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人類取扱説明書5

『人類取扱説明書』作品概要




十八歳の少女・希美は、世界にどこか退屈さを感じながら日々を過ごしていた。ある日、図書館の誰も近づかない本棚で『人類取扱説明書(試作品)』と書かれた一冊の不思議なノートを見つける。その出会いをきっかけに、司書・雨宮栞との交流や、父、母、祖父、友人、子どもたち、図書館を訪れるさまざまな人々との触れ合いを通して、希美は「人とは何か」を少しずつ考え始める。本作は、人類そのものを主人公とした、笑いと涙、そして希望に満ちたヒューマンドラマである。




本作はAIを推敲・構成支援ツールとして活用しながら、テーマ設定、物語設計、内容の選択・修正を作者自身が行いました。

第五章 世界という物語




九月。


夏の名残を残した風が、校門の銀杏をゆっくり揺らしていた。


希美は校門をくぐる。


同じ制服。


同じ校舎。


同じ朝。


何も変わっていない。


……はずだった。


「おはよう。」


「おはよう!」


あちこちから声が飛び交う。


眠そうな人。


朝から元気な人。


ぎりぎりで駆け込んでくる人。


教科書を忘れて青ざめている人。


先生に見つからないようにパンを食べている人。


その一人ひとりに、違う朝があった。


以前の希美なら、そんなことは考えなかった。


みんな「同じ学校の人」だった。


でも今は違う。


誰もが、自分だけの朝を終えて、この教室へ集まってきている。


教室へ入ると、由真が大きく手を振った。


「希美、おはよう!」


「おはよう。」


「聞いて!」


「また?」


「またとは失礼。」


由真は胸を張る。


「今日は寝坊しなかった!」


「えらい。」


「でも宿題忘れた!」


「いつも通りだ。」


横から太一が真顔で言った。


由真は振り向く。


「ひどい!」


「寝坊を克服した代わりに宿題を失った。」


「人類は何かを得ると何かを失うの。」


「壮大にまとめないで。」


教室に笑いが広がった。


希美も思わず笑う。


その時だった。


「朝倉、それ本当?」


「本当だって。」


笑い声の中心には朝倉透がいた。


誰とでも自然に話し、


誰かが困っていれば手を貸し、


教室の空気を少し明るくする。


そんな人だった。


「朝倉くんってすごいよね。」


由真が言う。


「空気読むの上手。」


太一が小さく笑う。


「俺は空気より数学の問題を読めるようになりたい。」


「それ去年も言ってた。」


「今年も読めない。」


「成長してない。」


また笑いが起こる。


その笑いの中で、


透がふと窓の外へ目を向けた。


ほんの数秒。


笑顔が静かに消える。


遠くを見るような横顔。


誰にも気づかれないほど短い時間。


次の瞬間には、もういつもの笑顔へ戻っていた。


希美だけが、その小さな変化を見ていた。


「どうした?」


太一が声を掛ける。


「え?」


「急に黙った。」


「ううん。」


希美は小さく首を振った。


「なんでもない。」


でも、本当は少し気になっていた。


笑顔にも、見えない続きがあるのかもしれない。




昼休み。


希美は本を借りるため図書室へ向かう。


廊下ですれ違った透が手を振った。


「咲原さん。」


「こんにちは。」


「今日も図書室?」


「うん。」


「相変わらずだね。」


「朝倉くんは?」


「返却。」


透は手に持った文庫本を見せた。


「読書するんだ。」


思わず希美が言う。


透は笑った。


「失礼だなあ。」


「ごめん。」


「俺だって本くらい読むよ。」


「何を読むの?」


少し考えてから答える。


「昔の日記とか。」


「日記?」


「誰かが何を考えて生きていたのか知りたくなる。」


希美は少し驚いた。


教室で笑っている透からは、想像しなかった答えだった。


「咲原さんは?」


「私は……。」


少し考える。


「人を知りたいから本を読むのかも。」


透はうれしそうに笑う。


「似てるね。」


その笑顔は教室とは少し違って見えた。


静かな笑顔だった。




図書館。


雨宮栞は返却された本を棚へ戻していた。


「こんにちは。」


「こんにちは。」


希美は今日見たことを話した。


教室の笑い。


透の横顔。


本の話。


栞は静かに聞いていた。


話し終えると、一冊の本を手に取る。


「この本、ご存じですか。」


「いいえ。」


「推理小説です。」


栞は表紙を軽くなでる。


「最初の十ページだけ読んで、『犯人が分かった』と言う人がいます。」


希美は笑った。


「そんな人いるんですか。」


「います。」


「たいてい外れます。」


二人は笑う。


栞は本を棚へ戻した。


「人も少し似ています。」


「最初に見えた姿だけで、その人を分かった気持ちになってしまう。」


「でも、本当に大切な頁は、もっと後ろにあることが多いんです。」


希美は静かにうなずいた。




帰り道。


校庭には秋の風が吹いていた。


サッカー部の声。


吹奏楽部の音。


運動場を走る生徒。


笑いながら帰る友達。


誰もが、それぞれ違う今日を生きている。


希美は鞄からノートを取り出した。


白いページを開く。


ペンを持つ。


けれど、書かなかった。


朝倉透のことを、まだ何も知らない。


由真の笑顔も。


太一の冗談も。


先生のため息も。


きっと、それぞれ理由がある。


今日見えたのは、一頁目だった。


それだけで「知った」と思いたくなかった。


ノートを閉じる。


風が一枚の落ち葉を運んでいく。


世界は広い。


遠くまで行かなくてもいい。


教室の中だけでも、


まだ知らない世界が、こんなにもたくさんあるのだから。








九月の風は、少しずつ夏の熱を遠ざけていた。


昼休み。


教室は今日もにぎやかだった。


由真は友達に囲まれて笑っている。


「それ絶対うそ!」


「本当だって!」


「証拠は?」


「……ない!」


「はい却下!」


教室中が笑いに包まれる。


その様子を見ながら、太一が小さくつぶやいた。


「由真って、一日に何回笑うんだろう。」


希美も笑う。


「数えたことあるの?」


「途中で諦めた。」


「なんで数えようと思ったの。」


「暇だった。」


「もっと有意義なことしようよ。」


「したよ。」


太一は真面目な顔で言う。


「笑い声を数えた。」


「同じじゃない。」


また笑いが起きた。


その笑いの中にいる由真は、今日もいつもと変わらない。


明るくて、元気で、教室を照らす太陽のようだった。




放課後。


希美は昇降口で忘れ物に気づき、教室へ戻った。


扉を開けようとした、その時。


教室の中から電話をする由真の声が聞こえた。


「うん、大丈夫。」


少し間が空く。


「分かった。」


「今日は急いで帰るね。」


声は穏やかだった。


電話を切ると、由真は深く息をつく。


その表情は、昼休みに笑っていた由真とは少し違って見えた。


疲れているような。


考えごとをしているような。


希美は声を掛けずに、そのまま廊下へ戻った。


誰にも、一人になりたい時間はある。


そう思ったからだった。




翌朝。


由真はいつものように笑っていた。


「希美、おはよう!」


「おはよう。」


「昨日、新作プリン食べた?」


「食べてない。」


「人生の半分損してる!」


「半分も?」


そこへ太一が割って入る。


「じゃあ俺は九割くらい損してる。」


「なんで?」


「甘いもの苦手。」


由真は大げさに肩を落とした。


「もったいない人生……。」


「人生をプリンで測らないで。」


三人は声をあげて笑った。


希美はふと昨日の由真を思い出す。


目の前で笑う由真も、本当。


昨日、静かな表情を見せた由真も、本当。


どちらかが本物なのではない。


きっと、その両方を抱えて生きている。




放課後。


図書館。


窓際では雨宮栞が返却された本を整理していた。


「こんにちは。」


「こんにちは。」


希美は昨日見たことを話した。


由真の電話。


昼間の笑顔。


静かな横顔。


栞は本を棚へ戻しながら言った。


「人は、一つの表情だけでは生きられません。」


「笑う日もあります。」


「黙る日もあります。」


「誰にも話したくない日もあります。」


希美は静かに聞いていた。


栞は一冊の絵本を手に取る。


「絵本を読むとき。」


「表紙だけ見て閉じてしまったら、中のお話は分かりません。」


「でも。」


「表紙も、その本の一部です。」


希美は小さく笑った。


「笑顔も表紙なんですね。」


「ええ。」


栞も微笑む。


「だから私は、笑顔を軽いものだとは思いません。」


「その人が誰かに見せたいと思った、大切な一頁ですから。」


その言葉は、希美の胸に静かに残った。




帰り道。


夕焼けが校舎の窓を赤く染めていた。


由真は友達と笑いながら帰っていく。


太一は途中で本屋へ寄ると言って手を振った。


朝倉透は部活動の後輩と話している。


先生は職員室へ急いでいる。


それぞれが、それぞれの帰り道を歩いていた。


希美は鞄からノートを取り出す。


白いページを開く。


今日もペンを持つ。


けれど、書かなかった。


由真の笑顔も。


昨日の静かな横顔も。


どちらも大切な一頁だった。


一枚だけでは、その人という本にはならない。


ページを重ねるたびに、


少しずつその人が見えてくる。


だから私は、


急いで読み終えようとは思わない。


夕焼けの風がページをめくる。


希美はそっとノートを閉じた。


世界には、笑顔の数だけ、


まだ読まれていない物語があるのだから。








九月も半ばを過ぎた。


朝の風は少しだけ涼しくなり、校庭の木々もゆっくりと色づき始めていた。


昼休み。


教室では、いつものように笑い声が響いている。


「太一!」


由真が机をばんっと叩いた。


「聞いて!」


太一は本から目を上げる。


「昨日ね、お母さんが『今日は早く寝なさい』って言うから十時に寝たの。」


「うん。」


「そしたら朝四時に目が覚めた。」


「健康だね。」


「でも眠い。」


「なんで。」


「四時から二度寝できなかった。」


太一は真面目な顔で考える。


「つまり。」


「睡眠に成功して失敗した。」


「そう!」


「全然そうじゃない。」


希美は思わず吹き出した。


教室に笑いが広がる。


その輪の少し向こうで、朝倉透も笑っていた。


笑いながら、


一瞬だけ希美と目が合う。


「咲原さん。」


「うん?」


「図書室行く?」


「行くよ。」


「じゃあ一緒に。」




昼休みの終わり。


図書室へ向かう廊下は静かだった。


窓から入る風が、制服の袖を揺らしている。


しばらく二人とも何も話さない。


その沈黙は、不思議と気まずくなかった。


やがて透が口を開く。


「俺さ。」


「うん。」


「家では結構静かなんだ。」


希美は少し驚いた。


「そうなの?」


「学校だと『うるさい』って言われるけど。」


少し笑う。


「家では逆。」


「なんか意外。」


「よく言われる。」


また少し沈黙が流れる。


透は窓の外を見ながら続けた。


「小さい頃。」


「親が仕事で帰るの遅くてさ。」


「一人で本読んで待ってることが多かった。」


希美は黙って聞く。


「だからかな。」


「人と話すのは好きだけど、一人の時間も好きなんだ。」


風が吹き抜ける。


「……変かな。」


透は照れくさそうに笑った。


希美は首を横に振る。


「変じゃない。」


「私も、一人で本を読んでる時間好きだから。」


透は少し安心したように笑う。


「そっか。」


それ以上は話さなかった。


まだ話さないことがある。


そんな空気を、お互いが自然に受け止めていた。




放課後。


図書館。


窓際では雨宮栞が返却された本を棚へ戻していた。


「こんにちは。」


「こんにちは。」


希美は今日の出来事を話した。


透が少しだけ昔の話をしてくれたこと。


全部ではなく、


ほんの少しだけだったこと。


栞は静かに耳を傾ける。


話し終えると、一冊の古い本を取り出した。


栞はその本を希美へ差し出す。


「この本、古いでしょう。」


「はい。」


「でも、一度に全部開こうとすると傷んでしまいます。」


希美は表紙をそっとなでる。


「だから。」


栞は優しく続けた。


「古い本は、一枚ずつ丁寧にめくります。」


「人も同じです。」


「急いで全部知ろうとすると、その人を傷つけてしまうことがあります。」


希美は静かにうなずく。


「今日、朝倉さんが話してくれたことは。」


栞は少し笑った。


「教えてくれた、ではなく。」


「預けてくれた、なのだと思います。」


「預けて……。」


「ええ。」


「だから受け取った人には、その続きを急がない責任があります。」


その言葉は、図書館の静けさに溶け込むように胸へ落ちていった。




帰り道。


夕焼けが校舎をやさしく照らしていた。


部活動へ向かう生徒。


帰宅を急ぐ生徒。


友達と笑い合う生徒。


みんな違う今日を歩いている。


希美は鞄からノートを取り出した。


白いページを開く。


今日もペンを持つ。


けれど、書かなかった。


朝倉透が話してくれたことは、


「知識」ではなかった。


「信頼」だった。


その一頁は、


まとめるために受け取ったのではない。


大切に預かるために受け取ったものだった。


希美はノートを閉じる。


空には、一番星が小さく光っている。


人は、本を貸すようには自分の心を貸さない。


信じてもいいと思えた相手へ、


少しずつ。


一枚ずつ。


その人だけの物語を手渡していく。


その一頁の重さを忘れない人でありたいと、


希美は秋の空を見上げながら、静かに歩き続けた。








九月も終わりに近づき、校庭の木々は少しずつ秋色へ染まり始めていた。


昼休み。


「終わった……。」


太一が机に突っ伏した。


「どうしたの?」


希美が声を掛ける。


「購買。」


「うん。」


「焼きそばパン、目の前で売り切れた。」


「また?」


「人生って厳しい。」


そこへ由真が現れる。


「ほら。」


袋からクリームパンを取り出した。


「一個あげる。」


太一は目を丸くする。


「神。」


「違う。」


由真は胸を張る。


「女神。」


「自分で言う?」


「言う。」


希美は笑いながら首を振る。


「由真らしいね。」


そこへ朝倉透がやって来た。


「何の話?」


太一が真剣な顔で答える。


「世界の不条理。」


「焼きそばパン?」


「焼きそばパン。」


透は少し考えてから言った。


「次は一緒に走る?」


「お願いします。」


教室は笑い声に包まれた。


そんな何気ない昼休み。


誰かにとっては忘れてしまう一日でも、


誰かにとっては大切な思い出になるのかもしれない。




午後の授業。


先生が黒板へ文字を書いている。


窓の外では風が木々を揺らしていた。


希美は教室をゆっくり見回す。


前の席では、一生懸命ノートを書く人。


後ろでは眠気と戦っている人。


由真は先生の話を聞きながら、ときどき難しい顔をしている。


蒼は黒板よりも数式に夢中だ。


透は隣の席の生徒が消しゴムを落とすと、何も言わずに拾って渡していた。


先生は授業を進めながら、生徒一人ひとりの様子をさりげなく見ている。


同じ教室。


同じ時間。


でも、その中には三十通りの今日が流れている。


希美はふと思う。


教室とは、一冊の本ではない。


三十冊の本が、たまたま同じ部屋でページをめくっている場所なのだ。




放課後。


図書館へ向かう途中。


窓際で太一が立ち止まった。


「希美。」


「ん?」


「見て。」


校庭では落ち葉を掃いている用務員の姿があった。


風が吹くたびに、掃き集めた葉がまた散っていく。


「大変そう。」


希美がつぶやく。


太一は静かに笑った。


「俺、小学生の頃なら。」


「『かわいそう』って思ってた。」


「今は?」


「秋だな、って思う。」


「え?」


「落ち葉があるから掃く人がいる。」


「掃く人がいるから学校がきれいになる。」


「俺たちは、そのきれいな廊下を普通だと思って歩いてる。」


希美は校庭を見つめる。


誰かの仕事が、誰かの日常を支えている。


普段は気づかないだけなのだ。




図書館。


雨宮栞は窓ガラスを拭いていた。


「こんにちは。」


「こんにちは。」


希美は今日見たことを話した。


焼きそばパンで笑ったこと。


授業中の教室。


用務員の姿。


栞は窓を拭く手を止め、ガラス越しの中庭を見つめた。


「この窓。」


そう言って微笑む。


「面白いと思いませんか。」


希美は首をかしげる。


「鏡にもなります。」


「外も見えます。」


「自分も映ります。」


「全部、一枚のガラスです。」


希美はガラスへ近づいた。


自分の姿が映る。


その向こうでは、生徒たちが歩いている。


自分と世界が、一枚のガラスの上で重なっていた。


「人も似ています。」


栞は静かに続ける。


「自分のことだけを見ていると、世界は見えません。」


「世界ばかり見ていると、自分を見失います。」


「だから人は、誰かと出会うのでしょう。」


希美はその言葉を胸の中で繰り返した。


出会うこと。


笑うこと。


すれ違うこと。


その一つひとつが、自分という物語と世界という物語をつないでいる。




帰り道。


夕焼けが街をやわらかく染めていた。


部活動へ向かう生徒。


急いで家へ帰る生徒。


犬を散歩させる人。


買い物袋を提げた人。


誰もが、それぞれ違う今日を生きている。


希美はノートを開いた。


白いページ。


ペンを持つ。


今日も書かなかった。


今日見えた景色は、一つの言葉では足りなかった。


焼きそばパンを追いかけた蒼も。


笑いながらパンを分けた由真も。


自然に手を差し伸べた透も。


黙って落ち葉を掃いていた用務員も。


みんな違う物語を生きている。


その物語は、


どこかで少しだけ交わり、


また、それぞれの道へ戻っていく。


希美はノートを閉じる。


世界という物語は、


誰か一人が主人公ではない。


名前も知らない誰かの人生と、


自分の人生が静かに触れ合うことで、


今日という一ページが生まれているのだと、


夕焼けの空を見上げながら思った。








十月。


朝から細かな雨が降っていた。


教室の窓には、小さな雨粒が並んでいる。


昼休み。


「終わった……。」


太一が机に突っ伏した。


「今日は何?」


由真が笑う。


「傘。」


「忘れたの?」


「持ってきた。」


「じゃあ何が終わったの?」


太一は真面目な顔で言った。


「家に帰れない。」


「なんで?」


「玄関に置いてきた。」


希美が吹き出した。


「意味ないじゃん。」


「途中までは成功してた。」


「最後だけ失敗したの。」


由真は笑いながら自分の傘を持ち上げた。


「一本余ってるから貸してあげる。」


「女神。」


「今日二回目。」


「一日二回も現れるんだ。」


「サービス期間。」


教室中が笑いに包まれた。


その笑いの中で、


希美はふと朝倉透の姿を探した。


席にはいない。




放課後。


雨は少し強くなっていた。


希美は図書館へ向かう途中、


渡り廊下で立ち止まる。


窓際に、透が立っていた。


雨を見つめている。


声を掛けようか迷う。


その背中は、一人になりたいようにも見えた。


でも、


誰かが隣にいてもいいようにも見えた。


「朝倉くん。」


透がゆっくり振り向く。


「あ、咲原さん。」


少し驚いたあと、


いつものように笑った。


「図書館?」


「うん。」


「朝倉くんは?」


「ちょっと雨を見てた。」


二人は窓際に並ぶ。


雨音だけが静かに流れていた。


やがて透がぽつりと言う。


「俺さ。」


「雨の日、少し苦手なんだ。」


希美は横を向いたまま聞く。


「そうなんだ。」


「理由は?」


透は少し笑った。


「長い話になる。」


「じゃあ今日はやめとく。」


「うん。」


それだけだった。


理由は聞かなかった。


聞けなかった、ではない。


今日は、その日ではないと思った。


二人はしばらく黙って雨を眺める。


沈黙は重くなかった。


言葉がないから気まずいのではない。


安心できる相手とは、


黙って同じ景色を見ていられるのだと、


希美は初めて知った。




図書館。


雨宮栞は窓際で本を閉じていた。


「こんにちは。」


「こんにちは。」


希美は今日の出来事を話した。


雨の日。


透の言葉。


理由を聞かなかったこと。


話し終えると、


少し不安そうに尋ねる。


「私、何もできませんでした。」


栞はゆっくり首を振った。


「いいえ。」


「隣にいたでしょう。」


その一言に、


希美は静かに息をのむ。


「人は。」


栞は窓の外の雨を見つめながら続けた。


「答えが欲しい日ばかりではありません。」


「誰かに、隣へ立っていてほしい日があります。」


「励まされるより。」


「慰められるより。」


「ただ、一緒に雨を見ていたい日があるんです。」


希美は窓へ目を向けた。


さっきまで透と見ていた景色と同じ雨だった。




帰り道。


雨は少し弱くなっていた。


歩道には小さな水たまりが並んでいる。


希美は鞄からノートを取り出した。


白いページ。


ペンを持つ。


今日も書かなかった。


今日受け取ったものは、


言葉より静けさだった。


雨の音。


並んで立った時間。


「長い話になる。」


その一言。


まだ読まれていないページがある。


だから急がない。


その人が、


「続きを読んでもいいよ」


と渡してくれる日まで待とう。


希美はノートを閉じる。


雨上がりの空が少しだけ明るくなっていた。


誰かの物語を大切にするということは、


急いで結末を知ることではない。


その人の歩く速さに合わせて、


静かに隣を歩くことなのかもしれない。


そう思いながら、


希美は濡れた帰り道をゆっくりと歩いていった。








十月も半ばを過ぎた。


朝の空気はひんやりとして、校庭の桜は少しずつ葉を落とし始めていた。


昼休み。


「大事件。」


由真が勢いよく教室へ入ってきた。


「どうした?」


太一が顔を上げる。


「今日のお弁当。」


「うん。」


「お箸忘れた。」


「また?」


「今日は宿題じゃない。」


「成長した。」


「違うと思う。」


希美が笑う。


そこへ透が近づいてきた。


「はい。」


自分の割り箸を一本差し出す。


「え?」


「購買でもらったやつ。」


由真は目を輝かせた。


「救世主!」


蒼が真顔で言う。


「朝倉は人助けレベルが高い。」


透は照れくさそうに笑う。


「困ったときはお互いさま。」


教室には、いつもの笑い声が広がった。




放課後。


「咲原さん。」


透が声を掛けてきた。


「今日、少しだけ時間ある?」


「あるよ。」


「図書館まで、一緒に歩いてくれない?」


「もちろん。」


二人は並んで校舎を歩いた。


秋風が渡り廊下を吹き抜ける。


しばらくは他愛ない話をした。


先生の口癖。


購買の新しいパン。


太一がまた焼きそばパンを買えなかったこと。


「あれ、本気で落ち込んでたね。」


透が笑う。


「世界の終わりみたいな顔してた。」


「本人は人生って言ってた。」


二人は笑った。


その笑いが落ち着くと、


透はゆっくり立ち止まった。


窓の外には、少し曇った秋空が広がっている。


「この前。」


透が静かに言う。


「雨の日が苦手って話したでしょ。」


希美は小さくうなずく。


「理由、聞いてくれる?」


「うん。」


透は窓の外を見たまま話し始めた。


「小学生の頃。」


「母さんが入院してた時期があった。」


声は落ち着いていた。


「学校が終わると病院へ行って。」


「帰る頃には暗くなって。」


「その帰り道が、雨の日だったことをよく覚えてる。」


少し笑う。


「本当は毎日じゃないんだろうけどね。」


「記憶って、不思議だよ。」


希美は何も言わずに聞いていた。


透は続ける。


「病室では泣かなかった。」


「母さんが心配すると思ったから。」


少し間を置く。


「でも。」


「家に帰ると、一人で泣いてた。」


風が窓を小さく揺らした。


「初めて言った。」


透は苦笑する。


「誰にも。」


長い沈黙が流れる。


「最近、おじいちゃんが入院してさ、思い出したんだ。」


希美は急いで言葉を探さなかった。


励まそうともしなかった。


ただ、その時間を一緒に受け止めた。


やがて、静かに口を開く。


「話してくれて、ありがとう。」


透は少し照れくさそうに笑う。


「その一言だけでいいんだね。」


「え?」


「誰かに『ありがとう』って言われると。」


「ちゃんと話してよかったって思える。」


希美も微笑んだ。


「私も。」


「預けてもらえて、うれしかった。」


透は少し驚いたあと、小さく笑う。


「預けた、か。」


「その言い方、好きだな。」


________________________________________


図書館。


雨宮栞は返却された本を一冊ずつ棚へ戻していた。


希美は今日の出来事を話す。


最後まで聞き終えた栞は、しばらく黙っていた。


それから、ゆっくりと言う。


「今日、朝倉さんは。」


「涙の話をしたのではありません。」


希美は顔を上げる。


「信じた相手の話をしたんです。」


その一言が胸に響く。


「人は。」


栞は静かに続けた。


「涙を見せる相手を選びます。」


「それは弱さではありません。」


「この人なら受け止めてくれると信じた、勇気なんです。」


希美はそっとうなずいた。


受け取ったのは、悲しい思い出ではない。


勇気だった。




帰り道。


夕焼けが秋の雲をやさしく染めていた。


希美はノートを開く。


白いページ。


今日もペンは動かなかった。


まだ言葉にしたくなかった。


今日預かったものは、


一行でまとめられるようなものではない。


心の中で何度も読み返し、


大切にしまっておきたい一ページだった。


ノートを閉じる。


その時、後ろから太一が走ってきた。


「希美!」


「ん?」


「今日さ!」


「焼きそばパン買えた!」


希美は思わず吹き出した。


「よかったね。」


「人生って捨てたもんじゃない。」


「そこまで?」


「そこまで。」


二人は笑いながら帰り道を歩き始める。


悲しい話を聞いた日にも、


人は笑うことができる。


笑うから忘れるのではない。


悲しみも、喜びも、


どちらも抱えたまま前へ歩いていける。


人類とは、そんな不思議で、少し愛おしい生きものなのだと、


希美は夕焼け空を見上げながら静かに思った。








十月の終わり。


空は高く、雲はゆっくり流れていた。


放課後。


チャイムが鳴ると、教室はいつものように動き始める。


「また明日!」


「宿題やった?」


「今からやる!」


「それ毎日聞いてる!」


あちこちで笑い声が弾ける。


由真は友達と笑いながら教室を飛び出していった。


「購買寄って帰ろ!」


「まだ何か食べるの?」


「育ち盛りだから!」


「十分育ってる!」


「失礼!」


廊下まで笑い声が続いていく。


太一は机の中をのぞき込み、真剣な顔になった。


「……ない。」


希美が苦笑する。


「今度は何?」


「英語のノート。」


「家じゃない?」


「昨日持って帰った記憶がない。」


「じゃあ学校。」


「学校にもない。」


「じゃあ?」


太一は腕を組む。


「量子力学。」


「違う。」


「観測したら出てくるかもしれない。」


「ノートは電子じゃないから。」


そのやり取りを聞いていた透が笑った。


「太一。」


「机の上。」


「あ。」


目の前に置いてあった。


「今日も世界は平和だね。」


透がそう言うと、


教室に小さな笑いが広がった。




希美は図書館へ向かった。


扉を開くと、


いつもの紙の匂いが迎えてくれる。


「こんにちは。」


「こんにちは。」


雨宮栞は返却された本を棚へ戻していた。


「今日は何を読もうか迷ってます。」


希美がそう言うと、


栞は少し考えてから、一冊の小説を差し出した。


「今日は、この本はいかがですか。」


「どんな話ですか?」


栞は微笑む。


「最後まで読まないと分かりません。」


希美は笑った。


「それ、栞さんの好きな答えですね。」


「ええ。」


「人も、本も同じですから。」


二人は静かに笑い合った。




図書館を出ると、


夕暮れが町をやさしく包んでいた。


商店街を歩く。


八百屋のおじさんが店じまいをしている。


小さな子どもが転び、


母親が笑いながら手を払っている。


犬がしっぽを振りながら散歩している。


自転車が一台、坂道を下っていく。


どれも特別ではない。


けれど、


誰かにとっては二度と戻らない今日だった。


商店街の角まで来ると、


甘い香りが風に乗って流れてきた。


「焼きいもだ。」


小さな屋台から白い湯気が立っている。


「一本ください。」


店のおばあさんが笑顔で新聞紙に包んでくれた。


「熱いから気をつけてね。」


「ありがとうございます。」


包みを持つと、


じんわりと温かさが手のひらへ伝わる。


希美は歩きながら小さく割った。


湯気がふわりと立ちのぼる。


「あ。」


向こうから太一が歩いてきた。


「また会った。」


「焼きいも?」


「食べる?」


太一は少し遠慮したあと、


小さくうなずいた。


「半分だけ。」


「どうぞ。」


二人で並んで歩きながら焼きいもを食べる。


「おいしい。」


「うん。」


少し先には由真が家族と歩いている姿が見えた。


反対側の歩道では透が自転車を押しながら、小さな男の子に道を譲っていた。


信号の向こうでは先生が買い物袋を提げて歩いている。


学校を出れば、


みんな制服の主人公ではなく、


誰かの息子で、


誰かの娘で、


誰かの友達で、


誰かの大切な人だった。


希美は立ち止まり、夕焼けに染まる町を見渡す。


今日も世界は、


静かに動いている。


誰かが笑い、


誰かが泣き、


誰かが恋をして、


誰かが夢を見ている。


その全部を知ることはできない。


きっと、この先も。


でも、それでいい。


人は、


全部を知るために出会うのではない。


互いの物語を少しだけ分け合い、


また、それぞれの人生へ帰っていく。


希美は鞄からノートを取り出した。


白いページを開く。


しばらく夕焼けを眺め、


ようやく一行だけ書いた。


世界は、読み終えるための本ではない。


誰かと一緒に、読み続けていく物語だ。


ノートを閉じる。


空には、一番星が光り始めていた。


希美は歩き出す。


家では父が眼鏡を探しながら眼鏡を掛けているかもしれない。


母は夕食を作りながら鼻歌を歌っているだろう。


祖父は縁側で夕焼けを見ているかもしれない。


きっと今日も、


いつもの「ただいま」が待っている。


希美は少しだけ歩幅を速めた。


世界は明日も続く。


だから、この物語も、


まだ終わらない。

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