人類取扱説明書4
『人類取扱説明書』作品概要
十八歳の少女・希美は、世界にどこか退屈さを感じながら日々を過ごしていた。ある日、図書館の誰も近づかない本棚で『人類取扱説明書(試作品)』と書かれた一冊の不思議なノートを見つける。その出会いをきっかけに、司書・雨宮栞との交流や、父、母、祖父、友人、子どもたち、図書館を訪れるさまざまな人々との触れ合いを通して、希美は「人とは何か」を少しずつ考え始める。本作は、人類そのものを主人公とした、笑いと涙、そして希望に満ちたヒューマンドラマである。
本作はAIを推敲・構成支援ツールとして活用しながら、テーマ設定、物語設計、内容の選択・修正を作者自身が行いました。
第四章 自分という物語
春の終わり。
朝の風は少しだけ夏の匂いを運び始めていた。
窓を開けると、カーテンがふわりと揺れる。
机の上には、一冊のノート。
『人類取扱説明書(試作品)』
少しづつ書き始め、まだ表紙は白いままだ。
希美はノートを開いた。
父。
母。
祖父。
雨宮栞。
寺井由真
沢村蒼。
山里太一。
一ノ瀬ゆい
知らないまますれ違った人たち。
何気ない会話。
沈黙。
笑顔。
ため息。
一冊のノートには、人が少しずつ住み始めていた。
希美は静かにページをめくる。
最後のページ。
その次。
真っ白だった。
「……また白紙。」
思わず笑ってしまう。
毎回ここで止まる。
ペンを持つ。
書こうとする。
止まる。
その繰り返しだ。
「自分とは何だろう。」
声に出してみる。
すると、
「朝から哲学は禁止でーす。」
部屋の外から母の声が飛んできた。
希美は吹き出した。
「そんなルールあった?」
「今できた。」
「誰が決めたの?」
「お母さん。」
「権力だ。」
「家庭内限定ね。」
希美は笑いながら部屋を出る。
リビングでは、美智子が朝食を並べていた。
「おはよう。」
「おはよう。」
「今日は何を悩んでたの?」
「自分って何だろうって。」
美智子は真顔でうなずく。
「難しいわね。」
希美も真顔でうなずく。
「うん。」
数秒。
二人とも黙る。
「……で?」
「で?」
「答え出た?」
「出ない。」
「じゃあ朝ご飯食べなさい。」
「関係ある?」
「お腹が空くと人類は難しいこと考えるから。」
「それ初めて聞いた。」
「今作った。」
二人は同時に笑った。
その笑い声を聞いて、新聞を読んでいた父が顔を上げる。
「何笑ってるんだ?」
「お母さんが新しい法律作った。」
「また?」
誠は苦笑する。
「この家、法律多いな。」
「守らない人がいるから。」
美智子は父を見る。
誠は新聞を畳みながら目をそらした。
「……心当たりがあります。」
「あります。」
「あります。」
祖父までうなずいた。
「おじいちゃんまで!」
宗一郎は湯飲みを持ったまま笑う。
「昔から誠は、靴下を裏返しのまま洗濯機へ入れる。」
「まだ言う?」
「四十年言われても直らん。」
「そんな昔から?」
希美は父を見る。
「筋金入りだね。」
「威張るところじゃない。」
食卓に笑いが広がる。
希美はふと、その光景を眺めた。
父は笑っている。
母も笑っている。
祖父も笑っている。
以前なら、それだけだった。
今は違う。
父は、父になる前にも笑っていたのだろう。
母は、母になる前にも笑っていたのだろう。
祖父もまた、若い頃にはこんなふうに笑っていたのだろう。
そう思うと、目の前の笑顔が少しだけ深く見えた。
朝食を終え、部屋へ戻る。
希美はノートを開く。
白いページ。
ペンを持つ。
少し考える。
そして、小さく一行だけ書いた。
「私は、まだ自分を最後まで読んでいない。」
書き終えると、自然に笑みがこぼれた。
昨日までなら、書けなかった。
今日は、一行だけ書けた。
それだけで十分だった。
窓の外では、初夏の風が若葉を揺らしている。
白いページは、何もない場所ではない。
これから出会う自分を迎える場所だ。
希美はノートをそっと閉じた。
白紙は減った。
けれど、不思議と「分からないこと」は増えていた。
それが少しだけ、うれしかった。
休日の午後。
薄い雲が空をゆっくり流れていた。
希美は机の前でノートを開いていた。
昨日書いた一行。
私は、まだ自分を最後まで読んでいない。
その文字を見ていると、不思議と少しだけ安心した。
全部分からなくてもいい。
そう思えたからだった。
「希美。」
階下から母の声がする。
「買い物付き合ってくれない?」
「うん、行く。」
ノートを閉じ、部屋を出る。
玄関では、美智子が買い物袋を持って待っていた。
「今日は荷物持ち一名募集してます。」
「時給は?」
「帰ったらプリン。」
「採用です。」
美智子は笑った。
「安い人材ね。」
「プリンは人を動かすから。」
「世界も?」
「そこまでは無理。」
二人は笑いながら家を出た。
商店街は休日らしい賑わいだった。
昔からある八百屋。
魚屋。
新しくできたパン屋。
焼きたての香りが風に乗る。
「寄る?」
美智子が聞く。
「寄る。」
「即答ね。」
「パンの匂いには勝てない。」
「それはお母さんも。」
二人は顔を見合わせて笑った。
パンを選びながら、美智子がふとつぶやく。
「昔はね。」
「一人で来てたの。」
「この商店街?」
「うん。」
「仕事帰りとか、友達と待ち合わせとか。」
希美は母を見る。
その横顔は、いつもの母だった。
でも、少しだけ違って見えた。
家族のために歩く母ではなく、
誰かとの約束に少し急ぎ足になる、一人の女性だった。
________________________________________
買い物を終えると、袋は思ったより重くなっていた。
美智子が持ち上げようとする。
その前に、
希美は自然に袋を受け取った。
「え?」
美智子が目を丸くする。
「持つよ。」
「重いよ?」
「プリン代。」
「まだ働いてたの?」
「契約だから。」
美智子は吹き出した。
「じゃあ雇い続けようかな。」
「昇給してください。」
「考えとく。」
並んで歩く。
荷物は少し重い。
でも、不思議と嫌ではなかった。
昔は、母が持つのが当たり前だった。
今日は違う。
ほんの少しだけ、
母を助けたいと思った。
その気持ちは、考えて決めたものではなかった。
自然に体が動いていた。
________________________________________
少し歩いたところで、
美智子が静かに言った。
「ありがとう。」
その一言が、荷物より重く感じた。
希美は照れくさくなって笑う。
「プリン二個にしてください。」
「欲張り。」
「成長したので。」
「食欲だけね。」
また二人で笑う。
笑い声は、初夏の風に乗って消えていった。
________________________________________
帰り道。
信号待ちをしながら、希美は尋ねた。
「ねえ、お母さん。」
「なに?」
「私が生まれる前のお母さんって、どんな人だった?」
美智子は少しだけ驚いた。
そして信号が青になっても、すぐには歩き出さなかった。
「急にどうしたの?」
「知りたくなったの。」
「お母さんになる前のお母さんを。」
美智子は小さく笑う。
「普通の女の子だったよ。」
「夢もあったし。」
「失敗もしたし。」
「恋もしたし。」
「今みたいに、冷蔵庫の卵の数を心配する人じゃなかった。」
希美は思わず笑う。
「今は毎日心配してる。」
「卵って、気づくとなくなるのよ。」
「人類最大の謎。」
「それは言いすぎ。」
二人はまた笑った。
その笑顔が少し落ち着いた頃、
美智子は空を見上げる。
「やりたいこともあった。」
「諦めたこともあった。」
「選ばなかった道もあった。」
その声は静かだった。
「後悔してる?」
希美はそっと聞く。
美智子は少し考えてから答えた。
「時々ね。」
「もし違う人生だったらって思うことはある。」
「でも。」
優しく笑う。
「その道を選ばなかったから、今の希美に会えた。」
希美は何も言えなかった。
母の人生は、
母になった日から始まったわけではない。
少女だった日も、
夢を追っていた日も、
迷っていた日も、
全部つながって、今ここにいる。
その時間ごと、
母という人なのだ。
家へ帰ると、
希美はノートを開いた。
白いページ。
昨日より少しだけ怖くない。
ペンを持つ。
少し考える。
そして、一行だけ書いた。
「人は役割になるのではない。歩いてきた時間が、その人になる。」
書き終える。
今日は消さなかった。
ページを閉じようとした時、
階下から母の声が聞こえた。
「希美ー!」
「なにー!」
「プリン食べるの忘れてる!」
「今行く!」
希美は思わず笑った。
哲学は逃げない。
でもプリンは、誰かに食べられるかもしれない。
ノートを閉じ、
階段を駆け下りる。
自分という物語は、
案外そんなことで、少しずつ書き進められていくのかもしれなかった。
翌日の夕方。
夕食の支度をする音が台所から聞こえてくる。
包丁がまな板を軽くたたく音。
鍋から立ちのぼる湯気。
テレビでは、司会者が何か面白いことを言ったらしく、観客の笑い声が響いていた。
希美はソファに座り、ノートを開いていた。
昨日書いた一行を読む。
人は役割になるのではない。歩いてきた時間が、その人になる。
書いた時よりも、少しだけ意味が深くなっている気がした。
「希美。」
母が顔をのぞかせる。
「暇?」
「うん。」
「サイドボード上の箱、取ってくれない?」
「了解。」
椅子に乗り、押し入れの奥へ手を伸ばす。
「これ?」
「それそれ。」
思ったより重い。
「何入ってるの?」
「秘密。」
「怪しい。」
「へそくり。」
「本当?」
「うそ。」
「今ちょっと期待した。」
「お母さんも。」
二人で笑う。
箱を開けると、中には古いアルバムが何冊も入っていた。
「わあ……。」
少し色あせた表紙。
角は丸くなり、何度も開かれた跡が残っている。
「懐かしい。」
美智子はそっと一冊を開いた。
そこには、まだ母ではない美智子がいた。
肩まで伸びた髪。
友達と笑っている写真。
海辺ではしゃいでいる写真。
旅行先で変顔をしている写真。
希美は思わず吹き出した。
「お母さん!」
「なに?」
「変顔してる!」
美智子は写真をのぞき込み、
「あーっ!」
と声を上げた。
「これ残ってたの?」
「証拠写真だ。」
「返しなさい。」
「コピー取ってから。」
「やめて。」
「家宝にする。」
「黒歴史だから!」
二人は笑い転げた。
笑いが少し落ち着いた頃、
希美はアルバムをめくる。
ページが進むにつれて、
笑顔の写真だけではなく、
真剣な横顔も増えていく。
何かに夢中になっている姿。
遠くを見つめる姿。
誰かと話し込んでいる姿。
どれも、今まで知らなかった母だった。
「この頃、何してたの?」
希美が尋ねる。
美智子は写真を見つめながら微笑んだ。
「本を読んだり。」
「映画を見たり。」
「友達と旅行したり。」
「将来のことを悩んだり。」
「普通だったよ。」
「普通って忙しいんだね。」
「そうなの。」
「若いって結構忙しい。」
希美は笑った。
確かにそうかもしれない。
何者にもなっていない時間は、
何者にでもなれる時間でもある。
しばらくして、
一枚の写真で母の手が止まった。
表情が少しだけ変わる。
懐かしいような、
少し切ないような、
そんな笑顔だった。
「この写真は?」
希美がそっと聞く。
美智子は写真を見つめたまま、
小さく首を振った。
「まだ。」
「え?」
「その話は……まだかな。」
優しい声だった。
拒絶ではない。
でも、今ではない。
その「まだ」の中に、
長い時間が静かに眠っていることが分かった。
希美は写真から目を離し、
アルバムをそっと閉じた。
「分かった。」
それ以上は聞かなかった。
知りたい気持ちはある。
でも、
知ることと、
急がせることは違う。
人には、
話せる季節があるのだと思った。
その時、
台所から父の声が聞こえた。
「美智子!」
「なに?」
「塩どこ?」
「目の前。」
少し間があく。
「あった。」
祖父が新聞を読みながら小さく笑う。
「誠は昔から探し物だけは名人じゃ。」
「名人なの?」
「見つけられない名人。」
希美と美智子は顔を見合わせ、
同時に吹き出した。
父が台所から顔を出す。
「笑うなよ。」
「塩って白いから見えないんだ。」
「言い訳が毎回違う。」
美智子が笑う。
「進歩はしてる。」
食卓にはまた笑いが広がった。
希美は、その笑いを見つめる。
誰も完璧じゃない。
父は塩を探せない。
母にも話せない思い出がある。
祖父は昔話を少し盛る。
自分はまだ自分が分からない。
だから一緒に笑えるのかもしれない。
夜。
部屋へ戻る。
ノートを開く。
白いページ。
今日は、書こうと思った。
ペンを走らせる。
人は、話してくれたことでできているのではない。
話さなかった時間も、その人をつくっている。
書き終えて、少し眺める。
そして、ゆっくり消しゴムを手に取った。
全部ではない。
最後の一文だけを消す。
まだ、自分には書き切れないと思ったからだ。
ページには途中までの言葉だけが残った。
希美は微笑む。
「続きを聞かせてね。」
誰に聞こえるでもなく、小さくつぶやく。
それは母への約束でもあり、
未来の自分への約束でもあった。
窓の外では、夜風がカーテンを静かに揺らしていた。
物語には、
まだ閉じたままのページがある。
だからこそ、
人は何度でも、大切な人の人生を読み返したくなるのかもしれない。
六月に入った。
雨の季節が始まり、町は少しだけ静かになった。
放課後。
希美は傘を差して図書館へ向かう。
雨粒が歩道を小さく跳ねる。
今日は太一も一緒だった。
「希美。」
「なに?」
「今日は何を考えてる?」
「自分。」
太一は足を止めた。
「……範囲が広すぎる。」
希美は笑う。
「そう?」
「テストなら〇点取れば終わるけど、自分は終わらない。」
「確かに。」
「だから今日は難しい顔ランキング一位。」
「そんなランキングあるの?」
「今作った。」
「お母さんと同じこと言ってる。」
「親子って似るんだね。」
「太一は他人でしょ。」
「残念。」
二人は笑いながら図書館へ入った。
________________________________________
雨宮栞は、いつもの窓際で本を読んでいた。
「こんにちは。」
「こんにちは。」
栞は本を閉じる。
「今日は二人なんですね。」
「はい。」
太一が会釈する。
栞は少し考えてから言った。
「山里さん。」
「はい。」
「静かな図書館では、大声で哲学しないでください。」
太一は目を丸くする。
「僕じゃないですよ。」
「そうでした。」
栞は真顔でうなずく。
「咲原さんでした。」
希美は思わず吹き出した。
「私ですか。」
「たぶん。」
「たぶんなんですね。」
図書館の空気が少しだけ柔らかくなる。
________________________________________
窓の外では雨が静かに降っていた。
希美はノートを開く。
何ページも書いてきた。
でも、今日は違う。
「雨宮さん。」
「はい。」
「私は、どうしてこんなに人を知りたいんでしょう。」
栞はすぐには答えなかった。
本棚へ目を向け、
ゆっくりと言う。
「咲原さんは、答えを探していますか。」
「……たぶん。」
「それとも、人を読んでいますか。」
希美は言葉に詰まった。
答え。
読む。
似ているようで、全然違う。
「私は……。」
少し考える。
「答えが欲しかったんだと思います。」
栞は小さく微笑んだ。
「本は、一冊読めば終わります。」
「でも、人は違います。」
「昨日読んだ人と、今日読む人は、同じ人でも少し違います。」
「だから、人には読了がありません。」
その言葉が胸へ落ちる。
読了がない。
だから焦る必要もない。
________________________________________
帰宅した希美は、自室でノートを開いた。
これまで書いてきた言葉。
「人とは。」
「家族とは。」
「幸せとは。」
「自分とは。」
どの言葉も間違いではない。
でも、
どこか「正解」を決めようとしていた。
希美は静かにページをめくる。
そして、一枚だけ取り外した。
びりっ――
小さな音が部屋に響く。
破ったページには、
以前書きかけた言葉が残っていた。
人間とは──
その続きは白紙だった。
希美はその紙を見つめる。
そして小さく笑った。
「決めなくていいか。」
紙を丸める。
……いや。
思い直して伸ばした。
机の引き出しへ、そっとしまう。
失敗ではない。
今日までの自分だから。
ノートを開く。
新しいページ。
そこへ一行だけ書いた。
「人は、答えではなく、続きを生きている。」
その文字を見た瞬間、
肩の力が少し抜けた。
________________________________________
図書館を出る時、
太一がぽつりと言った。
「希美。」
「なに?」
「今日、一個分かった。」
「何?」
「人って難しい。」
希美は笑う。
「今さら?」
「うん。」
蒼は真面目な顔で続けた。
「でも、カレーは分かる。」
「なんで?」
「食べればおいしい。」
希美は声をあげて笑った。
「それ比較になってない。」
「人生も、とりあえず食べてみないと分からない。」
「意味が分かるような、分からないような。」
「今日の名言。」
「違うと思う。」
笑いながら歩く帰り道。
雨はいつの間にか止んでいた。
雲の切れ間から、小さな夕焼けがのぞいている。
希美は空を見上げる。
答えは見つからなかった。
でも、不思議と焦りもなくなっていた。
自分という物語は、
正解を書く本ではない。
今日という一頁を、
少しずつめくり続ける本なのだから。
六月の終わり。
夕方になっても、空はまだ明るかった。
西日がリビングの床をゆっくりと移動していく。
希美は学校から帰ると、ソファで新聞を読んでいる父・誠を見つけた。
「ただいま。」
「おかえり。」
新聞の向こうから返事が返ってくる。
その時だった。
「おーい。」
父が急に立ち上がり、部屋を見回し始めた。
「ない。」
「何が?」
「眼鏡。」
希美は父の顔を見る。
「……お父さん。」
「うん?」
「掛けてる。」
誠は一瞬止まり、自分の顔に手を当てた。
「あ。」
数秒の沈黙。
「見つかった。」
希美は吹き出した。
「史上最短の捜索だね。」
そこへ台所から美智子が顔を出した。
「また?」
「また。」
「今年何回目?」
「数えてない。」
祖父・宗一郎が新聞から目を上げる。
「眼鏡は誠から逃げるのが趣味らしい。」
「違います。」
誠は真面目な顔で言った。
「私が迎えに行ってるんです。」
「意味が分からない。」
家中に笑いが広がった。
その笑いが落ち着くと、誠は少し照れたように頭をかいた。
「最近疲れてるのかな。」
「お父さん。」
希美が笑う。
「昔からだよ。」
「……否定できない。」
________________________________________
夕食のあと。
誠は押し入れから小さな木箱を持ってきた。
「そうだ。」
「これ、この前探してたんだ。」
「今日は見つかったの?」
希美が聞く。
「今日は一回で。」
「成長したね。」
「眼鏡のおかげかな。」
「関係ある?」
箱を開ける。
中には一本の腕時計。
銀色の縁には細かな傷がいくつも刻まれていた。
「きれい。」
希美は思わずつぶやく。
「初めて自分のお金で買った時計なんだ。」
誠は文字盤を優しくなでる。
「ずっと欲しかった。」
「仕事を始めて一年くらい、お金をためてね。」
希美は時計を見つめる。
長い時間を歩いてきた時計。
その傷一つひとつにも、父の時間が刻まれている気がした。
「大切だったんだね。」
「うん。」
誠は笑う。
「……でも三回なくした。」
希美は思わず顔を上げた。
「え?」
「三回。」
「大切なんだよね?」
「もちろん。」
「じゃあ、なくしちゃ駄目じゃん。」
美智子が笑う。
「全部見つかったのが奇跡なのよ。」
宗一郎が湯飲みを置く。
「誠は昔から運だけはいい。」
「そこ褒めるところ?」
また笑いが起こる。
笑いながらも、誠は時計を見つめ続けていた。
その表情だけは、少し遠くを見ていた。
________________________________________
「お父さん。」
希美は静かに尋ねた。
「後悔したことってある?」
誠は少しだけ黙る。
それから、ふっと笑った。
「急に面接みたいだな。」
「質問一つ目です。」
「緊張します。」
「正直に答えてください。」
「圧が強いな。」
三人が笑う。
その空気が落ち着いてから、誠はゆっくり話し始めた。
「あるよ。」
「たくさんある。」
「もっと違う仕事をしていたら、とか。」
「もっと挑戦していたら、とか。」
「そう思ったことは何度もある。」
希美は黙って聞いていた。
「でもね。」
誠は時計を箱へ戻す。
「人生って、不思議なんだ。」
「選ばなかった道は、なくならない。」
「ときどき夢にも出てくる。」
「でも。」
父は希美を見る。
「選んだ道にも、ちゃんと宝物がある。」
「私は、その宝物に毎日会ってる。」
その視線の先には、
美智子がいて、
宗一郎がいて、
そして希美がいた。
照れくさくなって、希美は視線をそらす。
________________________________________
夜。
部屋へ戻る。
ノートを開く。
今日は迷わなかった。
ペンを持ち、ゆっくり書く。
「人は、選ばなかった人生を忘れて生きるのではない。
選んだ人生を、大切に生きようとする。」
書き終える。
ページを閉じようとした時、
父の言葉が浮かんだ。
「私は、その宝物に毎日会ってる。」
希美はもう一度ペンを持った。
そして、その下に小さく書き足した。
「ありがとう、お父さん。」
照れくさくなって、すぐにノートを閉じる。
誰に見せるわけでもない。
でも、その一言を書いた瞬間、
胸の中の何かが少しだけ軽くなった。
部屋の外から父の声が聞こえる。
「美智子ー。」
「なに?」
「テレビのリモコン知らない?」
少し間があって、
「お父さん。」
希美がドア越しに笑う。
「右手。」
「あ。」
また家中に笑い声が響いた。
希美も声をあげて笑う。
父の背中は大きい。
でも、その背中は、ときどき眼鏡やリモコンを探している。
そんな少し抜けた父だからこそ、
自分は安心して甘えられたのかもしれない。
希美は窓を開ける。
初夏の風が静かに部屋へ流れ込んできた。
完璧な父ではない。
だからこそ、世界でたった一人の父だった。
夏の朝。
まだ空が青くなる前。
家の中は静まり返っていた。
目覚まし時計が鳴る前に、希美は目を覚ます。
「……眠い。」
思わずつぶやいて、自分で笑う。
今日は誰に起こされたわけでもない。
自分から起きた。
顔を洗い、静かに縁側へ向かう。
障子を開けると、朝の冷たい空気が頬をなでた。
縁側には、いつものように祖父・宗一郎が座っている。
東の空を静かに見つめていた。
希美の気配に気づくと、小さく笑う。
「今日は早いな。」
「今日は、来た。」
「日本語がおかしいぞ。」
「眠いから。」
「それなら合格じゃ。」
宗一郎は湯飲みを差し出した。
「飲むか。」
「ありがとう。」
湯気の立つ温かいお茶を両手で包む。
朝の冷えた空気に、その温もりが心地よかった。
しばらく二人は何も話さない。
鳥の声だけが聞こえる。
その静けさが、不思議と落ち着いた。
やがて希美が口を開く。
「おじいちゃん。」
「うん?」
「毎日ここで何を考えてるの?」
宗一郎は少し考えた。
「朝飯のこと。」
希美は思わず吹き出す。
「え?」
「今日は焼き魚かな、と。」
「哲学じゃないの?」
「腹が減ると哲学はできん。」
「お母さんと同じこと言ってる。」
「親子だからな。」
「違う違う。」
二人は笑った。
笑いが静まると、宗一郎は空を見つめたまま続ける。
「もちろん、それだけじゃない。」
「若い頃のことを思い出す日もある。」
「ばあちゃんのことを思い出す日もある。」
「お前たちの小さい頃を思い出す日もある。」
希美は黙って耳を傾ける。
「昔はな。」
「何でも急いでいた。」
「早く一人前になりたい。」
「早く成功したい。」
「早く答えが欲しい。」
「でも。」
宗一郎は朝焼けを見つめる。
「朝日は急がん。」
希美も空を見る。
東の空が少しずつ赤く染まり始めていた。
「毎日ちゃんと来る。」
「誰に褒められなくても。」
「誰に急かされなくても。」
「それを見ていたらな。」
宗一郎は静かに笑う。
「人間も、そんなに急がんでええと思うようになった。」
その言葉は、説教ではなかった。
長い人生を歩いてきた人が、ようやく見つけた答えだった。
風が吹く。
庭の木々が静かに揺れる。
その時、宗一郎が急に立ち上がった。
「あっ。」
「どうしたの?」
「入れ歯。」
「え?」
「部屋へ置いてきた。」
希美は目を丸くしたあと、大笑いした。
「さっき普通にしゃべってたよ?」
宗一郎は首をかしげる。
「……あ。」
胸ポケットから小さなケースを取り出す。
「持っておった。」
「おじいちゃん!」
「年を取ると、探し物は近くにある。」
「お父さんと同じだ。」
「血筋じゃな。」
二人は朝から声をあげて笑った。
笑い声が家の中まで届いたのか、窓が開く。
父が眠そうな顔を出した。
「朝から何笑ってるんだ?」
宗一郎が答える。
「誠。」
「なんだ?」
「お前に似た。」
「そこだけ?」
希美はまた笑った。
父も苦笑いする。
「否定できないな。」
三人の笑い声が、朝の庭へ広がっていく。
やがて太陽がゆっくりと顔を出した。
世界が少しずつ明るくなっていく。
宗一郎は小さくつぶやく。
「夜は、ちゃんと朝になる。」
希美はその言葉を胸にしまった。
未来を見るためだけではない。
歩いてきた時間を、静かに抱きしめるためにも朝は来る。
部屋へ戻ると、希美はノートを開いた。
今日は文章を書かなかった。
代わりに、朝焼けを小さくスケッチした。
少し曲がった水平線。
丸い太陽。
隣に並ぶ二つの湯飲み。
絵はあまり上手ではない。
それでも見返せば、きっと今日を思い出せる。
その絵の横に、一言だけ添えた。
「急がなくても、朝は来る。」
希美はノートを閉じる。
文章では書ききれない思いもある。
だから人は、ときどき絵を描き、笑い、黙って空を見上げるのかもしれない。
朝焼けは今日も静かに世界を照らしていた。
七月。
夏休みを間近に控えた放課後。
教室には、どこか浮き立った空気が流れていた。
「希美。」
山里太一が机に近づいてくる。
「今年の夏休みの目標。」
「急だね。」
「発表してください。」
希美は少し考えた。
「自分を知る。」
太一は真顔でうなずく。
「じゃあ僕は。」
「何?」
「宿題を八月中に終わらせる。」
「普通。」
「去年は九月だった。」
「それ終わってないよ。」
「成長した。」
「基準が低い。」
二人は笑った。
「希美は難しいこと考えるなあ。」
太一が言う。
「僕なんて、今日のお昼がカレーだっただけで幸せだった。」
「幸せって案外そういうものかもね。」
「でしょ?」
「でも、おかわりできなかった。」
「そこ重要?」
「人生を左右する。」
「しないよ。」
教室に笑い声が響く。
その何気ない会話が、希美には心地よかった。
昔なら、「もっと深い話をしなきゃ」と思っていたかもしれない。
今は違う。
こんな時間も、人を知る時間なのだと思える。
________________________________________
放課後。
希美は図書館へ向かった。
窓際では、雨宮栞が本を閉じていた。
「こんにちは。」
「こんにちは。」
「今日は少し楽しそうですね。」
「分かります?」
「はい。」
栞は穏やかに笑う。
「昨日より、少しだけ。」
希美はノートを見つめる。
「雨宮さん。」
「はい。」
「自分って、分かる日が来ると思いますか。」
栞は少し考えた。
それから、本を一冊閉じて言った。
「ありません。」
「え?」
希美は思わず笑う。
「ないんですか。」
「ありません。」
栞も笑った。
「私もまだ分かっていませんから。」
「雨宮さんでも?」
「ええ。」
「昨日の私と今日の私は少し違います。」
「来年の私は、もっと違うでしょう。」
「だから。」
栞はノートへ目を向ける。
「読むことは終わりません。」
「人も、本も同じです。」
その言葉を聞いて、希美は肩の力が抜けた。
分からなくてもいい。
読み続ければいい。
________________________________________
家へ帰る。
机の上には、一冊のノート。
最初は真っ白だった。
今はたくさんの言葉が並んでいる。
家族。
友達。
図書館。
朝焼け。
雨の日。
笑った日。
迷った日。
泣きそうになった日。
その全部が、自分を少しずつ育ててくれた。
希美は最後のページを開く。
そして、ゆっくり書く。
「私は、自分を知るために人を知ろうとしていた。
そして、人を知ろうとして、自分に帰ってきた。」
書き終える。
静かにページを閉じる。
今度は表紙を見つめる。
ずっと白いままだった表紙。
ペンを持つ。
少し迷う。
それから、小さく笑った。
「まだ試作品だもんね。」
その一言とともに、表紙へ文字を書く。
『人類取扱説明書(試作品)』
第二冊 自分という物語
書き終えた瞬間、
部屋の外から父の声が聞こえた。
「希美ー!」
「なにー!」
「テレビのリモコン知らないか?」
希美は思わず笑う。
「今日は左手!」
少し間があって、
「あった!」
父の声が返ってくる。
続けて祖父の笑い声。
「誠は今日も平和じゃ。」
母も笑っている。
「毎日見つかるのがすごいね。」
家中に笑い声が広がる。
希美も笑った。
ノートを胸に抱く。
人類は、
月へ行くことができる。
深海を調べることもできる。
宇宙の果てを想像することもできる。
それなのに、
眼鏡やリモコンは、よく探している。
完璧ではない。
だから笑う。
笑えるから、また前を向ける。
窓を開けると、夏の風が部屋へ吹き込んできた。
白いページは、まだ残っている。
それは「書けなかったページ」ではない。
これから出会う人たちを迎えるページ。
これから迷う自分を許すページ。
そして、未来の自分が今日を読み返すためのページだった。
希美はノートを抱え、窓の外を見上げる。
空はどこまでも青く広がっていた。
物語は終わらない。
人を知る旅も。
自分を知る旅も。
そのどちらも、
今日という一ページをめくりながら、
これからも静かに続いていくのだから。




