ある始球式で
あるお笑い芸人が野球場にいた。
今日の試合、「始球式で投げる」という大役を任されたのだ。
もともとスポーツは得意な方だし、投球の練習もしてきた。
過去に始球式で投げた経験がある先輩お笑い芸人からは、
「マウンドには高さがあるので、平らな場所でだけ練習していると、本番で失敗するよ」
そんな助言をもらった。経験者の言葉は頼りになる。
なので、家の近くにある砂浜に行って、そこに即席のマウンドをつくり、投球の練習を重ねてきた。
(これで完璧だ!)
ところが、始球式のマウンドに立った時、お笑い芸人は混乱していた。
登場時の一発芸で、すべってしまったのだ。まったくうけない! さっきまで楽しそうだった野球場が、恐ろしいほど静まり返っている。
昨日の始球式では、他のお笑い芸人が大爆笑を誘っていたのに・・・・・・。
投球の練習ばかりしてきて、一発芸の方をおろそかにしたのが、敗因だった。
高まる心音。流れる冷や汗。
(とにかく投げないと)
そんな時だ。
キャッチャーの後方にある画面、そこに数字が表示される。
――『ピッチクロック』。
試合のテンポを良くする目的で導入されたルールだ。あの数字がゼロになる前に、ボールを投げなければならない。
(えっ? 始球式にも『ピッチクロック』ってあるの!?)
さらに高まる心音。流れる冷や汗。
心なしか、『ピッチクロック』の数字の減るスピードが早いような・・・・・・。
違う。確実に早い。
しかも、どんどん早くなっている!
野球場にいるお客さんたちの間から、くすくすと笑い声が起こった。
それを聞いて、お笑い芸人は少し冷静さを取り戻す。
(よくわからないけれど、この展開はおいしいかも)
自分では特に何もしていないのに、笑いがとれているのだ。
(この状況をうまく利用しよう)
お笑い芸人はおろおろする演技をしながら、タイミングをはかる。
そして、数字がゼロになる直前で、ボールを投げた。
自分がイメージしていたような「速いストレート」とはいかなかったけれど、ボールは地面をこすらずにキャッチャーのミットまで届く。
この時、野球場の特別個室席には球団社長がいた。
その手にはリモコンがある。「早送りボタン」から指を離すところだった。
あのお笑い芸人とは母校が同じ。しかも、自分とあの後輩、どちらも野球部だった。
それで、もしも後輩がすべった時のために、このような「保険」をこっそり用意していた。
(これを本当に使うことになるとは)
お客さんたちの間からは、優しい笑い声と温かい拍手が起きている。
そんな中、頭をペコペコ下げながら退場していくお笑い芸人。
野球場にいる全員が今、明るい表情をしている。
さあ、機は熟した。今日の試合もプレイボールだ。
次回は『営業サボリーマン』というお話です。




