9
9
地面を数回転がった後、愛稀は起き上がって、後ろを振り返った。
「凜くん……!」
だが、そこにあったのは思いもよらない光景だった。あれだけ広大だった双葉の空間は、すっかり縮小して、いまやビー玉のごとき小さな球体になっていた。愛稀は慌てて両手を差し出し、それを大事に抱えようとした。
ところが、それは目の前で風化して、すっかり消えてしまった。
向こうに置き去りにされた凜とともに――。
「そんな……せっかく巡り逢えたのに。嫌だよ、ずっと助けてもらってばっかりだったのに、助けてあげられずに終わるなんて」
愛稀は泣きそうな声をあげた。しかし、彼女の腹の底からの想いは、口から言葉として発された後、虚しくも空間に霧散するのみだった。
「神様、どうか凜くんを助けて……!」
ただ、愛稀は泣きながら祈るしかなかった。
その時だった。
愛稀の眼前の空間が突然縦に裂け、スリットになった隙間から何者かが顔を出した。
それは、長い黒髪をなびかせた女性だった。清楚な薄手の白い衣服に身を包んでいて、その居ずまいはまるで後光が射しているように錯覚するほど、神々しかった。そして、胸には凜を抱えている。
愛稀は驚いたまま、声を発することもできず、ただその場にへたり込んでしまっている。そんな愛稀の傍らに、女性は凜の身体をそっと置いた。ようやくここで、愛稀は我に返った。この女性が、凜を助けてくれたのだと理解した。
「あなた、誰なの?」
と愛稀は訊いたが、女性は何も何も答えず、ただ凜を見下ろして、憂いある笑みを浮かべていた。愛稀ははっとした。以前、凜が言っていたことを思い出したのだ。
――好きな人はいるにはいるけどね、すでにこの世にいないんだ。
その人の顔を知っているわけではない。ただ、愛稀にはピンときた。目の前にいるその女性こそ、凜の想い人である武崎 彩なのかもしれない。おそらく、彼女は自らの命が消えた後も、凜の心の中で生き続けていたのだろう。彼のピンチに乗じてその姿を現したのだ。
「凜くん、ねえ、起きてよ」
愛稀は凜の方をゆすってみた。凜が見れば、この女性が実際に彩なのかどうかも分かるはずだ。それに、本当にそうだったとして、このまま凜を眠ったままにしておけば、後で彼が悔やむに違いないとも思った。しかし、凜はなおも目を覚まさない。愛稀は弱り顔を浮かべた。
そんな愛稀の顔を、その女性はちらりと見てきた。ニンマリと挑発的な笑みを浮かべてくる。
「――へ?」
愛稀は彼女の意図が読めず、ひきつった顔つきになる。これまでの女神のような様相からはほど遠く、あからさまに狡猾そうで俗っぽい表情だ。
一体何なんだろう――。
などと思っていたら、彼女はゆったりとした動きで、寝そべる凜の身体に覆いかぶさった。しばし彼の顔を見つめている。と思ったその時、彼女はおもむろに自分の顔を彼の顔に近づけて、唇に唇を押し当てた。
「あ……あ……」
愛稀は驚きのあまり、声にならない声を出した。その間にも、女性は艶めかしく揺れながら彼にキスを続ける。その姿は神々しくありながらも、人間の情欲に溢れていた。
双葉の結界で意識を失った時、愛稀は凜に彼に口づけをされていた。だが、彼女はそんなこと知る由もない。ただ、眼前の光景に圧倒されるばかりである。自分とこの女性との間に、歴然とした差があると突きつけられている気がした。
「あーっ!」
不満と嫉妬のボルテージが一気に振り切れるままに、愛稀は絶叫した。
……何とも寝覚めの悪い夢であった。




