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人類取扱説明書3

『人類取扱説明書』作品概要




十八歳の少女・希美は、世界にどこか退屈さを感じながら日々を過ごしていた。ある日、図書館の誰も近づかない本棚で『人類取扱説明書(試作品)』と書かれた一冊の不思議なノートを見つける。その出会いをきっかけに、司書・雨宮栞との交流や、父、母、祖父、友人、子どもたち、図書館を訪れるさまざまな人々との触れ合いを通して、希美は「人とは何か」を少しずつ考え始める。本作は、人類そのものを主人公とした、笑いと涙、そして希望に満ちたヒューマンドラマである。




本作はAIを推敲・構成支援ツールとして活用しながら、テーマ設定、物語設計、内容の選択・修正を作者自身が行いました。

第三章 他人という物語




 春休みが終わり、新しい学期が始まった。


 校門の桜は、今年も満開だった。


 風が吹くたび、淡い花びらが空を舞う。


 希美は立ち止まり、一枚の花びらを手のひらで受け止めた。


「何見てる?」


 後ろから声がした。


 振り返らなくても分かる。


「桜。」


「それは見れば分かる。」


 山里太一だった。


 希美の隣へ並び、同じように桜を見上げる。


 二人とも黙った。


 三十秒。


 一分。


 二分。


 太一が小さくため息をつく。


「……長い。」


「え?」


「返事。」


「あ、ごめん。」


「桜見てた。」


「だから、それは見れば分かる。」


 希美は思わず吹き出した。


 太一は頭をかきながら言う。


「最近、希美の沈黙、長くなったよな。」


「考え事してるから。」


「宿題?」


「違う。」


「昼ご飯?」


「違う。」


「じゃあ宇宙?」


「どうしてそうなるの。」


「希美なら考えてても不思議じゃない。」


 希美は笑いながら首を振った。


「昨日と同じ桜じゃないなって思って。」


「昨日も桜だったぞ。」


「そうなんだけど。」


「同じ木なのに、同じじゃない気がする。」


 太一は真面目な顔で桜を見上げた。


「……。」


「どう?」


「うん。」


「俺には昨日の桜だ。」


 希美はまた笑った。


「太一らしい。」


「安心した。」


「何が?」


「桜まで希美みたいに難しいこと考え始めたのかと思った。」


 二人は声を上げて笑った。


 その笑い声に驚いた雀が、桜の枝から飛び立つ。


 花びらが一枚、希美の頭に落ちた。


「似合ってる。」


「桜?」


「寝癖。」


「そっちか。」


 希美は慌てて髪を押さえた。


「朝ちゃんと直したのに。」


「右側だけ生き残ってる。」


「しぶとい寝癖だ。」


「太一みたい。」


「褒めてないよな?」


 また笑う。


 その笑いが静まると、希美はもう一度桜を見上げた。


 ほんの少し前までなら、


 ただ「きれいだ」と思って終わっていただろう。


 けれど今は違う。


 この桜にも去年の春があり、


 一昨年の春があり、


 誰にも知られない冬を越えて、今年もここに立っている。


 人も同じなのかもしれない。


 目の前に立っている人にも、


 自分の知らない季節がある。


「また難しいこと考えてる。」


 太一が笑う。


「顔に書いてある?」


「うん。」


「『今、哲学してます』って。」


「そんな顔ある?」


「ある。」


「希美限定で。」


 二人は昇降口へ向かって歩き出した。


 途中、新入生らしい少年が校舎を見上げて立ち尽くしていた。


「緊張してるね。」


 希美がつぶやく。


「去年の俺たちも、あんなだったかな。」


「太一は自己紹介で『趣味は昼寝です』って言ってた。」


「本当だから。」


「先生、困ってたよ。」


「今も困らせてる。」


「それは認めるんだ。」


 二人は笑う。


 少年はきっと、自分の未来を想像している。


 期待もあるだろう。


 不安もあるだろう。


 その人生を、自分はまだ何も知らない。


 けれど、それでいい。


 知らないからこそ、出会えるのかもしれない。


 教室には新しい空気が流れていた。


 席替えのざわめき。


 新しい教科書の匂い。


 緊張した自己紹介。


 その一人ひとりにも、自分だけの物語がある。


 昨日までなら、「クラスメイト」としか見えなかった。


 今日は少し違う。


 誰もが、自分だけの春を迎えている。


 放課後。


「今日も図書館?」


 太一が聞く。


「うん。」


「また人類について考えるの?」


「たぶん。」


「答え出たら教えて。」


「まだ一ページ目。」


「じゃあ完成する頃には、おばあちゃんになってるな。」


「太一もね。」


「俺、その頃も寝てるかな。」


「きっと。」


「じゃあ諦める。」


 二人は笑いながら校門で別れた。


 希美は一人、図書館への道を歩く。


 川沿いでは、小さな子どもが蟻の行列をしゃがみ込んで見つめていた。


「何見てるの?」


 母親が聞く。


「社長。」


 子どもは真剣な顔で答えた。


「社長?」


「一番大きい蟻。」


 母親が笑う。


 希美も思わず笑った。


 本当は、その子も分かっていないのかもしれない。


 それでも知りたいと思って見つめている。


 人は、きっとそうやって世界を覚えていく。


 図書館の自動ドアが静かに開く。


 紙の匂い。


 木の机。


 ページをめくる音。


 いつもの静けさが迎えてくれた。


「こんにちは。」


 受付の向こうで雨宮栞が微笑む。


「こんにちは。」


「返却ですね。」


 栞は本を受け取り、そのまま本棚へ向かおうとした。


「あの……。」


 希美が声をかける。


「まだ借りる本があります。」


「あ。」


 栞は立ち止まり、少し照れたように笑った。


「今日は順番を間違えました。」


「雨宮さんでも間違えるんですね。」


「司書は本は間違えません。」


 一拍置いて、肩をすくめる。


「でも、順番はたまに間違えます。」


 二人は笑った。


 その笑いが静かな館内へやさしく溶けていく。


 希美は本棚へ歩き出した。


 まだ知らない人がいる。


 まだ知らない人生がある。


 胸に抱えたノートは、今日も白いページを残している。


 その白さが、少しだけ楽しみになっていた。








 放課後の図書館には、学校とは違う時間が流れていた。


 廊下では運動部へ向かう生徒たちの声が響いている。


 笑い声。


 走る足音。


 先生に呼ばれる声。


 けれど、自動ドアをくぐった瞬間、それらは遠い世界の出来事になる。


 紙の匂い。


 木の机。


 ページをめくる音。


 希美は、この静けさが好きだった。


 受付では、雨宮栞が返却された本を棚へ戻している。


「こんにちは。」


「こんにちは、咲原さん。」


 栞は笑顔で本を受け取った。


「今日は何冊借りますか?」


「まだ決めてません。」


「よかった。」


「え?」


「十五冊かと思いました。」


 希美は首をかしげる。


「十五冊も借りたことありません。」


「昨日、小学生が挑戦していました。」


「こうみえて乙女なので持ちきれません。」




 二人は思わず笑う。


 その時だった。


 入口から、一人の女子生徒が現れた。


 両腕いっぱいに本を抱えている。


「こんにちは。」


 同じ高校に通う先輩の、一ノ瀬ゆいだった。


「今日もたくさんですね。」


 栞が笑う。


「数えてみます?」


「やめてください。」


「毎回負けますから。」


「今日は十一冊です。」


「自己申告ですか。」


「たぶん。」


「たぶん?」


「途中で一冊増えました。」


 栞は吹き出した。


「増えるものなんですか?」


「図書館では、よくあります。」


 希美も笑う。


 ゆいは真面目な顔で言う。


「本棚の前を歩いていると、『連れて帰ってください。』って言われる気がするんです。」


「本が?」


「はい。」


「幻聴では?」


「愛情です。」


 希美は笑いをこらえきれなかった。


 栞も肩を震わせている。


 ゆいは平然としていた。


 本気なのだ。


 だから余計に面白い。


 貸し出しが始まる。


 バーコードを一冊ずつ読み取る。


 ピッ。


 ピッ。


 ピッ。


「全部文学ですね。」


 栞が言う。


「今日は哲学が少ないですね。」


「昨日ちょっと考えすぎました。」


「哲学にも食べ過ぎがあるんですね。」


「あります。」


「夜眠れなくなります。」


 三人が笑った。


 希美は尋ねる。


「一ノ瀬先輩。」


「はい。」


「どうしてそんなに本を読むんですか?」


 ゆいは少し考えた。


「人に会うため。」


「図書館で?」


「本の中で。」


 希美は黙って続きを待った。


「現実では、一人の人の人生を最初から最後まで聞くことなんて、ほとんどありません。」


「でも本なら。」


「何百ページもかけて、一人の人生を話してくれるでしょう。」


 その言葉に、希美は父を思い出した。


 母を思い出した。


 祖父を思い出した。


 近くにいたのに、知らなかった時間。


 ゆいは最後の一冊を受け取る。


 そのまま返却棚へ歩いていく。


「一ノ瀬さん。」


 栞が声をかけた。


「それ、借りる本です。」


「あ。」


 ゆいは立ち止まる。


「またやりました。」


「三回目です。」


「成長しません。」


「本は覚えるのに。」


「自分が覚えられません。」


 三人は大笑いした。


 笑いが静まったあと、ゆいは少し照れくさそうに笑う。


「本は何百冊読んでも。」


「自分のことは、一番読めませんね。」


 その一言で、館内は静かになった。


 誰もすぐには言葉を返せなかった。


 栞が小さくうなずく。


「だから人は、本を読むのかもしれません。」


 希美は、本棚へ目を向けた。


 一冊一冊に、誰かの人生がある。


 そして今、自分の目の前にも、一人の人生が立っている。


 人は、本を借りる。


 でも本当は、


 その本を借りる「人」に出会っているのかもしれない。


 帰り際。


 ゆいは手を振った。


「また来週。」


「はい。」


 希美も笑って手を振る。


 図書館の自動ドアが開く。


 夕暮れの光が床に長く伸びた。


 希美はノートを開く。


 今日は迷わず、一行だけ書いた。


人は、本を選ぶ。


でも、ときどき本も人を選んでいる。


 インクがゆっくりと紙に染み込んでいく。


 その文字を見ながら、希美は小さく笑った。


 ノートの白いページは、昨日より少しだけ少なくなっていた。








 翌週の水曜日。


 放課後の図書館は、いつもより静かだった。


 窓から差し込む春の日差しが、本棚をやわらかく照らしている。


 希美は文学の棚を歩きながら、一冊の小説へ手を伸ばした。


 同じ瞬間。


 もう一つの手が、その本へ伸びる。


「あっ。」


「ごめんなさい。」


 二人は同時に手を引っ込めた。


 顔を見合わせる。


「一ノ瀬先輩。」


「また会いましたね。」


 ゆいは笑った。


「この本、人気ですね。」


「私も今そう思いました。」


 二人は顔を見合わせ、吹き出した。


「譲ります。」


 希美が言う。


「じゃあ。」


 ゆいは一冊を受け取る。


 ……が、そのまま棚へ戻した。


「え?」


 希美が首をかしげる。


「どうしたんですか。」


「満足しました。」


「まだ読んでませんよ?」


「今日もここにあるって確認できたので。」


「それで安心しました。」


「猫ですか。」


「たまに。」


 二人は笑う。


 その様子を見ていた栞が近づいてくる。


「一ノ瀬さん。」


「はい。」


「その本。」


「先週も確認していましたよ。」


「え。」


「借りずに帰りました。」


「覚えられてましたか。」


「司書ですから。」


 ゆいは照れ笑いを浮かべる。


「好きな本って。」


「そこにあるだけで安心することがあるんです。」


 希美は、その言葉を初めて聞いた。


 本は読むもの。


 そう思っていた。


 でも、そうではない人もいる。


 本棚にあるだけで安心する本。


 帰る場所のような一冊。


 そんな本もあるのだ。


 三人は窓際の席へ座った。


 栞が尋ねる。


「咲原さんは、本を読むとき、何を探していますか。」


 希美は少し考えた。


「最近は……。」


「人、です。」


「人?」


 ゆいが聞き返す。


「家族のことも。」


「友達のことも。」


「前より分からなくなったんです。」


「分からなく?」


「知ってると思ってたから。」


 ゆいは静かにうなずく。


「それ、分かります。」


「知れば知るほど、知らないことが増えますよね。」


 栞が微笑む。


「図書館も同じです。」


「全部の本を知っているように思われます。」


「でも。」


「毎日知らない本に出会います。」


 希美が驚く。


「雨宮さんでも?」


「ええ。」


「昨日まで知らなかった本に出会う日は、少しうれしいんです。」


 ゆいが笑う。


「人も同じですね。」


「全部分かったら、退屈です。」


 希美は思わず笑った。


「人って、本当に飽きませんね。」


「はい。」


「昨日まで静かだった人が、急に面白かったり。」


「いつも元気な人が、急に寂しそうだったり。」


「だから、人も読み返したくなります。」


 その言葉に、希美は心を動かされた。


 読み返したくなる人。


 そんな表現を初めて聞いた。


 しばらく三人で黙って本を読んだ。


 ページをめくる音だけが響く。


 その静けさは、不思議と心地よかった。


 やがて、ゆいが本を閉じる。


「この本。」


「どうでした?」


 希美が尋ねる。


「まだ半分です。」


「え?」


「半分しか読んでないですよ。」


 ゆいは首を振る。


「本じゃなくて。」


「私です。」


 希美は目を丸くした。


「読む私が、まだ半分なんです。」


「十年後なら。」


「違う本になります。」


 希美は笑った。


「それじゃ、一生読み終わりませんね。」


「だから面白いんです。」


 栞もうなずく。


「人も本も、完成しないから愛おしい。」


 三人は顔を見合わせて笑った。


 閉館を知らせる音楽が静かに流れ始める。


 窓の外では、夕日が町をオレンジ色に染めていた。


 帰り道。


 希美はノートを開く。


 今日は迷わなかった。


 白いページへ、一行だけ書く。


人を知ることは、答えを見つけることではない。


また会いたいと思うことなのかもしれない。


 インクがゆっくり乾いていく。


 ページは少しずつ埋まる。


 それでも、まだ白いページの方が多かった。


 希美は、その白さを見つめて微笑んだ。


 知らない人は、まだたくさんいる。


 知らない物語も、まだたくさんある。


 そのことが、少しだけ楽しみだった。








 放課後。


 図書館には、雨上がりのやわらかな光が差し込んでいた。


 窓際では、小さな子どもが絵本を読んでいる。


 新聞コーナーでは、老人が静かに紙面をめくる。


 受験生らしい高校生は参考書とにらめっこをしていた。


 みんな同じ図書館にいる。


 でも、それぞれ違う一日を生きている。


 希美は文学の棚を歩いていた。


 一冊の古い小説を抜き取る。


 ページを開いた瞬間。


 ひらり、と一枚の紙が床へ落ちた。


「あ。」


 拾い上げる。


 それは昔の貸出カードだった。


 今では電子管理になり、ほとんど見かけなくなったものだ。


 カードには、何十人もの名前と日付が並んでいる。


 知らない人。


 知らない名前。


 けれど確かに、この本を開いた人たちだった。


「見つけましたね。」


 雨宮栞が歩いてくる。


「昔の貸出カードです。」


「まだ残ってたんですね。」


 希美は名前を指でなぞる。


「この人たち、どんな人だったんでしょう。」


「私も考えます。」


 栞は静かに笑った。


「貸出カードには名前しか残りません。」


「でも、本当は。」


「その日、その人がどんな気持ちだったのかまでは残りません。」


 希美はうなずく。


 うれしかった日かもしれない。


 泣いた日だったかもしれない。


 誰かに会いたくて、本を借りた日かもしれない。


 カードには書かれていない。


 そのときだった。


「また見つけたんですか?」


 一ノ瀬ゆいがやって来た。


「貸出カード、大好きなんです。」


「読むんですか?」


「はい。」


「全部。」


「全部?」


「名前だけ。」


 希美は笑った。


「面白いんですか?」


「面白いですよ。」


 ゆいは真顔だった。


「たぶん。」


「『田中さん』は二週間で返してる。」


「『佐藤さん』は一日で返してる。」


「『山本さん』は延長してる。」


「……。」


「勝手に想像してしまうんです。」


「山本さん忙しかったのかな、とか。」


 希美は吹き出した。


「怒られますよ。」


「本人に聞かれたら。」


「だから想像だけです。」


 三人で笑う。


 その笑い声を聞いて、小さな男の子がこちらを見る。


 希美は笑い返した。


 男の子も笑った。


 名前も知らない。


 きっと、もう会わない。


 それでも、一瞬だけ笑い合えた。


 その瞬間も、一つの物語なのだと思った。


 ゆいは貸出カードを見つめながら言う。


「私、思うんです。」


「人って。」


「誰かの記憶には、名前だけ残ることもあるんですよね。」


 希美は静かに聞いていた。


「高校のとき、隣の席だった人。」


「図書館でよく会った人。」


「よく本を借りていた司書さん。」


「全部思い出せるわけじゃない。」


「でも。」


「名前だけ残ってる人っていますよね。」


 希美は、父を思い出した。


 仕事で出会った人。


 母の友達。


 祖父の恩師。


 自分が知らない誰かの人生で、


 父も母も祖父も、きっと脇役だった。


 そして自分もまた、


 誰かの人生の一場面にいるのかもしれない。


「咲原さん。」


 栞が言った。


「はい。」


「人は、自分の人生だけを生きているようで。」


「実は、たくさんの人の人生へ少しずつ登場しています。」


 その言葉に、希美ははっとした。


 図書館で見かける人。


 毎朝すれ違う人。


 レジで「ありがとうございます」と言ってくれる店員。


 自分は、その人たちの人生にも、一瞬だけ現れている。


 それは、とても不思議なことだった。


 帰り際。


 貸出カードを本へ戻す。


 ページを閉じる。


 名前は紙の中へ消えた。


 でも、その人たちが読んだ時間は消えない。


 図書館を出る。


 夕暮れの風が桜の葉を揺らしていた。


 希美はノートを開く。


 今日のページに、一行だけ書く。


人は、自分の物語だけを生きているわけじゃない。


知らない誰かの物語にも、少しだけ登場している。


 書き終えると、小さく笑った。


 今日、自分も誰かの貸出カードになっていたのかもしれない。


 そんなことを思いながら、希美はゆっくりと家路についた。








 朝から雨が降っていた。


 春の雨は激しくない。


 町全体を薄い水彩絵の具で包んだような、やさしい雨だった。


 放課後。


 希美は傘を差しながら図書館へ向かう。


 入口で傘を閉じると、雫が床へぽたりと落ちた。


「こんにちは。」


「こんにちは。」


 受付には雨宮栞がいた。


 今日は利用者が少ない。


 窓際の閲覧席には誰もいなかった。


「今日は静かですね。」


「雨の日は、本を読む人と、お昼寝する人に分かれるんです。」


「図書館で寝る人っているんですか。」


「います。」


 栞は小さく笑う。


「昨日も新聞を顔に載せて眠っている方がいました。」


「起こしたんですか。」


「いえ。」


「新聞だけ返却しました。」


 希美は思わず吹き出した。


「新聞だけ?」


「顔は貸出できませんから。」


 二人は笑った。


 窓際へ並んで座る。


 窓ガラスを雨粒がゆっくり流れていく。


 しばらく誰も話さない。


 けれど、その沈黙は心地よかった。


「私、雨の日って好きなんです。」


 栞がぽつりと言う。


「どうしてですか。」


「みんな少しだけ歩くのが遅くなるでしょう。」


「だから、人の顔を見る時間が増える気がするんです。」


 希美は窓の外を見る。


 親子が一本の傘を分け合って歩いている。


 会社帰りらしい男性は、小走りで駅へ向かう。


 制服姿の女子生徒が、水たまりを避けながら笑っている。


 どの人にも帰る場所がある。


 待っている人がいるのかもしれない。


「雨宮さん。」


「はい。」


「雨宮さんにも、図書館へ来るようになったきっかけがあったんですか。」


 栞は少し驚いたように希美を見た。


 そして、静かに笑う。


「ありました。」


「本が好きだったからですか。」


「それもあります。」


「でも、一番は……。」


 少し考えてから続けた。


「人の話を最後まで聞いてくれる場所だったから。」


 希美は言葉を返せなかった。


 栞は雨を見つめたまま話す。


「子どもの頃、本を読むのが遅かったんです。」


「一冊読むのに、みんなの二倍くらい時間がかかって。」


「そうなんですか。」


「はい。」


「だから学校の図書室では、よく置いていかれました。」


「焦りませんでした?」


「焦りました。」


 栞は笑う。


「でも、本だけは急かさなかったんです。」


「ページは逃げませんから。」


 その一言が、希美の胸に残る。


 人は急ぐ。


 時間も急ぐ。


 でも本は急がない。


 だから、この人は図書館を好きになったのかもしれない。


 そのとき、一ノ瀬ゆいが濡れた傘を持って入ってきた。


「こんにちは。」


「こんにちは。」


 髪から一滴、雨粒が落ちる。


「今日は五冊です。」


 栞が言う。


「宣言ですか。」


「自己申告です。」


「途中で増える予定は?」


「今日は我慢します。」


 ゆいは真顔で答える。


 三十分後。


「……六冊ですね。」


 栞が言った。


 ゆいは本を見つめる。


「一冊だけ増えました。」


「増えるんですね。」


「雨の日は、本も寂しいと思って。」


「それは本が言いましたか。」


「気配です。」


 三人は笑った。


 笑い声は雨音に溶けていく。


 窓の外では、雨が少し弱くなっていた。


「咲原さん。」


 栞が静かに言う。


「はい。」


「人は、一度話しただけでは分かりません。」


「何度も会って。」


「何度も笑って。」


「ときどき沈黙もあって。」


「それで、少しずつページがめくれるんです。」


 希美はうなずく。


 本を読むようには、人は読めない。


 だから、面白い。


 だから、会いたくなる。


 閉館を知らせる音楽が流れ始めた。


 三人は立ち上がる。


 玄関を出ると、雨は上がっていた。


 西の空には、小さな虹がかかっている。


「虹ですね。」


 希美が言う。


「はい。」


 栞は空を見上げた。


「でも。」


「虹って、見つけた人の数だけある気がするんです。」


「どうしてですか。」


「見上げなかった人には、見えませんから。」


 希美は空を見つめる。


 人も同じなのかもしれない。


 知ろうとしなければ、見えない。


 耳を傾けなければ、物語は始まらない。


 鞄からノートを取り出す。


 今日のページに、一行だけ書いた。


人は、本のようには読めない。


だから、一生かけて読む価値がある。


 インクがゆっくりと乾いていく。


 雨上がりの風が、そのページをやさしく揺らした。








 春の夕暮れだった。


 図書館を出ると、西日が町を黄金色に染めていた。


 希美はノートを鞄へしまい、川沿いの道を歩く。


 今日は不思議なくらい静かだった。


 本も読んだ。


 栞さんとも話した。


 一ノ瀬先輩とも笑った。


 それでも、心のどこかに白いページが残っている気がした。


 信号で足を止める。


 向こう側には、小さな女の子が立っていた。


 赤いランドセル。


 大きな帽子。


 何度も横断歩道を見つめている。


 青になった。


 周りの大人たちは歩き始める。


 でも女の子だけが動けない。


 希美は少しだけ歩幅を合わせた。


「一緒に行こうか。」


 女の子は小さくうなずく。


 二人で横断歩道を渡る。


 それだけだった。


 向こう側へ着くと、女の子は深く頭を下げた。


「ありがとうございました。」


「どういたしまして。」


 女の子は走って行った。


 名前は知らない。


 どこの学校かも知らない。


 もう二度と会わないかもしれない。


 それでも、少しだけ心があたたかかった。


 そのときだった。


「あっ。」


 後ろで声がした。


 振り返ると、一人の青年が自転車を止めている。


 荷台から一冊の本が落ちていた。


 希美は拾い上げる。


「落ちましたよ。」


「あ、本当だ。」


 青年は笑って受け取る。


「助かりました。」


「いえ。」


 その本の表紙には、小さく図書館のバーコードが貼られていた。


「返却日、今日なんです。」


「危なかった。」


「落としたまま帰ったら、延滞ですね。」


「本にも帰る家がありますから。」


 青年は笑った。


「その言い方、いいですね。」


 軽く会釈をして、自転車で去っていく。


 希美は、その後ろ姿を見送った。


 今日、初めて会った人。


 もう名前も思い出せない人。


 それでも、二つの「ありがとう」を交わした。


 たったそれだけで、一日は少し違うものになる。


 駅前まで歩く。


 ベンチには、年配の女性が一人座っていた。


 買い物袋を抱え、夕焼けを眺めている。


 希美も少し離れた場所へ腰を下ろした。


 言葉は交わさない。


 風だけが吹く。


 数分後。


 女性は立ち上がり、小さく微笑んだ。


「きれいな夕焼けですね。」


「はい。」


 それだけだった。


 女性は歩き去る。


 希美は夕焼けを見上げる。


 知らない人。


 知らない人生。


 知らない今日。


 でも、夕焼けをきれいだと思う気持ちは、少しだけ重なった。


 人は、全部を知らなくてもいいのかもしれない。


 全部を理解できなくてもいいのかもしれない。


 たった一つ、


 同じ景色を見て笑えるだけで、


 人は少し近づける。


 家へ帰る途中、希美はノートを開いた。


 今日のページへ、静かに書く。


知らない人は、


知らないまま終わる人ではない。


ほんの一瞬だけ、


人生が交わった人なのかもしれない。


 ペンを閉じる。


 白いページは、もうほとんど残っていなかった。


 図書館で出会った人たち。


 家族。


 友達。


 名前も知らない人。


 その誰もが、自分の人生を少しだけ変えていた。


 夕焼けはゆっくりと群青色へ変わる。


 希美は空を見上げ、小さく笑った。


 世界には、まだ出会っていない物語が無数にある。


 だから明日も、図書館へ行こう。


 そう思えた。








 土曜日の午後。


 図書館には、平日とは少し違う空気が流れていた。


 親子で絵本を選ぶ人。


 受験勉強をする高校生。


 新聞を読む老人。


 お気に入りの席で眠ってしまった会社員。


 雨宮栞は、その会社員にそっと近づく。


 机に置かれた文庫本へ栞を挟み、小さな声で言った。


「本はここで待っていますから。」


 男性は目を覚まし、恥ずかしそうに頭を下げた。


「すみません。」


「大丈夫ですよ。」


「夢の続きは、ご自宅でお願いします。」


 男性は照れ笑いを浮かべ、図書館を後にする。


 その様子を見ていた希美は思わず笑った。


「怒らないんですね。」


「本も、人も、少し休みたい日がありますから。」


 栞は穏やかに答えた。


 希美は窓際の席へ向かう。


 鞄から、一冊のノートを取り出した。


 表紙には、小さな文字で書かれている。


『人類取扱説明書(試作品)』


 ページをめくる。


 一ページごとに、その日の景色がよみがえった。


 希美は少し笑う。


「字、下手。」


 独り言だった。


「最初のページほど。」


 いつの間にか隣へ来ていた栞が覗き込む。


「見ないでください。」


 希美は慌ててノートを閉じる。


「すみません。」


「でも安心しました。」


「安心?」


「最初から上手なノートは、少し怖いです。」


 二人は笑う。


 しばらくして、一ノ瀬ゆいもやって来た。


「こんにちは。」


「こんにちは。」


 しおりはいつものように本を抱えている。


 ……七冊。


「今日は少ないですね。」


 栞が言う。


「今日は我慢しました。」


「昨日は?」


「十二冊でした。」


「我慢できてませんね。」


 三人は笑った。


 その笑い声が静かな館内へ広がる。


 希美はノートを見つめた。


 ページはすべて埋まっている。


 ほんの数週間前までは、何を書けばいいのか分からなかった。


 今は違う。


 答えを書いたわけではない。


 疑問を書き続けただけだった。


 それでも、白かったページは確かに自分の言葉で満たされている。


「雨宮さん。」


「はい。」


「私。」


「少しだけ、人を見るのが好きになりました。」


 栞はうれしそうに微笑んだ。


「何か分かりましたか。」


 希美は首を横に振る。


「前より分からなくなりました。」


 その答えを聞いて、栞は静かに笑った。


「それなら大丈夫です。」


「え?」


「人は、分かったと思った瞬間に見るのをやめます。」


「分からないと思える人は、見続けられます。」


 希美は、その言葉を胸の中で何度も繰り返した。


 分からない。


 だから知りたい。


 知りたい。


 だから会いたい。


 その積み重ねが、人と生きるということなのかもしれない。


 栞はノートへ目を向ける。


「最後のページですね。」


「はい。」


「何を書きますか。」


 希美はペンを握る。


 少し考えた。


 そして、ゆっくりと書き始める。


人類取扱説明書(試作品)


第一冊 完


 その下へ、もう一行だけ書き足した。


人は、理解する存在ではない。


理解しようとし続ける存在である。


 インクがゆっくり乾いていく。


 栞はその文字を見て、小さくうなずいた。


「完成ですね。」


 希美は首を振った。


「いいえ。」


「やっと、一冊目です。」


 栞は微笑む。


「図書館も同じですよ。」


「毎日、本が増えます。」


「だから完成しません。」


「でも、それでいいんです。」


 閉館を知らせる優しい音楽が流れ始める。


 利用者たちは名残惜しそうに本を閉じ、それぞれの帰路につく。


 希美もノートを胸に抱え、立ち上がった。


 図書館の扉を開ける。


 夕暮れの空には、一番星が小さく輝いていた。


 振り返ると、栞が受付から軽く手を振る。


「また来週。」


「はい。」


 希美も笑顔で手を振り返した。


 帰り道、ノートは少しだけ重かった。


 紙の重さではない。


 出会った人たちの言葉。


 笑い声。


 沈黙。


 景色。


 そのすべてが、一冊の中に静かに息づいていた。


 希美は空を見上げる。


 世界には、まだ知らない人がいる。


 まだ読んでいない物語がある。


 だから、この本は終わらない。


 終わらないから、人類は面白い。


 そう思いながら、希美はゆっくりと歩き続けた。

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