人類取扱説明書1
『人類取扱説明書』作品概要
十八歳の少女・希美は、世界にどこか退屈さを感じながら日々を過ごしていた。ある日、図書館の誰も近づかない本棚で『人類取扱説明書(試作品)』と書かれた一冊の不思議なノートを見つける。その出会いをきっかけに、司書・雨宮栞との交流や、父、母、祖父、友人、子どもたち、図書館を訪れるさまざまな人々との触れ合いを通して、希美は「人とは何か」を少しずつ考え始める。本作は、人類そのものを主人公とした、笑いと涙、そして希望に満ちたヒューマンドラマである。
本作はAIを推敲・構成支援ツールとして活用しながら、テーマ設定、物語設計、内容の選択・修正を作者自身が行いました。
第一章 まだ知らない人
咲原希美には、人に話してもたぶん信じてもらえない特技がある。
目覚まし時計が鳴る、三秒前に必ず目が覚めるのだ。
理由は分からない。
小学生の頃からそうだった。
一秒でも四秒でもない。いつも三秒前。
だから希美は、朝いちばん最初にすることを「勝負」と呼んでいた。
薄く目を開ける。
白い天井。
カーテンの隙間から、朝の光が一本だけ差し込んでいる。
枕元の時計を見る。
六時二十九分、五十七秒。
五十八。
五十九。
カチッ。
電子音が鳴るより早く、希美は指先でスイッチを押した。
部屋は静かなままだ。
「……よし。」
小さくガッツポーズを作る。
十八年連続勝利。
もちろん誰も褒めてくれない。
世界記録にもならない。
だから何だと言われれば、本当に何でもない。
それでも毎朝少しだけ嬉しかった。
そんなくだらないことで一日が始まる自分を、希美は嫌いではない。
ベッドから降りる。
床の冷たさが裸足に伝わる。
昨夜は少し雨が降ったらしい。
窓を開けると、湿った土の匂いがふわりと流れ込んできた。
遠くでカラスが鳴く。
少し遅れてスズメが返事をする。
新聞配達のバイク。
犬の散歩をする老人。
まだ眠そうな住宅街が、少しずつ呼吸を始めていた。
毎日同じ景色だ。
でも、昨日とまったく同じ朝は一度もない。
風の匂いも。
鳥の声も。
雲の形も。
世界は律儀なくらい少しずつ変わっている。
変わっていないのは、自分くらいかもしれない。
「希美ー。」
一階から母の声が聞こえた。
「味噌汁、冷めるわよー。」
「はーい。」
返事だけして、まだ動かない。
鏡の前へ立つ。
寝癖が右側だけ元気だった。
「……おはよう。」
髪へ向かって挨拶してみる。
当然、返事はない。
水で押さえる。
離す。
また立つ。
「昨日より強い。」
もう一度押さえる。
また立つ。
「君、今日は本気だね。」
結局、ドライヤーの出番になった。
五分後。
勝者は寝癖だった。
「……引き分けでお願いします。」
鏡の中の自分へ頭を下げる。
制服へ袖を通す。
ネクタイを結ぶ。
二回失敗する。
三回目でようやく形になった。
「よし。」
鏡の中には、どこにでもいる高校三年生が立っていた。
特別かわいいわけでもない。
特別勉強ができるわけでもない。
特別運動神経がいいわけでもない。
自分で言うのも何だけれど、「普通」という言葉が制服を着たら、たぶんこんな感じになる。
その普通が、少しだけ退屈だった。
部屋を出る。
階段を一段下りるごとに、朝食の匂いが近づいてくる。
味噌汁。
焼き鮭。
卵焼き。
炊きたてのご飯。
その匂いだけで、お腹が鳴りそうになる。
食卓からはテレビの音が聞こえる。
朝のニュースキャスターが真面目な顔で世界の出来事を伝えている。
その横で祖父は、毎朝のようにテレビへ話しかけていた。
「いや、その言い方じゃ伝わらん。」
テレビは答えない。
「そこは結論から言わんと。」
もちろん答えない。
「最近の若いアナウンサーは間が悪い。」
それでも祖父は諦めない。
テレビ相手の討論は、今日も祖父の優勢らしかった。
希美は思わず笑う。
「おじいちゃん。」
「おう。」
「またテレビとケンカしてるの?」
祖父は腕を組み、真面目な顔で首を振った。
「ケンカじゃない。」
一拍置いて言う。
「教育だ。」
その瞬間、新聞の向こうで紙が小さく揺れた。
父が笑いをこらえている。
キッチンでは母が肩を震わせている。
希美も吹き出した。
祖父だけが、本気だった。
咲原家の朝は、いつもこんなふうに始まる。
「ほら、座りなさい。」
母が味噌汁を運んでくる。
湯気がゆっくりと立ちのぼり、朝の食卓を白く包んだ。
父は新聞を畳み、静かに椅子へ座る。
祖父はニュースにまだ何か言いたそうだったが、焼き鮭を見ると討論を中断した。
「今日は鮭か。」
「昨日から冷蔵庫にいた鮭よ。」
「そうか。」
祖父は鮭へ向かって深くうなずく。
「長旅だったな。」
「おじいちゃん。」
希美は笑いながら箸を持った。
「鮭と会話しないで。」
「会話ではない。」
祖父は真顔で答える。
「労いだ。」
母が吹き出す。
父は味噌汁を飲みながら新聞を半分だけ持ち上げた。
肩が少し揺れている。
笑っている。
でも笑い声は出さない。
父は昔からそうだった。
「いただきます。」
四人の声が重なる。
食卓に箸の音だけが流れ始める。
不思議と、その沈黙は気まずくなかった。
味噌汁を一口。
豆腐が熱い。
少しだけ舌をやけどする。
「熱っ。」
「あら。」
母が笑う。
「猫舌なの忘れてた。」
「毎日忘れてるよね。」
「毎日新鮮なの。」
「その理屈は初めて聞いた。」
祖父が感心したように頷く。
「いい理屈だ。」
「おじいちゃんまで。」
また笑いが起きる。
父は黙って鮭の骨をきれいに外していた。
器用な人だ、と希美は思う。
子どもの頃、自分は魚を食べるのが苦手だった。
骨が怖かった。
父は何も言わず、自分の箸で骨だけを外してくれた。
今はもう自分で食べられる。
それでも父の皿を見ると、骨は昔と同じように一本へきれいに並べられていた。
変わらない人なのだ。
「今日、帰り遅くなる?」
母が聞く。
「うーん……。」
希美はご飯を飲み込みながら考える。
「図書館に寄るかも。」
「また?」
「また。」
母は少しだけ笑った。
「最近好きね。」
「静かだから。」
「家もうるさくないでしょう?」
祖父が胸を張る。
「わしは静かだぞ。」
三人が同時に祖父を見る。
「……。」
「……。」
「……。」
「何だ。」
「今日一番面白い冗談。」
希美が言うと、祖父は腕を組んだ。
「本当のことほど笑われる。」
「おじいちゃんの場合は逆。」
また笑いが起きた。
父は湯飲みを置き、時計を見た。
「希美。」
「ん?」
「今日は数学の小テストじゃなかったか。」
「あ。」
一瞬、時間が止まる。
「あーーーーーっ!」
椅子から立ち上がる。
「忘れてた!」
「昨日、『大丈夫』って言ってたじゃない。」
母が呆れたように言う。
「言った!」
「勉強した?」
「……夢の中で。」
「現実では?」
「してない。」
祖父が静かにお茶を飲む。
「人類の歴史は、忘れることの歴史でもある。」
「都合よく壮大にしないで。」
「大丈夫。」
祖父は親指を立てた。
「九九ができれば人生の八割は何とかなる。」
「あと二割が今日なんだけど!」
希美は慌てて立ち上がる。
鞄を持つ。
上履きを確認する。
スマートフォン。
財布。
定期。
「よし。」
玄関へ向かう。
母が後ろから声を掛けた。
「お弁当!」
「あっ。」
戻る。
弁当箱を受け取る。
「ありがとう。」
「行ってきます。」
「行ってらっしゃい。」
玄関の扉を開ける。
朝の光が、まぶしかった。
家の前の植え込みには、小さな花が一輪だけ咲いている。
昨日まで気づかなかった花だ。
風が吹く。
制服の裾が揺れる。
希美は一度だけ振り返った。
窓越しに母が手を振っている。
祖父はもうテレビと討論を再開していた。
父は新聞を閉じ、コーヒーを口に運んでいる。
毎日変わらない朝。
そう思っていた。
けれど、本当は違う。
同じ朝は、一度もない。
この朝も、二度と戻ってはこない。
そんなことを考えたわけではない。
ただ、春の風が少しだけ気持ちよくて、希美は深く息を吸った。
そして、学校へ向かって歩き出した。
まだ彼女は知らない。
今日という一日が、一冊の本との出会いによって、自分の世界の見え方を少しずつ変えていくことを。
そして、その変化は図書館から始まるのではなく、この「普通の朝」の中に、もう静かに芽吹いていたことを。
始業五分前の教室は、不思議な場所だ。
勉強する者。
眠る者。
恋愛相談をする者。
昨日のゲームを語る者。
朝食のパンをまだ食べている者。
三十数人しかいない教室なのに、三十数通りの朝がある。
希美は自分の席へ鞄を置き、小さく息をついた。
「おはよう。」
後ろから声が飛んでくる。
振り返らなくても分かる。
「おはよう、由真。」
「今日も寝癖と戦った?」
「負けた。」
「見れば分かる。」
「そんなにはっきり言う?」
寺井由真は笑いながら希美の前髪を指先で整えた。
「はい、これで七十八点。」
「二十二点は?」
「将来への伸びしろ。」
「便利な言葉だね。」
「先生もよく使うじゃん。」
二人は笑う。
由真は昔からこうだった。
人との距離を測るのが上手い。
初対面でも十分くらい話せば昔からの友達みたいになる。
希美には、その才能が少し羨ましかった。
「そうだ。」
由真が急に真顔になる。
「数学。」
その一言で、希美の笑顔が止まった。
「あ。」
「思い出した?」
「思い出した。」
「勉強した?」
「夢の中で。」
「現実では?」
「祖父に人生論を教わってた。」
「終わったね。」
「終わった。」
二人は同時に机へ突っ伏した。
「おはよう。」
静かな声が聞こえた。
二人の間へ影が落ちる。
沢村蒼だった。
教科書を胸に抱え、眼鏡を少しだけ押し上げる。
「数学?」
希美が尋ねる。
「うん。」
「難しかった?」
「いや。」
「……聞かなきゃよかった。」
蒼は少し困ったように笑う。
「そんなつもりじゃ。」
「分かってる。」
希美は手を振った。
「天才に悪気はない。」
「天才じゃないよ。」
由真が小声で希美へ耳打ちする。
「天才はみんなそう言う。」
「だよね。」
「普通だと思ってる。」
「怖い。」
蒼は聞こえていないふりをした。
本当は全部聞こえている。
でも、昔からそういう人だった。
誰かを困らせるくらいなら、自分が聞こえなかったことにする。
優しい人だった。
「希美。」
「ん?」
「昨日の問題。」
蒼はノートを開いた。
そこには、びっしりと数式が並んでいる。
「ここ。」
「……。」
「分かる?」
「いや。」
「ここから。」
「いや。」
「じゃあ最初から。」
「全部じゃん。」
由真が吹き出した。
その笑い声につられて、近くの席でも誰かが笑う。
教室という場所は、不思議だ。
一人の笑いが、少しずつ広がっていく。
誰も理由を知らないまま笑っていることさえある。
そのとき、始業のチャイムが鳴った。
数学教師が教室へ入ってくる。
右手には出席簿。
左手には、小テストの束。
希美と由真は顔を見合わせた。
「……終わった。」
「終わったね。」
蒼だけが、小さく首をかしげていた。
「そんなに難しくないと思うけど。」
二人は同時に答える。
「それが一番怖い。」
教室に笑いが起きた。
数学教師は苦笑しながら、小テストを配り始める。
希美は深呼吸を一つした。
答案用紙の一枚が机の上へ置かれる。
名前を書く。
問題を見る。
三秒考える。
もう一度見る。
「……。」
心の中で祖父の言葉がよみがえった。
「九九ができれば人生の八割は何とかなる。」
(残り二割が、今だった。)
教室から、紙をめくる音が消えた。
鉛筆だけが動いている。
カリ、カリ、カリ。
誰かが鼻をすする。
椅子が小さく鳴る。
時計の秒針まで聞こえてきそうな静けさだった。
希美は問題用紙を見つめた。
最初の一問。
「……。」
見覚えはある。
先生も授業で説明していた。
昨日もノートを開いた。
そこまでは覚えている。
問題は、そのあとだった。
思い出そうとすると、脳の中に白い霧がかかる。
「うーん……。」
小さく唸る。
前の席の男子が振り返りそうになり、先生と目が合って慌てて前を向いた。
希美は笑いそうになる。
笑っている場合ではない。
問題用紙へ視線を戻す。
隣では由真が眉間に皺を寄せている。
その表情だけで分かった。
仲間だ。
心の中で小さく拳を握る。
──よし。一人じゃない。
その安心感が何の役にも立たないことも、ちゃんと分かっていた。
一方、斜め前の蒼は、静かな湖のような顔をしていた。
鉛筆が迷わない。
止まらない。
まるで答えが最初から紙の上に見えているかのようだった。
希美は少しだけ首をかしげる。
(同じ授業を受けてるよね……。)
世界の見え方が違う人というのは、本当にいるのかもしれない。
そんなことを考えた瞬間、
「咲原。」
教師の声が飛んだ。
「はい!」
「考えるのはあとにして、まず手を動かしなさい。」
教室に小さな笑いが広がる。
「……はい。」
耳が熱い。
希美は慌てて数字を書き始めた。
正しいかどうかは分からない。
でも、白紙よりはましだ。
祖父もたしか言っていた。
「人生は、とりあえず一歩出してから考えるもんだ。」
数学には当てはまらない気がした。
チャイムが鳴る。
「そこまで。」
一斉に鉛筆が止まった。
答案が前へ送られていく。
希美は机に突っ伏した。
「終わった……。」
由真も同じ格好になった。
「終わったね……。」
二人はしばらく動かなかった。
その姿を見て、蒼が苦笑する。
「そんなに難しかった?」
二人はゆっくり顔を上げる。
「蒼。」
「うん。」
「お願いだから、その質問だけはしないで。」
「ごめん。」
本当に申し訳なさそうに謝る。
そこが蒼らしい。
できることを自慢しない。
できない人を見下さない。
だから誰も蒼を嫌わなかった。
由真が机に肘をつく。
「蒼ってさ。」
「うん?」
「人生で焦ったことある?」
「あるよ。」
「例えば?」
蒼は少し考えた。
「小学生のとき。」
「へえ。」
「夏休みの自由研究。」
「それで?」
「何を調べるか決まらなくて。」
希美と由真は顔を見合わせた。
「それだけ?」
「うん。」
「かわいい悩みだね……。」
「二人は?」
由真が即答する。
「私は毎朝。」
「私は毎時間。」
希美が続ける。
三人とも笑った。
笑いながら希美は思う。
同じ教室。
同じ授業。
同じ先生。
それなのに、
困ることも、
嬉しいことも、
怖いことも、
一人ひとり違う。
人は案外、自分の「普通」で世界を見ている。
そして、その「普通」は誰かにとっては少しも普通ではない。
もちろん希美は、まだそんな言葉では考えていない。
ただ、
(面白いな。)
そう思っただけだった。
窓の外では、校庭の桜が風に揺れていた。
花びらが一枚、教室の窓ガラスに張りつき、また風にさらわれる。
誰も気づかない。
希美だけが、その花びらを目で追っていた。
どこへ行くんだろう。
そんなことを考えているうちに、次の授業を知らせるチャイムが鳴った。
三時間目は現代文だった。
数学の小テストで削られた心を慰めるように、先生は教壇へ教科書を置いた。
「今日は読む授業にします。」
教室の空気が少しだけ軽くなる。
現代文は、不思議な教科だ。
問題集になると急に嫌われるのに、本を読む時間になると教室は静かになる。
先生が本文を読み始める。
柔らかな声だった。
誰かが咳をする。
窓の外では体育の掛け声が風に乗って聞こえてくる。
希美は教科書を目で追っていた。
物語の主人公が何を考えたのか。
その答えを選ぶ問題が教科書の隅に載っている。
(本人に聞けばいいのに。)
そんなことを思って、一人で笑いそうになった。
もし自分が小説の主人公だったら。
テストで、
『咲原希美はこのとき何を思いましたか。』
なんて問題が出ても、きっと自分でも正解できない。
人の気持ちは、本人ですら毎日変わる。
まして他人には分からない。
「咲原。」
先生が言った。
「この主人公、どうして家へ帰らなかったと思う?」
教室の視線が集まる。
「えっ……。」
希美は教科書を見る。
主人公は橋の上で立ち止まっている。
理由は書かれていない。
「……。」
分からない。
でも、
「帰りたくなかった……とか。」
先生は頷いた。
「そう読めるね。」
教室の反対側から別の手が挙がる。
「友達を待っていたんだと思います。」
また別の生徒。
「家へ帰ると嫌なことがあるから。」
さらに別の意見。
「夕日がきれいだったから。」
先生は全部に頷いた。
「どれも本文から読み取れる考え方です。」
希美は少し驚いた。
一つの文章なのに、答えがいくつもある。
同じ文字を読んでいる。
同じ教室にいる。
それでも、見えている景色は少しずつ違う。
由真が小さな声で言う。
「私だったら。」
「うん?」
「コンビニ寄ってた。」
希美は吹き出した。
蒼まで笑っている。
先生も笑った。
「それも高校生らしい答えだね。」
教室が少しだけ明るくなる。
そのとき希美は思った。
笑いというものは、不思議だ。
一人では生まれにくい。
誰かが笑うから、自分も笑う。
言葉より先に、人は空気を共有しているのかもしれない。
昼休み。
教室は一気に騒がしくなった。
机をくっつける音。
パンを買ってきた生徒。
購買で負けた生徒。
「焼きそばパン売り切れだった!」
という叫び。
その全部が、学校だった。
「希美。」
由真がお弁当箱を開けながら言う。
「今日、図書館?」
「うん。」
「また本?」
「たぶん。」
「よく飽きないね。」
「飽きない。」
「何がそんなに面白いの?」
希美は箸を止めた。
少し考える。
「……分からない。」
「分からないの?」
「うん。」
「でも行きたくなる。」
由真は笑う。
「恋みたい。」
「本に?」
「本に。」
蒼が静かに口を開いた。
「分かる気がする。」
二人が見る。
「本って。」
蒼は少し照れたように続ける。
「読むたびに違うことが書いてある気がする。」
「同じ本なのに?」
「うん。」
「読む人が変わるから。」
一瞬だけ。
教室の音が遠くなった気がした。
希美はその言葉を心のどこかへしまった。
まだ意味は分からない。
でも、忘れたくないと思った。
チャイムが鳴る。
昼休みが終わる。
みんなが席へ戻っていく。
教科書を開く者。
あくびをする者。
窓の外を眺める者。
同じ制服を着ていても、一人として同じ人はいない。
先生が黒板へ白いチョークを走らせる。
白い粉が、光の中で小さく舞った。
その景色を見つめながら、希美はふと思う。
世界は、一冊の教科書みたいだ。
同じページを開いているはずなのに、読んでいるものは、人それぞれ違う。
その日の放課後。
希美はいつものように鞄を肩へ掛ける。
「じゃあね。」
「また明日。」
由真が手を振る。
蒼は小さく会釈する。
希美は校門を出ると、少しだけ遠回りをした。
急ぐ理由はなかった。
ただ、今日は図書館へ行きたかった。
まだ理由は分からない。
理由がないまま足が向かう場所が、人にはある。
春の風が制服を揺らす。
街路樹の若葉が光を受けて、小さく笑うように揺れていた。
その道の先に、一つの図書館がある。
そして、その図書館の一番奥には、まだ誰にも読まれていない一冊の本が、静かに希美を待っていた。
学校を出ると、町は少しだけ違う顔を見せる。
制服姿の高校生が駅へ向かって歩き、自転車が風を切り、商店街では八百屋のおじさんが威勢よく声を張り上げていた。
「今日はトマトが甘いよ!」
その隣では、クリーニング店のおばさんが、シャツを店奥へと運んでいる。
世界は忙しい。
誰もがどこかへ向かっている。
希美も歩いていた。
けれど、急いではいなかった。
家へ帰るには遠回りになる。
友達と遊ぶ約束もない。
塾もない。
それでも足は自然と同じ道を選ぶ。
商店街を抜け、小さな川を渡り、坂道をゆっくり上る。
坂の途中で、一度だけ振り返る。
夕方の町は、やわらかな橙色に染まり始めていた。
風が吹く。
制服の袖が揺れる。
桜が一枚、足元へ落ちた。
希美は拾わなかった。
拾えば思い出になる。
落ちたままなら、ただ春だった。
坂を上り切ると、小さな森が見える。
その木々の向こうに、町立図書館は静かに建っていた。
派手な建物ではない。
古い赤茶色の煉瓦。
大きなガラス窓。
玄関脇には、季節の花が植えられた花壇。
春にはパンジー。
夏にはマリーゴールド。
秋にはコスモス。
冬には葉牡丹。
誰が植えているのか、希美は知らない。
知らないけれど、毎年ちゃんと咲く。
図書館という場所は、そういう「名前を知らない誰か」の優しさでできている気がした。
自動ドアが静かに開く。
音ではなく、空気が変わる。
町のざわめきが、一歩後ろへ下がった。
代わりに聞こえるのは、
ページをめくる音。
鉛筆が紙をこする音。
遠くで小さく鳴る貸出機の電子音。
それだけだった。
静かだった。
でも、その静けさは「音がない」という意味ではない。
ここには、「人の邪魔をしない音」だけが集まっていた。
希美はその空気が好きだった。
誰かが誰かの時間を壊さない。
そんな場所は、この町にそう多くはない。
受付では、小学生くらいの男の子が、本を胸いっぱいに抱えて立っていた。
「全部借りるの?」
司書が笑顔で聞く。
男の子は力いっぱい頷く。
「うん!」
「重くない?」
「大丈夫!」
そう言って持ち上げようとした瞬間、本が一冊だけ床へ落ちた。
乾いた音が響く。
男の子は慌ててしゃがむ。
すると、近くで新聞を読んでいた白髪の老人が、本を拾って差し出した。
「ありがとう。」
男の子が頭を下げる。
「どういたしまして。」
老人は笑う。
二人は、それ以上何も話さなかった。
でも、それで十分だった。
希美はその様子を見ながら思う。
学校では知らない人と話すことはほとんどない。
駅でもそうだ。
スーパーでもそうだ。
でも図書館では、不思議と知らない人同士が、少しだけ優しい。
それは本がそうさせるのか。
それとも、この建物がそうさせるのか。
希美にはまだ分からなかった。
靴音をできるだけ小さくしながら、館内を歩く。
本棚が並ぶ。
歴史。
科学。
文学。
哲学。
絵本。
料理。
旅行。
辞書。
世界中の誰かが考えたことが、静かに背表紙になって並んでいる。
何万冊もの本がある。
その一冊一冊を書いた人がいる。
泣いた人。
笑った人。
恋をした人。
失敗した人。
成功した人。
もうこの世にいない人。
まだどこかで生きている人。
人は死ぬ。
でも、その人が考えたことは、本という形で、誰かの明日へ歩いていく。
希美はゆっくり息を吸った。
紙の匂いがした。
木の匂いもした。
少しだけ、雨の匂いも混じっていた。
その瞬間だった。
誰かの声がした。
「その匂い、好きですか。」
希美は振り返る。
そこには、一人の女性が立っていた。
年齢は三十代くらいだろうか。
白いシャツに紺色のカーディガン。
胸元には、小さな名札。
柔らかく笑っている。
けれど、その笑顔の奥には、本棚と同じくらい深い静けさがあった。
「その匂い、好きですか。」
声は、春の風みたいだった。
驚かせるでもなく、遠慮しすぎるでもなく。
そこにあることが自然な声だった。
希美は振り返る。
女性が立っている。
白いシャツに紺色のカーディガン。
名札には、
雨宮 栞
と書かれていた。
「えっと……。」
希美は少し照れたように笑う。
「匂いって……。」
女性は本棚を見上げた。
「本の匂いです。」
そう言って、一冊だけ本を抜き出す。
表紙を開く。
パラパラとページをめくる。
紙が擦れる、小さな音。
「新しい本の匂いと、古い本の匂いは少し違うんですよ。」
希美は鼻を近づけてみる。
確かに違う。
「本当だ。」
「面白いでしょう。」
女性は微笑む。
「紙も、人と同じで歳を重ねるんです。」
その言葉だけが、不思議と耳に残った。
紙も歳を取る。
そんなことを考えたことはなかった。
女性は本を棚へ戻す。
戻す場所を一ミリも迷わない。
何万冊もあるはずなのに。
「司書さんって、全部覚えてるんですか?」
「全部は無理ですね。」
即答だった。
「たまに私も迷子になります。」
「本なのに?」
「私が。」
希美は吹き出した。
「本棚の間で?」
「はい。」
「見つかるんですか?」
「閉館時間になると見つかります。」
「それ、大丈夫なんですか。」
「たぶん。」
二人とも笑った。
静かな図書館で笑うと、不思議と声まで優しくなる。
雨宮は本棚へ視線を向けた。
「今日は何か探し物ですか。」
「いえ……。」
希美は少し考える。
「何か読みたいなって。」
「どんな本を?」
「それも分からなくて。」
「なるほど。」
雨宮は困った顔をしない。
「分かりません」という答えに慣れている人の頷き方だった。
「よくあります。」
「あります?」
「探しているものが分からないまま来る人。」
「そんな人いるんですね。」
「ええ。」
少しだけ間があく。
雨宮は館内を見回した。
窓際では、小学生が図鑑を開いている。
新聞コーナーでは老人が眼鏡を外した。
高校生が参考書へ付箋を貼る。
赤ちゃんを抱いた母親が絵本を選ぶ。
「ここへ来る人の半分くらいは、本を探しに来ているんです。」
「半分?」
「もう半分は。」
雨宮は小さく笑う。
「自分でも気づいていない何かを探しに来ています。」
希美は首をかしげる。
「自分でも気づいてない?」
「はい。」
「そんなことあるんですか。」
「あります。」
また即答だった。
でも、それ以上は何も言わない。
説明しない。
その沈黙が、かえって気になった。
「例えば。」
希美が口を開く。
「司書さんは?」
「私ですか。」
「何を探してるんですか。」
雨宮は少しだけ目を丸くした。
それから笑う。
さっきより少しだけ楽しそうだった。
「難しい質問ですね。」
「すみません。」
「いいえ。」
彼女は窓の外を見る。
桜の枝が風で揺れている。
「たぶん。」
一呼吸置く。
「昨日までの私が見落としたもの、でしょうか。」
希美は意味が分からなかった。
でも。
分からない言葉なのに、不思議と嫌ではない。
頭ではなく、心のどこかへ落ちていく言葉だった。
そのとき、館内放送が静かに流れた。
「午後四時になりました。」
時計を見る。
もうそんな時間だった。
学校から歩いてきただけなのに。
ここでは時間まで歩き方が違うらしい。
雨宮は小さく会釈する。
「もしよかったら。」
「はい。」
「少し館内を歩いてみませんか。」
「案内ですか?」
「いいえ。」
雨宮は首を横に振る。
「散歩です。」
その答えが、希美には少しだけ可笑しかった。
図書館の中を散歩する人なんて、初めて会った。
けれど。
「……お願いします。」
そう答えていた。
その返事が、この春一番小さな「はい」だったことを、希美はまだ知らない。
二人は本棚の間をゆっくり歩き始めた。
図書館の中を「歩く」という行為は、思っていたより静かだった。
急ぐ人がいない。
誰も前を追い越さない。
歩幅まで、この場所の空気に合わせて小さくなる。
「ここへは、よく来るんですか。」
雨宮が尋ねる。
「最近です。」
希美は本棚を見上げながら答えた。
「前は、テスト前だけでした。」
「みんなそう言います。」
「司書さんも?」
「私も学生の頃はそうでした。」
「安心しました。」
雨宮は小さく笑う。
「司書は、生まれたときから本好きだと思われがちなんです。」
「違うんですか。」
「絵本より虫取りの方が好きな子どもでした。」
「えっ。」
希美は思わず足を止めた。
「本当ですか。」
「毎日泥だらけでした。」
「想像できません。」
「よく言われます。」
雨宮は少し肩をすくめる。
「でも、図書館へ来るようになったのは高校生になってからです。」
「私と同じくらい。」
「ええ。」
「何かきっかけが?」
雨宮はすぐには答えなかった。
本棚から一冊の本を抜き、背表紙をそっと撫でる。
まるで古い友人に触れるような手つきだった。
「雨の日でした。」
それだけ言う。
「雨の日?」
「はい。」
「雨だから図書館へ?」
「たまたまです。」
少し笑う。
「本当に、たまたま。」
希美は続きを待った。
けれど雨宮は、それ以上話さなかった。
希美も聞かなかった。
話したくないことではない。
まだ話す時ではないだけ。
そんな気がした。
沈黙が流れる。
不思議と気まずくはない。
本棚が並ぶ通路には、大きな窓があった。
午後の日差しが木漏れ日のように差し込み、本の背表紙を柔らかく照らしている。
光の中を、小さな埃がゆっくり漂う。
「きれい。」
希美が思わずつぶやく。
雨宮は窓ではなく、希美を見た。
「そう思いましたか。」
「はい。」
「人によっては。」
雨宮は光を見つめる。
「掃除が足りない、って言います。」
希美は笑った。
「確かに。」
「同じ景色でも。」
雨宮は埃を目で追う。
「見えるものは、人それぞれですね。」
その言葉は静かだった。
説明ではなく、独り言のようだった。
二人は児童書のコーナーへ入る。
小さな机。
色とりどりの絵本。
動物のぬいぐるみ。
一人の女の子が、お母さんに絵本を読んでもらっていた。
「もう一回。」
女の子が言う。
「もう一回だけね。」
お母さんが笑う。
さっきと同じ絵本なのに、女の子はまた声を上げて笑った。
「子どもって。」
希美が言う。
「同じ本を何回も読みますよね。」
「はい。」
「飽きないんでしょうか。」
雨宮は絵本を見つめたまま答える。
「子どもは、お話を読んでいるようで。」
一拍置く。
「安心を読んでいるのかもしれません。」
希美は女の子を見る。
絵本ではなく、お母さんの顔を見て笑っていた。
その笑顔は、絵本の続きが楽しみだからというより、「次も同じ声で読んでもらえる」と知っている安心の笑顔だった。
希美は、自分にもそんな頃があったのだろうか、と考える。
思い出せない。
でも、きっと誰かが読んでくれていた。
誰かの声で。
誰かのぬくもりの中で。
雨宮は歩き出す。
「希美さん。」
「え?」
初めて名前で呼ばれた。
「少しだけ。」
「はい。」
「面白い場所をお見せします。」
「面白い場所?」
「図書館の中で、一番人が来ない場所です。」
希美は目を輝かせる。
「そんな場所があるんですか。」
「あります。」
雨宮はいたずらを思いついた子どものように微笑んだ。
「秘密の場所です。」
そう言って歩き始める。
希美も、そのあとを追った。
図書館の奥へ。
光が少しずつ柔らかくなる場所へ。
本棚が高くなり、人の気配が遠ざかる場所へ。
まだ希美は知らない。
この図書館の一番奥で、一冊の本と出会うことになる。
そして、その本が、自分だけではなく、家族も、友人も、世界も、少しずつ違って見えるきっかけになることを。
二人は図書館の奥へ歩いていく。
一歩進むたびに、人の気配が少しずつ遠ざかっていった。
新聞をめくる音も。
子どもが笑う声も。
貸出機の電子音も。
まるで本棚が音まで吸い込んでいるようだった。
「こんな奥まで来たことありません。」
希美が小声で言う。
「ほとんどの方は来ません。」
雨宮も自然と声を潜める。
「目的の本だけ借りて帰る人が多いですから。」
「じゃあ、この辺の本はあまり読まれないんですか。」
「読まれています。」
雨宮は微笑む。
「ゆっくりと。」
その言葉が、この場所によく似合っていた。
通路は少しだけ細くなる。
窓から差し込む夕陽は、棚と棚の間へ長い帯を作っていた。
空気の中を、小さな埃が金色に光る。
希美は思わず足を止める。
「きれい……。」
「夕方だけの景色です。」
雨宮は本棚を見上げた。
「毎日見ていますけど、毎日少し違います。」
希美は光の帯へ手を伸ばした。
指先が光を切る。
埃がふわりと舞う。
捕まえようとしても捕まらない。
少し笑って手を下ろした。
「子どもの頃も同じことをしました。」
雨宮が言う。
「捕まりました?」
「一度も。」
二人は小さく笑う。
また歩き出す。
しばらくすると、本棚の並び方が少しだけ変わった。
新しい本は少ない。
背表紙の色も少しくすんでいる。
何度も読まれ、何十年もここで誰かを待ち続けてきた本たちだった。
「ここは?」
「閉架ではありません。」
雨宮は答える。
「でも、あまり人が来ない棚です。」
「どうしてですか。」
「理由は特にありません。」
一冊の本を指で軽く押す。
「人には、何となく近づかない場所があるんです。」
希美は周りを見回した。
たしかに静かだった。
静かすぎるくらい静かだった。
不思議と嫌ではない。
誰かが長い夢を見ている部屋へ入ってしまったような静けさだった。
「希美さん。」
「はい。」
「図書館で、一番大切なことを知っていますか。」
「本を読むこと……ですか。」
「いいえ。」
雨宮は首を横に振る。
「返すことです。」
希美は吹き出した。
「現実的ですね。」
「とても大事です。」
「夢が壊れました。」
「夢は延滞しませんから。」
「名言っぽいのに意味が分からない。」
雨宮は声を立てずに笑った。
その笑顔を見て、希美は思う。
この人は、本当に笑う人なんだ。
静かな人だけれど、冷たい人ではない。
そのときだった。
風もないのに。
一冊だけ。
ほんの少し、本が前へ滑った。
音はしなかった。
けれど確かに、背表紙が棚から数センチ顔を出した。
「……?」
希美は立ち止まる。
「どうしました。」
「今……。」
本棚を見る。
「動いたような。」
雨宮も棚を見る。
そして、少しだけ首をかしげた。
「気のせいかもしれません。」
「そうですよね。」
希美は笑う。
図書館の本が勝手に動くなんて、あるはずがない。
きっと歩いた振動だ。
そう思いながらも、その一冊が少し気になった。
題名は、まだ見えない。
ほかの本に隠れている。
希美は無意識に手を伸ばいた。
指先が背表紙に触れる。
古い布張りの感触。
少しだけざらついている。
雨宮は何も言わない。
止めもしない。
勧めもしない。
ただ、静かに希美を見ていた。
その沈黙だけが、この瞬間を特別にしていた。
希美はゆっくりと本を引き抜く。
棚から抜ける音は、小さく息を吐くようだった。
表紙には、文字がある。
埃を指先でそっと払う。
一文字ずつ、その題名が現れる。
希美は思わず息をのんだ。
そこに書かれていたのは――
『人類取扱説明書(試作品)』
だった。
本は、思っていたより軽かった。
古びた装丁なのに、不思議なくらい軽い。
まるで長い間、誰かに持たれるのを待っていたようだった。
希美は両手でそっと抱える。
布張りの表紙は深い藍色だった。
新品でもなく、使い古された色でもない。
長い時間を静かに過ごしたものだけが持つ色だった。
金色だったのであろう題字は、ところどころ薄れている。
それでも読むことはできた。
人類取扱説明書(試作品)
希美は思わず眉をひそめる。
「……何これ。」
思わず声が漏れた。
隣で雨宮が小さく微笑む。
「変わった題名でしょう。」
「変わってる、どころじゃないです。」
希美は表紙をもう一度見る。
「人類って……。」
誰かが冗談で作った本だろうか。
大学の研究資料だろうか。
哲学書だろうか。
それともSF小説なのか。
どれにも見えない。
「借りられるんですか。」
「もちろんです。」
雨宮は穏やかに答えた。
「図書館の本ですから。」
「中、読んだことあります?」
雨宮は少しだけ考える。
そして首を横に振った。
「ありません。」
「司書さんなのに?」
「司書だから、です。」
「?」
「全部読むには、一生が足りません。」
希美は思わず笑う。
その答えが、いかにも図書館らしかった。
本は、全部読まなくてもいい。
全部読めないからこそ、本は並び続ける。
そんな考え方もあるのか、と少しだけ感心する。
「開いてもいいですか。」
「どうぞ。」
雨宮は一歩だけ後ろへ下がる。
見守る距離だった。
希美はゆっくりと表紙を開いた。
紙が鳴る。
乾いた音ではない。
長い眠りから目を覚ますような、小さな音だった。
見返し。
何も書かれていない。
次のページ。
そこにも何もない。
「白紙……?」
さらにめくる。
また白紙。
もう一枚。
白紙。
もう一枚。
白紙。
「え?」
希美は手を止める。
「全部……?」
最後までめくる。
どのページも白かった。
文字がない。
挿絵もない。
目次もない。
発行年も。
著者名も。
出版社も。
何もない。
あるのは、白いページだけ。
「印刷ミスですか?」
思わず雨宮を見る。
雨宮は本をのぞき込み、
「そう見えますね。」
とだけ言った。
「そうですね」ではなく、「そう見えますね」。
その言い方が、少しだけ引っかかった。
希美はもう一度ページをめくる。
本当に何もない。
それなのに。
なぜだろう。
閉じようと思っても、閉じる気になれなかった。
白紙なのに。
読むものなんて一つもないのに。
胸のどこかが、小さくざわついていた。
図書館の時計が五時を告げる。
遠くで館内放送が流れた。
「閉館まで、あと一時間です。」
その声が届いても、希美はページから目を離せなかった。
白い紙を見ているだけなのに。
なぜか、
誰かに見つめ返されているような気がした。
希美は、もう一度最初のページへ戻った。
何か見落としている気がした。
紙を光にかざしてみる。
透かしがあるわけでもない。
指でなぞる。
凹凸もない。
真っ白だった。
「……本当に何もない。」
独り言のようにつぶやく。
その声は、自分でも驚くほど小さかった。
図書館の静けさが、そうさせるのかもしれない。
雨宮は何も言わない。
本棚に寄りかかるでもなく、急かすでもなく、ただ少し離れた場所で希美を見守っている。
その距離が心地よかった。
もし「それには意味があるんですよ」と説明されたら、たぶんこの本は閉じていた。
分からないから、気になる。
人は案外、そういう生き物なのかもしれない。
希美は苦笑した。
「変な本。」
ページをめくる。
白紙。
また白紙。
その繰り返しなのに、なぜか飽きない。
同じ廊下を何度も歩いているようなのに、角を曲がるたびに少し景色が違う。
そんな感覚だった。
ふと、本を持つ手を止める。
紙から、かすかに匂いがした。
古い紙の匂い。
木の匂い。
そして、どこか懐かしい匂い。
(何だろう。)
記憶を探る。
祖父の書斎。
違う。
小学校の図書室。
少し近い。
いや―――。
母が押し入れからアルバムを出してきた日の匂いだ。
幼い頃の写真を見ながら笑った、あの日。
紙は、時間まで閉じ込めるのだろうか。
そんなことを考えた。
希美はページを閉じる。
また開く。
白紙。
閉じる。
開く。
やっぱり白紙。
思わず笑ってしまう。
「何やってるんだろ、私。」
その声に、雨宮も少しだけ笑った。
「本を読んでいます。」
「読めてませんよ。」
「そうでしょうか。」
雨宮は首をかしげる。
「文字だけが、本ではありませんから。」
それだけ言って、口を閉じた。
また説明しない。
その言葉だけを置いていく。
希美は返事をしなかった。
できなかった。
「文字だけが、本ではない。」
意味は分からない。
でも、その言葉は本の題名のように、心のどこかへしまわれた。
そのときだった。
窓の外で風が吹いた。
図書館の木々が一斉に揺れる。
光が少しだけ傾き、本のページへ影が落ちた。
白い紙の上を、木の葉の影がゆっくりと流れていく。
文字のないページなのに。
風が、一瞬だけ何かを書いたように見えた。
希美は思わず目を凝らす。
もちろん、何も書かれていない。
影が消えると、そこには最初と同じ白紙があるだけだった。
「……気のせいか。」
そう言って笑う。
けれど胸の奥では、気のせいだと言い切れない自分もいた。
人は、見たいものを見る。
では、今の自分は何を見たかったのだろう。
答えは浮かばない。
浮かばないまま、本を胸に抱えた。
その重さは変わらない。
それでも、不思議と、最初に持ったときより少しだけ重く感じた。
文字は一つも読んでいない。
それなのに、この本は自分の中へ何かを残していった。
希美には、その「何か」の名前がまだ分からなかった。
本を閉じる。
表紙が静かに重なり合う音だけが、小さく耳へ残った。
何も読んでいない。
何一つ書かれていない。
それなのに。
希美はしばらく、その場から動けなかった。
「……変ですね。」
誰に言うでもなくつぶやく。
「はい。」
雨宮が答える。
「変な本です。」
「司書さんもそう思います?」
「思います。」
二人は顔を見合わせて笑った。
その笑いだけで十分だった。
理由を説明できないものは、この世界に案外たくさんある。
好きな音楽。
懐かしい匂い。
夕焼けが少し寂しく見える理由。
そして、この本も。
分からないままでいいものなのかもしれない。
希美は本を胸へ抱いた。
「借ります。」
その言葉は、自分でも意外だった。
何も書いていない本を借りるなんて。
家へ持ち帰っても、読むものは何もない。
普通に考えれば、時間の無駄だ。
それでも借りたかった。
理由は言葉にならない。
言葉になる理由だけで、人は生きていない。
雨宮は貸出カードを受け取り、静かに処理を始める。
バーコードを読み取る、小さな電子音。
返却日を書いた紙が、本へ挟まれる。
「はい。」
本が希美へ返される。
「ありがとうございます。」
その瞬間だった。
雨宮がふと表紙を見つめる。
ほんの一秒ほど。
何かを思い出しかけたような表情。
けれど、それはすぐ消えた。
「どうしました?」
希美が尋ねる。
雨宮は微笑む。
「いいえ。」
首を横に振る。
「その本、大切にしてください。」
「もちろん。」
「古い本ですから。」
そう言って笑った。
その言葉が、本のことを言っているようで、少しだけ違うものにも聞こえた。
閉館を知らせる穏やかな音楽が流れ始める。
館内にいた人たちが、少しずつ本を閉じる。
椅子を戻す音。
ページへ栞を挟む音。
貸出カウンターへ向かう足音。
図書館は、一日の終わり方まで静かだった。
希美も出口へ向かう。
自動ドアが開く。
夕方の空気が頬をなでた。
西の空は茜色に染まり、図書館の影が長く地面へ伸びている。
本を抱え直す。
軽い。
さっきと同じ重さのはずなのに。
不思議と胸の中には、小さな何かが増えていた。
名前はまだない。
疑問かもしれない。
期待かもしれない。
あるいは、そのどちらでもない何か。
家へ帰ったら、もう一度開いてみよう。
何も書かれていないことを確認して、笑って終わるかもしれない。
そんなことを考えながら、坂道を下り始める。
そのとき、風が吹いた。
本のページが、胸の中で一枚だけ小さく鳴る。
パラリ。
希美は立ち止まり、本を押さえた。
「危ない、危ない。」
苦笑して抱え直す。
もちろん、気づかなかった。
ほんの一瞬だけ。
風に開きかけた最初のページの隅に、夕陽が当たり、紙の繊維が文字のように浮かび上がって見えたことを。
それは錯覚だったのか。
光のいたずらだったのか。
それとも——。
希美は振り返らない。
図書館も呼び止めない。
ただ、夕暮れの坂道を一人の高校生が歩いていく。
胸には、一冊の白紙の本。
その日、世界は何も変わらなかった。
少なくとも、希美にはそう思えた。
けれど本当は、人が変わり始める日は、劇的な音を立てて始まるものではない。
誰にも気づかれないほど静かに。
春の風がページを一枚めくるように。
その日もまた、そんな始まりだった。
玄関の扉を開けると、味噌汁の匂いがした。
「ただいま。」
いつもと同じ声。
「おかえり。」
母の声も、いつもと同じだった。
鍋の蓋が開く音。
テレビから流れる天気予報。
父が新聞をたたむ音。
祖父のくしゃみ。
朝と何一つ変わらない。
なのに、希美は立ち止まった。
靴を脱ぐ手が、少しだけ遅くなる。
「どうした?」
父が顔を上げる。
「いや……。」
希美は笑って首を振った。
「何でもない。」
本当に何でもない。
でも、何かが違う。
それが何なのか、自分でも分からなかった。
夕食が始まる。
「今日はサバ。」
母が皿を並べる。
「また魚か。」
父が苦笑する。
「健康診断の結果を忘れた?」
「忘れてない。」
「だったら食べる。」
父は観念したように箸を持つ。
祖父が味噌汁を一口飲み、
「うまい。」
と一言だけ言う。
母は少し照れくさそうに笑った。
その笑顔を見て、希美はふと思う。
(お母さんは、この一言がうれしいんだ。)
今まで考えたこともなかった。
料理は勝手に出てくるものだと思っていた。
でも違う。
誰かが作っている。
誰かが食べてもらいたくて作っている。
そんな当たり前のことに、今日になって初めて気づいた。
「学校は?」
父が聞く。
「普通。」
「それが一番。」
父は笑う。
また新聞へ目を戻す。
その手を見る。
少しだけ節が太い。
指先には細かな傷がある。
こんな手だっただろうか。
子どもの頃、手をつないで歩いた手。
いつの間にか、自分の方が少し大きくなっていた。
「そういえば。」
祖父が口を開く。
「希美。」
「なに?」
「図書館は楽しかったか。」
希美は少し驚く。
「どうして分かったの?」
「朝、言っとったじゃろ。」
「あ……。」
そうだった。
祖父はちゃんと聞いていた。
何気なく話したことを覚えていてくれた。
希美は少しうれしくなる。
「うん。」
自然と笑顔になる。
「面白い本があった。」
「ほう。」
「でもね。」
言葉が止まる。
説明できない。
白紙だった。
でも違う。
変だった。
でも違う。
「……何て説明したらいいか分からない。」
祖父は笑った。
「分からんままでええ。」
「え?」
「分からんから、人は考える。」
味噌汁を飲む。
「何でも最初から答えがあったら、人生は退屈じゃ。」
その言葉が、本のことを言っているように聞こえた。
夕食が終わる。
父は食器を流しへ運ぶ。
「置いといて。」
母が言う。
「いい。」
父は笑う。
「これくらいはやる。」
母も笑う。
「じゃあお願い。」
その何気ないやり取りを、希美はぼんやり見つめる。
今まで何百回も見てきた光景。
なのに今日は違って見えた。
家族は役を演じているわけじゃない。
父は父として。
母は母として。
祖父は祖父として。
誰かのために動いている。
その積み重ねが「家族」という形を作っている。
ふと、図書館で見た白紙の本を思い出した。
あの本には何も書かれていなかった。
けれど、もし。
もしあの本が本当に「人類取扱説明書」なのだとしたら。
最初のページに書かれるべき言葉は、難しい哲学ではないのかもしれない。
もっと小さなこと。
「おかえり。」
「いただきます。」
「ありがとう。」
そんな、毎日の中で何度も交わされる言葉なのかもしれない。
食後、希美は自分の部屋へ戻った。
机の上に『人類取扱説明書(試作品)』を置く。
夕暮れから夜へ変わる光が、窓の外をゆっくりと青く染めていく。
部屋は静かだった。
遠くで食器を洗う音がする。
父と母が何か話して笑っている。
祖父がテレビに向かって「それは違う。」と独り言を言う声も聞こえる。
いつもの夜。
本当に、いつもの夜だった。
それでも希美は思う。
世界は、変わらなくてもいいのかもしれない。
変わるべきなのは、世界ではなく、自分の見つめ方なのかもしれない。
机の上の白い表紙を、そっと指先でなぞる。
まだ何も書かれていない本。
そして、まだ何も知らない自分。
その二つは、不思議なくらいよく似ている気がした。
希美は静かに椅子へ座る。
深く息を吸い、本をもう一度開いた。
夜の静けさの中で、ページがゆっくりとめくられる。
部屋には、時計の秒針だけが音を刻んでいた。
机の上には、一冊の本。
『人類取扱説明書(試作品)』
希美は椅子に座り、ゆっくりと表紙を開く。
昼間と同じだった。
白い見返し。
白いページ。
何も書かれていない。
「やっぱり……。」
小さく笑う。
少しだけ安心した。
もし突然文字が浮かび上がっていたら、怖くて閉じていたかもしれない。
白紙のままでよかった。
そう思った。
希美は窓を開ける。
夏へ向かう夜風が、カーテンを静かに揺らした。
遠くで犬が鳴く。
電車が橋を渡る音がかすかに聞こえる。
父と母の話し声は、もう聞こえない。
祖父も寝たのだろう。
家じゅうが、ゆっくり眠りへ向かっていた。
希美は本へ視線を戻す。
白紙。
それだけなのに、目を離せない。
昼間、図書館で雨宮が言った言葉を思い出す。
―――文字だけが、本ではありませんから。
その意味は、まだ分からない。
けれど、今日は一日中、何かを見てきた気がする。
朝、祖父が笑っていたこと。
父の少し傷だらけの手。
母が「うまい」の一言でうれしそうに笑った顔。
学校で笑い合った由真。
数学を楽しそうに解く蒼。
図書館で本を拾っていた老人。
子どもへ絵本を読む母親。
静かな司書の笑顔。
そして、自分。
白紙の本を閉じられなかった、自分。
希美はふと、つぶやいた。
「人って……。」
その先の言葉が出てこない。
人って、何だろう。
勉強する生き物?
働く生き物?
恋をする生き物?
笑う生き物?
泣く生き物?
どれも本当で、どれも足りない。
希美は机の上にあった鉛筆を手に取る。
無意識だった。
白紙のページの上へ置く。
もちろん、本に書くつもりはない。
図書館の本なのだから。
それでも鉛筆を持ってしまった。
そのときだった。
一枚のメモ用紙が、本から滑り落ちた。
希美は目を見開く。
「え……?」
昼間には気づかなかった。
白い、小さな紙だった。
折りたたまれて、本の見返しに挟まっていたらしい。
古びてはいるが、破れてはいない。
恐る恐る開く。
そこには、たった一行だけ、万年筆で書かれていた。
『この本に書かれていることを信じないでください。あなた自身の人生で確かめてください。』
希美は息を止めた。
それだけだった。
次の行はない。
裏にも何も書かれていない。
誰の字なのかも分からない。
いつ書かれたのかも分からない。
ただ、その一文だけが残されていた。
希美はもう一度読む。
ゆっくりと。
声に出さずに。
胸の中で。
「信じないでください。」
普通なら、読まないでください、と書くはずだ。
なのに違う。
信じるな、と書いてある。
その一文は、不思議と拒絶ではなく、招待のように感じられた。
誰かの答えを受け取るのではなく、自分で確かめてほしい。
そのための本なのだ、と。
希美は白紙のページを見つめた。
そこには、相変わらず何も書かれていない。
けれど、もう昼間とは違って見えた。
白紙は「空っぽ」ではなかった。
まだ書かれていないだけだった。
それは未来にも似ていた。
人の人生にも似ていた。
そして、自分自身にも。
希美は本をそっと閉じる。
部屋の明かりを消す。
窓の外では、夜風が木々を揺らしていた。
眠る前に、もう一度だけ今日を思い返す。
朝から何一つ特別なことは起きていない。
学校へ行き、図書館へ寄り、家へ帰った。
それだけの一日。
それでも、その一日は昨日とは少し違う一日になった。
人は世界を変える前に、世界の見方を変える。
そのことを、希美はまだ言葉にはできなかった。
けれど、その始まりだけは、確かに胸の中にあった。
机の上には、一冊の白い本が静かに横たわっている。
その本は、何も教えない。
だからこそ、人は考える。
だからこそ、人は生きる。
だからこそ、人は、自分だけの物語を書く。
その物語は、まだ始まったばかりだった。
読んでいただき、ありがとうございました^^!




