2010年6月13日
2010年6月13日の夜。オーストラリア大陸の高台の一つで、男は準備を進めていた。
地面にブルーシートを敷いて、その上でライムグリーンの蛍光塗料を頭からかぶる。バケツが完全に空になった。
すぐ横には、大型のキャンピングカーが駐まっている。車の中では仲間たちが、「情報収集」と「計算」をしていた。
今のところ、特に問題はないらしい。
「このまま決行する」
リーダー格の女性が告げた。
それを聞くなり、男は野球のバットを手にする。野球のヘルメットをかぶった。
このバットや、このヘルメットも、事前にライムグリーンの蛍光塗料で染め上げている。
男は所定の地点に向かって歩き出した。昼間にしつこく下見をしていたので、足に迷いはない。
三〇メートルほど歩いて、目的の地点に着いた。
男は草むらに座って、その時が来るのを待つ。
仲間たちが撮影機材の最終確認を始めた。
しかし、どうも集中しきれていないようだ。
やはり気になるらしい。頻繁に星空を見上げている。
運命の時間はもうすぐだ。
数分後、仲間の一人がを叫ぶ。
「あと三分!」
予定通りだ。
いよいよか、と男は立ち上がる。今の内に軽く素振りをしておこうか。
何回かバットで風を切る。そうやって、自分の中の興奮をいくらか抑え込んだ。
「ライムグリーンマン、調子はどう?」
リーダーが聞いてくる。
「問題ない。今ならホームランを打てそうだ」
仲間たちから笑い声が上がる。
男は素振りをやめた。
立ったままの状態で、その時を待つ。
少しして、仲間の一人が叫んだ。
「あと三〇秒!」
いよいよだ。男は力強くうなずいた。
足もとを今一度確認してから、再びバットを構える。
撮影機材をのぞいている仲間から、大きな声が飛んできた。
「その位置でまったく問題ないぞ」
バットの構え方についても問題ないという。
あとは、この姿勢を維持するだけだ。ここからおよそ三〇秒間、動いてはいけない。
空を見上げたい。その気持ちを、ぐっと我慢する。首の角度を変えてはいけない。目線の角度も同様だ。
こうなることは、自分が「バッター役」に決まった時点でわかっていた。この役割を誰かが担当しなければならない。
2010年6月13日。
打ち上げから七年以上の月日を重ねて、日本の宇宙探査機『はやぶさ』が地球に帰ってきたのだ。
小惑星から持ち帰った容器、その投下には、すでに成功している。
で、残っているミッションは、あと一つ。
地球の大気に突入して、『はやぶさ』自身が燃え尽きることだ。
ななめ前方の空高く、そこに男は強い光を感じる。
「そのまま、そのまま」
仲間たちがそう言ってるのが聞こえる。
男はバットを構えた姿勢を崩さない。ライムグリーンの体を動かさなかった。自分は銅像だと思い込む。
この瞬間を一枚の写真に収めるのだ。『はやぶさ』最後の瞬間を。
地球の大気に突入して、閃光を放つ『はやぶさ』。
あれを野球のボールに見たてて、まるで打者と対戦しているような写真を撮るのだ。それが、この撮影の目的。
横から見れば、「光の一直線の先にちょうど、バットを構えた打者がいる」、そんな構図になっているはずだ。この場所、このタイミングにしか、撮ることのできない一枚。
とはいえ、探査機『はやぶさ』が実際に、この場所に突っ込んでくるわけではない。その前に燃え尽きるはずだし、仮に燃え尽きないとしても、落下するのはもっと遠くだ。
あくまでも、横から見たら、「『飛んでくるボールと、それに向き合う打者』に見える」というだけで、ここなら安全。
2010年6月13日、撮影に成功した。ちょっと変わった、『はやぶさ』最後の瞬間だ。
この写真はオーストラリアの大学の研究室に、現在も飾られている。
次回は「アニメ会社」のお話です。




