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第16話:入学への布石

 帝都、皇城の回廊。冬の冷気に包まれた漆黒の石床を、グラド・イグナス公爵の軍靴が規則正しく、そして冷徹なリズムで鳴らしていた。


 石造りの壁には歴代の皇帝や英雄たちのレリーフが刻まれているが、今のグラドの眼中にそれらは映らない。彼の背後には、空気の揺らぎと見紛うほど気配を消した「縫(ぬい)」の長が、影そのものとなって付き従っている。公表されていないこの影の部隊は、今回の一揆の動向をすべて監視しており、逐一その詳細をグラドに報告していた。


 グラドの脳内に、届けられたばかりの凄惨な戦果が反芻される。中でも最大の収穫は、これまで出来損ないだと侮り、人質として放り出したはずの三男ゼンが、想像を遥かに超えた異能を隠し持っていたことだ。


 報告によれば、少年はたった一人で数百の命を「糧」に変え、首領の腕を奪って生還した。その理不尽なまでの制圧力は、もはや一個人の武勇ではなく、天災や災厄の類だ。あの力があれば、帝国のどのような凄惨な戦場であっても、盤面を塗り替える死神として役に立つ。


 だが、グラドはその力の根底に、自分がかつて仕掛けた「種」が歪な花を咲かせた確信を得ていた。


 魔力適性なしと判定されたあの日、グラドはゼンをただ放置していたわけではない。公爵家という名の残酷なチェス盤において、無価値な駒には無価値なりの「潰し」を効かせるため、家臣の中でも最高峰の殺人術を誇る達人バドに、その幼少期のすべてを預けていた。


 回廊を歩くグラドの脳裏に、数年前の記憶が鮮明に蘇る。

 それは訓練場と呼ぶにはあまりに血生臭い、隔離された地下の空間だった。まだ幼いゼンが、一日の終わりの食事が、その日の鍛錬で一度でもバドに触れられたか否かで決まるという、生存本能を削り出すような日々。バドは一切の容赦なく、幼い子供を「効率的に解体すべき対象」として扱い、急所を、関節を、精神を、徹底的に破壊し続けた。


 バドの殺人術は、華やかな騎士の剣技とは対極にある。いかにして最短で喉を断ち、いかにして最小の力で眼球を潰すか。その汚泥に塗れた技術を、ゼンは吐瀉物にまみれながら身体に叩き込まれてきたのだ。


 ゼンがオーガスティン城跡で見せた、無駄を削ぎ落とした効率的な屠殺の所作。それはまさに、バドの殺人技術が、得体の知れない異能という肥料を得て昇華された結果に他ならない。


「……バドの教えが、これほどまでに悍ましく、かつ美しく結実するとはな」


 グラドの口元に、満足げな、しかし凍てつくような笑みが浮かぶ。


 一方で、次男ザングースの醜態は、グラドの胸中に失望という名の冷たい火を灯していた。名門イグナスの名を冠しながら農民に無様に負け、捕虜となって失禁しながら命乞いをした事実は、公爵家にとって消しようのない汚点だ。


 長男ジルドに対しても、その甘さに眉をひそめていた。弟を想うがゆえの独断専行は、一族の長を目指す者としてはあまりにも危うく、人の上に立つには未だ資質が足りない。


 皇城の巨大な門を見上げながら、グラドは暗がりに潜む「縫」に、ゼンの監視を最優先に継続するよう短く命じた。最も無価値だと切り捨てた駒が、今や最強の「王」すら屠りかねない牙を剥き始めている。その事実を、グラドは冷徹な支配者の瞳で、静かに、しかし確実に楽しんでいた。


 グラドにとって、ゼンのステータスは既に既存の教育の枠組みを逸脱していた。今さら魔法の理論を説く魔学の学校に入れたところで、あの異質な力を制御する役には立たない。

 狙うは二年後。ゼンが十二歳になった折に、帝国士官学校か騎士修練院へと放り込む。そこで過去に行ったバドとの地獄のような鍛錬をさらに突き詰め、戦争に対する広範な知識と、軍人としての基礎体力を叩き込ませる。剣術、棒術、槍術、弓といった、効率的に敵を殺すための術を徹底的に教え込むつもりだ。そのための根回しに私財や権力を投じることを、グラドは一切惜しまない。


 三男をイグナス家史上、最高にして最凶の兵器へと造り替える。それがグラドの新たな愉悦となった。


 皇城の奥深く、重厚な装飾が施された謁見の間。グラドは帝国の絶対者である皇帝の前に跪いていた。薄暗い室内には、権力の重みが物理的な質量となって漂っている。皇帝の口から語られたのは、国境を接する宿敵「聖教皇国アステリズム」に関する不穏な動向だった。


「アステリズムの狂信者共が、禁忌の儀式に手を出したという報告がある。奴ら、この理(ことわり)の外側……『異世界』から、我らの軍勢を討ち滅ぼすための勇者を召喚しようとしているらしい」


 皇帝の言葉に、グラドの眉が僅かに動いた。召喚魔法。伝説の中にのみ存在する、世界の均衡を崩しかねない劇薬だ。


「勇者、ですか。空想の産物かと思っておりましたが」

「事実であれば、帝国の存亡に関わる。グラド、貴公にはその備えを期待しているぞ」


 皇帝の言葉を、グラドは慇懃な態度で受け流した。皇帝が求めているのはイグナス家としての絶対的な軍事力であり、その中身の詳細までは明かさない。三男ゼンの存在、そして彼が振るうあの悍ましい力は、皇帝にすら秘匿すべき、イグナス家だけの「切り札」だ。公には出来損ないの三男という体裁を保ちつつ、陰で大陸最強の暗殺兵器へと研ぎ澄ませる。アステリズムが「勇者」という光を掲げるならば、こちらはそれを根こそぎ喰らい尽くす、名もなき闇を用意するまで。


「……懸念には及びません。我がイグナス家、陛下の盾として不測の事態には万全を期しております」


 グラドは深く頭を下げながら、冷徹な思考を巡らせる。ゼンの価値は、その正体が知られていないことにこそある。

 グラドは皇帝への拝謁を終え、回廊を歩きながら頭の中の地図を更新していた。イグナス公爵家当主として、帝国の周囲を取り巻く情勢を把握しておくことは呼吸をするのと同じくらい当然の義務だ。


 まず東方に位置する最大の懸念、聖教皇国アステリズム。先ほど皇帝が口にした「勇者召喚」の地だ。大陸で唯一、神の声を聴くと自称する教皇が治める狂信の国。彼らは帝国を「神の敵」と呼び、事あるごとに小競り合いを仕掛けてくる。もし勇者などという規格外の戦力が現れれば、アステリズムの軍勢は聖戦の名の下に一気に国境を越えてくるだろう。


 次に北方のバルドゥール王国。かつては帝国と覇を競った強国だが、現在は王族の内部抗争で国力が疲弊している。とはいえ、北の峻厳な山脈に守られたこの国は、防衛に関しては依然として厄介な存在だ。アステリズムが動けば、彼らも火事場泥棒的に南下を狙う可能性がある。


 そして西の平原地帯に広がる自由交易都市同盟「リブラ」。特定の王を持たない中立国を自称しているが、その実態は金で動く商人たちの集合体だ。帝国の食糧庫とも言える肥沃な土地と、大陸全土の物流を握っている。彼らは戦争そのものを商機と捉えており、帝国とアステリズムのどちらに肩入れするか、常に天秤にかけている。


 南には広大な砂漠と海を隔てて魔導首長国カシムが鎮座する。異種族や魔導師が統治する未知の領域であり、帝国とは長らく不可侵条約を結んでいる。しかし、最近ではアステリズムの工作員が潜り込んでいるという噂も絶えない。


 大陸の均衡は、今まさに崩れようとしている。


 アステリズムの勇者、バルドゥールの野心、リブラの裏切り。それら全てを真正面から受け止めるには、帝国の軍事力だけでは足りない。グラドは独り言ちる。だからこそ、イグナスの「闇」が必要なのだ。公にできない毒を、敵の喉元に送り込むための手段が。


 ゼンという駒を、ただの騎士に育てるつもりはない。

 アステリズムが神の光を呼ぶのであれば、ゼンにはその光を食い破る、底なしの深淵になってもらわねばならない。バドが叩き込んだ「殺しの理」を土台にして、魔導の常識すら通用しない規格外の怪物を完成させる。


 グラドは足を止めず、背後の「縫」に次の指令を下した。

「ゼンが逃がした連中……ヴァレアスとケインについては、泳がせておけ。利用価値が失われた瞬間に、ゼン自身に刈り取らせるための苗床だ。執拗に観察し、動向を逐一報告せよ」


 同時に、一揆を許した無能な地方代官についても処断を下す。


「代官の一族は、赤子に至るまで根絶やしにせよ。首はすべて塩漬けにし、領内の広場に晒せ。イグナスに仇なす者が辿る末路を、愚民どもの目に焼き付けておくがいい」


 グラド・イグナス公爵。帝国最強の一翼を担う冷徹な支配者の運命は、ゼンというイレギュラーによって、既に変わり始めていた。本来、彼を待つ「ラスボスとして死ぬ」という運命さえ、この深淵に飲み込まれ、書き換えられていく前兆に過ぎないことを、今の彼はまだ知らない。


 二年後、その「兵器」が帝国士官学校という檻へ放たれるとき、大陸の歴史は真の意味で変貌を遂げることになる。グラドは自らが生み出した「闇」の完成を夢想しながら、冷たい冬の夜へと消えていった。

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