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第10話:ジルドの憂鬱

 オーガスティン城跡を遠巻きに包囲する形で設営されたジルドの陣営は、敗走の屈辱を塗りつぶすかのような、過剰なまでの軍律と機能美に満ちていた。


 緩やかな丘陵地帯に展開された野営地は、公爵家の象徴である「燃える獅子」の旗が凍てつく風に激しくたなびいている。中心部にはジルドが指揮を執る特大の魔導天幕が鎮座し、その周囲を騎士団の白いテントが幾重にも取り囲む、いわゆる「車懸かり」の布陣である。


 移動式魔導障壁塔。 陣営の四隅には、魔法による奇襲を防ぐための小型の障壁発生塔が打ち込まれており、夜闇の中に薄紫色の淡い光の膜を張っている。これはザングースを捕らえた「魔導阻害石」への対策でもあった。


 暖房魔導炉。テント群の中央には、魔石を燃料とする暖房炉が唸りを上げている。極寒の霜月において、騎士たちの指先が凍りつき、剣の振りが鈍ることを防ぐための生命線だ。


 兵站(へいたん)厩舎(きゅうしゃ)。 後方には、馬車数十台を連ねた強固な物資集積所が作られ、精鋭の軍馬たちが厚手の馬着を着せられて鼻息を白く弾ませている。


 しかし、その設備がいかに整っていようとも、陣営内に漂う空気は重く、冷え切っていた。


 焚き火の周りに集まる騎士たちの間には、会話はない。聞こえるのは、風の音と、鎧の繋ぎ目が擦れる金属音、そして武器を研ぐ砥石の単調な音だけだ。圧倒的な武力を誇りながら、農民たちの肉の壁に阻まれ、あろうことか次男ザングースを人質に取られたという事実は、彼らの誇りを完膚なきまでに叩き潰していた。


「……ジルド様は、まだお休みになられないのか」


 一人の騎士が、本陣の天幕に漏れる灯りを見つめて呟く。


 天幕の内部、ジルドは机に広げられたオーガスティン城跡の地図を、穴が開くほど見つめていた。机の上には、飲み干された銀杯と、無造作に置かれた愛剣がある。


「ヴァレアス……。彼の実力を見誤った俺の責任だ」


 ジルドの拳は、地図の「本丸」を指したまま震えていた。

犠牲を厭わず突撃すれば、一時間で城は落ちるだろう。しかし、それでは弟を救えない。騎士としての正義と、家族としての情愛。その板挟みの中で、彼は自らの無力さに苛まれていた。


「ゼン様が着陣されました」


 本陣の天幕に、伝令の硬い声が響いた。重厚な垂れ幕を押し開き、雪の冷気を纏って入ってきた十歳の少年に、天幕内の騎士たちは一斉に視線を向けた。


 だが、その瞳に宿るのは敬意ではない。同情と、目を逸らしたくなるような罪悪感、そしてどこか家畜の屠殺を見守るような冷徹な好奇心だ。


 地図を凝視していたジルドが、ゆっくりと顔を上げた。その表情は、不眠と自責の念によって、数年分も老け込んだかのようにやつれている。


「……来たか、ゼン」


 ジルドの声は掠れていた。彼は机の上に置かれた、ザングースの血塗られた指輪を一度見つめ、それから弟の細い首筋に視線を移した。


「急に呼び出して済まない。……だが、事態は一刻を争う。ザングースが一揆軍の手に落ちた。ヴァレアスは、我らイグナスが誇る雷の才を、晒し者にして殺すつもりだ」


 ジルドは一度言葉を切り、喉の奥に詰まった「卑劣な正解」を飲み込むようにして続けた。


「ゼン、お前に頼みたいことがある。……いや、これは命令だ。お前を、ヴァレアスの元へ送る。あいつとの『捕虜交換』の場に、お前が立つんだ」


 天幕内の空気が、物理的な重さを持ってゼンにのしかかる。ジルドがゼンを呼び出した理由。それは、彼の知恵を借りるためでも、共闘を望むためでもない。


 イグナス公爵家にとって、次男ザングースは輝ける帝国の至宝であり、一族の武の象徴だ。対して、三男ゼンは魔力適性も低く、常に不気味な気配を漂わせる「家系の汚点」に近い存在。


 価値は天と地ほどの差がある。ならば、無価値な駒を差し出して、価値ある王将を買い戻す。それが公爵家としての、そしてジルドが苦渋の末に導き出した、最も「犠牲の少ない」合理的な算段だった。


「ヴァレアスは、自分と同じ平民の苦しみを知らぬ貴族を憎んでいる。ならば、公爵家の直系であるお前を差し出せば、交渉の席につくはずだ。……お前をヴァレアスに引き渡す。代わりに、ザングースを返してもらう」


 ジルドはゼンの瞳を見ることができず、視線を泳がせた。


「……済まない、ゼン。お前を死なせるつもりはない。……隙を見て、騎士団が必ず救出する。だから……」


 その見え透いた嘘を、ゼンは黙って聞いていた。


「……分かりました、ジルド兄上」


ゼンは感情の欠落した声で、短く応えた。


「ザングース兄様と私……。天秤にかけるまでもないことですね」


 少年の物分かりの良さに、ジルドは救われたような、あるいはそれ以上に深い絶望に突き落とされたような顔をした。


 「必ず救出する」という言葉が、何の保証もない空虚な嘘であることを、彼自身が一番よく知っている。ヴァレアス・ロドリゲスという男は、一度手に入れた獲物を易々と奪い返させるような甘い男ではない。ゼンを引き渡せば、次に彼と再会するのは、冷たくなった亡骸としてだろう。


 騎士団員たちの、痛々しいものを見るような視線が背中に刺さる。


(彼らは知っている。私が弟を売ったことを。……私は、この汚名を一生背負って生きるのか?)


 ジルドは机に置かれたザングースの指輪を手に取った。イグナスの雷、次期当主の有力候補、父の期待。それらと、薄暗い部屋で一人、虫を眺めて過ごしていたゼンの命。


 公爵家という巨大な天秤にかけた時、針は残酷なほど速やかに、そして正確にゼンを切り捨てた。その合理性が、ジルドの心に一生消えない傷を刻みつけていく。


「ゼン……。お前が私を恨んでいるのなら、いっそ罵ってほしかった……」


 しかし、ゼンは何も言わなかった。ただ淡々と、当然の運命を受け入れるように去っていった。その拒絶よりも冷たい「肯定」が、ジルドには耐え難かった。彼は愛剣を握る力も失い、ただ一人、魔導灯がチカチカと明滅する暗い天幕の中で、自分の魂が削れていく音を聞いていた。


「マリアとルーナには恨まれるだろうな」


 ジルドは誰もいない空間に向かって、自嘲気味に呟いた。

二人の妹。彼らの異母弟であるゼンを、不器用ながらも気にかけていた数少ない存在だ。彼女たちがこの決定を知れば、間違いなくジルドを軽蔑し、冷たい視線を向けるだろう。


 だが、ジルドはすぐにその歪んだ笑みを消し、顔を上げた。


「……いや、マリアだけではない。私自身が、私を許せそうにない」


 彼は大きく息を吐き出し、胸の奥に溜まったヘドロのような罪悪感を無理やり押し殺した。一度決めた以上、迷いは死に直結する。それが、騎士団を預かる指揮官としての、唯一残された「非情な責任」だ。


 ジルドは天幕の入り口に控えていた副官と騎士たちを鋭い眼光で見据えた。


「――各員、聞け! ヴァレアス・ロドリゲスへ伝令を放て。我が家より、新たな人質……三男ゼンを差し出す。代わりに次男ザングースの身柄を解放し、一週間の休戦を申し入れると伝えろ」


 騎士たちの間に、針を刺したような沈黙が走る。


「……宜しいのですか、ジルド様。ゼン様はまだ十歳。あのような賊の巣窟に放り込めば、命の保証は……」

「分かっている! 命じられたことだけをこなせ!」


 ジルドの怒号が天幕を震わせた。震えを隠すように腰の愛剣を強く握り締め、彼は言葉を絞り出す。


「ヴァレアスは元軍人だ。交渉のテーブルを蹴るような真似はしない。……ゼンを城門まで送り届けた後、我らは一度軍を引き、包囲を維持する。……行け!」

「……ハッ。直ちに!」


 騎士たちが弾かれたように天幕を飛び出していく。外からは、伝令の馬が雪を蹴って駆けていく音が響き、やがてそれは吹雪の中に消えていった。


 ジルドは一人、再び地図の前に立ち尽くした。ゼンはもう、ここにはいない。今頃は馬車の中で、自分の運命を待っているはずだ。


「恨め、ゼン。私を呪い、末代まで祟ればいい。……だが、せめて、死ぬ時は苦しまないでくれ……」


 ジルドの祈りにも似た呟きは、誰に届くこともなく、暖房魔導炉の唸り音にかき消された。

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