第12話:嵐の前の静けさ
独房での待遇は、人質という言葉から想像される「保護」とは程遠い、緩やかな処刑に等しいものだった。
食事など最初から期待すらしていなかった。
城内に運び込まれるわずかな食料は、戦える農民とヴァレアスの直属たちで底を突き、この地下牢に届くのは、湿り気を帯びた氷の粒と、凍りついた壁から染み出すドブ川のような水の雫だけだ。
鉄格子の向こうには、絶えず誰かの影があった。
それは見張りではなく、公爵家に村を焼かれ、家族を奪われた農民たちの行列だ。
「おい、見ろよ。これが『高貴な』イグナスの末路だ」
一人の男が、煤汚れた顔で俺を覗き込み、喉の奥から汚い痰を絞り出した。
「お前の親父のせいで、俺の息子は冬を越せなかった。お前も同じように、腹を空かせて、凍えながら、惨めに死んでいけ」
ペッ、と放たれた唾が俺の頬を汚し、冷たい床に落ちる。
彼らは俺を殴り殺しはしない。ヴァレアスとの約束があるからだ。だが、その代わりに言葉という毒を吐き、自らの正義を満足させるために、代わる代わる現れては罵詈雑言を浴びせていく。
「その綺麗な服も、今に俺たちの防寒着になるんだ。楽しみにしてるぜ」
「指を一本ずつ焼いて食ってやりたいが……人質じゃあな。せめて、その絶望に染まった面だけは拝ませてもらうよ」
中には、火傷でただれた指を格子の隙間からねじ込み、俺の髪を乱暴に引っ掻き回す女もいた。彼女の爪は欠け、指先からは膿が混じった血が漏れ出している。
「……何とか言ったらどうなんだ、この薄汚い虫ケラが!」
罵声。皮肉。嫌味。
彼らが唾を吐いて立ち去るたび、その背中を俺は暗闇からじっと見つめていた。
(……どんだけ恨まれてんだよ、イグナス家)
俺は頬についた唾を拭うことさえせず、ただ静かに喉を鳴らした。
「ぜ、ゼン様。なぜ、こ、こに……」
鉄格子の隙間から流れてきたのは、血の泡が混じった掠れ声だった。
隣の房。梁から吊るされた騎士が、辛うじて残った右目で俺を捉えていた。その視線は焦点が定まっておらず、薄暗い地下牢の闇を彷徨っている。
「……救援が、来られたのですか。ジルド様は……騎士団は、すぐそこに……」
俺は何も答えず、ただ冷たい床に座り込んで彼を見つめた。騎士の身体は、もはや人間としての形を失いつつあった。剥ぎ取られた皮膚の赤、凍傷の黒、そして農民たちが押し当てた焼鉄の爛れた黄色。それらが混ざり合い、腐敗の臭いと共に立ち上っている。
「……ああ、そうか。見える、ゼン様……。俺の、帰りを待っている……セレーナが」
彼はガクリと首を垂らし、血に濡れた唇を震わせた。セレーナ。この騎士の家族だろうか?
「ゼン様……伝えて、ください。セレーナに……。キッチンの棚の裏に、金貨を三枚、隠してある……。それで、冬のパンを……。それと、愛していると……すまない、と……」
騎士の呼吸が、次第に浅くなっていく。一息ごとに、彼の肺からはヒュウヒュウと虚しい風の音が漏れ、喉の奥で凝固しかけた血が鳴った。
「寒い……セレーナ……ゼン、様……光が……」
最後の言葉は、言葉にすらならなかった。彼は一度だけ大きく身体を痙攣させると、そのまま全ての力を失い、鎖に引かれるままにだらりと伸びた。
滴り落ちる血の音が止まる。
静寂が地下廊下を支配し、彼の魂が抜けた後の「肉塊」だけが、冷たい外気に触れて白く煙っていた。
(……遺言、か。金貨三枚じゃどうにもできねぇだろ)
俺は立ち上がり、鉄格子に手をかけた。隣の房で絶命したばかりの騎士の肉。それは、つい数秒前まで「イグナス公爵家の誇り」だったものだ。
「おい、死んでやがるぞ、この『高貴な』騎士様は」
地下牢の奥から、汚れた松明を掲げた農民たちが戻ってきた。先ほどまで生爪を剥いでいた男と、その仲間だ。彼らは鉄格子の隙間から身を乗り出し、梁から吊るされたまま動かなくなった騎士の亡骸を、まるで壊れた道具でも見るような冷淡な目で見下ろした。
「ケッ、金貨三枚がどうとか、女の名前を呼んで泣き言を言ってたクセによ。死ぬ時くらいもっとマシな絶叫を上げろってんだ」
一人が格子の隙間から錆びた槍を突き出し、騎士の遺体の脇腹を無造作に突いた。既に熱を失いつつある肉体は、鈍い反応で揺れるだけだ。
「おい、ゼンだっけか? 見ろよ、お前を守るはずだった騎士の無様な姿を。お前の家のもんは、みんなこうやって俺たちに謝罪しながら死んでいくんだよ。……セレーナだっけか? 旦那のこんな面を見たら、腰を抜かして泣き喚くだろうなぁ」
彼らは下卑た笑い声を上げ、床に溜まった騎士の血を軍靴で踏みにじった。そして、一人が鍵束を鳴らして隣の房の扉を開けた。
「死体をここに置いておくと腐って臭う。運び出せ。上じゃあ、まだ『新鮮な肉』が足りねえんだよ。ヴァレアスの旦那が言ってたろ、敵の死体は防壁の補強にでも何にでも使い道があるってな」
男たちは、騎士の両足に太い麻縄を乱暴に巻きつけた。
「せーのっ!」
掛け声と共に、騎士の遺体は梁の鎖から外され、床へと叩きつけられた。ベチャリという、水を含んだ重い塊が落ちる音が、静まり返った牢内に響き渡る。
彼らは死体の尊厳など微塵も顧みず、縄を肩にかけて引き摺り始めた。
「重てえな、この野郎。いいもん食ってやがった証拠だ」
「おい、もっと急げ。こいつの鎧はもう剥いだが、中身だってまだ使い道はある。……凍らせて壁の隙間に詰めりゃ、立派な風除けだ」
ズズズ、ズズズ……。
騎士の頭部が石床の凹凸にぶつかり、ガクガクと不自然な角度で揺れながら遠ざかっていく。床には、彼が最期まで守ろうとした誇りの名残のように、どす黒い一本の筋が廊下の奥へと長く伸びていた。
数分前まで、そこには妻を想い、隠し金庫の場所を案じる「人生」があった。しかし、死んだ瞬間にそれはただの「移動させるのが面倒な肉塊」へと成り下がる。
戦争という巨大な歯車の前では、個人の積み上げてきた歳月も、愛も、誇りも、驚くほど簡単に等質化され、無価値なゴミへと変換される。
(……呆気ない。本当に、呆気ないな)
俺は鉄格子に額を押し当て、遠ざかる死体の跡を眺めていた。
あの騎士は、公爵家に忠誠を誓い、厳しい訓練に耐え、愛する妻とのささやかな幸福を守るために剣を振るってきたはずだ。だが、その結末は、名もなき農民に唾を吐きかけられ、風除けの材料として石床を転がされることだった。
イグナスの誇りも、農民の正義も、剥き出しの死の前ではどちらも等しく滑稽だ。
一揆を起こした農民たちも同じだ。彼らは家族の仇を討つために立ち上がったというが、その手は今、かつての自分たちと同じように「誰かの大切な人」を無残に解体している。憎悪が正義を食い潰し、生きるための理性が死への恐怖で塗りつぶされていく。
このオーガスティン城跡に充満しているのは、高潔な理想などではない。
ただ、自分の命が明日にはゴミになるかもしれないという恐怖を、他者を踏みにじることで紛らわそうとする、浅ましい生存本能の残骸だ。
鉄格子の向こうから、これまでとは違う、湿った足音が近づいてきた。
現れたのは、ゴールドランクの冒険者、ウィッキーという男だった。ヴァレアスの片腕として戦う彼だが、その瞳には、先ほどまで俺に唾を吐きかけていた農民たちの剥き出しの憎悪とは異なる、鈍い色の哀愁が混じっていた。
ウィッキーは周囲を警戒するように一度廊下の奥を振り返ると、鉄格子の前に膝をついた。
「……おい、ガキ。生きてるか」
その声は低く、どこか掠れていた。彼は汚れの目立つ革鎧の懐に手を差し入れると、紙に包まれた「何か」を取り出した。
「これを食え。……ヴァレアスには内緒だ。見つかれば、俺もただじゃ済まない」
格子の隙間から差し出されたのは、あまりの寒さにカチカチに凍りついた、一切れの黒パンだった。石のように硬く、お世辞にも美味そうには見えない。だが、飢えに喘ぐこの城においては、それは黄金にも等しい価値を持つものだ。
俺が無機質な瞳でそのパンを見つめていると、ウィッキーは自嘲気味に口角を歪めた。
「……お前を見てると、故郷に残してきた息子を思い出すんだ。ちょうど、お前と同じくらいの歳でな」
彼は、泥と血に汚れた自分の大きな手を見つめた。
「本来なら、お前のようなガキがこんな場所にいるべきじゃない。……戦争ってのは、いつも一番弱いところから壊していく。俺たちが守ろうとしている正義ってやつも、お前のようなガキを犠牲にの上に成り立ってると思うと……反吐が出る」
ウィッキーの言葉には、冒険者として幾多の死線を越え、そして一揆という泥沼に身を投じた男の、拭いきれない後悔が滲んでいた。彼は俺の返事を待つことなく、立ち上がった。
「……せめて、腹が膨れているうちに眠れ」
彼はそれだけ言い残すと、再び闇に消えていった。俺は残されたパンを手に取った。氷のように冷たく、指の形にすらならないほど硬い。
だが、そのパンには、この地獄のような城内で唯一の善意が宿っていた。




