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人類取扱説明書2

『人類取扱説明書』作品概要




十八歳の少女・希美は、世界にどこか退屈さを感じながら日々を過ごしていた。ある日、図書館の誰も近づかない本棚で『人類取扱説明書(試作品)』と書かれた一冊の不思議なノートを見つける。その出会いをきっかけに、司書・雨宮栞との交流や、父、母、祖父、友人、子どもたち、図書館を訪れるさまざまな人々との触れ合いを通して、希美は「人とは何か」を少しずつ考え始める。本作は、人類そのものを主人公とした、笑いと涙、そして希望に満ちたヒューマンドラマである。




本作はAIを推敲・構成支援ツールとして活用しながら、テーマ設定、物語設計、内容の選択・修正を作者自身が行いました。

第二章 家族という物語




 目覚ましが鳴る三分前。


 誠は静かに目を開けた。


 天井を見つめたまま、小さく息をつく。


 もう何年も、目覚ましに起こされたことがない。


 眠りが浅くなったのか。


 それとも、家族より先に起きることが体に染みついたのか。


 考えたことはなかった。


 隣では、美智子が穏やかな寝息を立てている。


 起こさないように布団を抜け出し、襖を静かに閉めた。


 廊下はまだ薄暗い。


 床板が鳴らない場所を、足が覚えていた。


 洗面所で蛇口をひねる。


 冷たい水が手のひらを流れ、頬を打つ。


 鏡を見上げる。


「……似てきたな。」


 思わず笑う。


 父に。


 若い頃は、その一言が嫌だった。


 頑固で、口数が少なくて、何を考えているのか分からない人。


 あんな大人にはならない。


 そう思っていた。


 鏡の中の自分は、今日も少しだけ父に似ていた。




 台所では、味噌汁の湯気が静かに立ちのぼっていた。


「おはよう。」


「おはよう。」


 美智子は鍋の蓋を少しずらし、味を確かめる。


 誠は炊きたてのご飯の匂いを吸い込んだ。


 毎日同じ朝。


 それなのに、不思議と同じ匂いの日はない。


「今日は早いの?」


「ああ。会議。」


「そう。」


 それだけだった。


 それだけで十分だった。


 長く一緒に暮らしていると、言葉は少なくなる。


 その代わり、沈黙がよく働く。




 食卓に着く。


 味噌汁をひと口飲む。


 熱い。


 少しだけ舌をやけどした。


「熱かった?」


 美智子が笑う。


「……少し。」


「急ぐからよ。」


 誠も笑った。


 新聞を開く。


 政治。


 経済。


 地域欄。


 いつもの順番で目を追う。


 それなのに、何も頭へ入らない。


 昨夜のことを思い出していた。




 希美の部屋の前。


 ドアの下から灯りが漏れていた。


 何を書いているのだろう。


 少しだけ気になった。


 ノックしようと思った。


 手は上がった。


 そのまま止まった。


 結局、何も言えなかった。


 あの子にも考えたい夜がある。


 そう思った。


 それだけだった。




「あなた。」


 新聞の向こうから声がした。


「どうした?」


「さっきから。」


 美智子が湯飲みを置く。


「同じページよ。」


 誠は新聞を見る。


 本当だった。


 地域欄を、五分近く眺めていたらしい。


「疲れてる?」


「……かな。」


 珍しく素直に答えた。


 美智子は何も言わず、お茶を注ぐ。


 湯気が立つ。


 その湯気を見ながら、誠は湯飲みを受け取った。


「ありがとう。」


「どういたしまして。」


 それ以上の言葉はいらなかった。




「おはよう。」


 廊下から声がする。


 制服姿の希美だった。


 少し寝癖が残っている。


「おはよう。」


 誠は新聞を畳む。


「眠そうだな。」


「眠いもん。」


「夜更かしか?」


「秘密。」


 そう言って笑う。


 子どものような笑い方だった。


 もう高校生なのに。


 まだ高校生でもある。


 その曖昧な時間が、少しまぶしかった。




 朝食が終わる。


 ネクタイを締める。


 玄関で靴を履く。


 振り返る。


 美智子がいる。


 宗一郎が新聞を読んでいる。


 希美が慌てて食パンを口へ押し込んでいる。


「急げ。」


「分かってる!」


 口いっぱいのまま返事をする。


 思わず笑った。


 こういう朝は、案外好きだった。




「行ってきます。」


「いってらっしゃい。」


 三人の声が重なる。


 誠は玄関の扉を開ける。


 朝の空気は少しひんやりしていた。


 深く息を吸う。


 空を見上げる。


 青かった。


 何も特別な朝ではない。


 会議があって、仕事をして、夕方になれば帰ってくる。


 そんな一日だ。


 それでも誠は思う。


 帰る場所があるというだけで、人は少し強くなれる。


 胸ポケットに手を当てる。


 ネクタイが少し曲がっていた。


 苦笑して結び直し、歩き出す。


 家の中では、食器の触れ合う音が小さく響いていた。








 会社へ向かう坂道の途中に、大きな桜の木がある。


 毎年、この季節になると花が咲く。


 そして毎年、誠は少しだけ足を止める。


「今年も咲いたか。」


 誰に聞かせるでもなくつぶやく。


 風が吹く。


 花びらが一枚、肩へ落ちた。


 指先で払う。


 その白い花びらを見るたびに、思い出す春があった。


 高校二年。


 新しい教室。


 新しい席。


 窓の外では桜が揺れていた。


「今日から三週間、国語を担当します。」


 教育実習生だった。


 少し緊張した笑顔。


 黒板へ名前を書く白い指。


 誠は何となく、その人を見ていた。


「この小説、主人公はどう思ったと思いますか。」


 教室は静かだった。


 誰も手を挙げない。


「正解はありません。」


 実習生は笑う。


「みんな違っていいんです。」


 誠は眉をひそめた。


 違っていい。


 そんな授業は初めてだった。


 放課後。


 職員室の前で立ち止まる。


 入るか。


 帰るか。


 三度迷ってから、ノックした。


「失礼します。」


 実習生が顔を上げる。


「あら。」


「どうしました?」


 誠は耳まで赤くなる。


「あの……。」


 何を聞こうとしたのか忘れた。


 実習生が笑う。


「国語?」


「はい。」


「それとも人生?」


 誠も思わず笑った。


「たぶん、両方です。」


「今日の授業で。」


 誠は言う。


「正解はないって言ってました。」


「はい。」


「でも試験には正解があります。」


 実習生は少しだけ考えた。


 窓の外を見る。


 桜が風に揺れている。


「試験は答えを書く場所です。」


 誠は黙って聞く。


「でも人生は。」


 少し笑った。


「答えを探す場所なの。」


 その言葉だけが残った。


 三週間後。


「ありがとうございました。」


 拍手。


 実習生は教室を出ていく。


 一度だけ振り返り、笑った。


 誠も小さく頭を下げた。


 名前は、少しずつ忘れていった。


 声も。


 顔も。


 けれど。


 春になるたび、あの言葉だけは思い出した。


 


社会人になった。


 昼休み。


 小さな定食屋。


「こんにちは。」


「こんにちは。」


 最初は、それだけだった。


 何日も続いた。


 ある雨の日。


 店を出る。


「……しまった。」


 傘がない。


 空を見上げる。


 ため息をついた、そのとき。


「よかったら。」


 後ろから声がした。


 美智子だった。


「一緒に。」


 一本の傘。


 二人で歩く。


 肩が少しだけ触れる。


 雨の音だけが話していた。


「雨、嫌いですか。」


 美智子が聞く。


「嫌いではないです。」


「私は好き。」


「どうして?」


「静かになるでしょう。」


 少し考える。


「あと。」


 笑った。


「みんな少し優しくなる気がする。」


 誠は雨を見る。


 さっきまで濡れるだけの雨だった。


 少しだけ違って見えた。


 高校二年の春。


 あの言葉がよみがえる。


 ――人生は、答えを探す場所。


 同じ雨でも。


 誰と歩くかで景色は変わる。




 数年後。


 夜の公園。


 ベンチ。


 春風。


 桜が一枚、二人の間へ落ちる。


「美智子さん。」


「はい。」


 深く息を吸う。


 何度も練習した言葉だった。


「僕と。」


 一度止まる。


 美智子は黙って待つ。


「家族になってください。」


 風が吹いた。


 桜が舞う。


「はい。」


 その一言で十分だった。


 誠は今も、春になると桜を見上げる。


 教育実習生の言葉。


 雨の日。


 夜の公園。


 人生を変えた春は、どれも花びらの色をしていた。


 会社の前まで来る。


 肩についていた花びらを払う。


 空を見上げ、小さく笑う。


「行くか。」


 自動ドアが開く。


 今日もまた、新しい一日が始まる。








土曜日の午後だった。


居間ではテレビが天気予報を流している。


窓の外では風が庭木を揺らし、レースのカーテンがゆっくりとふくらんでは戻っていた。


誠は新聞を広げていた。


ページは開いている。


けれど、記事は読んでいない。


仕事のことを考えていた。


来週の会議。


取引先との打ち合わせ。


頭の中では、月曜日がもう始まっていた。


「お父さん。」


小さな声だった。


新聞の向こうから顔を上げる。


希美が立っていた。


小学三年生。


少し緊張した顔。


スカートの裾を、小さな両手で握りしめている。


「どうした。」


希美は一度だけ父を見る。


それから息を吸った。


「あのね。」


「うん。」


「私……。」


言葉が止まる。


何か大切なものを胸の中から取り出そうとしているようだった。


「ピアノ、習いたい。」


静かな部屋に、その一言だけが落ちた。


テレビでは明日の天気を伝えている。


誰も、その声を聞いていなかった。


「学校でね。」


希美の顔が少し明るくなる。


「友達が弾いてくれたの。」


両手を胸の前で動かしながら話す。


「すごくきれいだった。」


「鍵盤をこうやって。」


空中で指を動かす。


まだ弾けない手。


それでも、音楽を思い出している手だった。


「私も弾けるようになりたい。」


誠は娘を見つめる。


その目は、まっすぐだった。


好きなものを見つけた子どもの目だった。


その光を見てしまったからこそ、胸が苦しくなる。


新聞を静かに畳む。


少しだけ時間をつくるように。


「そうか。」


希美はうれしそうに頷く。


「うん!」


その返事だけで、父には分かった。


この子は、本気なのだ。


誠は視線を落とした。


畳の木目が目に入る。


住宅ローン。


車の買い替え。


宗一郎の通院。


毎月の支払い。


頭の中に数字が並ぶ。


どれも、消せない数字だった。


「お父さん?」


希美が首をかしげる。


誠は顔を上げる。


笑おうとした。


うまく笑えなかった。


「希美。」


「うん。」


「今は……。」


言葉が続かない。


喉の奥で止まる。


「勉強を頑張ろう。」


希美は瞬きをした。


意味が分からないという顔だった。


「でも。」


小さく言う。


「ピアノも頑張る。」


誠は頷けなかった。


「勉強は、今しかできない。」


静かな声だった。


「ピアノは、大人になってからでも始められる。」


希美は何も言わない。


父の顔だけを見ている。


その目から、少しずつ光が消えていく。


誠は、その変化を見ていた。


見てしまった。


それでも言葉を変えることはできなかった。


長い沈黙が流れる。


テレビではキャスターが笑っている。


別の世界の出来事のようだった。


希美はゆっくり頷いた。


「……分かった。」


その声は、小さかった。


泣いてはいない。


怒ってもいない。


ただ、少しだけ元気がなくなっていた。


くるりと背を向ける。


廊下を歩く。


階段を上る。


一段。


また一段。


その足音は、いつもより静かだった。


二階でドアが閉まる音がした。


家の中は、急に広くなった気がした。


誠は新聞を見つめる。


開いたままの一面。


文字が並んでいる。


一文字も頭に入らない。


しばらくして、美智子がお茶を運んできた。


湯気が静かに立ち上る。


「冷めるわよ。」


誠は湯飲みに手を伸ばす。


熱かった。


それでも、手を離さなかった。


窓の外では、庭の木が風に揺れている。


二階からは、何の音も聞こえなかった。


新聞は、まだ同じページのままだった。








 二階から物音は聞こえなかった。


 いつもなら、ランドセルを放り投げる音や、机の引き出しを開ける音がする。


 今日は静かだった。


 静かすぎた。


 誠は湯飲みを置く。


 茶柱が一本、ゆっくり揺れている。


「あなた。」


 美智子が向かいへ腰を下ろした。


「……うん。」


「本当は。」


 そこで言葉を切る。


「習わせてあげたかったんでしょう。」


 誠は返事をしなかった。


 否定しなかった。


 それだけで十分だった。


 美智子は湯飲みを包むように持つ。


「希美、あんな顔するの初めて見た。」


「……そうだな。」


「あなたも、つらかったでしょう。」


 誠は苦笑した。


「顔に出てたか。」


「少しだけ。」


 二人とも笑う。


 笑ったのに、部屋は少しだけ静かになった。


 窓の外で風が鳴る。


 洗濯物が揺れていた。


「教室も調べたんだ。」


 誠がぽつりと言う。


「え?」


「会社の帰りに。」


 視線は窓の外へ向いたままだった。


「駅前の教室。」


「もう一つ、隣町の教室。」


 美智子は何も言わない。


「月謝も。」


「発表会のお金も。」


「ピアノの値段も。」


 そこで言葉が止まる。


「……計算した。」


 長い沈黙が流れた。


 美智子はようやく口を開く。


「無理だった?」


 誠は静かに頷く。


「無理をすれば、通わせられた。」


 美智子は顔を上げる。


 誠は続けた。


「でも、その無理は。」


 少し笑う。


「希美に返ってくる。」


 住宅ローン。


 生活費。


 教育費。


 宗一郎の病院代。


 言葉にはしなかった。


 数字は、口に出すほど優しくない。


「だから。」


 誠は湯飲みを見つめる。


「勉強だけは。」


「諦めさせたくなかった。」


 美智子はゆっくり息を吐く。


「あなたらしいわ。」


「そうか。」


「でも。」


 少しだけ笑った。


「希美には違って聞こえたと思う。」


 誠は黙った。


「夢を応援してくれなかった。」


「そう聞こえたかもしれない。」


 その一言だけが、胸に残った。




 夜になった。


 家族が眠り始める。


 宗一郎の部屋から、小さくテレビの音が聞こえる。


 やがて、それも消えた。


 誠は寝室へ向かう。


 二階へ上がる。


 希美の部屋の前で足が止まった。


 ドアの下から、細い明かりが漏れている。


 まだ起きている。


 耳を澄ます。


 小さな音が聞こえた。


 ポン。


 ポン。


 ポン。


 鍵盤だった。


 電子ピアノではない。


 机の上に置いた小さな鍵盤アプリか、動画の鍵盤を指でなぞっているのだろう。


 一音。


 止まる。


 もう一度。


 一音。


 また最初から。


 ぎこちない。


 それでも諦めていない音だった。


 誠はドアノブへ手を伸ばす。


 あと少しで届く。


 指先が触れる。


 握れない。


「希美。」


 声は胸まで上がってきた。


 唇は動かなかった。


 謝りたい。


 違うんだと言いたい。


 いつか必ず、と約束したい。


 どの言葉も、喉の奥で立ち止まった。


 部屋の向こうでは、また鍵盤の音がした。


 一音。


 止まる。


 もう一度。


 その音を聞いていると、自分が断ったのは習い事ではなく、この子の今日だったのではないか。


 そんな思いが胸をよぎる。


 誠は静かに手を下ろした。


 ドアをノックすることはなかった。


 踵を返す。


 一段ずつ階段を下りる。


 居間の前を通ると、仏壇の小さな灯りだけが残っていた。


 誠はその明かりをしばらく見つめる。


 父も、こんな夜があったのだろうか。


 自分の部屋の前で立ち止まり、何も言えずに引き返した夜が。


 聞くことは、もうできない。


 誠は小さく息を吐く。


 廊下の電気を消した。


 二階の奥では、さっきまで聞こえていた鍵盤の音も、いつの間にか止んでいた。


 家は静かだった。


 その静けさだけが、父の胸の中に長く残った。








 それから、十年以上の月日が流れた。


 休日の午後だった。


 居間には、窓から春の光が差し込んでいる。


 誠は棚の引き出しを一つずつ整理していた。


「これは……もう読まないか。」


 古い書類を束ねる。


 ボールペンのインクが薄くなったメモ。


 期限の切れた保証書。


 何年も開かなかった封筒。


 引き出しの奥へ手を入れた、そのときだった。


 一冊の茶色い封筒が滑り落ちる。


 床へ落ちる前に、希美が受け止めた。


「おっと。」


「ありがとう。」


 封筒を渡そうとして、手が止まる。


 表に書かれた文字が目に入った。


 少し色あせた父の字。


希美 ピアノ教室


 希美は顔を上げた。


「……お父さん。」


 誠の動きが止まる。


 目だけが封筒へ向いた。


「まだ残ってたか。」


 その声は、小さかった。




 希美はそっと封を開く。


 中から、一冊のパンフレットが出てきた。


 近所の音楽教室。


 発表会の写真。


 月謝の案内。


 入会申込書。


 もう紙は少し黄ばんでいた。


 その下から、一枚の大学ノートの切れ端が落ちる。


 細かい字。


 何度も書き直した跡。


 希美はゆっくり読む。


 食費 -三千円


 昼食 弁当


 煙草 やめる


 残業手当


 休日出勤


 数字が並ぶ。


 計算式。


 何度も消した跡。


 一番下だけ、少し小さい字だった。


まだ足りない。


 希美は息を止めた。


 紙を持つ指が震える。


 部屋には時計だけが時を刻んでいた。




「……計算してたんだ。」


 誠は笑った。


 照れたように。


 少し困ったように。


「何回もな。」


 それだけ言う。


「教室も見に行った。」


 少し間があく。


「駅前も。」


「隣町も。」


 また沈黙。


「どうやったら通わせられるか。」


 それ以上続かなかった。


 希美は紙から目を離せない。


 折り目は擦り切れている。


 何度も開いて。


 何度も閉じた跡だった。




 誠は封筒を手に取る。


 指先で、少しだけ紙をなでる。


「悪かった。」


 その一言だった。


 言い訳はなかった。


 理由も並べない。


 ただ、その一言だけ。


 希美は父を見る。


 十年前より、白いものが増えた髪。


 少し曲がった背中。


 大きかった手。


 その手が、今は紙を壊さないように優しく持っていた。




「私ね。」


 希美が笑う。


 少しだけ目が赤い。


「ずっと。」


 言葉を探す。


「お父さん、ピアノ嫌いなんだと思ってた。」


 誠は首を横に振る。


「違う。」


 二文字だけだった。


 その二文字は、十年以上かかって届いた。


 希美は、もう一度紙を見る。


 食費。


 弁当。


 煙草。


 休日出勤。


 そのどれもが、父の時間だった。


 父が働いた時間。


 我慢した時間。


 迷った時間。


 その全部が、この一枚へ残っていた。


 紙は古くなっている。


 けれど。


 書かれた願いだけは、少しも古くなっていなかった。


「ありがとう。」


 自然に言葉が出た。


 誠は驚いた顔をする。


「何で、お礼なんだ。」


 希美は少し笑う。


「今日。」


「本当のことを教えてくれたから。」


 誠も笑う。


「もっと早く話せばよかった。」


「うん。」


 少し間があく。


「でも。」


 希美は封筒を胸に抱いた。


「今だから、分かった気がする。」


 窓が少し開いていた。


 春の風が吹く。


 机の上のパンフレットが、一枚だけめくれた。


 希美はそっと押さえる。


 折れた角を指でなぞる。


 破れないように。


 もう傷まないように。


 静かに封筒へ戻した。


 父は何も言わなかった。


 希美も何も言わなかった。


 窓の外では、小さな子どもが笑っている。


 どこか遠くから、誰かがピアノを練習する音が聞こえた。


 たどたどしい旋律だった。


 その音を、二人はしばらく黙って聞いていた。








 その日の夕方だった。


 美智子は台所で夕食の支度をしていた。


 玉ねぎを刻む音。


 鍋の中で味噌汁が静かに湯気を立てている。


 居間からは、誠と宗一郎がテレビを見ながら笑う声が聞こえてきた。


 いつもの夕方。


 何も変わらないはずの夕方だった。


 希美は茶色い封筒を抱えたまま、自分の部屋へ戻る。


 机に座る。


 封筒を開く。


 もう一度だけ、紙を取り出した。


 食費。


 弁当。


 煙草。


 休日出勤。


 そして、一番下の小さな字。


まだ足りない。


 指先で、その文字をなぞる。


 鉛筆の跡は少し薄くなっていた。


 何度も消しゴムをかけたのだろう。


 何度も計算し直したのだろう。


 そのたびに、この一行へ戻ってきたのだろう。


 希美は静かに目を閉じた。


 小学三年生の午後が浮かぶ。


 制服の裾を握りしめていた自分。


 父の前で立っていた自分。


 「今は勉強を頑張ろう。」


 あの日は、その言葉しか聞こえなかった。


 けれど今は、その言葉の向こう側にいた父の姿が見える。


 計算していた父。


 迷っていた父。


 眠れなかった父。


 部屋の前で立ち止まっていた父。


 あの日、自分だけが泣いたと思っていた。


 違った。


 父もまた、誰にも見えない場所で泣けないまま父親をしていた。


 希美はそっと封筒を閉じる。


 引き出しへしまおうとして、手が止まった。


 机の上には、一冊のノートがある。


 まだ名前のないノート。


 第一章の終わりから書き続けている、自分だけのノートだった。


 ゆっくりと開く。


 白いページ。


 ペンを持つ。


 少し考える。


 それから、一行だけ書いた。


愛は、伝えたい気持ちではなく、伝わらなかった時間まで含めて愛なのかもしれない。


 書き終えても、何かを悟った気持ちにはならなかった。


 むしろ、分からないことが増えた気がした。


 父も迷う。


 母も後悔する。


 祖父も言えなかった言葉を抱えて生きている。


 大人とは、答えを持っている人ではなかった。


 答えがないまま、それでも誰かを守ろうとする人だった。


 窓を開ける。


 夕方の風が部屋へ流れ込む。


 どこか遠くで、ピアノの音が聞こえた。


 たどたどしい旋律だった。


 一度止まり、


 また最初から弾き直している。


 その音を聞きながら、希美は小さく笑う。


 上手じゃなくてもいい。


 途中で止まってもいい。


 人は何度でも、最初から弾き直せる。


 それはきっと、人生も同じだ。


 階下から、美智子の声が聞こえた。


「希美、ご飯よ。」


「はーい。」


 返事をして立ち上がる。


 机の上の封筒にもう一度目を向ける。


 今度は引き出しにはしまわなかった。


 本棚の一番取り出しやすい場所へ、静かに立てかける。


 忘れないように。


 思い出すためではなく、


 これから先、誰かの夢に向き合うとき、自分も今日の父を思い出せるように。


 部屋の灯りを消す。


 階段を下りる。


 味噌汁の匂いがした。


 肉じゃがの甘い香りもする。


 居間では祖父が笑っている。


 父も笑っている。


 その笑顔は、昔と何も変わらない。


 変わったのは、自分だった。


 希美は食卓へ向かう。


 いつもの椅子へ座る。


「いただきます。」


 四人の声が重なる。


 湯気がゆっくりと立ち上る。


 希美は父の横顔を見る。


 父もこちらに気づき、小さく笑った。


 希美も笑い返す。


 言葉はなかった。


 それで十分だった。


 窓の外では、春の風が庭の木々を揺らしていた。


 人は、誰かの人生を知った数だけ、その人を深く愛せるのかもしれない。


 そして家族とは、


 毎日の食卓で、


 言えなかった言葉を少しずつ受け取り続ける物語なのだ。








朝六時。


炊飯器が小さな音を立てた。


美智子は台所の窓を少しだけ開ける。


朝の空気はまだ冷たい。


遠くで鳥が鳴いた。


包丁を握る。


まな板の上で味噌汁の具を刻む。


一定のリズム。


もう何千回と繰り返した朝だった。


「おはよう。」


誠が眠そうな顔で入ってくる。


「おはよう。」


「今日も早いな。」


「いつもよ。」


二人は笑う。


大きな会話はない。


それでも、この静かなやり取りが一日の始まりだった。


やがて希美が降りてくる。


髪を寝ぐせのまま結び直しながら、


「おはよう。」


と言う。


その姿を見て、美智子は少し笑った。


「鏡見た?」


希美は慌てて前髪を押さえる。


「うそ!」


宗一郎が新聞を読みながら笑う。


食卓にも笑いが広がった。


美智子は味噌汁をよそう。


湯気が立ち上る。


ふと、その湯気を見つめた。


亡くなった母も、毎朝こんな景色を見ていたのだろうか。


その頃は考えもしなかった。


子どもだった自分は、


朝になればご飯があることを、


当たり前だと思っていた。


制服は洗われ、


弁当は出来ていて、


熱を出せば氷枕があった。


それが誰かの時間でできていることなど、


知らなかった。


知らなくても生きていけた。


だから、


ありがとうを言わなかった。


言わなくても、明日が来ると思っていた。


母がいなくなる日が来るなんて、


思ってもいなかった。




昼過ぎ。


買い物帰りの道。


商店街の端で、小さな女の子が転んだ。


膝を打って泣き出す。


母親が駆け寄る。


「痛かったね。」


そう言って抱き上げる。


女の子は泣きながら母親の首へしがみついた。


その姿を見た瞬間だった。


美智子の胸に、遠い記憶がよみがえる。


小学生の冬。


熱を出して寝込んだ夜。


母は一晩中、


額の濡れタオルを替えてくれていた。


夜中に目を開けるたび、


そこに母がいた。


「お母さん。」


眠そうな声で呼ぶ。


「どうしたの。」


「いる?」


「いるよ。」


その一言だけで安心して、


また眠った。


あの夜、


母は眠れたのだろうか。


考えたこともなかった。




夕方。


家へ戻ると、


希美が夕食の手伝いをしていた。


「今日は私がサラダ作る。」


「お願い。」


ぎこちない包丁。


少し大きすぎるキュウリ。


それでも一生懸命だった。


「できた!」


誇らしそうに皿を差し出す。


「上手。」


美智子が言うと、


希美は照れくさそうに笑った。


その笑顔を見た瞬間、


美智子は亡き母の笑顔を思い出した。


きっと母も、


こんな顔で自分を見ていた。


料理が少し上手になった日も。


洗濯物を畳めた日も。


「ありがとう。」


その言葉を待っていたわけではない。


ただ、


娘が笑ってくれるだけで嬉しかったのだ。


今なら分かる。




夜。


食器を洗い終えたあと、


美智子は仏壇の前に座った。


線香に火を灯す。


小さな炎が揺れる。


写真の中の母は、


昔と同じように笑っていた。


「お母さん。」


その一言だけで、


胸がいっぱいになる。


長い沈黙のあと、


ようやく言葉がこぼれた。


「ありがとう。」


返事はない。


それでも、


どこかで聞いてくれている気がした。


風が障子を揺らす。


線香の煙が静かに空へ昇っていく。


美智子は小さく笑った。


今度はちゃんと、


ありがとうが言えた気がした。








 朝は、誰よりも早く祖父にやってくる。


 まだ東の空が群青色を残している頃、宗一郎は静かに布団を畳む。


 畳を歩く足音は、小さい。


 家族を起こさないように。


 昔からの癖だった。


 湯を沸かす。


 急須へ茶葉を入れる。


 湯気がゆっくり立ち上る。


 その湯気を見ながら、宗一郎は縁側へ腰を下ろした。


 庭には朝露が残っている。


 紫陽花の葉が、小さく光っていた。


 空が少しずつ白み始める。


 毎朝見ている景色なのに、一度として同じ朝はなかった。


「今日もきれいじゃな。」


 誰に言うでもなくつぶやく。


 返事はない。


 昔は隣で、


「ほんとね。」


 と笑う声があった。


 今は風だけが答える。


 湯呑みに映る朝焼けが、ゆっくり色を変えていく。


 宗一郎は目を細めた。


 妻は朝焼けが好きだった。


 旅行へ行っても、


「日の出だけは見たい。」


 と言う人だった。


 眠い目をこすりながら山へ登り、


 二人で黙って空を眺めた。


 特別な会話はしなかった。


 それでも十分だった。


 ある朝、妻が笑って言った。


「朝焼けって不思議ね。」


「どうしてじゃ。」


「毎日見られるのに、毎日きれい。」


 宗一郎は、


「そうじゃな。」


 と答えただけだった。


 今なら、もっと話せた気がする。


 でも、その頃は、それで十分だと思っていた。


 十分だと思える時間は、案外短い。


 風が吹く。


 庭木が揺れる。


 葉の隙間から朝日が差し込んだ。




 朝食の時間になる。


 誠が新聞を読み、


 美智子が味噌汁を運び、


 希美が眠そうな顔で席へ着く。


「おじいちゃん、おはよう。」


「おはよう。」


「また朝焼け見てた?」


「見とった。」


「毎日飽きない?」


 宗一郎は笑う。


「飽きると思うか。」


「思う。」


「それは若い証拠じゃ。」


 希美が首をかしげる。


「歳を取るとな。」


 味噌汁を一口飲む。


「同じ景色が、一番ありがたい。」


 希美は意味が分からないという顔をした。


「ふーん。」


 それだけ言って、ご飯を食べ始める。


 宗一郎は笑った。


 昔の自分も、きっと同じ顔をしていた。




 昼過ぎ。


 庭へ出る。


 古くなった植木鉢を動かしていると、一枚の写真が本の間から落ちた。


 色あせた写真。


 若い宗一郎と、妻。


 二人とも笑っている。


 背景には海。


 妻が麦わら帽子を押さえていた。


「懐かしいのう。」


 写真を指でなぞる。


 妻の笑顔だけは、少しも色あせていなかった。


「じいちゃん?」


 希美が縁側へやって来る。


「何見てるの?」


「宝物じゃ。」


「見せて。」


 写真を受け取る。


「これ、おばあちゃん?」


「そうじゃ。」


「きれい。」


 宗一郎は照れくさそうに笑う。


「じゃろう。」


「じいちゃん、このとき何歳?」


「二十五くらいか。」


「若い!」


 希美は声を上げて笑った。


 宗一郎も笑う。


 二人の笑い声が庭へ広がる。


 しばらくして、希美が写真を見つめながら聞いた。


「おばあちゃんって、どんな人だった?」


 宗一郎は少し考えた。


 話そうと思えば、何日あっても足りない。


 初めて出会った日。


 喧嘩した日。


 娘が生まれた日。


 病室で交わした最後の言葉。


 全部話したい。


 全部話せない。


「よう笑う人じゃった。」


 最後に出てきたのは、その一言だった。


 希美も笑った。


「それ、じいちゃんと一緒。」


「そうか。」


「うん。」


 宗一郎は写真を受け取る。


 写真の中でも、妻は笑っていた。




 夕方。


 西日が縁側を赤く染める。


 宗一郎は再び庭を眺めていた。


 朝焼けも好きだった。


 夕焼けも好きだった。


 けれど、最近は朝焼けの方が少し好きになった。


 新しい一日が始まるからではない。


 また家族の声を聞けるからだった。


 玄関が開く。


「ただいま。」


 誠の声。


「おかえり。」


 美智子が迎える。


 二階から希美が駆け下りてくる。


 その何気ない音を聞きながら、宗一郎は静かに目を閉じた。


 幸せとは、大きな出来事ではない。


 誰かが帰ってくる音。


 誰かが笑う声。


 食卓から聞こえる「いただきます」。


 それだけで、一日は十分だった。


 宗一郎は立ち上がる。


 写真をそっと本へ挟み直す。


 しまい込むためではない。


 また、会いたくなった日に開けるためだった。


 窓の外では、朝に見た紫陽花が夕陽を受けていた。


 同じ花なのに、朝とはまるで違う色に見えた。








 夕方になると、この家は少しだけ忙しくなる。


 台所では包丁の音が響き、


 味噌汁の湯気が立ち、


 炊きたてのご飯の匂いが家中へ広がっていく。


 玄関の扉が開いた。


「ただいま。」


 誠の声だった。


「おかえり。」


 美智子が振り向く。


 エプロンの紐を結び直しながら、小さく笑う。


「今日は早かったのね。」


「仕事が思ったより早く終わった。」


 ネクタイを少し緩める。


 その姿を見て、美智子は湯飲みにお茶を注いだ。


「はい。」


「ありがとう。」


 それだけの会話。


 それだけなのに、家へ帰ってきた空気がする。


 二階から足音が聞こえる。


 希美だった。


「お父さん、おかえり。」


「ただいま。」


「今日ね。」


 階段を下りながら話し始める。


「図書館で面白い本を見つけた。」


「そうか。」


「うん。」


 誠は上着を脱ぎながら頷く。


「どんな本だ。」


 希美は少し考える。


「まだよく分からない。」


「でもね。」


「読むと、人を見たくなる本。」


 誠は笑った。


「変わった本だな。」


「私もそう思う。」


 二人は笑う。


 美智子はその様子を見ながら、小皿を並べていく。


 宗一郎も居間からやって来た。


「今日は何じゃ。」


「肉じゃがよ。」


「それは楽しみじゃ。」


 宗一郎が手を洗いに行く。


 その後ろ姿を見ながら、希美が小さく笑う。


「おじいちゃん、肉じゃがの日だけ歩くの速い。」


「聞こえとるぞ。」


 振り返りもせずに返事が返ってきた。


 みんなが笑った。


 食卓には四人がそろう。


「いただきます。」


 声が重なった。


 箸が動く。


 味噌汁をすする音。


 茶碗を置く音。


 どれも昔から変わらない。


「おいしい。」


 希美が言う。


「今日はじゃがいもが甘い。」


「新じゃがだからね。」


 美智子が答える。


「もうそんな季節か。」


 宗一郎が窓の外を見る。


 庭の木々は柔らかい緑に変わっていた。


「希美。」


 誠が肉じゃがを取りながら聞く。


「図書館は毎日行ってるのか。」


「最近はね。」


「司書さんが面白い人で。」


「本のことなら何でも知ってる。」


「ほう。」


「でも。」


 希美は笑う。


「一番面白いのは、本より人かもしれない。」


「人?」


「うん。」


「同じ本を借りても、感想がみんな違うの。」


「だから、その人が見える。」


 宗一郎が頷く。


「本は鏡じゃ。」


「鏡?」


「読む人が映る。」


 希美は箸を止めた。


 その言葉を胸のどこかへしまうように、小さく頷く。


 食事が終わる。


 誠が食器を運ぼうと立ち上がる。


「いいわよ。」


 美智子が言う。


「いや、一緒にやる。」


「珍しい。」


「たまには。」


 二人は台所へ向かう。


 蛇口から流れる水の音。


 皿が重なる音。


 洗剤の泡。


 希美はその後ろ姿を見ていた。


 子どもの頃は気づかなかった。


 食べ終わると食器が消えていた。


 洗濯物は畳まれていた。


 制服は翌朝には乾いていた。


 誰かがやっていた。


 でも、その「誰か」を考えたことはなかった。


 今は違う。


 父が茶碗を拭き、


 母が皿を洗う。


 二人とも当たり前のように笑っている。


 その当たり前は、


 誰かが毎日続けてきた時間だった。


 食器を片付け終えると、


 誠が冷蔵庫から麦茶を取り出した。


「希美。」


「なに?」


「この前の本。」


「読み終わったら貸してくれ。」


 希美は少し驚く。


「読むの?」


「ああ。」


「難しいかもしれないよ。」


「分からなかったら聞く。」


 希美は笑う。


「じゃあ貸す。」


 約束は、それだけだった。




 夜。


 それぞれが自分の時間を過ごしている。


 宗一郎は時代劇の文庫を読み、


 美智子は洗濯物を畳み、


 誠は明日の仕事の資料に目を通す。


 希美はティーン向けファッション紙をめくる。


 ふと顔を上げる。


 同じ家の中で、


 みんな違うことをしている。


 それでも、不思議と一人ではない。


 居間から聞こえるページをめくる音。


 台所で食器を重ねる音。


 時計の秒針。


 誰かの咳払い。


 どれも、この家の音だった。


 希美は雑誌を閉じる。


 今日という日は、特別な日ではない。


 誕生日でもない。


 記念日でもない。


 けれど、家族はきっと、こんな日を積み重ねてできていく。


 大きな出来事ではなく、


 「おかえり。」


 「いただきます。」


 「おやすみ。」


 その短い言葉が、少しずつ家族を家族にしていく。


 居間から父の笑い声が聞こえた。


 続いて祖父の笑い声。


 少し遅れて母も笑う。


 希美もつられて笑った。


 誰も理由を聞かなかった。


 笑い声は、それだけで十分だった。


 窓の外では、夜風が庭木を静かに揺らしていた。








 翌日の午後。


 希美は図書館へ向かっていた。


 昨日までと同じ道。


 同じ商店街。


 同じ信号。


 何も変わっていない。


 変わったのは、自分だった。


 自動ドアが静かに開く。


 紙の匂いがする。


 館内には、いつもの静けさが流れていた。


「こんにちは。」


 受付の向こうで、雨宮栞が微笑む。


「こんにちは。」


 希美も笑って返した。


「今日は返却?」


「はい。」


 本を差し出す。


 栞はページを軽くめくりながら尋ねた。


「どうだった?」


 希美は少し考える。


「難しかったです。」


「そう。」


「でも。」


 言葉を探す。


「前より、人を見たくなりました。」


 栞は静かに頷いた。


「それなら、この本は役目を果たしたのかもしれない。」


 返却印が、小さく音を立てた。




 希美は窓際の席へ座る。


 昨日と同じ席だった。


 外では子どもたちが走っている。


 転ぶ子がいる。


 泣く子がいる。


 笑う子もいる。


 昨日までなら、


 それは「子どもたち」だった。


 今日は違う。


 あの子にも家がある。


 迎えに来る人がいる。


 笑った日も、


 泣いた日も、


 誰かと一緒に過ごしてきた時間がある。


 そんなことを考えていた。




 少し離れた席では、


 大学生くらいの青年が参考書を開いている。


 何度も消しゴムをかけ、


 また書き直す。


 机には缶コーヒーが一本。


 眠そうな目。


 昨日は、


 「勉強している人。」


 それだけだった。


 今日は違う。


 誰かになろうとしている人。


 期待されている人かもしれない。


 自分で自分を追い込んでいるのかもしれない。


 あるいは、


 家族のためなのかもしれない。


 分からない。


 分からないから、


 勝手に決めつけてはいけない。




 館内を清掃員が歩いていく。


 いつもの七十代の男性だった。


 静かに床を磨く。


 利用者は誰も見ていない。


 希美は立ち上がった。


「こんにちは。」


 男性は少し驚いた顔をした。


「おお、こんにちは。」


「いつもありがとうございます。」


 男性は照れくさそうに笑う。


「掃除しかできんからね。」


「そんなことありません。」


 希美も笑った。


 男性はモップを止める。


「昔から本は苦手なんよ。」


「でもな。」


「本を読んで帰る人の顔を見るのは好きじゃ。」


 その言葉を聞いて、


 希美は第一章で出会ったあの日を思い出す。


 栞も同じことを言っていた。


 本は人を変える。


 その変化は、


 本ではなく、


 人の顔に表れる。




 夕方。


 帰り道。


 公園の前を通る。


 小さな男の子が父親とキャッチボールをしていた。


「もう一回!」


「よし、来い!」


 父親は少し大げさに転び、


 男の子は声を上げて笑う。


 ボールは何度も逸れた。


 うまく投げられない。


 うまく捕れない。


 それでも二人は笑っていた。


 希美は足を止める。


 父は、


 自分とキャッチボールをしたことがあっただろうか。


 思い出せない。


 でも。


 昨日までなら、


 「してくれなかった。」


 と思っていた。


 今日は違う。


 してあげたかったのかもしれない。


 できなかった理由が、


 あったのかもしれない。


 知らないだけだったのかもしれない。




 家へ帰る。


「ただいま。」


「おかえり。」


 いつもの声が返ってくる。


 誠は新聞を読んでいた。


 美智子は夕食を作っている。


 宗一郎は庭に水をやっている。


 昨日と同じ景色。


 でも、


 三人とも昨日とは違って見えた。


 父は、


 父になる前の人生を生きてきた人。


 母は、


 母になる前に誰かの娘だった人。


 祖父は、


 祖父になる前に一人の青年だった人。


 家族という役割より先に、


 一人の人生があった。


 そのことを、


 今まで一度も考えたことがなかった。




 夕食のあと、


 希美は自分の部屋へ戻る。


 本棚から一冊のノートを取り出す。


 白いページを開く。


 しばらく考え、


 ゆっくりと書き始めた。


人は、相手を知っていると思い込む。


毎日会っているから。


家族だから。


友達だから。


でも、本当は何も知らない。


知らないまま、


分かったつもりになっている。


 ペンが止まる。


 窓の外では、


 春の風が木々を揺らしていた。


 希美はもう一行だけ書き加える。


知らなかったということを知ることが、


誰かを理解する最初の一歩なのかもしれない。


 ノートを閉じる。


 部屋は静かだった。


 静けさの中で、


 父の笑い声が階下から聞こえる。


 母の返事。


 祖父の笑い声。


 何も変わらない夜。


 けれど希美には、


 その笑い声の向こうに、


 三人が歩いてきた長い人生が、少しだけ聞こえた気がした。


 机の上には、『人類取扱説明書(試作品)』が置かれている。


 まだ白いページが残っている。


 希美は本を開かなかった。


 今は読むよりも、


 生きてみたいと思った。


 白いページは、


 きっとこれからの毎日で埋まっていく。


 そう思えた。


 窓の外では、


 夕暮れの空に一番星が光り始めていた。

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