↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
6/8

人類取扱説明書6

『人類取扱説明書』作品概要




十八歳の少女・希美は、世界にどこか退屈さを感じながら日々を過ごしていた。ある日、図書館の誰も近づかない本棚で『人類取扱説明書(試作品)』と書かれた一冊の不思議なノートを見つける。その出会いをきっかけに、司書・雨宮栞との交流や、父、母、祖父、友人、子どもたち、図書館を訪れるさまざまな人々との触れ合いを通して、希美は「人とは何か」を少しずつ考え始める。本作は、人類そのものを主人公とした、笑いと涙、そして希望に満ちたヒューマンドラマである。




本作はAIを推敲・構成支援ツールとして活用しながら、テーマ設定、物語設計、内容の選択・修正を作者自身が行いました。

第六章 誰かの物語になる




十一月の朝。


校門の銀杏は黄金色に染まり、風が吹くたびに黄色い葉がゆっくりと舞い落ちていた。


希美は落ち葉を踏みしめながら学校へ向かう。


乾いた音が心地よく響く。


去年も同じ音を聞いたはずなのに、今日は少し違って聞こえた。


世界が変わったのではない。


自分の聞き方が、少しだけ変わったのだ。


教室へ入る。


「おはよう。」


「おはよう。」


いつもの朝。


いつもの教室。


そのはずだった。


「重大発表!」


教室へ飛び込んできた由真が、教卓を勢いよく叩いた。


「今日から私、お弁当忘れません!」


太一が本から顔も上げずに言う。


「目標が低い。」


「失礼!」


「昨日まで三日連続だった。」


「それは過去!」


「今日は?」


由真は胸を張る。


「ちゃんと持ってきた!」


希美が笑う。


「よかったね。」


由真は得意そうに鞄を開けた。


「ほら!」


次の瞬間。


教室中が静まり返った。


弁当箱だけが机の上に置かれている。


「……お箸。」


由真が固まる。


太一がゆっくり顔を上げた。


「目標、未達成。」


「違う!」


「お弁当はある!」


「半分成功。」


「半分って何!」


そのとき、朝倉透がポケットから割り箸を一本取り出した。


「はい。」


「また持ってる!」


「昨日の余り。」


由真は両手で受け取る。


「朝倉くんって、未来が見えてる?」


「いや。」


透は照れくさそうに笑う。


「由真なら忘れるかなって。」


「ひどい!」


教室中に笑い声が広がった。


先生が入ってきて首をかしげる。


「今日は朝から楽しそうだな。」


「先生。」


由真が真顔で言う。


「人生には予備の割り箸が必要です。」


先生は一瞬考え、


「それは給食センターへ言ってくれ。」


教室はさらに笑いに包まれた。




一時間目が終わる。


廊下へ出ると、窓から秋の日差しが差し込んでいた。


希美はふと教室の後ろを見る。


一人の女子生徒が静かに本を読んでいる。


高橋美咲だった。


周囲の笑い声から少し離れた場所で、ページをめくっている。


誰かを避けているようには見えない。


でも、自分から輪へ入ろうともしていなかった。


希美は少しだけ立ち止まる。


以前の自分なら、


「話しかけたほうがいいのかな。」


と答えを探していただろう。


けれど今は違う。


相手には、相手の時間がある。


祖父の言葉が胸によみがえった。


「急いで答えを出さんでええ。」


希美は美咲の机の横を通るとき、小さく笑った。


「おはよう。」


美咲は顔を上げる。


少し驚き、それから小さく笑い返した。


「……おはよう。」


それだけだった。


それ以上は何も話さない。


希美も歩き続ける。


短い挨拶だけが、静かに教室へ残った。




昼休み。


図書館へ向かう途中。


透が並んで歩きながら言う。


「咲原さんって、最近変わったね。」


「そう?」


「前は。」


透は少し考えて笑う。


「急いで答えを探してた。」


「今は?」


「待てる人になった。」


希美は少し照れくさくなる。


「そんなに変わったかな。」


「うん。」


透は窓の外を見ながら続ける。


「一緒にいると安心する。」


その言葉は、静かに胸へ届いた。


自分では変わったつもりはない。


でも、人は自分の変化より先に、誰かの変化に気づくことがあるのかもしれない。




放課後。


図書館。


雨宮栞は返却された本を一冊ずつ棚へ戻していた。


希美は今日の出来事を話す。


由真の割り箸騒動。


美咲への挨拶。


透の「安心する」という言葉。


栞は小さく笑った。


「今日は、たくさん贈りものを受け取りましたね。」


「贈りもの?」


「ええ。」


「割り箸も。」


「挨拶も。」


「安心する、という言葉も。」


「全部、形は違いますが、人から人へ渡されたものです。」


希美は少し考える。


栞は続けた。


「人は、自分が渡したものより、受け取ったもののほうが覚えているものです。」


「でも、ときどき逆もあります。」


「自分は忘れていても、相手はずっと覚えている。」


その言葉に、美咲の小さな「おはよう」が重なった。


まだ何も始まっていない。


それでも、何かが静かに動き始めている気がした。




帰り道。


銀杏の葉が風に乗って舞っていた。


一枚の葉は、どこへ落ちるのか分からない。


それでも風は、迷うことなく運んでいく。


人の言葉もきっと同じだ。


何気なく交わした挨拶。


笑いながら差し出した割り箸。


「安心する」という一言。


その行き先を、話した本人は知らない。


でも、どこかで誰かの心へ届き、


静かに根を張ることがある。


希美はノートを取り出した。


白いページを開く。


ペンを持つ。


そして、今日も書かなかった。


まだ言葉にするには早い。


今日受け取ったものは、答えではなく、小さな種だった。


いつか、その種が誰かの心でどんな花を咲かせるのか。


それは、明日になっても分からない。


何年たっても分からないかもしれない。


それでも人は、今日も誰かへ言葉を手渡して生きている。


希美はノートを閉じ、舞い落ちる銀杏を見上げた。


その葉がどこへ降り立つのかを知らないまま、風だけがやさしく街を渡っていった。








十一月の雨。


朝から細かな雨粒が校舎の窓を静かに流れていた。


一時間目が終わると、由真が大きなため息をついた。


「もうダメ。」


希美が笑う。


「今日は何?」


「靴下。」


「忘れたの?」


「履いてる。」


「じゃあ何?」


由真は真剣な顔で答えた。


「左右違う。」


太一が机の下をのぞく。


「本当だ。」


「朝、暗くて気づかなかった。」


透が苦笑する。


「誰も足元なんて見ないよ。」


由真は胸を張る。


「でも私が気になる!」


先生が教室へ入ってくる。


由真は慌てて席へ戻る。


先生は由真の足元を見て一言。


「……今日のファッションか?」


教室中が笑いに包まれた。


「違います!」


由真の声だけが教室に響いた。




昼休み。


図書館へ向かう途中、昇降口で希美は立ち止まる。


傘立ての前で、高橋美咲が困ったように外を見ていた。


「どうしたの?」


「あ……。」


少し照れたように笑う。


「傘、忘れちゃって。」


希美は自分の紺色の傘を見る。


「駅までなら一緒に行こう。」


美咲は少し迷ってから、小さくうなずいた。


「ありがとう。」




放課後。


雨は朝より少し強くなっていた。


二人は一本の傘へ入る。


しばらく雨音だけが続く。


急いで話そうとはしなかった。


沈黙が苦にならない。


そんな時間だった。


やがて美咲が口を開く。


「咲原さん。」


「うん?」


「前から、そういう人だった?」


「どういう人?」


「待ってくれる人。」


希美は少し考える。


「分からない。」


正直に答えた。


美咲は小さく笑う。


「春にね。」


「私、教室で泣きそうになった日があったの。」


希美は静かに耳を傾ける。


「あの日。」


「誰も私を見てないと思ってた。」


少し雨が強くなる。


「でも。」


「咲原さんだけ、『おはよう』って言ってくれた。」


希美は立ち止まりそうになる。


その朝のことは、思い出せなかった。


美咲は続ける。


「たった一言だったけど。」


「ちゃんと私はここにいるって思えた。」


雨音だけが二人を包む。


「覚えてないよね。」


「……うん。」


「ごめん。」


美咲は首を横に振った。


「謝らなくていい。」


「私は覚えてるから。」


その一言は、雨よりも静かに希美の胸へ届いた。




駅へ着くと、美咲は傘から出た。


「ありがとう。」


「また明日。」


「また明日。」


笑顔で手を振る。


その背中は、春より少しだけ前を向いて歩いているように見えた。




図書館。


雨宮栞は返却された本を静かに棚へ戻していた。


希美は今日の出来事を話した。


美咲の言葉。


「私は覚えてるから。」


という一言。


栞はしばらく黙っていた。


それから窓の外の雨を見つめる。


「本も同じなんです。」


「作者は、どの一文が誰の人生へ残るか分かりません。」


「何気なく書いた一行が。」


「十年後も、その人を支えていることがあります。」


希美は静かに聞いていた。


「人も同じです。」


「忘れてしまった優しさを。」


「誰かが宝物のように覚えていることがあります。」


希美は、美咲の笑顔を思い出した。


あの日の「おはよう」は、自分の中ではもう過去だった。


けれど、美咲の中では今日まで生き続けていた。




帰り道。


雨は止み、西の空から夕陽が顔をのぞかせていた。


濡れた歩道が金色に輝く。


商店街では、パン屋から焼きたての香りが流れてくる。


八百屋のおじさんが威勢よく客を呼び込んでいる。


小さな男の子が母親と手をつないで笑っていた。


誰も希美のことを知らない。


希美も、その人たちの名前を知らない。


それでも今日という日は、無数の人が支え合ってできている。


希美はノートを取り出した。


白いページを開く。


ペンを持つ。


そして、また閉じた。


今日分かったことは一つだけだった。


自分は、自分が思っているよりも、


ずっと前から誰かの物語に登場していた。


それは少し照れくさくて、


少しうれしくて、


そして明日という一日を、少しだけ丁寧に歩いてみたくなる気づきだった。


雨上がりの空には、小さな虹が淡く架かっていた。


希美はその虹を見上げながら、ゆっくりと家への道を歩き始めた。








十一月の終わり。


朝の風は、少しだけ冬の匂いを運んできていた。


教室の窓から見える桜の木は、ほとんど葉を落としている。


ホームルーム前。


由真が両手を机について、大きく息をついた。


「聞いて。」


希美が笑う。


「今日は何?」


「昨日、部屋を掃除したの。」


「えらいね。」


「なくしてたイヤホンが見つかった。」


「よかった。」


「でも。」


由真は真剣な顔になる。


「掃除したら、今度は財布がなくなった。」


太一が静かに言う。


「部屋は異世界への入口だったか。」


「違う。」


透が笑いながら由真の机を指さした。


「そこ。」


財布は教科書の上に堂々と置かれていた。


由真は両手で顔を覆う。


「私、人生で一番自分を疑ってる。」


教室中が笑いに包まれた。


先生が教室へ入ってきて言う。


「今日は財布を忘れた人はいないな?」


由真が小さくつぶやく。


「危なかった……。」


また笑いが起こった。




昼休み。


希美は図書館から借りた本を閉じる。


廊下へ出ると、美咲が立っていた。


「咲原さん。」


「どうしたの?」


少し照れくさそうに笑う。


「来年、図書委員をやってみようと思う。」


「本当に?」


「うん。」


美咲は窓の外を見た。


「前は、人前に出るのが怖かった。」


「でも。」


「図書館へ来るようになって。」


「少しだけ変わった気がする。」


希美はうれしくなった。


「栞さんも喜ぶね。」


「それもあるけど。」


美咲は首を振る。


「咲原さんを見てたから。」


その一言で、希美は言葉を失う。


「私?」


「うん。」


「急がないでしょう。」


「ちゃんと相手の話を聞くでしょう。」


「そんな人になりたいって思った。」


希美は胸の奥が温かくなる。


「ありがとう。」


それしか言えなかった。


美咲は笑う。


「お礼を言うのは私のほう。」


チャイムが鳴る。


「またね。」


「またね。」


短い会話だった。


けれど、二人の間には春にはなかった穏やかな空気が流れていた。




放課後。


図書館。


児童書の棚では、小さな女の子が背伸びをして本を取ろうとしていた。


届かない。


希美は黙って一冊の絵本を取って手渡す。


「ありがとう。」


女の子はにっこり笑って、お母さんのところへ走っていった。


その様子を、栞が少し離れた場所から見ていた。


返却作業が終わると、栞が隣へ来る。


「自然でしたね。」


「え?」


「絵本を渡したことです。」


希美は首をかしげる。


「困ってたから。」


「それだけです。」


栞は小さくうなずく。


「それで十分なんです。」


少し間を置いて続ける。


「人は、誰かの手本になろうとして生きなくてもいい。」


「ただ目の前の人を大切にする。」


「その姿を見ている人がいます。」


希美は今日の美咲の言葉を思い出した。


『そんな人になりたい。』


あれは、自分が教えたことではなかった。


一緒に過ごした時間が伝えたものだった。




帰り道。


夕焼けが町をやさしく染めていた。


商店街ではパン屋が焼きたてのパンを並べている。


郵便配達員が最後の一軒へ自転車を走らせる。


横断歩道では警備員が子どもたちへ手を振っていた。


誰も特別なことはしていない。


それでも、その一つひとつが誰かの一日を支えている。


希美はノートを開く。


白いページ。


今日もペンは止まったままだった。


美咲の言葉。


女の子の「ありがとう」。


栞の穏やかな微笑み。


そのどれもが、今日という一日を静かにつないでいた。


言葉には行き先がある。


でも、人の生き方にも行き先がある。


急がなくてもいい。


立派でなくてもいい。


目の前の人を大切にして歩いた足跡は、


気づかないうちに、誰かの道しるべになっている。


希美はノートを閉じた。


冷たい冬の風が頬をなでる。


空を見上げると、一番星が小さく瞬いていた。


その光は決して大きくはない。


けれど、暗くなり始めた空では、誰よりも早く誰かの帰り道を照らしていた。








十二月。


吐く息が白くなる朝だった。


ホームルーム前。


由真が机に突っ伏している。


「もう立ち直れない……。」


希美が笑う。


「今日は何?」


「今日じゃない。」


由真は顔だけ上げた。


「昨日、クリスマス限定プリンを買ったの。」


「うん。」


「冷蔵庫に入れて楽しみにして寝た。」


「食べた?」


「お父さんが食べてた。」


教室が静まり返る。


太一が静かに言う。


「家庭内事件だ。」


透が苦笑する。


「犯人は?」


「朝、満面の笑みで『ありがとう』って言われた。」


希美は吹き出した。


「お父さん、知らなかったんだ。」


「だから怒れない!」


由真は天井を見上げる。


「プリンは平和を壊す。」


先生が教室へ入ってくる。


話を聞くと真面目な顔で一言。


「名前を書いておきなさい。」


教室いっぱいに笑い声が広がった。




その日の昼休み。


希美は透の姿が見えないことに気づく。


教室にも。


図書館にも。


中庭にもいない。


少しだけ胸がざわついた。


放課後。


校舎裏へ向かうと、小さなベンチに透が一人座っていた。


冬の風が落ち葉を転がしていく。


「朝倉くん。」


透はゆっくり顔を上げる。


「あ……咲原さん。」


笑おうとした。


でも、その笑顔は途中で止まった。


希美は何も聞かず、隣へ座る。


二人の間を風だけが通り抜ける。


長い沈黙。


やがて透が口を開いた。


「祖父が亡くなった。」


その一言だった。


希美は息をのむ。


透は空を見つめたまま続ける。


「昨日。」


「病院には間に合った。」


「でも。」


少し笑う。


「最後に何を話したか、思い出せない。」


風がまた吹いた。


校庭から部活動の声が遠く聞こえる。


いつもの学校だった。


それなのに、透の時間だけが昨日で止まっているようだった。


希美は励まそうとして口を開きかける。


『元気を出して。』


違う。


『最後に話せて、おじいさんも。』


それも違う。


どの言葉も、今の透には軽すぎる気がした。


だから希美は何も言わなかった。


ただ、同じ空を見上げた。


しばらくして透が小さく笑う。


「ごめん。」


「変な空気にしちゃった。」


希美は首を横に振る。


「ううん。」


「何も言えなくて、ごめん。」


透は驚いたように希美を見る。


それから静かに笑った。


「ありがとう。」


「え?」


「今日は。」


透はゆっくり息を吐く。


「励ましてほしかったわけじゃない。」


「でも。」


「一人ではいたくなかった。」


希美は小さくうなずく。


その言葉だけで十分だった。




図書館。


閉館まであと三十分。


返却された本を棚へ戻しながら、栞がぽつりと言う。


「今日は寒いですね。」


「はい。」


希美は今日の出来事を話した。


最後まで聞き終えた栞は、しばらく黙っていた。


そして一冊の本を、静かに棚へ戻す。


「希美さん。」


「はい。」


「今日、朝倉さんは。」


少し間を置く。


「悲しみを話したのではありません。」


希美は顔を上げる。


「一人でいたくない、と伝えたんです。」


その一言だけだった。


それ以上、栞は説明しなかった。


希美も質問しなかった。


答えはもう胸の中にあった。




帰り道。


冬の空には、一番星が静かに光っていた。


商店街ではケーキ屋のショーケースにクリスマスケーキが並び始めている。


小さな子どもがサンタクロースの帽子をかぶって笑っていた。


世界は今日も変わらず動いている。


でも。


誰かにとって今日は、大切な人を見送った一日かもしれない。


誰かにとって今日は、新しい命を迎えた一日かもしれない。


同じ空の下で、


それぞれ違う物語が流れている。


希美はノートを開いた。


白いページ。


今日もペンは止まったままだった。


言葉が届かなかったのではない。


今日の沈黙もまた、一つの言葉だった。


人は誰かの悲しみを消すことはできない。


それでも、その悲しみが少しやわらぐまで隣を歩くことはできる。


希美はノートを閉じた。


冷たい夜風が頬をなでる。


遠くで電車が走る音が聞こえた。


その音は、止まった時間を少しずつ動かすように、静かに冬の町へ溶けていった。








十二月の午後。


冷たい風が校庭を吹き抜ける。


昼休み。


由真が机の上で小さな袋を振っていた。


「見て!」


「何?」


希美がのぞき込む。


「おばあちゃんが、お餅送ってくれた!」


太一が真顔で聞く。


「何個?」


「三十個。」


「冬を越せる。」


透が笑う。


「一人じゃ食べきれないでしょ。」


「だから持ってきた。」


由真は袋を差し出す。


「みんなで食べよう!」


太一が一つ受け取る。


「これで数学ができる気がする。」


「お餅に謝って。」


希美が笑う。


「そんな力ある?」


「ある。」


太一は真剣な顔だった。


「ないよ。」


教室に笑い声が広がる。


その笑いの中で、希美は思う。


「もらう」ということは、


食べ物だけではないのかもしれない。




放課後。


図書館。


静かな館内では、返却された本がカウンターに積まれていた。


栞は一冊ずつ丁寧に棚へ戻している。


「希美さん。」


「はい。」


「この本を読んだことはありますか。」


差し出されたのは、一冊の古い児童文学だった。


少し角が擦り切れている。


「ずいぶん読まれていますね。」


「ええ。」


栞は表紙をそっとなでる。


「この本は三十年以上、この図書館にあります。」


「何百人もの子どもたちが読みました。」


「その中には、もう親になった人もいます。」


希美はページをめくる。


紙は少し黄ばんでいた。


「一冊の本は。」


栞は静かに続ける。


「読む人が変わるたびに、新しい役目を持ちます。」


「人も、そうなのかもしれませんね。」


その一言だけだった。


けれど、その言葉は希美の胸へ深く残った。




帰り道。


商店街を歩く。


パン屋から焼きたての香りが流れる。


八百屋のおじさんが客にみかんをおまけしていた。


横断歩道では警備員が、小学生へ笑顔で手を振る。


郵便配達員が最後の郵便物を届けている。


誰も自分のことを知らない。


でも、この人たちがいるから今日という日は普通に流れている。


「普通」は、


名前も知らない誰かから受け取っている贈りものだった。




家へ帰る。


「ただいま。」


「おかえり。」


母の声が台所から聞こえる。


味噌汁の湯気が立ち上る。


父は新聞を読みながら眼鏡を探していた。


「お父さん。」


希美が笑う。


「掛けてる。」


父は一瞬止まり、


額に手を当てる。


「あ。」


家族みんなが笑った。


祖父がお茶をすすりながら言う。


「その眼鏡も、探してほしかったんじゃろ。」


「どういう意味?」


父が苦笑する。


食卓には笑い声が広がる。


その何気ない時間が、今日は少し違って見えた。


母がご飯をよそう。


父が味噌汁を運ぶ。


祖父がおしぼりを配る。


誰も特別なことはしていない。


でも。


この毎日があったから、自分はここまで歩いてこられた。




夜。


机に向かう。


ノートを開く。


白いページ。


今日は自然にペンが動いた。


私は、一人で生きてきたわけじゃなかった。


書き終える。


静かに読み返す。


違う。


何かが足りない。


希美はその一文に、一本の線を引いた。


それではまだ、


「受け取ったこと」しか書いていない。


今日気づいたのは、もっと大きなことだった。


人は、受け取るだけでは終わらない。


受け取ったものを、


また誰かへ手渡して生きている。


そのことを、まだ自分の言葉にできなかった。


ノートを閉じる。


白い表紙は何も語らない。


けれど、その白さは空白ではなかった。


まだ書かれていない未来だった。


窓を開ける。


冬の夜風が静かに部屋へ流れ込む。


遠くで電車が走る音が聞こえた。


誰かが線路を造り、


誰かが列車を整備し、


誰かが運転し、


今日も誰かを家まで送り届けている。


人は、生まれた瞬間から、


数えきれないほどの贈りものを受け取りながら生きている。


そしていつか、


自分もまた誰かへ渡す側になる。


希美は夜空を見上げた。


答えはまだ見つかっていない。


でも、その答えへ向かう道は、


もう歩き始めている気がした。








十二月の図書館は、不思議と足音まで静かだった。


窓から差し込む冬の陽射しが、本棚の間に長い影を落としている。


返却カウンターには、子どもから大人まで、さまざまな本が積まれていた。


希美は返却された本を受け取りながら、一冊ずつ背表紙を眺める。


歴史。


料理。


宇宙。


恋愛小説。


昆虫図鑑。


どれも違う。


それなのに、どの本も誰かの人生に必要だったのだ。


「希美さん。」


栞が一枚の貸出カードを差し出した。


「見てください。」


カードには、何十年分もの名前と日付が並んでいた。


一番古い日付は、三十五年前。


「こんなに……。」


「この本は、たくさんの人に読まれてきました。」


栞は微笑む。


「でも。」


「この本は、一度も読者を選びませんでした。」


希美はカードを見つめた。


同じ本。


違う人。


違う時代。


違う悩み。


それでも一冊の本は、静かに誰かの隣に居続けてきた。




午後。


閉館まであと一時間。


入口の自動ドアが開く。


杖をついた老人が、ゆっくり館内へ入ってきた。


希美は思わず立ち上がる。


「いらっしゃいませ。」


老人は少し照れくさそうに笑う。


「ありがとう。」


そのまま児童書コーナーへ歩いていく。


意外だった。


しばらくして老人は、一冊の絵本を手にカウンターへ戻ってきた。


「この本を借りたいんじゃ。」


希美が貸出手続きをしながら尋ねる。


「お孫さんですか。」


老人は目を細めた。


「いや。」


少し間を置く。


「ひ孫じゃ。」


「もうすぐ四歳になる。」


その声には、少しだけ誇らしさが混じっていた。


「昔な。」


老人は絵本を優しく撫でる。


「息子にも読んでやった本なんじゃ。」


「今度は、ひ孫に読んでやろうと思って。」


貸出を終えた絵本を受け取る老人の手は、深いしわに包まれていた。


けれど、その手はとても温かそうだった。


「ありがとう。」


そう言って老人は帰っていく。


自動ドアが閉まる。


館内に静けさが戻る。


希美は、その背中をしばらく見送っていた。




「同じ本なのに。」


希美がつぶやく。


「読む人が変わるだけで、役目も変わるんですね。」


栞はうなずいた。


「ええ。」


そして、それだけだった。


答えを続けない。


希美は自分で考える。


あの絵本は。


息子が幼かった頃には、父親と子どもをつないだ。


今は。


祖父とひ孫をつなごうとしている。


本は変わっていない。


変わったのは、人の人生だった。




閉館後。


二人で返却棚を整理していると、一冊の本から小さな紙が落ちた。


栞が拾い上げる。


栞も希美も、しばらく黙っていた。


紙には、小さな子どもの字で書かれていた。


おじいちゃん


よんでくれてありがとう。


またよんでね。


色鉛筆で描かれた、少しいびつな笑顔。


希美は思わず微笑む。


「きっと、この本ですね。」


栞は紙を丁寧に挟み直す。


「ええ。」


「忘れ物ですね。」


少し笑う。


「でも。」


「本にとっては、宝物かもしれません。」


その一言が、館内へ静かに溶けていった。




帰り道。


空には冬の星が輝いていた。


吐く息が白く伸びる。


商店街では店じまいを始める人。


自転車で急ぐ高校生。


犬を散歩させる夫婦。


信号を待つ会社員。


誰も今日という一日を特別だとは思っていない。


それでも。


今日も誰かは誰かを笑わせ、


誰かを待ち、


誰かを送り、


誰かに「ありがとう」と言われている。


世界は、そんな無数の小さな物語でできていた。




家へ帰ると、祖父が居間で古いアルバムを開いていた。


「希美。」


「これ、覚えとるか。」


差し出された一枚の写真。


幼い希美が、祖父の膝の上で絵本を読んでもらっている。


「これ……。」


「覚えてない。」


祖父は笑った。


「そうじゃろう。」


「読んだ本人は忘れる。」


「読んでもらったほうも忘れる。」


「でもな。」


アルバムを閉じながら言った。


「そういう時間が、人を育てるんじゃ。」


希美は写真を見つめた。


祖父の腕。


幼い自分の笑顔。


その時間は思い出せない。


けれど。


今の自分のどこかに、確かに残っている。




夜。


机に向かう。


ノートを開く。


今日は迷わなかった。


静かに一行だけ書く。


人は、自分の人生を生きながら、


知らないうちに誰かの物語にも登場している。


希美は少し考えた。


そして、その下へもう一行書き足す。


私も、そんな一人になりたい。


初めて線を引かなかった。


初めて、その言葉を残した。


窓の外では冬の風が木々を揺らしている。


目には見えない風が葉を運ぶように、


目には見えない優しさが、人から人へ渡っていく。


その旅は終わらない。


誰かから受け取り、


誰かへ手渡し、


また次の誰かへ。


人類という長い物語は、


きっと、その繰り返しによって今日まで続いてきたのだ。


希美はノートを閉じた。


表紙をそっと撫でる。


その表情は、図書館で『人類取扱説明書(試作品)』を見つけたあの日より、少しだけ穏やかだった。


彼女はもう、「人生の答え」を探してはいない。


誰かの人生を、少しだけ温かくできる人になりたい。


その願いこそが、新しい物語の始まりだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。