第9話:初めての戦闘
ジルド兄上の苦渋に満ちた撤退命令が、オーガスティン城跡に響き渡る中、俺は不機嫌マックスのマリア姉様をなんとか振り切り、冷え切った浴室を出て、自室へと向かった。
部屋のクローゼットの奥隅に眠っていた、イグナス家の正装と装備。
それは鈍い光沢を放つ黒銀の魔導繊維で編まれた上衣に、家紋である剣を噛み砕く双頭の龍が細密に刺繍された重厚なものだった。肩から腰にかけては、実地での防御を兼ねた硬質の皮革と、装飾的な合金プレートが配されている。俺の体格に合わせて仕立て直されているが、その重厚さは子供が纏うにはあまりに不釣り合いで、家系の重圧を形にしたような代物だった。
三人のメイドたちが無言で、だが手際よく俺の着替えを手伝う。指先一つ動かすことなく、何層もの布地と革帯が俺の肉体を締め付けていく。
「気が乗らねぇ……」
何故、戦力にならない俺をジルド兄上が呼び出したのか?
あの人の性格から鑑みるに、自らの手を汚すような真似は決してしない。生粋の軍人であれば、例え家族であるザングース兄上が捕虜になろうとも、一切の私情を排して敵軍ごと全滅させるべきだと判断するだろう。だが、世間体か、あるいは身内としての情か。兄弟を見殺しにすることはできない。
しかし、このまま戦いが長引くことも得策ではないというこの状況で、あえて俺を呼び出す。その意図は、何となく察しはつく。……だが、今はあえて考えないようにした。
最後に「自決」用に手渡された短刀を懐にしまうと、旅装のマントを羽織りフードを目深く被る。
オーガスティン城跡に一揆軍が立て籠もったという凶報がもたらされた瞬間、イグナス公爵家の屋敷は、優雅な静寂をかなぐり捨て、沸騰した大釜のような混乱に叩き落とされた。
廊下を走る騎士たちの金属靴の音が、耳を劈く不協和音となって石造りの壁に反響している。公爵家の象徴である「燃える獅子」の紋章が刻まれたタペストリーは、行き交う者たちの荒い息と焦燥によって激しく揺れていた。
「ザングース様が捕虜だと!? 馬鹿な、相手は農民だろう!」
「ヴァレアスだ……! あの『裏切り者の英雄』が、ザングース様を直接組み伏せたという報告だ!」
あちこちで、信じがたい事実を突きつけられた文官や下級貴族たちが、顔を土色にして口論を繰り返している。帝国最強の一翼を担うはずのイグナス家にとって、嫡男が、それも平民の暴徒に屈したという事実は、単なる敗北以上の「呪い」として屋敷を侵食していた。
一方、屋敷の裏手では、召使いたちが震えながら銀食器を磨く手を止めていた。
「もし城跡が落ちなかったら、私たちはどうなるの?」
「公爵様は、村を一つ残らず焼き払えとおっしゃっているらしいわ。……そうなれば、もう後戻りはできない」
彼らは知っている。この屋敷の主たちが、名誉を傷つけられた際にどれほど冷酷な報復を行うかを。ザングースが捕らえられたという屈辱を晴らすために、どれほど多くの平民の血が流されることになるのかを。
「お待ちしておりました、ゼン様」
馬車の扉を開け、冷気に身を縮めながら頭を下げたのは、ジルドから随行を命じられた十名の騎士たちの長だった。
俺の乗る馬車は、公爵家の象徴である「燃える獅子」の紋章こそ刻まれているものの、長男ジルドや次男ザングースが用いる豪華な魔導戦車とは似ても似つかぬものだった。
それは、かつて罪人を護送するために使われていたものを改造した、鉄格子の名残がある黒塗りの堅牢な馬車である。車体には寒冷地の魔氷から内部を守るための防寒ルーンが刻まれているが、経年劣化によりその輝きは鈍い。
何より異様なのは、馬車から漂う微かな「死臭」と、車輪が回る音に混じって聞こえる「カサカサ」という不快な微振動だった。
「……ゼン様、ご武運を」
騎士の声は、忠誠心よりもむしろ、底知れぬ「不安」に震えていた。彼ら騎士たちにとって、俺は理解の範疇を超えた不気味な存在なのだと思う。
炎を操るジルドのような勇猛さも、雷を纏うザングースのような華烈さもない。ただ、無表情に、常に何かを咀嚼しているかのような口元。そして、周囲にだけ漂う、生物的な忌避感を抱かせる空気。
(あのザングース様ですら、ヴァレアスの手斧の前に敗れたのだ。魔法の才能も、剣の腕も聞いたことがない十歳の子供を送り出して、一体何ができるというのか)
(公爵閣下は、この『出来損ない』を死なせるつもりではないか。……いや、それならまだいい。もし万が一、この少年も捕虜になろうものなら……)
馬車がオーガスティン城跡へ向けて動き出すと、車輪が凍土を噛む振動と共に、車窓の外には「帝国の真実」が絵巻物のように流れ始めた。
街道の左右に広がるのは、霜月の冷気に命を奪われた果てしない死の大地だ。かつては豊かな穀倉地帯であったはずの平原は、今や収穫物を全て奪い尽くされた後の、乾いた骸骨のような姿を晒している。
「…… 果てしないな」
俺は窓枠に肘を突き、淡々と外を眺めた。道端には、ラザル村や近隣の村々から逃げ出してきた農民たちが、点々と黒い染みのように倒れ伏していた。一揆に加わる体力すら残っていなかった者たちだ。彼らは冷たい泥の上にうずくまり、あるいは家族と折り重なるようにして、物言わぬ氷の彫刻へと変わり果てている。
ある箇所では、痩せ細った母親が、とうに息絶えた赤ん坊を抱いたまま、空虚な目で通り過ぎる公爵家の馬車を見送っていた。その瞳には憎悪すら残っておらず、ただ生への執着が尽きた後の、底なしの絶望だけが沈んでいる。
馬車が進むにつれ、その光景は凄惨さを増していった。
飢えに耐えかねて互いの肉を食らおうとしたのか、無残に損壊した遺体が雪に半ば埋もれている。それをついばむカラスさえも、あまりの寒さと毒々しい死臭に、羽を休めることなく飛び去っていく。
俺はその光景を、ゲームのグラフィックを鑑賞するような冷徹な眼差しで追っていた。
(死体。死体。死体。……今更だが、ここは異世界なんだよな、やっぱり)
「ゼン様、あまり外をご覧にならない方が……。気分を害されます」
「あぁ、ありがとう」
馬車は、息絶えたばかりの老人を轢き潰し、鈍い感触を車内に伝えながら進む。
オーガスティン城跡への道のりは、馬車であっても平坦なものではなかった。街道は避難民の遺体と凍結した泥で塞がり、一行は予定外の野宿を余儀なくされた。
霜月の夜は、魔力が大気から剥ぎ取られるような、暴力的なまでの静寂に包まれる。
初日の夜。街道脇の朽ちた物置小屋を拠点としたが、焚き火の熱さえも闇に吸い込まれていく。騎士たちは交代で不寝番に立ち、冷え切った身体を震わせていたが、馬車の中で横になるオレに安らぎはなかった。
腹の中の虫達が、寒さから身を守るために体温を執拗に求め、内側から臓器を啜るような激しい空腹を強いてくるからだ。
二日目の夜。城跡まで残り半日の距離にある枯れ木立の中で、その襲撃は起こった。
「――出たぞ! 子鬼だ!」
騎士の叫び声が、凍てついた空気を切り裂く。飢えに狂っているのは人間だけではない。森を追われ、腐肉すら見つけられなくなった子鬼の群れが、公爵家の馬車から漂う生身の「熱」に惹かれ、暗闇から這い出してきた。
「ゼン様、馬車から出ないでください!」
騎士たちが剣を抜き、円陣を組む。子鬼たちは痩せ細り、緑色の肌は凍傷で黒ずんでいたが、その瞳には理性を失った捕食者の輝きがあった。数、およそ二十。彼らは低い唸り声を上げ、一斉に騎士たちへと飛びかかった。
だが、公爵家の精鋭にとって、これらは「敵」ですらなく、ただの「肉の処理」に過ぎなかった。
「陣を敷く。一切近づかせるな」
先頭の騎士が、月光を反射する白銀の長剣を無造作に振り抜いた。
最前列にいた子鬼の首が、抵抗感もなく宙を舞った。切断面からは暗赤色の血が噴水のように噴き出し、冷たい外気に触れて白く煙る。胴体は数歩、意志を失ったまま雪の上を歩み、やがて内臓を雪原にぶち撒けながら崩れ落ちた。
「ギ、ギャァッ!?」
仲間の無残な死に、一瞬だけ子鬼たちの動きが止まる。しかし、その隙を騎士たちが逃すはずもなかった。
一人の騎士が踏み込み、鋭い刺突で子鬼の胸先を貫く。剣先は背中まで突き抜け、引き抜く瞬間にドロリとした臓物の一部が引きずり出された。雪の上に、赤黒い腸の輪が不気味に広がる。
「汚い。……この程度か、辺境の魔物は」
別の騎士が、棍棒を振り上げた子鬼の腕を肘から下ごと叩き斬った。断面から剥き出しになった白い骨と、脈打つ血管が雪を汚す。のた打ち回る子鬼の脳天を、騎士は無表情に軍靴で踏み潰した。グチャリ、という、熟れた果実が潰れるような湿った音が静寂に響く。
戦場は、数分のうちに凄惨な解体現場へと変わった。
騎士たちの剣筋は正確無比であり、一振りごとに子鬼の腹が裂かれ、喉が断たれ、四肢が切断される。雪原はもはや白ではなく、飛び散った血飛沫と、撒き散らされた緑色の皮膚、そして熱を失っていく臓腑の臭気で満たされていた。
最後の一匹となった小柄な子鬼は、目の前で起きた「一方的な屠殺」に、完全に戦意を喪失していた。仲間たちの肉塊に足を取られ、自分の血と失禁で汚れながら、子鬼は腰を抜かして後ずさる。
「ヒッ、ギィッ……ギィィ……ッ!!」
声にならない悲鳴を上げながら、その個体はもつれる脚を必死に動かし、背後の暗い森へと逃げ出した。騎士の一人が弓を構えようとしたが、無駄になると踏んで力を緩める。
おぇっ
口内から這い出てきた一匹のウルガ。交配を繰り返し、共食いの果てに通常の個体よりも更に禍々しく成長した変異体だ。
殺せ。
小さく呟くと、次の瞬間、残像すら残さぬ超速の機動。ゴブリンが叫びを上げる暇もなかった。
「ギチッ」という硬質な駆動音と共に、漆黒の凶刃がゴブリンの胸板を正面から蹂躙し、背骨ごと背中を突き破る。飛散した鮮血が壁一面に赤黒い紋様を描き、ぶち撒けられた内臓が地面にへばりつく。
絶命の瞬間の痙攣でビクビクと跳ねる肉塊を、魔物は逃さない。
無数の節足がゴブリンの死体に絡みつき、針のように鋭い口吻が柔らかい眼窩へと突き刺さる。ズブズブという湿った音を立てて脳漿を啜りながら、魔物は狂おしい速度で大顎を動かし始めた。
バリバリと硬い頭蓋を噛み砕き、溢れ出す脊髄液を滴らせながら、それは「食事」というより「解体」に近い速度で肉を削ぎ落としていく。
先ほどまで生きていた生き物の名残は、見る間に赤黒い泥のような飛沫へと変わり、魔物の胃袋へと消えていく。最後に残った太い大腿骨すらも、耳を刺すような軋み音を立てて粉砕され、跡形もなく飲み込まれた。
そこには、もはや一滴の血溜まりさえ残っていない。ただ、魔物の黒光りする甲殻が、返り血でさらに禍々しく湿った光を放っているだけだった。
新鮮な血肉の臭いにたまらず這い出てきた残りのウルガ達。
19体のゴブリンだった「肉の山」に、10匹の黒い影が躍り出た。
彼らの食欲は、単に肉を喰らうだけでは満たされない。骨の芯に詰まった髄、そしてカルシウムの塊そのものを、彼らは「最高の糧」として認識していた。
「ギチギチギチ……ッ!」
1匹のウルガが、ゴブリンの太い大腿骨に齧り付く。手のひらサイズの小さな体躯からは想像もつかない顎の力。強固な骨の表面に蜘蛛の巣状の亀裂が走り、次の瞬間、乾いた音を立てて粉々に爆ぜた。
彼らは骨の破片を一切こぼさない。砕けた骨片を、ヤスリのような小顎でさらに細かく磨り潰し、ドロドロの血肉と混ぜ合わせて胃袋へ流し込んでいく。
ある個体は、ゴブリンの頭蓋骨の中に潜り込み、内側から骨を食い破っていた。パキパキという軽快で残酷な音が、19体分の死骸から同時に沸き起こり、静寂の夜に反響する。
大きな関節も、硬い背骨も、彼らにとってはただの「噛み応えのある餌」に過ぎない。
10匹の魔物がうごめくたびに、積み上がっていた死の山は目に見えて低くなっていく。肉が消え、内臓が消え、最後にはあれほど頑強だった骨格までもが、細かな粉末にすらならず、その強酸の消化液が待つ喉奥へと消えていった。
静寂が戻ったとき、そこには湿った土の匂いすら残っていなかった。
19体ものゴブリンが存在した証は、10匹のウルガが放つ、死臭を孕んだ艶やかな黒光りの中にのみ、閉じ込められていた。




