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第14話:交渉

 最上階、玉座の間。かつてオーガスティン伯爵が帝国の理不尽に抗い、最期を迎えたその場所に、今はヴァレアスとウィッキー、そして数人の精鋭たちが陣取っていた。


 だが、室内に満ちているのは「英雄」の覇気ではなく、肌を刺すような、吐き気を催すほどの「異質な殺気」だった。


「……ウィッキー、来るぞ」


 ヴァレアスの声は、かつてないほど低く、そして硬かった。彼は愛用の手斧を握り直し、扉の向こうから近づいてくる「音」に神経を研ぎ澄ませた。


 それは足音ではない。


 硬質な節足が石床を擦る、ザワザワとした不気味な地鳴りのような音だ。


「ヴァレアス様……なんだ、この寒気は。階下からの悲鳴が……一瞬で消えた」


 ウィッキーは剣を構えるが、その手は微かに震えていた。彼にはあのパンを差し入れた時の、少年の無機質な瞳が脳裏に焼き付いて離れない。


 ギィィ……ッ


 重厚な扉が、抵抗もなくゆっくりと開かれた。そこに立っていたのは、返り血で全身を赤黒く染め上げた銀髪の少年、ゼンだった。


 彼の背後からは、溢れ出した影のような黒い塊が、壁や天井を這って部屋へと侵食してくる。


「とりあえず、話し合いましょう、ヴァレアスさん」


 ゼンは平然とした声で言った。その顔の半分には、誰かの臓物の一部がこびり付いている。ヴァレアスの目は、ゼンの足元から這い出してくる「それ」に釘付けになった。


「……ウルガ・ゴキブリだと?」


 ヴァレアスはかつての戦場でその災虫を見たことがあった。だが、目の前にいるのは、彼が知っているウルガではなかった。


 その甲殻は鋼のように黒光りし、鎌のような前肢には獲物の肉片がぶら下がっている。何より、その「統率」が異常だった。数十匹の災虫が、ゼンの呼吸一つに合わせて、一糸乱れぬ動きでヴァレアスたちを包囲していく。


「お前が、動かしているのか?」


 ヴァレアスが斧を構えるが、ウルガたちの放つ圧倒的な「捕食者」としての重圧に、側近の一人が耐えきれず膝をついた。


「はい。僕が死ねばこいつらの制御がきかなくなります。中には卵を孕んだ個体もいます。感じていると思いますが、普通のウルガ・ゴキブリではない」


 ゼンを取り囲む側近たちの震えは、もはや武人のそれではなく、捕食者を前にした小動物の痙攣に近かった。


 ある者は剣を握る指が痺れてガチガチと音を立て、ある者はゼンの背後に蠢く「黒い影」の羽音に当てられて、胃の腑から込み上げる嘔吐感を必死に堪えている。そんな死の静寂を切り裂くように、ゼンは無造作に椅子を引き、円卓へと腰を下ろした。


 その円卓の上には、一揆軍の血と泥に塗れた「現実」が惨めに散らばっていた。


 卓の中心に広げられた公爵領の地図は、度重なる軍議で手垢にまみれ、端の方は焦げた跡がある。その上には、重石代わりに置かれた錆びた短剣や、数日前に配給されたきり放置されて石のように硬くなった黒パンの欠片、そして誰のものか分からぬ泥だらけのお守りが転がっている。


 地図の「本丸」の箇所には、ヴァレアスが悔し紛れに突き立てたであろうナイフの跡が深く刻まれ、そこから染み出した古い血痕が、まるでこの城が流した涙のように黒く固まっていた。さらにその脇には、中身の腐りかけた水筒と、指の欠損した農民が遺していったであろう、使い古された魔導石の殻が、無機質な虚無を晒している。


 ゼンは、その汚れきった卓上の品々を汚いものでも見るように指先で軽く弾き、視線をヴァレアスへと向けた。


「……座ってください、いつまで経っても話が進まない」


 その平坦な、あまりに子供らしからぬ声に、ヴァレアスの頬の傷跡がピクリと跳ねた。ヴァレアスは、ゼンの背後で蠢く「闇」たちが、今にも飛びかからんと顎を鳴らしているのを肌で感じている。


 彼は勝機を捨てた。


 今この場で少年の首を跳ねたとしても、直後に自分たちはこの魔虫の群れに飲み込まれ、細胞の一つまで解体されることになる。そして、帝国全土にこの災虫達がばら撒かれるのだ。


 ヴァレアスは重く、地を這うようなため息を吐き出すと、愛用の手斧を机に叩きつけるように置き、椅子を引いた。鎧の継ぎ目が悲鳴のような音を立て、巨躯が円卓の向こう側に沈み込む。


「……話し合おう。お前の望みは何だ? もう、殺さずに交渉する価値は俺達にはない筈だ。下にいる彼等は全員死んだんだろ?」


「はい、全員」


「女子供もか?」


「誰がいたかは分かりませんが、いたのであれば死んでいるでしょう」


「……お前、なんてことをっ!」


 沈黙を破ったのはウィッキーだった。彼は円卓を拳で叩き、椅子を蹴るようにして立ち上がった。その瞳には、先ほどまでの恐怖を上回るほどの、激しい憤怒と悲しみが混じり合っている。


「下には戦えない女や子供、怪我人もいたんだぞ! 公爵家への恨みがあったとしても、あいつらはただ生きるためにここへ集まっただけだ。それを……あんな化け物どもに、生きたまま食わせるなんて、人間のすることか!」


 ウィッキーの叫びは、死に絶えた城内に虚しく反響した。彼は今も、自分の懐に残っているであろう、ゼンに与えるはずだった「もう一切れのパン」の温もりを、そしてゼンと同じ年頃の自分の息子の面影を、必死に守ろうとしていた。


「やめろ、ウィッキー。座れ」

 

 ヴァレアスが低く、重い声を上げた。だが、ウィッキーは止まらない。


「ヴァレアス様! こいつはザングース以上の怪物だ! 罪のない民を、虫の餌にしたんだぞ!」

「罪のない民、ですか」


 ゼンは、ウィッキーの怒りをどこか遠い国の出来事でも眺めるような、冷徹な眼差しで受け流した。彼は卓上に置かれた、カビの生えた黒パンの欠片を指先で弄びながら、感情を一切排した声で言葉を継いだ。


「帝国が、グラド・イグナスが、反旗を翻した者をどうするか。分かっていた筈だ」


 ゼンはそこで言葉を切り、ふっ、と虚空を見つめた。


「それに、地下の騎士はどうなりました? 彼はただの騎士として、自分の任務に従い、家に残した妻を案じながら死んだ。それを生きたまま解体し、唾を吐きかけ、死体を『風除け』として引き摺り回した」


 ウィッキーの顔から血の気が引いていく。ゼンはさらに追い詰めるように、血に汚れた唇を歪めた。


「あなたたちの言う『罪のない民』は、あの時、立派な虐待者であり、人殺しだった。楽しそうに拷問し、捕虜の少年に唾を吐き掛け、略奪品に狂喜乱舞する。それが、罪のない民だとは到底思えない」


 ゼンの言葉は、凍てついたナイフのようにウィッキーの胸を抉った。ゼンは血塗られた顔をゆっくりと上げ、ヴァレアスを正面から見据えた。


「一揆を始めたのはあなたたちだ。そして、子供だと侮り、自分達の本拠地に僕を招き入れたのも、あなただ」


 室内を、再びあの「ギチギチ」という無数の羽音が満たしていく。ゼンは皮肉めいた微笑を浮かべ、円卓に深く背を預けた。


「さて、責任転嫁の時間は終わりです」


 ゼンは卓上に散らばっていた黒パンの欠片を、無造作に床へと払い落とした。その音に呼応するように、影に潜んでいたウルガたちが一斉に顎を鳴らす。


「条件を提示します。まず、今この部屋にいるあなたたちの命は、奪わないと約束しましょう。……その代わり、ヴァレアスさん。あなたの『左腕』と、その愛用の装備をすべて置いていってもらいます」


 ヴァレアスの眉がぴくりと動いた。ゼンは淡々と言葉を続ける。


「この城は、僕が既に制圧しました。あなたたちは『死んだ』ことにしなくてはならない。ジルド兄上には、僕がこの左腕と装備を持って帰り、『一揆軍の首領ヴァレアスは、腕一本を残して爆散した』と報告します。そうすれば、追っ手は止まる」


 ゼンは二つ目の指を立てた。


「二つ目。僕は馬車を操縦できません。僕をジルド兄上の陣営まで、安全に送り届けてもらう。これは人質としてではなく、僕の護衛としての仕事です。三つ目。ウィッキーさん、あなたを含む元冒険者たちは、今すぐ帝都のギルドに戻ってください。そして、今後僕が直接、あるいは代理人を通じて出す依頼を、最優先で受理すること」


 ゼンは、愕然とするウィッキーの瞳を真っ直ぐに見つめた。


「四つ目。ヴァレアスさん、あなたも名前と顔を変えて冒険者になり、帝都へ戻ってください。その戦士としての腕はあまりに惜しい。義手の手配と手術台は僕が負担しましょう」


「……本気で言っているのか、ガキが」


 ヴァレアスが低く唸るような声を漏らす。ゼンは興味なさそうに肩をすくめた。


「別に、信じられなければ今すぐ逃げても、あるいはここで僕を殺そうとしても構いませんよ。あなたたちがその後、野垂れ死のうが、帝国に捕まって処刑されようが、僕にとってはあまり関係のないことです」


 ゼンは血塗られた手で、ヴァレアスの前に置かれた錆びたナイフをそっと押し戻した。


「一揆なんていう、結末の分かりきった遊びはもうおしまいです。ここで死を選ぶか。死んでいった彼等の為に生き残り、いつかまた、兄上達を殺す夢を見るか」


 室内を支配していたのは、もはや恐怖ですらなかった。それは、抗いようのない「運命」という名の濁流だった。ウィッキーは、ゼンが差し出したあまりに冷酷で、かつ理にかなった生存の道に、言葉を失って震えていた。


 ゼンはゆっくりと席を立ち、ヴァレアスの左腕を値踏みするように眺めた。


「さあ、決めろ、反逆者。腕一本で、新しい人生を買い取るか?」

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