第15話:よくある葛藤と罪悪感
オーガスティン城跡の重苦しい門が開き、一台の馬車が雪原へと滑り出した。轍が凍った土を削り、鈍い振動が床から足裏へ伝わる。御者台では顔を深く隠したヴァレアスが手綱を引き、隣でウィッキーが、震える手を抑えるようにして彼の肩へ指を掛けていた。
馬車の内部は狭い。血の臭いが板目に染み、乾きかけた鉄の匂いが鼻を刺す。俺の膝には、重い箱が載っている。中身は分かっている。冷えて固まった重量が、やけに現実的だった。
俺とウィッキーの視線が交差した。彼の目から、いつもの哀愁が消えている。濁った泥の底に沈むような殺意が、ゆらゆらと揺れていた。
「……ゼン。今回のことは、一生忘れねえぞ」
絞り出す声は、感謝でも後悔でもない。仲間を奪われ、正義を踏みにじられた側が吐く、呪いに近い誓いだった。
「お前が何を企んでいようが、俺たちの魂まで売ったわけじゃねえ。いつか……お前がその虫に食い殺される日を、俺は特等席で見ててやる」
言葉は刺さらない。刺さっても、抜くだけだ。俺は窓の外を流れる雪景色を眺め、反論もしなければ嘲笑もしない。ただ、膝の上の箱の蓋を指でなぞった。木目の段差を確かめるように、何度も。
ウィッキーの殺意が空回りするのが分かった。無視される怒りほど、惨めなものはない。彼は奥歯を噛みしめ、窓の外へ顔を背けた。
馬車がジルドの陣営へ近づくにつれ、周囲の空気は目に見えて変わった。雪原に散った見張りの影が動き、焚き火の列が増える。警戒の呼吸が、音になる。
「……馬車だ! 城から馬車が来るぞ!」
物見櫓の叫びが転がり、陣営が蜂の巣をつついたように騒ぎ出した。騎士たちが抜剣し、魔導銃の銃口がこちらを向く。距離が詰まるほど、視線が増える。あの城跡から出てくる馬車は、最後通牒か、爆薬を詰めた特攻か。どちらにせよ歓迎される類じゃない。
「止まれ! それ以上進めば射殺する!」
エーゲル騎士団長の鋭い制止が響いた。ヴァレアスが手綱を引き、馬車が緩やかに停車する。雪を踏む音が止まり、静寂が落ちた。静かすぎて、心臓の鼓動がうるさい。
包囲が完成する。剣先と銃口が、扉へ集中した。極限の緊張の中、馬車の扉が内側から、ゆっくりと開いた。
外気が流れ込む。冷たさと一緒に、陣営の匂いが鼻へ入った。薪の煙、汗、油、金属。生きている場所の臭いだ。
俺は箱を抱えて雪へ降りた。全身が返り血で赤黒く染まり、靴裏が固く凍って重い。十歳の身体には不釣り合いな重さを、腕だけで支える。
「ひ……ゼン様……?」
最前列の騎士が、剣を落としかけた。期待されていたのは、惨殺された死体か、泣き叫ぶ人質か。そのどちらでもないものが、いま目の前に立っている。
俺は落ち着いて歩いた。恐怖に震える必要がないくらい、腹の底が妙に静かだった。静かすぎて、逆に気持ち悪い。
「ゼン! ゼンなのか!?」
陣営の奥から、マントを翻してジルドが駆け寄ってきた。顔が驚愕で固まっている。生存そのものが、彼にとって奇跡だったらしい。
「あ、ああ……信じられん。生きて……本当に生きて戻ったのか……」
ジルドは立ち尽くした。弟の背後で、御者台の大男が馬車を翻し、そのまま暗闇へ溶けていく。追う余裕もない。周囲の騎士たちも、目の前の現実の処理で手一杯だった。
俺はジルドの前へ箱を差し出す。
「ただいま戻りました、ジルド兄上」
蓋を開ける。中から転がり出たのは、凄まじい筋量の左腕と、ヴァレアスが常に携えていた装備品の一部だった。雪の上に落ちた肉の塊が、鈍い音を立てる。
一瞬の沈黙のあと、陣営の空気が爆発した。
「ヴァレアスを……討ち取ったぞ!」
「ゼン様が、あの一揆軍の首領を仕留められたんだ!」
歓声が雪原を揺らす。肩を叩き合い、剣を掲げ、泣き出す者までいる。絶望的な包囲戦を終わらせたのが、公爵家の「無能」と蔑まれていた十歳の少年だという事実が、彼らを酔わせた。
だがジルドだけは、熱狂の中心で動かなかった。弟の生還を喜ぶべきなのに、その目は俺の全身を冷たく走査している。返り血の量、歩き方、呼吸の速さ。細部を拾う癖が、戦場指揮官には染みついている。
(……どうやってだ?)
疑問が、言葉にならずに喉へ詰まっている。魔力適性も乏しく、剣も満足に握れないはずの弟が、歴戦の猛者を殺し、腕を持ち帰った。その筋道が、見えない。
俺の目の奥にあるものを、ジルドは探っていた。生還の喜びでも、敵を討った高揚でもない。そこにあるのは、淡々と仕事を終えた後の、冷えた静寂。
「……いや。今はいい」
ジルドは疑問を飲み込み、俺の細い肩に手を置いた。驚くほど軽い。氷みたいに冷たい。
「よくぞ戻った、ゼン。すまなかったな……あんな死地へ」
謝罪が、遅い。だが遅いことに意味はある。彼は本気で後悔しているのだろう。
「お前の功績は父上にも必ず報告する。おい! 火を! 湯浴みの準備をしろ! 最上級の食事と着替えもだ!」
号令で騎士たちが動き出す。湯気の立つ天幕へ案内される俺の背中を、ジルドは複雑な顔で見送った。安堵の下に、得体の知れない恐怖がじわじわと混ざっていくのが分かる。
そしてその様子を、野営地の影、馬車の陰から凝視する者がいた。
人質から解放され、泥と涙で顔を汚したザングースだ。
(……ありえない)
驚愕はすぐ、怒りと嫉妬へ変わる。自分が命乞いをし、無様を晒して引きずられていた間に、出来損ないの弟が英雄として迎えられている。
(俺の顔に泥を塗りやがって……ゼン。貴様、どんな汚い手を使った)
俺は一人、野営地の外れにある森へと足を踏み入れた。松明の光も届かない、月明かりさえ遮られた木々の深淵。そこは、先ほどまでの偽りの英雄譚が入り込む余地のない、静寂だけが支配する場所だった。
人目がなくなった瞬間、張り詰めていた糸が切れ、せり上がる熱い塊を抑えられなくなった。俺は近くの樹木に手をつき、身体を二つに折り曲げて、胃の中にあるものを容赦なくぶちまけた。
喉を焼く酸っぱい刺激に涙が溢れ、胃が空になってもなお、苦い胆汁を何度も吐き散らした。オーガスティン城跡での虐殺。数百人の人間を一方的に、効率的な資源として処理したことへの拒絶反応が、今さらになって身体を内側から食い破ろうとしていた。
吐瀉物の中、ドロリとした黒い影が蠢く。数多の人間を貪り、五本の角と禍々しい紫黒の甲殻を得て変態を遂げたウルガだ。こいつらは俺の命令一つで、老若男女の区別なく、敵をただの肉片に変えた。
初めて人を殺したという事実は、前世の倫理観を持つ俺の脳に逃げ場のない「エラー」を叩きつけてくる。網膜の裏側には、内臓を引きずり出しながら「助けてくれ」と縋ってきた男の指の感触や、首筋を食い破られた女の絶望的な痙攣が焼き付いて離れない。
だが、震える唇から漏れたのは嗚咽ではなく狂気じみた笑いだった。
……は、はは……っ
胃はこんなに悲鳴を上げているのに、脳の芯はかつてない全能感に痺れている。
前世のゲーム画面の向こう側で、何万というユニットを死地に送り、何十万という敵を殲滅してきた。あの時、俺が感じていたのは単なる「数字の減少」への充足感だった。だが、今のこれは違う。
自分の腹から出た「一部」が、生身の人間を咀嚼し、その命が消える瞬間の熱が、ウルガを通じて俺の血肉へとフィードバックされる。一人殺すごとに、俺のステータスが、あるいはウルガの個体値が、目に見えて跳ね上がっていく。
人殺しがここでは「正義」であり、何より効率の良い「レベリング」なのだ。
その歪な真理を魂が理解した瞬間、俺の中に残っていた日本的な命の重みという幻想が音を立てて崩れ去った。
自分を石ころのように扱ってきた世界の不条理を、人知を超えた異能で踏みにじる悦び。画面越しではない圧倒的な現実において、自分のビルド(戦略)が全てを支配した。その事実は、罪の意識で内臓を焼け付かせながらも、それ以上に背徳的で甘美な全能感で魂を芯から震わせた。
人道などという甘っちょろい枷は、とうの昔にこの世界の血に濡れた土が吸い取ってしまっていた。蹂躙すること、奪うこと、支配すること。それらはもはや忌むべき大罪ではなく、この過酷な世界を「攻略」するための最も純粋な最適解に過ぎない。
俺は、汚れた口元を手の甲で乱暴に拭い、足元の黒紫のウルガを見据えた。
五本の角が、俺の昂ぶりと共鳴するように闇の中で鈍く脈打っている。こいつは俺の罪の象徴であり、そして、俺をこの弱肉強食の理の頂点へと連れて行く「スキル」という名の物理的な現実だ。
もはや吐き気は収まっていた。
罪悪感という名の毒は、俺の中で「より確実に敵を壊すための冷徹さ」という劇薬へと作り替えられた。俺をまともな人間の範疇から引きずり出すには、この快楽はあまりに強烈すぎた。
「……次は、もっと上手くやれる」
俺の心は、次なる獲物を、さらなる蹂躙を、そしてこの世界を真っ赤に染め上げる絶望を求めて、激しく疼き始めていた。
英雄の仮面を被り、内側に怪物を飼い慣らす。この不条理な世界を、好き勝手に遊んでやる。それが転生者の特権だろうよ。




