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第11話:はじめての人質

 北の空を削り取るようにそびえるオーガスティン城跡は、かつて「白亜の牙」と讃えられた栄光の欠片も留めていない。


 標高の高い断崖の頂に位置するその城は、今や崩落した石材が黒ずんだ骸骨のように積み上がる、巨大な墓標と化している。


 城の周囲は、三方を「嘆きの絶壁」と呼ばれる垂直に切り立った崖に囲まれ、唯一の登城路は蛇のようになびく細い急斜面のみという、天然の要塞である。


 かつては三重の堅牢な外壁が侵入者を阻んでいたが、現在は王国軍の魔導爆撃によって、第一、第二外郭は粉々に粉砕され、剥き出しになった石壁の隙間から冬の風が不気味な笛のような音を立てて通り抜けている。本丸の尖塔は中ほどでへし折れ、内部の螺旋階段が外側へ垂れ下がる様は、まるで引きずり出された巨人の内臓のようでもある。


 周辺には、かつて軍事拠点として機能していた名残がある。地下には破壊を免れた巨大な貯水槽が広がり、一揆軍の数千人が冬を越すための生命線となっているが、その水は地脈の狂いによって黒く濁り、淀んでいる。


 外壁の至る所にはかつての魔導砲台の基部が残っているものの、魔力を供給する回路は焼き切れ、今は農民たちが凍えを凌ぐための微々たる焚き火の置き場に成り下がっている。


 この城が放棄された理由は、戦略的な価値を失ったからではない。


 五十年前、当時の領主が税制に反旗を翻した際、帝国が下した「絶対的な見せしめ」の結果である。


 帝国軍は兵糧攻めのような慈悲深い手段を選ばず、一晩のうちに城の全機能を魔導の炎で焼き尽くした。一族郎党、そして城に仕えていた無実の使用人に至るまで一人残らず処刑され、城そのものが「反逆者の末路」を象徴するオブジェとしてあえて修復されずに放置されたらしい。


 今なお城内に漂う焦げ付いた魔力の残滓は、そこに踏み入る者の正気を蝕むと言われている。そんな呪われた廃墟を、ヴァレアス率いる一揆軍は最後の希望として、あるいは皮肉な運命の皮肉として、自らの終焉の地に選んだのである。


 俺は馬車の窓から、その黒く淀んだ要塞のシルエットを見上げた。


 城門の前には、既に松明の火が揺れていた。馬車の横に控えるのは、イグナス公爵家騎士団長エーゲル・ギュアイス。かつて数々の戦場を共に潜り抜けた、ジルド兄上の信頼厚い武人だ。だが、今の彼の横顔には、誇り高き騎士の面影はなく、ただ幼い主を売るという恥辱に対する、鋼のような強張りが張り付いている。


「……ゼン様、参ります」


 エーゲルの先導で、俺は馬車を降りた。

 凍てつく風が吹き抜ける城門の奥から、数人の人影が歩み寄ってくる。


 中心に立つのは、巨躯に手斧を提げた鬼神ヴァレアス。そしてその傍らには、革鎧を無造作に着込み、油断なくこちらを睨みつけるケインら元冒険者たちの姿があった。彼らの瞳には、帝国貴族に対する根深い嫌悪と、それ以上に深い「飢え」が宿っている。


「公爵家の騎士様が、何の用だ。降伏の使者か?」


 ヴァレアスが低く、地響きのような声で問う。エーゲルは一歩前に出ると、震える拳を隠すように腰の剣を握り、宣告した。


「ヴァレアス・ロドリゲス。……ザングース様の身柄を要求する。代わりに、我が公爵家は三男ゼン様を貴殿らに差し出し、一週間の休戦に応じる」

「……三男だと?」


 ヴァレアスが眉を顰めた。その奥から、魔道具によって両手足の自由を奪われ、引きずられるようにしてザングース兄様が連れてこられた。かつての傲慢さは微塵もなく、頬を腫らし、屈辱と恐怖に顔を歪ませている。


「な、何だそれは……ジルド兄上は何を考えている。ゼンだと? こいつと、私の命と釣り合うと思っているのか!」


 ザングースの絶叫が雪原に響く。

 ヴァレアスは、俺の無機質な瞳をじっと見つめた。それから瞼を閉じて考え込むと、ザングースの背後から蹴り飛ばすようにして俺たちの方へ突き出した。


「いいだろう。イグナス公爵家がどれほど卑劣か、この交渉で帝国中に伝わる。……ゼンをこちらへよこせ! 交渉成立だ」


 エーゲルが痛ましそうに目を伏せ、俺の背中をそっと押した。


 俺は一歩、また一歩と、汚泥のような憎悪が渦巻く城の深淵へと足を踏み入れる。ザングースが俺の横を通り過ぎる際、彼は俺に感謝の言葉一つかけることなく、「俺を救ったつもりか? 馬鹿め」と呪詛を吐き捨てて騎士団の元へ逃げ帰っていった。


 その様子を眺めていた元冒険者のケインが、地面に唾を吐き捨て、ジルドの陣営を指して皮肉を笑った。


「ヒヒッ……。公爵領の救世主様も、随分と立派な御仁だな。自分より幼い弟を、こんな死骸の山に放り込んで、自分は温かい天幕で正義を語るのか。……騎士道ってのは、ガキの命で買い叩くのが流儀かよ、エーゲル大長殿?」


 エーゲルは反論せず、ただ奥歯が砕けんばかりに噛み締める音を響かせた。


 城門が重々しく閉ざされる。


 俺は独り、ヴァレアスと飢えた農民たちの中心に立ち、照れたように頭を掻いた。


 それにしてもさっきのはいい皮肉だった、元冒険者。貴族の世界では仕方ない決断だとしても、やはり売り飛ばされるのは気分が良くない。


 重苦しい音を立てて城門が閉じられた瞬間、外界の冷気とは異なる、どろりとした「停滞した死」の気配が俺を包み込んだ。


 オーガスティン城跡の内部は、かつての白亜の美しさなど微塵も残っていない、巨大な腐肉の器だった。


 かつて華やかな晩餐会が開かれていたであろう大広間は、今や何十人の負傷者と飢えた民が折り重なる、巨大な野戦病院と化している。


 剥落した天井からは、かつての装飾の残骸が牙のように突き出し、凍てついた大理石の床には、汚物と膿、そして凍りついた鮮血が幾層にも重なってこびり付いていた。


 そこには「英雄」の輝きなどどこにもない。あるのは、ただ生き延びることへの執着が腐り落ちた後の残骸だけだ。


 俺が連行される通り道、壁際に座り込んだ農民たちの視線が、針のように肌を刺す。


「……公爵家のガキだ……」

「こいつの親が、俺たちの村を焼いた……」


 一人の男が、ズルりと這い出してきた。その顔の半分はザングースの雷撃によって炭化し、剥き出しになった歯茎がひきつっている。火傷の熱を冷ます術もなく、男は腐りかけのボロ布を押し当てて呻いていた。


 その隣では、まだ十代にも満たない少女が、四肢のうち右脚を根元から失い、虚ろな目で宙を見つめている。止血のために焼かれた切り口からは、獣のような肉の焦げた匂いが漂い、周囲の汚濁した空気と混ざり合って鼻腔を突く。


 彼らの瞳に宿っているのは、純粋な殺意というよりも、自分たちをこの地獄に叩き落とした「持てる者」への、底なしの羨望と呪いだ。


 指を失った手で俺の外套を掴もうとする老婆、眼窩が潰れ、そこから膿を流しながら祈りの言葉を吐き続ける男。


「何を見てやがる、ガキが」


 見張りの一人が、俺の頭を無造作に小突いた。その足元には、数日前に息絶えたであろう死体が、片付けられることもなく放置されている。その指先は他の農民たちによって「何か」を剥ぎ取られたのか、無残に折れ曲がっていた。


 城内の至る所に設置された錆びた火鉢からは、薪の代わりに崩れた家具や、身元の分からぬ衣類が焼かれる不気味な煙が立ち上っている。その煙は視界を遮るほど濃く、人々の咳き込む音と、傷口を噛む絶望的な呻きが、廃墟の壁に反響して止まない。


(……臭いし寒いし最悪だ)


 俺は、かつてはワイン貯蔵庫か、あるいは不都合な人間を消すための私刑場だったろう本丸地下の独房へ放り込まれた。


 牢屋の中は、湿った石壁から染み出した水が氷柱となって天井から垂れ下がり、床には誰のものとも知れない汚物と、腐った藁が凍りついて層を成している。鉄格子は錆びて崩れかけ、僅かな隙間からは地下特有の死んだ空気が、鋭い剃刀のように肌を撫でていく。


 だが、この場所を「最悪」たらしめているのは、物理的な不快感だけではない。


「ぎ、あぁぁぁ……っ! 頼む、殺してくれ……殺して……っ!!」


 隣の房から響くのは、理性を削り取るような絶叫と、鈍い打撃音だ。


 そこには、ザングース兄様の供回りとして真っ先に捕らえられた騎士が、梁から鎖で吊るされていた。かつての壮麗な魔導鎧は剥ぎ取られ、剥き出しになった背中には、農民たちが火鉢で熱したであろう錆びた鍬の跡が、真っ赤な幾何学模様となって刻まれている。


 農民の一人が、指の欠損した手で執拗に騎士の生爪を剥いでいた。


「ほら、言えよ。お前らが俺たちの村から奪った小麦はどこへ運んだ? 騎士様なら知ってるだろ?」

「知らない……知らないんだ……っ、あがっ、あああああぁぁ!!」


 生々しい肉の裂ける音。飛び散った鮮血が、凍った床の上で温かな湯気を立て、鉄格子の隙間を通って俺の足元まで流れてくる。


 別の農民は、騎士の太腿の肉を、研ぎの甘いナイフで少しずつ削ぎ落としていた。拷問というよりも、積年の恨みを晴らすための「解体作業」だ。騎士の瞳は既に白濁し、溢れ出る涙と鼻水が、顎の先から床の血溜まりへと滴り落ちている。


(可哀想に。恨むならザングース兄様を恨めよ)


 俺は冷え切った石壁に背を預け、膝を抱えた。隣の房で繰り広げられる惨劇は、今の俺にとっては何の感慨も呼び起こさない。ただ、鉄格子の向こうで揺れる松明の光が、農民たちの歪んだ笑い顔と、騎士の無残な肉の断面を代わる代わる照らし出すのが、ひどく煩わしいだけだ。


「おい、公爵家のガキ。震えてんのか?」


 拷問をしていた農民の一人が、血に濡れたナイフを舐めながら、鉄格子の向こうから俺を覗き込んできた。その眼窩は化膿し、鼻を突く膿の臭いが格子越しに漂ってくる。


「安心しろ。お前は『人質』だ。すぐには殺さない。……指の数本、あいつの隣に並べてやるまではな」


 男は下卑た笑い声を上げ、騎士の絶叫が木霊する暗廊の奥へと消えていった。見張りの足音が遠ざかり、地下の静寂に騎士の「ヒュッ、ヒュッ」という、肺から漏れるような呼吸音だけが残る。

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