第13話:蹂躙する闇
地下牢の湿った空気が、突如として別の「重み」を帯びた。
牢屋の前では、二人の農民が錆びた火鉢を囲み、酒を回し飲みしていた。一人は片目を失った初老の男、もう一人はまだ若さの残る二十代の男だ。彼らは先ほど騎士の死体を引きずり出した快楽に浸り、油断しきった背中を鉄格子に向けていた。
「……なぁ、さっきの騎士の叫び声、聞いたか? あの指を剥ぐ時の音、たまらねえなぁ」
「ああ、公爵家の奴らも、皮を剥けば俺たちと同じ色の血が出るんだ。傑作だよ」
若い男が下卑た笑いを上げた、その瞬間だった。彼の足元の影が、不自然に「立ち上がった」。
「……え?」
男が違和感に気づき視線を落とした時には、もう遅かった。影から躍り出たウルガの一匹が、剃刀のような六本の脚で彼の脹脛をガッチリと掴んでいた。
「あ、熱っ!? 何だ、これ、火傷か……っ、ギャアアアアア!!」
若い男の叫びが、地下の静寂を粉砕した。ウルガの脚から分泌される高濃度の強酸が、ズボンの布地を焼き切り、筋肉を溶かし、骨にまで達したのだ。男はのた打ち回るが、ウルガは逃がさない。それどころか、溶解し始めた傷口から、その醜悪な頭部を強引に「肉の内部」へと突き入れた。
「おい、どうした!? 何が……ひ、ヒィッ!!」
初老の男が腰を抜かした。彼の目の前で、仲間の足の皮膚が、まるで内側から巨大な風船が膨らむようにボコボコと波打っていた。
「助けて……中、中に、何かが、入って……っ!!」
若い男の絶望的な懇願は、次の瞬間に血の泡へと変わった。ウルガは体内で暴れ回り、生きたまま腸を食い千切り、横隔膜を突き破って肺を蹂躙したのだ。男の口からは、悲鳴の代わりに細かく千切れた内臓の破片が溢れ出した。
そして、真の恐怖はそこからだった。
初老の男が逃げ出そうとした背中に、天井からもう一匹のウルガが音もなく降ってきた。
「ギチッ!」
硬質な顎が男のうなじに食い込む。男は悲鳴を上げる間もなく、首の自由を奪われた。
ウルガは殺さない。新鮮な肉を好むこの怪物たちは、獲物を「生かしたまま」処理を始める。
男は床に組み伏せられ、意識がはっきりした状態で、自分の腹部が解体される様を見せつけられた。ウルガの鋭い前肢が、まるで熟れた果実を剥くように、彼の腹の皮を左右に広げた。
「あああ……ああ……っ」
男は声にならない掠れ声を上げながら、自分の腹の中から、湯気を立てるピンク色の腸が、黒い虫によって一本ずつ引きずり出される光景を凝視した。ウルガはその腸を、まるで細長い麺でも啜るように、端から咀嚼していく。クチャ、クチャという、湿った咀嚼音が静かな牢内に響き渡る。
「い、いやだ……死にたく、ない……っ」
指先がピクピクと痙攣する。だが、ウルガは男の脊髄に麻痺毒を流し込み、痛覚だけを鋭敏に残したまま、逃げる自由を奪っていた。
若い方の男は、既に全身の皮膚の下を数匹の幼体が這い回っており、眼球の裏側から何かが突き出すようにして絶命した。
初老の男の意識が遠のく間際、彼は見た。
鉄格子の暗闇の中で、血のように真っ赤な瞳を輝かせた少年が、膝を抱えたまま一連の屠殺を「楽しそうに」眺めている姿を。
「……いい鳴き声だ。おかげで、こいつらも食欲が進んだみたいだよ」
ゼンの声が、死にゆく男の耳に、悪魔の囁きのように届いた。
数分後、廊下には二つの、中身を綺麗に空にされた「肉の殻」だけが残された。
「なんだ、今の叫び声は!?」
松明を掲げた八人の農民たちが、暗い廊下の角からなだれ込んできた。彼らが目にしたのは、無残に食い荒らされ、中身をぶち撒けられた二人の見張りの無残な姿――そして、開いた牢屋から静かに歩み出てくる少年の影だった。
「て、てめぇ……! 何をした!」
一人の農民が震える手で槍を構え、ゼンを指差した。だが、ゼンが薄く笑い、指先を天井へ向けた瞬間、農民たちの頭上にある腐った梁から、黒い「雨」が降り注いだ。
「ギチギチギチッ!」
それは、血と臓物の臭いにつられて這い出てきた、十匹のウルガの群れだった。
「うわあああぁぁぁ! 顔が、顔がぁぁ!!」
最前列の男の顔面に、二匹のウルガが同時に張り付いた。鋭い脚が眼球に突き刺さり、その奥の脳組織を掻き回す。男が狂ったように自分の顔を掻き毟ると、ウルガの毒液でドロドロに溶けた皮膚が、鼻や口の形を失ってボロボロと床に剥落した。
「助けてくれ! 離せ、この化け物……っ、あがっ!?」
逃げようとした男の背後から、ウルガが首筋に飛びつき、一気に頸椎を噛み砕く。男は生きたまま首が不自然な方向に曲がり、喉笛から「ヒューッ」と血混じりの空気が漏れる音を立てて崩れ落ちた。
そこからは、阿鼻叫喚の屠殺場だった。
農民たちの必死の抵抗など、飢えた死神たちの前では無意味だった。一人の男は、腹部に食らいついたウルガを引き剥がそうとしたが、逆に指を食いちぎられ、そのまま裂けた腹から入り込まれた。
「中に入ってる! 俺の腹の中にっ……やめろ、動くなぁぁ!!」
男は自分の腹を狂ったように叩いたが、皮膚の下を「コブ」のような塊が這い回るたびに、内側から臓器を噛み切られる激痛にのたうち回った。やがて、彼のへそのあたりを内側から食い破り、鮮血に濡れたウルガの頭がコンニチハと姿を現した。
別の男は、両脚の腱を切り裂かれ、四つん這いで逃げようとしたところを、三匹のウルガに同時に取り付かれた。彼らは男の尻から直腸へと侵入し、生きたまま内部を貪り始める。男はあまりの屈辱と激痛に、白目を剥いて失禁し、泡を吹きながら指を石床に立て、爪が剥がれるまで掻き毟り続けた。
わずか数分。
廊下には、かつて人間だった「肉の袋」が八つ、不規則な形で転がっていた。あるものは頭部が半分消失し、あるものは胸腔が完全に空にされ、あるものは全身の皮を剥がされて赤黒い筋肉が剥き出しになっていた。
ゼンは、血の海と化した廊下を、靴を汚さないように慎重に歩いた。
「……随分と、騒がしくなったな」
足元では、食事を終えたウルガたちが、主の元へ戻り、さらに大きく、さらに禍々しい姿へと脱皮を繰り返していた。
地下から響き渡る、人ならざる者の咀嚼音と、断続的に途切れる絶叫。本丸1階のホールで事態を静観していた元冒険者のケインは、長年の経験が告げる「死の予感」に総毛立った。
「おい、松明を持て! 下で何が起きてる!」
ケインは十数人の農民を引き連れ、地下へ続く石階段へと足を踏み入れた。だが、数段下りたところで、彼は金縛りにあったように足を止めた。
階段の下から這い上がってきたのは、単なる死臭ではない。理性を根底から叩き潰すような、生物としての格が違う「濃密な殺気」だ。
「ケ、ケインさん……なんだよ、この空気……」
後ろの農民が震え声で漏らす。ケインの額からは、凍てつく寒さの中でも粘りつくような冷や汗が止まらない。
暗闇の奥、一人の少年が立っていた。
ゼンは無表情に、腹の中で温めていた卵嚢を一斉に孵化させた。ドクン、と心臓が跳ねる。全エネルギーを幼虫たちの成長に充てると、腹部が異様に波打ち、皮膚が内側から突き上げられた。
「……ッ、ゴブ、ッ……」
自身の肉体から絞り出された養分を糧に、幼虫たちが内側から主を殺さんばかりの勢いで急成長を遂げていく。その苦悶を喉の奥で押し殺す姿は、生理的な嫌悪感を煽った。だが、次の瞬間、ゼンの瞳が赤黒く発光し、その細い喉が異様に膨れ上がった。
おぇぁっ
ゼンが口を大きく開くと、ドロリとした粘液と共に、成虫へと至った十五匹が爆音のような羽音を立てて吐き出された。それは「吐く」というより、深淵から悪魔が「溢れ出す」光景だった。
「ひ……ひぃぃぃ! 化け物だ! 逃げろぉ!!」
農民の一人が叫び、背を向けた。だが、暗闇から飛び出したウルガは、弾丸のような速度でその背中に突き刺さった。
「ガハッ!?」
男の背中から侵入したウルガが、一瞬で胸を突き破って飛び出す。
ケインは本能だけで動いた。ゴールドランクの勘が「戦うな、逃げろ」と脳内で絶叫している。彼は仲間の農民を突き飛ばし、狂ったように1階のホールへと駆け戻った。
「ヴァレアス様! ヴァレアス様ぁぁ!! 門を閉めろ! 下から何か、とんでもねえもんが来るぞ!」
ケインが転がり込むように戻った1階広間は、数秒後、この世の終わりのような光景へと変貌した。
階段の闇から、黒い津波となって溢れ出したウルガの群れ。ある農民は、逃げる間もなく天井から降ってきた群れに包まれ、悲鳴を上げる暇もなく「骨」へと変えられた。
ある農民は、火傷の傷口から幼体に侵入され、自分の手で自らの腹を割きながら狂い死んだ。
四肢が欠損した怪我人たちは、抵抗することもできず、生きたまま「新鮮な苗床」として貪り食われていく。広間を埋め尽くしていた一揆軍の希望は、一瞬にして捕食者のための「餌皿」に変わった。
飛び散る鮮血、撒き散らされる臓物、そして硬質な羽音が反響する地獄。
その狂乱の中心。血の海を静かに歩くゼンの後ろ姿は、もはや救いを待つ人質ではなく、この巨大な「食堂」の支配者そのものだった。
オーガスティン城跡の2階。
かつて貴族たちの社交場であった私室階は、今や元冒険者たちが酒を酌み交わし、下層の喧騒を嘲笑う休息の地となっていた。
「……おい、さっきから下がおかしくねえか?」
元ブロンズランクの重戦士が、ジョッキを置いて顔を上げた。1階から響いていた農民たちの怒号や勝鬨が、いつの間にか異質な「金切り声」と、何かが砕けるような「不快な湿った音」に変質していたからだ。
その疑問に答えるように、大扉が内側から吹き飛ぶような勢いで開かれた。
「扉を閉めろ! 早くしろ! 閂を下ろせぇ!!」
なだれ込んできたのは、顔面を土色にし、全身に返り血を浴びたケインだった。彼は豪華な絨毯の上で無様に転倒しながらも、這うようにして扉の方へ戻り、狂ったように扉を閉めようと叫んだ。
「どうしたケイン、落ち着け! 騎士団の夜襲か?」
仲間たちが駆け寄るが、ケインは彼らの腕を振り払い、震える手で重厚な大扉を閉ざし、閂をかけた。その指先は、まるで極寒の雪原に放り出されたかのように激しくガタガタと震えている。
「騎士団……? 違う、あんな生ぬるいもんじゃねえ! 下は……1階はもう全滅だ! 誰も生きてねえよ!」
「全滅だと!? 周囲が崖だってのに、どこから敵が来るってんだ!」
仲間の罵声を、ケインの恐怖に満ちた絶叫がかき消した。
「場所なんて関係ねえんだよ! 虫だ……真っ黒な、死神みたいな虫の群れだ! 奴ら、生きたまま腹を食い破って、目玉の裏から飛び出してきやがる……。農民たちが、自分の内臓をぶち撒けながら、助けてくれって、俺の足を掴んで……ッ!」
ケインは自分の顔を覆い、嗚咽を漏らした。ゴールドランクとして数多の魔物を見てきた男の精神が、完全に崩壊しかけている。
「……あいつだ。あの公爵家の『三男』だよ。あいつが、口から死骸を飲み込んで……ニヤニヤ笑いながら、化け物を吐き出しやがったんだ。あれは人間じゃねえ。子供の皮を被った、ただの『怪物』だ!」
その時だった。
閉ざされた扉の向こう、1階から続いていた阿鼻叫喚の悲鳴が、ピタリと止んだ。不気味なほどの静寂。
そして、閂をかけたはずの扉の隙間から、「ギチ、ギチチ……」という、硬質な節足動物が木を齧る音が漏れ聞こえてきた。
ケインは悲鳴を上げて扉から後退った。
「来る……。あいつが、来るぞ……!」
ケインの警告も、頑強な閂も、全くの無意味だった。
この城の古びた扉には、虫が入り込むには十分すぎるほどの隙間が空いている。
「おい……なんだ、この音は……?」
先ほどジョッキを置いて立ち上がった重戦士が、不快そうに自分の首元を掻いた。彼の全身を包む重厚な鉄の鎧は、剣や斧を弾くには最適だったが、その「繋ぎ目」こそが死神たちの侵入口となっていた。
「ギチッ」
「……あ?」
重戦士が自分の喉元に手をやった瞬間、鎧の隙間から溢れ出したのは、真っ黒な粘液と「脚」だった。鎧の中にいつの間にか入り込んでいた三匹のウルガが、彼の皮膚と鉄板の間で、猛烈な勢いで脱皮を繰り返していたのだ。
「う、動く……鎧の中で、何かが、動き回って……ッ!」
重戦士が叫び、無理やり籠手を外そうとしたが、その隙間にウルガの鋭い前肢が突き刺さる。
「ギャアアアアア!!」
鎧が彼の叫び声を反響させ、異様な金属音を立てて震える。ウルガたちは彼の逃げ場のない鉄の箱の中で、生きたまま肉を削ぎ、内側から関節を食いちぎっていった。やがて、兜の面頬の隙間から、ドロドロに溶けた血肉と、満足げに鳴くウルガの触角が突き出した。
「ひ……あ、ああ……っ!」
周囲にいた冒険者たちが武器を抜く。だが、彼らの足元、影、そして天井の梁からは、既に無数のウルガが「待機」していた。
「ガハッ!?」
一人の魔導士が、口を開いた瞬間に天井から降ってきたウルガを喉奥まで流し込まれた。彼は自分の喉を掻き毟り、指を喉に突っ込んで引きずり出そうとしたが、指ごとウルガに噛み砕かれ、最期は胃袋を突き破られて絶命した。
一人、また一人と、歴戦の冒険者たちが「ただの餌」として解体されていく。2階の広間は、悲鳴と、肉が裂ける不快な湿った音、そしてウルガたちの爆発的な羽音に支配された。
そして、最後に残ったのは、腰を抜かして壁際まで後退ったケインだった。
「……やめろ、来るな。頼む、俺には息子が……」
ケインの目の前に、血の海を静かに歩いてきたゼンが立ち止まった。ゼンの背後には、ウルガの群れが、主の合図を待って黒い絨毯のように蠢いている。
「そうか。申し訳ないけど、俺もイグナス家の者なんでね」
「……な、何を……」
「死んでくれ」
ゼンが指を鳴らした瞬間、ケインの全身をウルガの群れが覆い尽くした。
「い、嫌だ! ああああああぁぁぁ!! 痛い、痛いぃぃ!!」
ウルガたちはケインの四肢の先から、少しずつ、丁寧に肉を削いでいった。生きたまま皮を剥がされ、露出した神経に冷気が触れるたびに、ケインは狂ったような絶叫を上げる。
ウルガは彼の眼球を一つずつ丁寧にくり抜き、その空洞から脳へと潜り込んでいった。
「あ……あ、う……」
ケインの意識が完全に消えるまで、ウルガたちは彼の心臓を止めなかった。
彼が最後の一息を吐き出した時、その身体はもはや人間の形を留めておらず、中身を食い尽くされた「皮の袋」だけが、冷たい石床にクシャリと崩れ落ちた。
ゼンは、静まり返った2階の惨状を見渡した。
「……さて。後は上だけか」
ゼンが歩き出すと、死体の中から這い出したウルガたちが、さらなる飢えを抱えて主の後に続いた。
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