。だが、グラドと同じく、バッドエンド確定だった二人の姉妹の運命もまた、ゼンというイレギュラーが介入したせいで劇的に変わり始めていた。
彼女たちがその強大すぎる力を、世界の破壊ではなく、ただ一人の少年のために捧げ始めたとき、物語は既存の筋書きを完全に逸脱していく。




