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「はっ!」
すぐ近くで女性の叫び声が聴こえた気がして、凜は目を開けた。
辺りを見渡すと、そこはもとの地下室の中だった。身体の自由が戻っている。凜は上体を起こした。
隣には愛稀の姿があった。肌や髪、目の色は元に戻っていた。しかし、頬を膨らませながら、ジトッとした目で凜を睨んでいる。なぜだかむくれているようだ。
「現実に還ってきたみたいだな」
「そだね」
話しかけても返事はつれない。
「どうした? 何を怒っているんだ」
「べっつにー」
明らかにご機嫌ななめの様子である。心当たりがなく、凜は怪訝そうな表情を浮かべた。
何気なく、指で自分の唇を触ってみる。何やら、温かいものを感じていた。口から生命の息吹が送り込まれたように、身体の中にみずみずしい波動がうごめいているのを感じる。だが、一体その正体が何なのか、凜には分からないのだった。
思えば、精神世界から目覚める直前の記憶も曖昧である。双葉の世界が崩壊し、凜は愛稀を結界の外に送り出したものの、自分はそのまま虚無の世界へと引きずり込まれていった。愛稀が救えたのならそれでもいいと、凜は無へと帰す運命に身を任せてさえいた。
だが、魂が消失しかけていたその刹那、彼の心の中に光明が差した。目を開くと、自分は何者かに抱きかかえられていた。以前から、ずっと以前からこうして欲しかった相手であるような心地がして、凜の胸は安堵の気持ちに包まれた。
そのまま意識が途絶え、気づけば今、まさにこの場所に戻ってきていたのであった。
一連の出来事は凜にとっては不可解なことであったし、それと愛稀の機嫌が関係していることなど、想像すらしようがなかったのである。ただ、愛稀とともに無事に現実に還ってこられたことを、喜ばしく思っていた。
ふいに、ガチャリという解錠の音がした。地下室の扉が開かれる。そこにいたのは四華だった。
「やあ、お目覚めのようですね。ご無事そうで何よりです」
相も変わらず悠長に言ってくる彼を、凜は強く睨んだ。
「四華――いったいどういうつもりだったんだ。君は、僕たちに何をしたんだ」
「あなたがたには、私たちの計画に協力してもらったのですよ」
「計画?」
凜が問い返す。そこに愛稀が口を挟んだ。
「双葉さんを食い止めたかったんでしょ」
「おや、お気づきですか?」
「最初は分からなかったけど。でも、途中からうすうす気づいたよ」
「さすがですね。そうです、我々も双葉教授の暴走を危険視していました。このままでは、このコスモライフはおろか、世界中の人々が巻き込まれかねない。彼の陰謀は、何としても阻止しなければならないと考えたのです」
「それで、僕らを彼の世界に送り込んだのか」
凜が尋ねた。
「そうです。彼を食い止めるには、同じく精神世界に魂をトランスファーできる者が必要だと考えました。それも、とびきり大きくあちらの世界に関われ、双葉さんの利己的な野望とは相反する、自己犠牲も厭わず他者のために動こうとする正義感のある人間です。鳥須さんに日下さん、あなた方が適任だったんですよ」
「双葉はどうなったんだ?」
「それはあなた自身の方が、よく知っているのでは」
「彼は、無の世界へと落ちていった」
「そうですか――。その話を聞いて、私も得心しました。精神世界の死は魂そのものの死を意味するそうですね。彼は、まさにその状態に陥っているのでしょう。自我を失ってしまったかのようにぼんやりとしていて、呼びかけてもほとんど反応しません。こうなるともはや、それは双葉教授ではなく、“彼だった存在”といった方が正確かもしれませんね。ちなみに、彼の陰謀に巻き込まれた百名ほどの信者も、精神面に支障をきたしたり、自我の一部を失ったりしているようです。様子をご覧になりますか?」
「いや、いい……」
凜は声を潜めて言った。愛稀も口を固く結び、いたたまれないような顔つきをしている。
双葉の魂はあの時、無の世界へと消えてしまった。同時に、彼に吸収された信者たちの願いや想いも消え去ってしまったのだろう。それにより、双葉の自我は完全に失われ、また信者たちもその一部が欠けた状態になってしまったに違いない。
敵対した相手とはいえ、双葉にもたらされた結末は、ふたりにとっても決して喜ばしいことではなかった。さらに、巻き込まれた信者たちも救えなかったという事実が、余計彼らの心に重くのしかかってくる。
「そうですか。では、あなた方には早急にここから出ていただきましょう」
四華はきっぱりと言った。
「一方的に連れてきて、勝手なものだな」
「無礼はお許しください。我々にはまだやるべきことが残っているんですよ。双葉教授の野望は潰えましたが、まだ彼の造り出したSTRウイルスのアンプルが大量に保存されています。世に明るみに出る前に、すべて廃棄しなくてはなりません。その後、この本部も閉鎖となります」
「ここを閉鎖するって――コスモライフはどうなるんだ」
「もちろん教団自体は存続させます。この度、双葉教授が己の欲望を腐らせ、道を誤ったことは認めざるを得ないでしょう。ですが、精神世界の概念を世に広めることは、大勢の人々の幸せにつながる、とても意義深い活動であると、我々は信じています」
「どうだろうか――」
四華の言葉に凜は異を唱えた。
「君たちの活動が人を幸せにしているとは、僕には思えない。今後も、悲しい目に遭う人間が出てくるんじゃないのか。今回の愛稀や双葉のように」
「ほう。我々の活動は人を幸せにはし得ない――と。では、あなたは何が幸せになる道だというのですか?」
「ここだ」
凜は拳で自分の胸を打った。
「自分を信じ抜くこと、自分の信念を貫くこと、それこそが自分にとって何より大切なことだ。信心や信仰はその先にある。他人から与えられたお題目ばかり信じ込まされても、それは“妄信”であって、幸せと思い込んでいるだけだ」
「あなたのような人間ならそれで良いかもしれません。しかし、誰しもがあなたみたいに強いわけではありませんよ。心が弱かったり、現実に打ちのめされて立ち上がれない人もいることでしょう。仮に偽りであっても、信じるべき対象を作ってあげた方が、その人が幸せになれる可能性は高くなるのでは? まして、我々の掲げる精神世界の概念は偽りではなく、真実ですしね」
「…………」
凜は何も返さなかったが、その目は明らかに四華の言に同調はしていなかった。四華はひとつため息をついた。
「これ以上の議論は無意味のようですね。もうお引き取りください。我々の計画通りに動いてくださったことには感謝します」
四華はくるりと踵を返した。だが、はたと思い出したように、首だけ凜の方を振り返って言った。
「――ひとつだけ。いつか、私たちが正しいと、あなたがたがも認める時が来る。私はそう信じていますよ」




